沫雪
[ 掻き消された音(それは絶叫に似て) ]思えば、出会いは凄まじいものであったが、それ以降会ったのは片手で足りる回数だった。
屈辱を与えられ、雪辱しようとしたが出来なかった相手。
勝ち逃げのように姿を消した彼は、けれど逃げた訳では決してない。
そんな子どものような理由で消えた訳ではなかったのだと、後から知った。
彼に仕える筈だった。
それはもう無理なのだと言われても、納得出来なかった。
負けた事は悔しい。
侮蔑そのものの言葉を吐かれた事も。
しかしそれはただ鍛練を積めば良いだけの話だ。
暴言を吐いた彼ではなく、吐かれる程弱い自分が悪いのだから。
だからだから。
それでもまだ彼に仕えるのだと。
(そう兄上に駄々を捏ねた自分を、今でもずっと覚えている)
けれど、もう。
(私には、選べない)
彼が最も愛し、今も深く愛している若い王。
その王から受け取った紫の花菖蒲。
自分はもう、王を選んだのだ。
(彼以外の王を)
でもそれを悲しいとは感じなかった。
彼が王でない事に、安堵していると言っても良い。
背負う程の肩書きのない人である事に。
それは彼を思い遣っての事でなく、ただ自分がそうであって欲しかっただけだ。
彼が王になれば、手を伸ばす事も躊躇ってしまうから。
(…何時から、だろう)
そんな風に臣下の情ではなく、また別の情を抱くようになったのは。
他の誰かをこんなにも求めた事など、なかったのに。
(こんな風に雪がちらつく中、彼を探していた時だっただろうか)
そうかもしれない。
彼を求め、彼を探し、彼を想い。
けれど
不成立の恋と賭け
吐く息の凍る冬のある日、宮城の一室で一息ついていた楸瑛は室に入ってきた絳攸の言葉に眉を上げた。
「―――秀麗殿が風邪?」
その驚きの声に、絳攸は簡潔に頷いて肯定する。
「先ほど府庫に行ってたんだが、邵可様が今慌てて帰っていった」
「ほぉ」
なら、と楸瑛は当然のように腰掛けていた椅子から立ち上がり、帰り支度を始めだした。
絳攸は目を眇めてそれを見て。
「…何をしてる」
「決まってるだろう?」
即答し、楸瑛は絳攸ににっこりと笑いかける。
「何時もお世話になっている秀麗殿が風邪をひいたんだよ? お見舞いに行くのが筋じゃないか」
お前に筋とか言われたくない、とか思った絳攸だが、確かに世話(=手作りの采)になっている事は事実で、絳攸自身、行くつもりでいた。
溜まりに溜まっている仕事はこの際見て見ぬフリだ。
「じゃあ何か持っていくか」
「そうじゃないと邸に入れないよ、絶対」
「…そうだな」
気の利いた事を言ったつもりだったが、楸瑛の言う通り、あの家ではそれが当然なのだ。
ある男の満面の笑みを思い出して、絳攸は小さく溜息を吐く。
果たして見舞いに行くだけで終わるのだろうかと僅かな暗い疑問が心を掠めたが、それも仕事と同様気づかないフリをした。
気にしていたら見舞いに行けない。
それにしても、と絳攸は、帰り支度を済ませて何を持っていこうかと喋っている楸瑛を横目で見た。
(何でこいつはこんなに楽しそうなんだ?)
