#90D7EC

[ 伏せられたい瞳 ]



 凍った世界は、水一滴として動く事を許さなかった。
 静謐と冷冽と不動の中。
 流動を奪われた水簾は、何を想うのだろう。





「―――セシル!」

 次こそは彼であったら良いと、白い壁に反響する足音に耳を澄ませながら、それでもまた違ったのかと落胆と恐怖を感じる事に耐えられず、壁により掛かりながら顔を上げる事が出来なかったセシルの鼓膜を、待ち望んでいた彼の声が揺さぶった。
 パッと視線をそちらへ遣り、その何時もはあまり動く事を知らない彼の表情が焦りと困惑に染められているのを見て、けれど兎に角彼が来てくれた事に、セシルは泣きそうなくらい安堵した。

「ライト…」

 滲む己の声をセシルは聞き、けれどせめて涙は流すまいと唇を咬んだ。
 一人で耐えるには、あまりにも事は大きかった。
 だから迷惑だと知りつつ、セシルは既に会社で始業していただろうライトに一番に連絡した。
 直ぐ行く、と言ってくれた事に訳も分からず電話越しに頷いて、けれど通話が途切れてしまった瞬間、セシルはその整った顔を歪ませた。
 彼の傍に居てやりたいと思った。
 蒼褪めた顔で点滴を受け、白い包帯でくるまれた左腕を投げだし眠る彼の傍に。
 けれど、出来なかった。
 もし、という思いがセシルの脳裏を過ぎった。
 それが真実かは分からない、それでもセシルはどうしてもその考えを拭う事が出来なくて。
 だから彼の病室の外に独りで立っていた。
 時折傍を通った看護婦がセシルの顔色の悪さに大丈夫かと心配そうに覗き込んできたが、何とか笑ってやり過ごして。
 そうして漸く来た待ち人は、セシルを安心させるように肩に手を置いて大丈夫だと囁いた。

「後は私が何とかしよう」

 頼もしい声が耳から入り、身体全体に行き渡るよう。
 あぁ何時もなら、その信頼と安心に考える事もせず身を委ねる事が出来るのに。
 そんな絶望に苛まれながら、ふるふるとセシルは首を横に振る。
 酷く弱々しいそれに、ライトは疑問を持ってどうしたと優しく聞いた。
 セシルの衰弱した様子を気遣うような声音に、セシルは何とか言葉を選んで。

「電話で言った事、なんだけど…」

 そう言い掛けたセシルの言葉を遮るように、病室の中から微かな物音がした。

「目が覚めたのか」

 ライトがセシルの肩に置いていた手を離してドアへと手を伸ばし、何の躊躇いもなく病室に入るのを、セシルは止められなかった。
 根拠のない、それこそ推論の域を出ない考え。
 違うかもしれないのだ。
 だからきっと、思い過ごし、または突発的事態に対する自分の混乱故の妄想だろうと。
 そう言い聞かせるようにセシルはもう一度唇を咬んでしっかりしろと自分を叱責し、ライトの後に続いて部屋へと入る。
 そして上半身を起こした彼を見た。

「…フリオニール?」

 傷に障るだろうと、身体には触れず、ただ名を呼んだライト。
 それが彼を見付けた時の自分と重なって、セシルはふるりと震えた。
 その後の彼が怖かった。
 ライトの呼び掛けに、何と返すのか。
 暫くその答えは出なかった。
 意識がはっきりしないのか、目をぎゅっと瞑り、首を微かに振る。
 そしてのろのろと彼が顔を上げ、ベッドの脇に佇む二人の人間をその視野に納めた時。

「…誰?」

 彼自身も、ライトもセシルも。
 その先の言葉を知らずに、沈黙がただ霧のように降りた。





 1日目 10:20





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 20100106





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