雨の記憶

[ 逢引と言うには不確かな ]



 耳奥に遺る声がある。それは形の良い桜唇から漏れ、柔らかな響きを持って耳朶を打つ。

『―――そう』

 絶望の淵に届いた、一筋の優しい光のように。

『だから、ね』

 耳奥に遺る声がある。救われた、言葉がある。

『胸を張って生きてごらん』

 鳳珠、と、その言葉の響きが本来持つ意味(さなが)らに、自身もその意味を持つのだと言うように。慈しまれて呼ばれた名。

『そして覚悟があるのなら』

 その言葉の後、不意に唇が耳元に寄せられて。吹きこまれた、あの言葉。

『何時か私に、会いに来て…――』

 …耳奥に遺る声がある。覚えているのはその声と、その言葉。自分の胸が高鳴る音と頬の熱。そして遠く聞こえた。
 秋雨の、音。





  光風霽月の夜に





 鳥の囀りが一声あって、今日の夜が始まった。秋の差し掛かりという事もあり、冷えた空気と空間が戸部の室にも広まっていく。
 既に共に遅くまで残っていた同僚の柚梨も帰り、後は自分が帰るだけ。(シン)とした室は一人で居るには寂しく、しかし別段待つ人の居ない邸に勢い込んで帰る理由もなくて、鳳珠は宵の静けさを堪能するように背凭れに体重を預け、仮面を外して目を伏せた。
 疲れという疲れは感じていないが、それでも少し前の夏の惨劇は確かに尾を引いていた。深く息を吐けば、その残滓が落ちるような気もする。思うより疲れていたのだろうか。…そんな事、言ってはいられないのだけれど。

(明日も仕事だ…)

 一ヶ月という期限が切れた事もあり、あの少年らしい少女と髯面の青年はもう来ない。夏の暑さにバテた官吏達が既に復帰し始めているとは言え、それでも矢張り当分は自分と柚梨が請け負う仕事の割合は多いだろう。暫くは、この疲労と上手く付き合っていくしかない。

(……仕方ない)

 弱音を吐ける立場ではないのだ。このような姿を誰かに見られる訳にもいかない。特に柚梨に見られでもすれば、優しい柚梨は無理をしてでも仕事量を増やそうとするだろう。それは望む所ではないから、踏ん張らなければと言い聞かせる。
 元々官吏に志願した理由も、自分の能力が少しでも国の為になるならと思ったからではなかったかと叱咤する。第二公子が流刑に処されガタガタになったこの国を立て直す一助になれば―――と。

(…む)

 そう物思いに耽ろうとする意識が何かに沈殿を阻害される。何かと思い目を開き耳を澄ませて、あぁ、と鳳珠は理解した。

(雨、か…)

 窓を隔てた外の世界に、霖雨が楚々と降り注ぐ。だがややもすれば少し強いもの変わりそうな気がした。暫く帰るつもりはなかったが、その理由が出来たらしい。それも良いと、少し浮かしかけた躰をまた椅子に預けて座る。
 そこでまた、何かの音に気が付いた。今度は回廊から聞こえる跫音のようだ。既に乙夜の差し掛かりにあるが、残っている官吏は数多居る筈なので誰かが廊下を歩いていても可笑しくはない。ただ、どうもこの戸部の室に用があるようだと、此方に向かってくる足音に思う。

(誰だ…?)

 念の為に素早く仮面を装着しながらも気になって耳を澄ませて待てば。

「―――今晩は」

 涼やかな声を宵雨の静寂に響かせ現れたのは、簡素な衛士の姿をした青年だった。





 何時か遠くで彼を見た。目を引いたのは、傍に李侍郎が居たからとか、藍家の四男が居たからとか、そういう理由でなく。風に靡く髪だった。
 睡蓮の色を写したような、紫水晶の髪色。それが酷く、目に焼き付いた。心に燻る微かな既視感。何時か見たような感覚。なんだろう、と思い差して。

(――――)

 唐突に、思い出した。一人の少年。暗い昊。秋の通り雨。記憶の底に潜り込んでいた、ある日の断片。
 まさか、と呆然と胸の内に零された言葉を知らず。視線の先で揺れる蓮色の髪。それが太陽の光を受けて、さわりと笑った。