実は見舞いを口実に仕事を休みたかっただけなのか?、と胡乱げな目で見られている事に気付かない楸瑛は、自分が酷く機嫌良さそうに笑っている事も気付いていなかった。
そうして出向いた邵可邸で絳攸の予想を少し裏切って見舞いよりも先に采を作らされた二人は、漸く秀麗に会えると扉を潜って目にした光景に息を呑んだ。
そしてその一瞬を越えた所で絳攸の驚愕の声。
「……なっ、ななななんであなたが! ていうかどっから……!」
紅黎深と黄奇人。
楸瑛には特に接点のない二人だが、同じ彩七家だ。
知らない筈もないし、そもそもこんな個性の強すぎる二人を知らないで朝廷で過ごせる筈もない。
知りたくなくても知らないでいられない特異な二人が揃って此処に居る事に、絳攸ほどではないが楸瑛も充分驚いていた。
と言うか。
「……ここまで面子が集まるとなると……彼がきてないのが不思議なくらいだな」
何故この二人がいて彼が居ない。
秀麗大丈夫か!?、などと叫んで寄り添いそうなものを、と我らが主上の分かりやすすぎる行動形態を楸瑛は予想してみた。
そう言えば主上に何も言わずに出てきたなと思い返していると、隣でやっぱり驚いていた静蘭が硬直から戻ってきたのか、楸瑛の言葉に反応した。
「……そうですね」
真っ先に傍に駆け寄りそうな人がいませんね、と。
穏やかに笑う彼に楸瑛は少しばかり嬉しくなって、けれど少しだけ悲しかった。
そんな笑みを自分は向けてもらった事がない。
純粋に好意のみの笑み。
それを得るのは此処にいる自分ではなく何処かにいる彼なのだ。
そして一瞬湧いた黒い感情を押し込めるように楸瑛は笑って。
「賭けようか、静蘭。あと何刻でくるか」
辛い。
そんな想いは何度繰り返しても慣れず、けれどそう想う気持ちを殺していく事ばかり慣れていく。
だから何時だって誤魔化すように巫山戯た事を言うしかなくて。
(傍に居られるだけで良いのだと思えたら)
往生際の悪い想いは今も燻ったまま。
自分は耐える事に向かないのかもしれない。
そう思って切なくなった楸瑛は、けれど次の言葉にぐっと息を飲み込んだ。
「いいですよ。私が勝ったら生涯妓楼立ち入り禁止ということで」
至極当然という風に吐かれた言葉に、そんな!、と一瞬視線を鋭くした。
(何の為に私が彼処に行っていると…!)
とそこまで考えて、あぁそうか、と楸瑛はくちりと唇を知られぬように噛み締めた。
それと共に、眉間には酷く深い哀憐が刻まれて。
(……私が妓楼に行く理由が自分にあるなどと、彼は思い至りもしないのだ)
王に成り得ない身分。
それに不謹慎ながらも浮いた心を持て余して、どれ位が経った。
なのに未だ楸瑛はその手を伸ばす事を躊躇っている。
当然だ。
彼は決して楸瑛を見ない。
必要としているのは、楸瑛の藍の氏とその地位だけ。
…想っては、くれないのだ。
(だから、私は)
自分を真剣に愛してくれる妓女に対し酷い事をしているという自覚は十分ある。
それでも楸瑛は彼しか愛せないし、だからこそ彼女達は愛せない。
仕事と割り切って付き合ってくれる女達をただ求めているだけ。
彼の身代わりとしてたった一夜のみ、愛する事はあっても。
(…そんな私以上に、貴方は酷い人だ)
知らないとは言え、楸瑛が必死に均衡を保つ為の手段をこうもあっさり奪おうとする。
そうさせる彼自身は、何も楸瑛に与えてはくれないのに。
「……やっぱりやめとくことにする」
それでも彼には分かり得ない事だ。
だから努めて普段通りに笑おうとして、けれどやはり無理だった。
少しだけ苦い笑みを滲ませた楸瑛に気付いて静蘭は首を傾げるけれど、次いで聞こえた扉を叩く音に意識を取られ、その理由を思い巡らせる事は終になかった。
全てが終わった後、楸瑛は戻ってきた自室からそっと抜け出し庭院へ出た。
着の身着のままで遮る物も持たず、まだ降り続く雪にその身を晒す。
そして、そっとそっと息を吐いた。
粉雪に紛れ、そして昊へと伸びる白い軌跡。
それを見上げながら楸瑛は佩く剣に手を伸ばす。
(……何時か)
そしてひっそりと思い出したのは、心に焼き付けた敗北。
囁かれた言葉を忘れた日はなかった。
負かされたあの日を忘れた事など。
けれど、だからこそ願ったのだ。
(何時か、彼の剣になるのだと)
それは叶わなかった夢。
ただ薄らと片鱗を見せては消えていく。
淡雪のような白昼夢。
(あぁ、けれど)
昊を見ている為に顔にかかる雪が、体温の所為で溶けていく。
冷えた肌はその存在を感じない。
ただ偶然、楸瑛が目を閉じた瞬間にその溶けた雫が頬を滑り落ちて。
(消えてくれない)
何時までも、どうしてか。
(――…この、想いは)
まるで泣いているような楸瑛を、雪は閉じ込めるように降り続けた。
20090914
〈雪のような、恋。(汚されるか、綺麗なまま、消えて行くのか)〉