静夜思

[ ずっと、逢いたかった ]



 脆弱な月浪。
 炳煥(へいかん)する星。
 邈然(ばくぜん)の、昊。

(届きはしない―――分かっているのに)

 何時からだ。
 何時から夢を見ていただろう。

(夢を見られる程、甘い道を歩んできたつもりはないのに)

 伸ばし掛けた手を胸元で握り締める。
 ギリ、と握られたそれに込められるのは、戒めと嘲弄と。
 鋭い痛みが手から生まれ、腕を、全身を、翔けて行く。
 それ、でも。

「――――……」

 力が抜ける。
 息が零れる。
 目を伏せる。
 懺悔はない。

(ただ夜が始まる)





  絶対距離間





 既に深夜に近い時間、町の中心から少し離れた(ひなび)た場所に、深い深い黒に呑み込まれそうな一つの人影。
 寧ろそれを奨励しているのだろう、溶け込もうと、吐息が一層細くなる。
 細く細く、蜘蛛の糸のように、細く。
 限度を知らないそれは、とうとう無に何処までも近くなりかけた。
 昊を見上げる横顔にそれを気にした風はない。
 苦しいだろうに、そんな顔は見せず、刻が止まったかのように、ただ静か。
 昊は動かない。
 星は瞬かず、月が笑う事もない。
 空気すら薄氷に似て、全てを拒絶する。
 世界の全ては彼以外止まってしまったかのよう。
 彼が、世界の中心にいるような。
 そんな錯覚さえ憶えそうな情景。
 毀したのは、外ならぬ彼だった。

「…何か?」

 静寂の夜に初めて生まれた言葉は、暖かみから隔絶され、秋から冬に移り変わる様を体現する風に似ていた。
 何時からか闇に紛れて身を隠し、彼の横顔を見続けていた彼は、その声に微かに笑う。
 冷淡であるのではない。
 好悪の問題ではない。
 彼という存在が〈そう〉なのだ。
 他に答えがない程、ただそれだけの話。
 だからそうと知る彼は彼の声の響きに傷付きはしなかったが、それでも矢張り寂しさは付き纏う。
 何より彼が落胆に似た気持ちに駆られたのは、そう言った彼が〈彼〉でなかった事だった。
 自分が求める人でない。
 同じで違う人。
 表情口調、声に含まれる色。
 そんなもので分かってしまう。
 自分が特別なのではなく、〈彼〉を知る人間ならば誰だって分かる事だ。
 喩えばそれは自分の愚兄だったり。
 喩えば〈彼〉が唯一傍に居た、紅家の彼だったり。
 分かっているだろうに、こうして彼は度々自分を遠ざけようとする。
 思っているような人間ではないのだと突き放すように。
 そんな事で離れるようならば、疾うに自分は居ないだろう。
 言い聞かせたくて口を開く。
 しかしそうして声が出た事など一度もない。
 再度引き結ばれた唇は、溜息の吐息に濡れて微かに色付く。
 それでも笑み続ける藍の少年に、根負けしたように〈彼〉がふと現れた。
 それは瞬き一つの間に。
 世界が逆転する程の、変化。
 その瞬間待っていたかのように、いや真実待っていたのだろう、月が笑い星が瞬き昊が動き始めた。
 全ての転換を目の当たりにして、彼の笑みも楽しげなものに変化する。
 結局〈彼〉は優しいのだ。
 優しくて優しくて、優しかった。
 だからそのままでいられなかった。
 地位の話ではなく、ましてや冠する名や持ち得る権力、居住の話でもなく。
 目に掛けた者、心を砕き傍に居たいと願った人の傍に、いられなかった。
 優しい人。
 哀しい人。
 自分と、対極の位置に居る人。
 相容れる事はない。
 だから自分は存在を許された。
 〈彼〉に会いたいと切望する誰をも選ばず、優しく笑んで〈彼〉は自分の手を取ったのだ。
 誇った事はない、驕る事はなかった。
 消去法の中で最後に残っただけの自分を、誇る事は出来なかった。

「……哀しいな」

 不意に漏れた言葉は、静謐な闇に染み込んだ。
 放った先から消えていく感覚。
 夜とはこういうものだったか。
 考えて、

「いや、…違う、な」

 零す。
 夜がそうなのではない。
 闇がそうであるのではない。
 それは、この夜初めて生まれた言葉と同じ理由。
 そう思えば、喉奥でくすりと笑う音が聞こえた。
 自分だ、〈彼〉でなく。
 何故か笑えた。
 どうしてだろう。
 今宵はどうも可笑しい。
 何かが違うようだ。

(その異変を来しているのはきっと)

「哀しいのか?」

 貴方は。

 問えば、闇を凪いで貌が此方を向き、かちり、と視線が射貫き合う。
 鋒に似て、氷柱にも通ずる。
 視線と言うには生温い。
 そんなものが夜の帷を行き交って。
 どれ程経った頃だろう、逸らしたのは〈彼〉だった。
 藍の少年に鋒を向けている時と同じように笑みながら引き剥がし、今度はそれを昊へと放る。
 一直線に月を射る。
 すっと細められ、唇が(わか)つ。
 夜霧の冷たさを喉に感じ、放つ言葉は。

「……淋しい、辛い、…哀しい、など」

 ―――清苑兄上の事なら、劉輝は何でも分かるのです!