 まだ鳳珠が出仕する前の、三年程手前の年に、家族と共に黄州から紫州に上った事があった。夏も終わり、秋に踏み込んだ頃で、軒から降りればその冷たさが強かに頬を打った。
 その日は綺麗な秋空で、薄い蒼が雲を引き連れて空を彩っていた。ならば大丈夫だろうと手荷物も持たずに鳳珠は一人で王都の雑踏に身を投じた。
 久々の王都は記憶の中のそれと少し違ったけれど賑わっている事に変わりはなく、黄州とはまた違った街並みを前に鳳珠の心も自然と浮く。夕方までに紫州にある黄家の邸に帰れば良いと、行き掛けに両親に言われた言葉を思い出しながら頭巾を目深に被り直して道を進んだ。
 それから半刻程経った頃だ。昊の色が目に見えて暗くなり始め、危ういなと鳳珠が思ったその少し後に、とうとう雨が降り出した。無視できる程弱くはなく、寧ろ躰を打つように強い。
 何時の間にか町外れまで来ていた鳳珠は些か焦りながら考える。近くに知る人の家はないし、黄家の邸は走って帰っても遠い。兎に角雨宿りをしなければと、傍にあった荒寺の境内に上がりこんだ。
 お邪魔します、と心の中で断って、縁側に座り込む。濡れてしまった頭巾を取ってぎゅうと絞れば、ぽたぽたと水が零れていく。水気が切れた所で乾かそうと縁側の床に広げておいた。そして見上げた昊は鉛色、時々雷が光るのも見える。

(止むだろうか…)

 雨に曝されただけでなく秋口である事も手伝って、時折吹き付ける風に躰が大げさに震える。膝を抱えても、余り暖は取れなかった。早く止む事を祈るしかないか、と俯いた時。

「…先客が居たか」

 ぎしり、と床の鳴る音と共に、声が聞こえた。驚いてその音と声の方を見れば、鳳珠と同じように真白の頭巾を目深に被った子どもが居た。
 見た所鳳珠より年下で、年の頃は十の辺りだろうか。すらりとした体躯を藍を薄めた色の着物で包み、袖や裾から見える手足は冷え切ったような青白さ。暗いからそう見えるのだろうかとも思ったが、しかしそれにしたって元より白いようだ。
 布で覆いきれていない鼻梁はすっと通り、唇は薄く形が良いのが見て取れる。また髪は頭巾から食み出る程に長く、背の辺りまであった。その色は、睡蓮の紫。艶やかなそれの表面を、雨粒がつるりと零れていった。
 全て見なくとも子どもの美しさが滲むようだった。

「…綺麗なものだな」

 思わず感嘆して呟けば、子どもは喉を鳴らして笑った。

「貴方程の人に褒められれば、悪い気はしないな」

 と聞こえた言葉と感じた子どもの視線に、鳳珠は自分が顔を晒したままである事に遅れて気付いた。途端鋭く息を呑み顔を背けた鳳珠の様子に、子どもはその理由を敏感に察したらしい。

「美しさも過ぎれば、か」

 呆れたような響きに身を竦めた鳳珠に気付いていないのか気付かない振りをしたか、兎に角子どもは大人で五歩の距離を滑るように歩いて鳳珠に近寄ったかと思うと、力任せにその顔を自分に向けて痛烈に言い放つ。

「馬鹿馬鹿しい」
「……ッ!」

 その言葉と、何より首が変な音を立てた事に驚き息を詰め、目を見張った鳳珠を気に掛けず、整いすぎた顔を隠すようにかかったこれまた驚く程綺麗な黒髪を、子どもは先程の暴言と強引さを思わせない優しい手付きで丁寧に梳いて顔から退けていく。
 鳳珠は何も言えず分からず、体を強ばらせてされるがまま。そんな鳳珠を子どもは可笑しそうに笑って、梳く手を止めずに小さく言う。

