一枝春
[ 花に答えを託す ]静かな夜が過ぎる。
既に弥生に入ったとはいえ、まだ寒さは残っている。
夜ともなれば尚更。
けれど柚梨は敢えて夜に外へ出ていた。
庭院に面した濡れ縁に腰掛けて思う。
(…綺麗)
冴え冴えと光る月。
そして、その下、庭院に咲き月光に照らされる花。
ほう、と柚梨は感嘆の吐息を漏らし表情を綻ばせるが、けれどそれは数瞬で崩れてしまう。
柚梨の顔を翳らせるのは、数ヶ月前、温泉に行った時の出来事が原因だった。
『温泉に行かないか?』
そう誘ってくれたのは、自分よりも年下の上司、黄鳳珠だった。
年下ではあるものの、その才は非の打ち所がなく、上司として申し分のない、有能な人だ。
そして柚梨にとって好ましかったのは、有能なだけでなく、とても優しい人である事だった。
自分よりも多くの仕事をこなし、また多忙であるのに、何時も柚梨を気遣ってくれた。
残業が続けば命令と称して帰宅させたり、慣れない手付きでお茶を煎れてくれた事もある。
時には柚梨の仕事の分を勝手に自分に回し、片付けてしまった事もあった。
流石にそれは怒って止めさせたのだが、その気持ちはとても嬉しかった。
そして、
(あぁこの人は…――)
この人は、優しい、人だ。
だからこそ柚梨は鳳珠が好きだった。
そんな優しい彼が上司である事が嬉しかった。
彼の傍に長く居られたのは、別に柚梨が頑張った訳でも、無理をした訳でもない。
ただ偏に鳳珠が優しいからだと、柚梨は思っている。
そして。
(そんな関係が、後十年、二十年、続けば良いと)
そう、思っていたのに。
『好きだ』
湯煙が漂う中。
正面に見慣れた綺麗な顔。
整った口。
其処から零された言葉に、柚梨は息を呑んだ。
それに含まれる感情が子どもが口にするようなそれでないと言うのは、柚梨でも分かった。
(鳳珠が……私を…?)
年上だ。
それに、身分が違う。
幾ら柚梨が鳳珠の副官だからと言って、家の持つ位まで無視される訳ではない。
鳳珠は彩七家の一つ、黄家の嫡男。
それに比べ、柚梨の家の地位は、職務がなければ鳳珠と口をきく事すら憚られるほど。
それ程に差があった。
手の届く人ではない。
手を伸ばそうと、思える人でもない。
(そんな人が、私を)
胸に溢れる感情。
それに名を付ける事はせずに、柚梨は。
『…ありがとうございます、鳳珠』
何とか、何時ものように、笑んで。
『私も鳳珠が大好きですよ』
鳳珠の気持ちに、気付いていない、振りをした。
卑怯な事だと、分かっている。
それでも柚梨にはそうするしかなかった。
鳳珠が望む関係にはなれない。
柚梨が望むのは、以前のままの関係だから。
「……ごめんなさい、鳳珠」
零された言葉は、懺悔の言葉。
「鳳珠」
ごめんなさいと。
そう言ってあげれば、貴方はどう思うのだろう。
あの時そう言っていれば良かったのだろうか。
「ごめんなさい…――」
今の貴方を見るのが辛い。
無理して笑う貴方が辛い。
それでも、どうか。
言わない私を、許してください。
(自分の口から言わない卑怯な私を、…どうか)
沈黙が満ちる。
月の下、花々が見守る中で。
夜が、更けていく。
光のない、真っ暗な室。
光源はただ、夜に君臨する月だけ。
窓を背に座る鳳珠の髪がきらきらと煌めいていたが、その顔は闇の所為ばかりでなく、影を含んでいた。
「…………」
その手に持ち、じっと見詰める先は、今朝鳳珠の机にあった一輪の花。
それは近頃花咲き始めた梅花だった。
その梅が、どうと言う事はない。
ただ。
「高潔な心…澄んだ心」
それは梅が持つ意味。
「潔白」
花言葉。
そして、最後に。
「……忠義」
躊躇いと共に、吐かれた言葉。
それが、柚梨の返答だった。
鳳珠の机案の傍にある窓の近くに、梅の木はない。
ならば誰かが態々持ってきて置いたのだろうと気付くのに、時間は掛からなかった。
そしてその意味を考えれば、分かる。
「忠義、か」
鳳珠は笑った。
小さく。
忠義が恋慕に変わる事はない。
それが、分かるから。
「……柚梨」
名を呼ぶ。
闇に溶ける。
夜が、更ける。
20100301
〈夜と共に、この心も黒に塗り潰されてしまえ。〉