「要らぬ言葉だ、どれも」

 ―――それでも私は――…お前が、良い。

「…否」

 ―――…清苑。

(終わった事だ。終わらせた事だ)

 あぁ、だから、それは。

「私が抱えるべきでない、痛みだ」

 優しさに塗れて、哀しく夜に響いた。
 そう言う〈彼〉の横顔の、頑なな事。
 対し、本当にそうだろうかと疑問を呈する事は容易に出来た筈で、でもしなかったのは、藍の少年の微かな迷いがそうさせたからだ。

(言えば、この瞬間が朽ちるだろう)

 それは漠然とした予感で確信ではあり得ず、けれどどうしても、その危惧は実現してしまいそうで。
 答えが見出せない事に彼は戸惑いながらも、結局口を開かず笑みを引き込めて沈思する。

(…三兄の言った意味が、漸く分かった気がする)

 藍の少年はゆったりと瞬きをして思いを馳せた。
 世の中全てを自分達と家族と一族と紅家の兄弟とその他とで分類していた愚兄等が、その区分を壊す程に、惹かれた人。
 彼の王とは違った意味で、傍に居たいと願った人。
 何が其処まで、と問えば、彼等は優雅に笑んでこう言った。

『〈彼〉が〈彼〉である故に、だよ』

 他に言い表しようがない、と言われ、ならば会えば理解できるのかと言えば、それはないと断言された。

『お前は〈違う〉からね』

 何が、と問うても分からないであろうし、何より愚兄等の誇らしげな顔を見れば言うつもりもないのであろうと察せられ、だから彼がその差異を明確に知る事はなかった。
 ないのだろうと、思っていた。
 藍の少年は、龍の名を背負う者だったから。
 この世の誰とも相容れないからこそ冠する事の許された名。
 世界のあらゆるものを隔絶し、反発し、されて、存在する。
 強請った訳でも願った訳でもなく、ただ、そうであっただけで。
 その点で彼と〈彼〉は同一であったが、それは容れ物の話だ。
 実際は彼の愚兄が言ったように、内面を見ればその差は良くもこの世で出会う事が許されたと嘆息する程似ない。
 それを知るからこそ、彼は〈彼〉を理解する事を出会う前から放棄していたし、〈彼〉は遅れて登場した、〈彼〉との意思疎通を端から諦めていた彼を格好の話し相手に選んだ。

(〈違うから〉、…ね)

 理由はそれだけ。
 それだけが理由になり得るもの。
 こうして静かに夜に身を寄せ、思い、時に言葉を交わす関係の根本にあるもの。

(皮肉なものだな)

 誇らしげに笑った三兄。
 それには勝ち誇った色が見えた。
 お前には分かるまい。
 そう、言いたげな。
 あぁ確かに自分と違い、三兄と〈彼〉とは通ずるものがあったのだろう。

(だがそれ故に、〈彼〉と又会う事は罷りかねた)

 月光に照らされた〈彼〉を改めて見る。
 未だ彼を見ず、雲に隠され曝される月を静かに悵望する〈彼〉。
 それは世界の終わりにすら見えた。
 きっときっと、世界が毀れる時、世界はこうして儚くも綺麗に散るだろうと。
 有りもしない事を錯覚させる程、美しく。

「……愚兄が知れば、泣くな」

 苦笑して、思う。
 自分が今見る光景を見る為なら、愚兄等はどんな事でもするだろうと。
 それは小さな思い付きで、本当に小さな呟きだった。
 夜霧に紛れそうな程に、微かな、声だったのに。

「――――許さぬ」

 零下の声が、戯れに揺れた。
 〈彼〉は月を見遣りながら彼の声を聞いていた。
 それは穏やかな春の声だった。
 それは厳しい冬の言葉だった。

「せい――…」

 それに対する、反発か、意地か。
 兎も角彼は何かを言う為に口を開き〈彼〉を呼ぼうとして、その理由すら分からぬまま沈黙した。
 〈彼〉が彼を見たからだ。
 彼が〈彼〉に見られたからだ。
 宵闇を宿した翡翠の双眸に射貫かれ、彼は口を噤む事を選んだ。
 選択肢はそれ以外になく、あったとしても彼がそれを選ぶ事はなかっただろう。
 〈彼〉は今、世界を、藍の少年すら統べる、絶対の支配者だった。
 王、だった。
 彼はそれを知り、黙し、従順な臣下のように言葉を待つ。
 〈彼〉は構わず王の威厳を纏い、桜唇を開いた。

