幸と不幸は隣り合わせ
[ 気付かないのは、何時もの事 ]「あんた幸せになりたいって思った事ねぇだろ」
ふと町で会い、逃げられたから腹いせに手近にある物を投げて捕まえてやった。
別に話す事も何の用もなかったけれど、捕まえたからには何かしようかと近くの茶屋に入った。
勿論タンタン君の奢りです。
(それにしても)
暫く無言で恨めしそうにこちらを見るか(ただし目線を合わせれば逃がす)、ぶつぶつと特定の名を出さずに誰かの文句を聞こえるように言っていたのに(ただし「最低ですね」と笑顔で言ってやれば黙った)、いきなり何を言い出すのか。
全くこの子どもは分からない。
突拍子もなく言葉を紡いでは、脈絡のない内容を閃きのみで繋ぎ合わせ理解していく。
理路整然と順序立てて考えていく人間の合間を生きてきた私にとって、今まで周りに居なかった型の人間だ。
面白いと思うと同時に、厄介だとも思う。
理屈でない論理は喝破し辛い。
なのに納得してしまうだけの何かがある。
認めてしまう事はとてもとても癪だけど。
あぁそれよりも今この子どもは何と言った。
(幸せ…?)
その言葉は聞いた事のない言葉のように私の内に響いて思う。
(それは一体何だっけ)
美味しい物を食べられる事?
安心して寝られる事?
楽なのにちゃんと給料をもらえる仕事に就いてる事?
傍に居たいと思える人が居る事?
守りたいと思える人が居る事?
此処に居る事?
彼処に居ない事?
今私が生きてる事?
そのどれもがそうであるような、また違うような。
(幸せ、とは、何だろう)
そんな思考を切るように。
「あぁ、あんたはそっからか」
彼は溜息と共にそう吐き出した。
その言葉の裏に面倒だという響きを聞いてむっとする。
しょうがないだろう、分からないのだから。
(幸せになりたいと思った事など、ないのだから)
生まれた環境が、思えるような環境ではなかった。
幸せからはほど遠かった。
幸せを知らず過ごしてどうして幸せになろうと思える。
ただ生き続ける事に必死だった。
楽に死ぬ事を拒絶し過酷に生きる事を選んできた。
(幸せの存在すらも知らずに)
第一、幸せなんてものに手を伸ばしていたのなら、多分きっと私は此処には居ない。
(あぁ、そうだ)
今なら分かる。
あの頃の私にとって、幸せとは恐らく死に等しかったのだ。
(生きる事は、辛いから)
その修羅の道を、結局無意識に選び続けていたのだけれど。
「で、タンタン君は何故それを私に聞こうと思ったんですか?」
最初に戻ろう。
答えられない以上、この無言の間は無意味だ。
だからそう聞いたのに。
「何故?」
驚いたようにそう聞き返されて、逆にこっちが戸惑う。
一体何を驚いているのか、と思いきや。
「さぁね」
あっけらかんと言い放った。
あぁやっぱりこの子どもは理解できないと項垂れそうになった時。
「ただふと思っただけだよ」
彼はさっきから弄んでいた団子を一つ頬張って。
「あんたは、幸せになろうとしないな、ってさ」
目の前にあるんだよ。
手を伸ばしても届く。
足を一歩踏み出す必要もない、しゃがみ込む事も背伸びする事もない場所に幸せは落ちてるんだ。
でもあんたは何時だって知らない振りをする。
見ない振りをする。
そして通り過ぎて、その次の幸せもかわして過ぎ去るんだ。
何があんたをそうさせるのかは知らないけどさ。
「幸せは別にあんたを取って食う訳じゃないんだからさ、気付いてやんなよ」
ほら、と彼は私の分の茶器を私の方へと押し遣って。
「こんな所にだって、あるんだからさ」
薄茶色の透き通った湯の中に、茶の茎が一つ、浮いて。
「タンタン君」
帰り道、からころと鳴る沓の音を聞きながら、隣に居る彼に呼びかける。
なんだよ、と気のない返事をした彼に微笑みながら。
「幸せって、楽しかった事でも嬉しかった事でも良いんですか?」
「良いんじゃないの? 字義なんて所詮一般認識としての価値しかないし、定義なんて人それぞれだろ」
それが何?、とちらりとこちらを見て聞く彼に。
「それなら、私は結構な幸せ者だったんだな、と思って」
その言葉に、へぇ、と彼は少し目を見開いた。
「何でいきなりそう思ったんだよ」
それはね。
「タンタン君と一緒に居るのって、結構楽しいんですよ」
何を言い出すのか分からない。
どんな見方をしているのか分からない。
どう考えているのか分からない。
そんな人間は、酷くやっかいだけど逆に酷く面白い。
だから。
「楽しいって事が幸せに通じるなら、私は今幸せですよ」
タンタン君と一緒に居る時は、凡そ全て。
そう言えば。
「……うわぁ、その代わり俺が超不幸じゃん」
「何言ってるんですか」
「弄ばれて苛められて嬉しがる程俺落ちぶれてねぇもん」
うわーうわー最悪だよ、なんていう彼に。
「諦めてください。私はこれから幸せをみすみす逃すような事はしませんから」
タンタン君が言ったように、ね。
途端苦虫を噛み潰したような顔をした彼に笑む。
そしてそっと背を屈めて囁いた。
「私を幸せにしてくださいね」
強張った表情なんて見ない振り。
嫌だといっても聞いてやらない。
良いじゃないですか、少しくらい。
私の我侭を聞いてください。
(だって幸せになりたいって、思ってしまったんだもの。)
20091116
〈責任とってくださいねと云えば、嫁に貰ってやろうかと返されて面食らう。ちょっとドキッとしたのは、ここだけの話。〉