「済まないな、期待に添えなくて」
「…え」
「貴方が途方もなく美しい事は頭では分かるのだが…」

 心が、ついていかない。

 ぽつり、と桜唇から寂しく堕とされたその言葉。ただ零れ落ちる雨のよう。囁くようにささめくように呟いて、子どもはするりと髪を梳き、

「昔、美しく笑う女に殺されかけた事がある」

 何でもない事のように、言ったのだ。

「自分より小さな子どもに刃を向けられた事も、澄んだ綺麗な水に、毒を盛られた事もある」

 淡々と言われるそれらの言葉に、鳳珠は色を失った。思わぬ告白に唇が慄き、静かな独白が心に痛い。それは鳳珠にも身に覚えがないとは言えない経験だった。その断片が脳裏に浮かんで息を呑む。それでも自分より小さな子どもは笑うから、鳳珠も唇を咬んで痛みをそっと誤魔化した。

「…そういう経験が、私には嫌という程あるからだろう。美しさも外見も、殺意や真意を隠す偽りの装いになり得るんだと知ってから、どんなものを前にしてもまず考えてしまう」

 その裏に、その心に、一体何を隠しているだろう、と。

「だから私にとって、色も美醜も、意味がない。外見がどうであろうと、関係ない」

 さらり、と最後に一撫でされて、鳳珠の顔にかかっていた髪が完全に退けられる。明瞭となった視界の先、子どもは笑い、だって、と酷く子どもらしくもそう言って。

「私は世界の全てを信じないから」

 とても哀しい、言葉を吐いた。

(……この子どもは、雨に打たれ続けているのか)

 太陽の見えぬ曇天の下、逃れる軒先もなく、氷雨にその小さな身を晒している子ども。そんな心象風景が無理なく想像できた。灰色の世界に佇んで、たった独り、出会う全てに意味を持たせず持てないまま。そうして、生きてきたのだろう。

「……確かに、馬鹿馬鹿しいな」

 その子どもの世界に当てはめれば、自分の顔が何だと言うのか。口端で笑えば、子どもは一瞬驚き、そしてそれで良いという風に微笑んで。

「そう。だから、ね」

 一転、雨上がりの声で言ったのだ。

「胸を張って生きてごらん」

 幼子に言うように。

「自分に恥じる所がないのなら」

 優しく、そして柔らかく。

「顔を上げて生きなさい」

 そんな事を、言ったのだ。





 鳳珠、と優しい声がする。父と母だ。真正面から自分を見てくれるたった二人の人は、その視線に何時だって愛情と、その裏に憐憫を隠して自分を見る。
 それでも良かった。
 自分を愛してくれた両親を、鳳珠は愛していた。外に出るのに頭巾を被れば良いと考えだしてくれたのは母だった。鳳珠と接する時は鳳珠の足元を見なさいと召使達に言ってくれたのは父だった。
 嬉しかった。
 完全に外から切り離すのでなく、人との接触を断つのではなく、出来るだけ人並みの生活を与えようとしてくれた事。
 哀しかった。
 そんな普通だったら要らぬ気を使わせる、普通の子どもではない自分が。
 それでも愛してくれた。それでも、愛していた。何時も自分の味方に立ってくれる二人を、鳳珠は。けれど。

『胸を張って生きてごらん』

 そんな事、言われた事なんて、あっただろうか。





「両親は何時も、鳳珠としか呼び掛けてくれなかったな…」

 思い出して呟けば、傍に居た子どもにも聞こえたようで。

「ほうじゅ?」
「私の名だ。鳳凰の鳳に、珠玉の珠と書く」

 教える事に、何の躊躇いもなかった。この子どもならばと言う思いがある。出会ったばかりで知らぬくせに、嫌に確信があっていけない。そう思う鳳珠を知らずに、子どもは口先で何度かその名を繰り返すと。

「ほうじゅ…鳳珠……うん。良い名だ」

 笑った子どもに、鳳珠も笑う。その時、子どもの肩越しに見た昊の端が明るくなっていくの気が付いた。そろそろ雨が上がるのだろう。
 鳳珠はそれに嬉しいと思うより寂しいと感じた。僅かに眼を伏せた鳳珠に気付き、子どもも振り返って昊を眺める。そうして目の前で揺れた淡紫の髪の表面を、また涙が堕ちるように雫が伝って零れていった。
 その髪が唐突に遠くなる。顔を上げれば、既に子どもとの距離は出会い頭の立ち位置程離れていた。驚き、追おうと立ち上がった鳳珠の視線の先。

「思いの外、楽しい雨宿りだった」

 振り返らぬまま子どもは言い、そしてまだ小雨とは云え降る中に身を投じようとする彼の腕を、思わず鳳珠は掴んでいた。

「……鳳珠」

 困ったような子どもの声に、鳳珠は頬を染めて自分の行動を呪った。

(ま、まるで去り行く恋人を引き止めるような事を…!)