「知られるな」

 その口元には、微笑。

「それが叶わぬ刻は」

 それは世にも艶やかな、

「死して口を噤め、藍龍蓮」

 華の、(かんばせ)
 それに、彼は。

「……御意に」

 空気を震わせ、笑って、応えた。





 躊躇いもなく吐かれた言葉。
 それは心に沁みる程優しくて、そのくせ残酷な程揺るぎない。
 彼の兄達ならば、決して、一生涯向けられる事のない言葉だっただろうに。
 遠慮なく向けられた彼は微笑する。
 〈彼〉は優しくなどない。
 彼はそう確信する。
 本当の〈彼〉は、一つも、微かさえ、優しくはないのだと。
 その優渥が向けられるのは実に一握りの人間に対してのみで、それは〈彼〉が心を掛けた人間に対してで、自分にそれが向けられなかったのは、その範囲外だったからに外ならない。
 〈彼〉がいた頃、彼は未だいなかった。
 彼が世に出てきた時、〈彼〉は既にいなかった。
 しかし喩えその当時逢っていたとしても、〈彼〉の心が彼に向いたとは思えない。
 〈彼〉と対蹠であるが故、ただ、それだけの理由で。

(―――そう、だから)

 自分は〈彼〉と逢うのだろうと、冷静に、そう思う。
 傷付く事なくそう思う。
 それでも、そうと知って尚、〈彼〉との接触を望んだのは彼の方だったから。
 彼が〈彼〉を望み、手を、伸ばしたのだから。
 その事を後悔などしていないが、しかし。

(三兄も楸兄上も、人を見る目がないな)

 〈彼〉は王ではない。
 生粋の王ではあるだろうが、人の上に立つ王ではない。
 恐らくその基準で彼等が〈彼〉を選んだのではないのだろうとは思うが、それにしてもと彼は思う。
 彼等は藍家なのだ。
 自分が、そうであるように。
 名を軽んずるなと言いたい訳ではないし、実際愚兄等が軽んじているとは微塵も思わない。
 だが浅慮だと思わない事もない。
 それは偏に、自分が〈彼〉の優しさに触れた事がないからだろうか。

(嫉妬? ―――まさか)

 浮かんだ答えの一つのそれを、藍の少年は鼻で笑う。
 それはない。
 真実、将来自分が王を選ぶ時、その候補に〈彼〉が混じって居たとしても藍の少年は決して〈彼〉を選ばない。
 仰がない。
 きっと、恐らく。

(多分それは、危険だ)

 だからこの距離で良い。
 優しさを向けられる対象でなくて構わない。
 端と端に位置する、自分と〈彼〉とを除いた全人類を間に挟んだ関係で、良い。

(この、絶対的な無限の距離)

 それを自分は甘受しよう。
 〈彼〉の世界の外にいる者。
 それで良い。
 だから。

「では私は失礼しよう。心の友其の一に宜しく伝えておいて欲しい」

 藍の少年は未練なく今宵の邂逅の終わりを告げた。
 瞬間、〈彼〉はいなくなる。
 現れたのと同じように、それは、瞬き一つの間に。

「えぇ、分かりました」

 穏やかに笑み、お気を付けてと言う彼は、もう家人のそれ、一介の召使の顔だった。
 振り返る狭間にそれを見て、笑みを僅少(きんしょう)深めて藍の少年は夜道を往く。
 背の気配を探っても彼が動いた風はなく、けれど今振り返れば、存在は跡形もないのだろう。
 夢のようなものだ。
 泡沫に、消え失せる。
 知っているから振り返らない。
 二度と。
 一度も。
 一瞬目を伏せ見上げた先、昊も星も月も、もう凍ったまま、動かない。





 次の約束はなく、それでも彼等は次も又会うだろう。
 動かない夜、静かな夜に。
 人知れず、誰にも知られてはいけない密会を重ねるだろう。
 彼が認める心の友とではなくて。
 〈彼〉が認めた紅藍の子等でもなく。
 世界の端と端に鎮座する彼と〈彼〉が、今宵に似た夜、同じ時を過ごすだろう。
 それは予感と言うには、確かすぎて。

(…困った)

 藍の少年は薄く笑う。
 〈彼〉に囚われてしまいそうな自分に気が付いて。
 愚兄等と同じようになってしまうと、嫌だ嫌だと嘯いた。
 それでも笑みが解けなかったのは、矢張り絆されそうだからだろうか。

(…いや、それも仕方がない)

 一番風流な荒屋を見遣りながら、彼はそっとそっと息を零す。
 そう、仕方のない事だ。
 〈彼〉と自分は両極をなす者。
 理解し合う事はない。
 そう願う事もない。
 しかしそれ故、危ういのだ。

(対をなす事はつまり、何処までも近しいという事)

 あぁそうだ。
 面倒な事だ。
 なのに、解り合う事はない。
 こんなにも、近いのに。

(……絶望はない)

 それは疾うに捨てた感傷だった。
 自分が誰かと寄り添う事はないし、誰かが自分に寄り添う事はない。
 そうなればこの龍の名を返還せねばなるまい。
 そして、そんな事は出来ない事も、出来る訳がない事も、彼は知っていたから。
 だからこれで良いと、今宵何度目かのその言葉を繰り返す。

(優しさは毒だ。耐え難い、毒だ)

 愚兄等は既に手遅れだ。
 恐らく紅家の彼も。
 そう言う、孤独に慣れた筈の自分ですら揺らぐ程の。

(甘い、毒)

 それは〈彼〉が与える、夢のように。

(……夢、か)

 自分の思考の一言を掬い上げる。
 あぁ確かに、そうかも知れない。
 いや寧ろ、〈彼〉が居る事、それ自体が夢かも知れないと。
 そう思う彼の後ろに、徐に気配が近付いてきて。

「龍蓮」
「何か、楸兄上」

 名を呼ばれた彼は肩を竦めてつつ返事をした。
 声に素っ気なさはないが、視線が呼ぶ者に向く事はなく、故に僅かに微苦笑が呼んだ者の口元に浮かんだ。

「今日は嫌に遅かったね」

 その言葉の裏に、何処へ行っていた、と問う色を知りながら、それについては答えずに。

「もう一人の自分へ会いに行っていたからな、しょうがない」
「は?」

 彼は言う。
 彼の言葉に微かな疑問と大いなる恐怖を覚えた兄を見ずに、動き続ける昊を見て。

「世の中は凄いな。敬服する。私はまだまだ世というものを知らぬらしい」
「…そう、かな?」

 心の底から首を傾げる兄を蚊帳の外に、彼は言葉を更に続けて小さく笑んだ。

「あぁだから―――知りたい」

 理解したいのではない。
 ただ〈彼〉という存在を知りたいのだ。
 〈彼〉が向かう最後を知りたい。
 その為に、〈彼〉はこの世界にい続けている筈だから。

(この夢には、理由(わけ)がある)

 優しいだけの夢ではない。
 裏に何かが隠されている。
 きっと悪夢にすら匹敵する何かを孕んでる。
 でなければ、〈彼〉が此処に居る理由には成り得ない。
 自分には言葉の鋒を向けた〈彼〉も、心を掛けた者達を無闇に傷付ける筈はない。
 なのに結果的にそうなると知って尚、彼等が会いたくて会えない焦燥に駆られるような、こんな処にいる理由。
 ふ、と彼は笑う。
 自分が、この、自分が。
 分からない筈はない。

(この世界を、壊す為、か?)

 〈彼〉が自分で作り上げた夢を、その下地となる、世界を。

(―――それも良い)

 それを自分は見届けよう。
 手出しはしない。
 見ているだけ。
 そもそも〈彼〉が動かす世界に自分という存在は含まれない。
 介入は最初から不可能だ。
 ならば。

(好きにやるが良い、紫清苑)

 両極の存在、鏡の向こう側。
 背中合わせの世界―――もう一人の自分自身。

「うむ」

 自分を受け入れてくれる人間を見付けた。
 その事すら奇跡だと思っていたのに。
 此処に来て片割れを見付けるとは、なんとも運命の悪戯よ。
 それが喩え、穏やかな日常を揺り動かす存在でも。
 心の友が嘆くかも知れない可能性に心を痛めながらも。

「愉快だ」

 藍龍蓮は心の底からその言葉を零し、にっこりと楽しげに笑ったのだった。





 さぁ、優しい夢に警鐘を。
 誰が真っ先に起きるだろう。
 甘い夢の幻想から醒めるだろう。
 楽しみで愉しみで待ちかねる。
 さぁ。
 夢の終わりは、何時始まる?
 その場に自分は居るだろう。
 其処に〈彼〉は居るだろう。
 後は一体誰が名を連ねるだろう。
 誰が、一体、誰が。
 …いや。
 畢竟(ひっきょう)――――誰でも良い。
 さぁ身構えろ。
 覚悟しろ。
 耳を澄ませ。
 そろそろだ。
 幻想の終焉、悪夢の再来。
 さぁ心を冷ませ。

(警鐘が、鳴るぞ。)





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 20101027
〈さぁ。約束された(おわ)りへ。〉





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