 そんな経験はないが、きっと現状と早鐘の心臓は非常にその状況に近しいだろう。自分でそう分析し、けれど何か言わなくてはと焦って。

「ま、まだお前の名前を、聞いていない……それに、顔も、見てない…」

 消えそうな程小さく。子どものように拙く。

「まだお前と、…話していたい」

 きゅうと腕を握る手の力を、一瞬だけ強めて。鳳珠は震える吐息を零して願う。その懸命さに、子どもはふわりと鳳珠の方へ振り返る。口元には小さな笑み。見えない瞳も、笑ったようだったけれど。

「…許せ」

 その一言で、鳳珠の願いが聞き入れられない事を知った。惜しむ気持ちはある。残念だという想いも。それでも無下に言わず、振り返り笑ってくれた子どもの優しさに、鳳珠も笑う事が出来た。

「分かった」

 掴んでいた腕をそっと離して穏やかに微笑む鳳珠に、子どもの笑みも深くなる。そして。

「鳳珠」

 今までで一番、優しい声。秋の陽光よりも、春のそれに近しい声で。

「負けちゃ駄目だよ」

 落ち込んでも、傷付いても。下を向くなと子どもは言った。

「そして覚悟があるのなら」

 言葉の途中、突然腕を引っ張られる感覚。均衡を崩して前のめりになった鳳珠の耳に、子どもが背伸びも合わせて近付いて。

「何時か私に、会いに来て」

 その時に教えてあげる。名前も、顔も。いっぱい話もしよう。だからそれまで。

「さようなら」

 腕を離し、鳳珠を見たまま子どもが一歩離れようとしたその途中。秋風が子どもの顔を覆う布をふわりと徒にはためかせた。一瞬、面白がるような、切望するような、そんな翡翠の隻眼を見た気がして。

「――――」

 けれど結局、分からなかった。呼び止められる名も言葉も知らないまま立ち尽くす鳳珠の視線の先、霧雨に変わった昊の下を子どもが俊敏に駆けていく。その姿を見送った後、縁側を離れ、鳳珠も軒先から出た。
 見計らったように、雨が、止んだ。





「―――黄尚書?」

 近くに声が聞こえて、そこで鳳珠は過去を回想するのを止めた。視線を上げれば、鳳珠が座る前の机案には夜食と茶が、その向かいに立ったままの青年が見えた。

「あぁ、済まない」

 少しばかり前、主である紅秀麗から頼まれて夜食を持ってきたと戸部の室にやってきたと言う青年は、お茶も淹れますからと言って用意してくれていたのだ。その準備が終わったのに気付かなかったと謝る鳳珠を、青年はお気になさらずと柔らかく笑む。
 しかしそれでも食べようとしない鳳珠に、青年が小さく首を傾げる。夜食の中に嫌いな物があったのだろうかと考えていた時。

「…約束を」
「え?」
「約束を、果たそう」

 訝しむ青年の前で、鳳珠の手が仮面の紐に伸ばされる。するりと解けて、仮面は鳳珠の手の中に。惜しげもなく曝された鳳珠の美貌を、青年は食い入るように見詰めた。そこに驚きの色だけを見て、鳳珠は確信する。やっとまた、会えたのだと。

「名を、教えてくれるのだろう?」

 あの日の子どものように、優しく柔らかく笑む鳳珠に。

「……意地が、悪いな」

 問われた青年も諦めたように微笑んで。

「久しぶりだ――――鳳珠」

 あぁ本当に、と。鳳珠は青年を抱きしめた。





 秋雨の音が遠くにする。宵はまだまだ深くなる。少し淋しい秋の夜長も、けれど彼と共に過ごすのなら早く明ける気がした。





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 20110223
〈思い出す。私は彼の屋根になりたかったのだと。〉





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