不可視の優渥
[ 知る必要のない事 ]黒に黒を塗っても気付かないように。
白に白を重ねても分からないように。
意地悪の中にそっと紛れ込ませたそれ。
気付かれる事なんて望んでない。
知って欲しいなんて思ってない。
ただあの子がそれを素直に辿って掴んだものの方が、大事。
だから名前は付けないよ。
私が忍び込ませた、それに。
兄と弟
星が点在し始めた桔梗色の昊。
家の中を忙しく動いていた静蘭は、ふと邸に近づいてくる人の気配に気付いて門へと急いだ。
その気配を知っているだけに、眉間の皺は深く刻まれる。
静蘭の心を代弁するのなら、この忙しい時によくもまぁ、である。
(あの人達も此処に来ている暇はないはずなんだが)
今日たまたま仕事が休みだった静蘭は、何時の間にか溜まっていた洗濯物の片付けと広い邸の掃除をしようと朝からドタバタとしていたのだが、これが中々終わらない。
掃除をしていくうちに此処もあそこもと掃除をしなければならない場所が増えていったからだ。
それは静蘭の完璧主義がなせる業なのだが、静蘭はイマイチ気付いていない。
しかも今日は近所から沢山野菜やらなんやらを貰って、それを調理した上で保管しなくてはいけない。
とあれこれしているうちに時間は過ぎていって、夜が忍び寄るこの時間になっても、実はほとんど終わっていなかったのである。
(まったく間の悪い)
まぁ間が良かった時などほとんどないが、と忙しさに対する苛立ち故の毒を吐いた時に丁度門に着いた静蘭は、門を潜ろうとしていた彼等を出迎えた。
「あ、あに…っ、静蘭」
「やぁ、静蘭」
「邪魔をする」
劉輝、楸瑛、絳攸の三者三様の言葉と表情に静蘭は溜息を吐くが、ほんとに邪魔です帰ってください、とは言わなかった。
別にそれは彼等に申し訳ないと思った訳ではなく、ただ彼等がそれぞれ手に持っている食材をみすみす逃したくなかっただけの話だ。
それに、とキラリと静蘭の眼が光る。
「丁度良い」
ぽんっと静蘭は手を叩いた。
「旦那様が帰ってこられる前に全部片付けておきたかったんです」
何が、と言わない突然の静蘭の言葉。
嫌な予感しかしない。
三人は同時に思った。
そして、それは一瞬で現実となる。
「私のお手伝い、してくださいますよね」
疑問系ですらないその言葉は既に確定事項で、がっくりと肩を落とす三人。
しかしここで手伝わないと、秀麗の采は食べられない。
「わ、分かった。私達は何をすれば良いんだい?」
大人しく言う事を聞いた方が良さそうだと踏んだ彼らは、真剣な顔をして静蘭に向き直る。
それに満足げに笑った静蘭はとても可愛らしかったが、見惚れる間もなく次の言葉に撃沈される。
「それじゃあ、楸瑛殿と絳攸殿は近所の方にたっくさん頂いた野菜の皮むきと下拵え。主上は今日まとめて洗濯して取り込んだまま放置している敷布を畳んでください」
お願いします、と言った静蘭に、またか…と項垂れたのは楸瑛と絳攸。
そして。
「よ、余も皮むきを手伝うぞ!」
余もみんなと一緒にしたい~、と一人だけ別の仕事を任された駄々っ子に、静蘭は目を眇めて。
「皮むきは二人で結構」
素気無く却下し、ところで主上、と更に言葉を付け加える。
「楸瑛殿は剣の扱いに長けておられるし、絳攸殿はお采の経験がおありだそうです」
あぁ確かに楸瑛は剣を使い慣れてるし、絳攸は以前そんな事を言っていたような…しかし何故突然そんな事を?、と劉輝が不思議そうな顔をしながらも頷くのを見た静蘭は、迷いもなく口を開いて。
「それに引き換え、主上は楸瑛殿に負けられたそうですね? そして厨房に立った経験もない、と」
「うっ…」
的確な反論に劉輝は言葉に詰まる。
そして、言い返す暇も与えず静蘭は続けて言った。
「つまり、この中で一番包丁にも厨房にもお似合いでないのは主上なので、主上は一人、敷布を畳んでいてくださいと、私は言いたいのですが」
お分かりですか?、と言った静蘭の口調の、なんと優しい事か。
しかし、楸瑛も絳攸も、そして劉輝も、その心意を掴んでいた。
(((……役立たずは要らない、って事だな…)))
そう理解して益々しょんぼりしていく劉輝の頭を、静蘭は今度こそ優しく微笑みながらぽんぽんと撫でて。
「私は厨房でお二人を指導しなければなりませんし、敷布を畳むのも中々骨の折れる仕事で、しかも大事な仕事ですよ。主上ならきっと出来ると思ったから頼むんです」
「……本当か?」
「えぇ。一度体験なさってください。大変で大事な仕事だって、よぉく分かりますから」
縋るような劉輝の視線を正面から受け止めて静蘭は大きく頷いた。
それにほっとしたように劉輝は笑みを零して。
けれど、静蘭は更に。
「そうそう。お嬢様は既にお帰りになっておられます」
それを聞いて、会話にも迎えにも出て来なかった秀麗がまさかいるとは思わず、半ば諦めていた劉輝の眼が輝くが。
「主上に畳んで頂く敷布はお嬢様のお室の真向かいにあるのですが、お嬢様はお仕事をなさっておられます」
ですから。
「いくら主上とは言え、お嬢様のお仕事は邪魔なさいませんよう」
にっこり。
誰かがそうわざわざ言ったかのような微笑み。
完璧な笑みのはずなのに、怖い。
劉輝は精一杯笑ったが、明らかに引きつっていた。
「わ、分かった…」
そう言ってふらふらと出て行った劉輝を見送った楸瑛と絳攸は心の中で同時に合掌したが、さすがに静蘭に面と向かって抗議する勇気はなかった。
あの笑みに対抗できるなんて思えない。
(主上も可哀想に…久々に会えるかもしれないって喜んでたのに)
これじゃ会えても食事中だけだな、と楸瑛がその原因である静蘭を盗み見ると。
「……?」
ある事に気付いて楸瑛は僅かに眼を見張った。
けれど。
「さ、始めますよ」
その掛け声に楸瑛は慌てて表情を引き締める。
今日こそ元公子の理想に近づけるようにと。
片付けがあるだろうからと秀麗と邵可、そして静蘭に玄関で別れの挨拶を済ませ、門までの僅かな距離を三人でゆったりと歩いていた時。
「………あー……疲れた…」
「………」
楸瑛の本当に疲れ切った声に、絳攸はただ疲れた顔を上下する事で肯定するに留めた。
口に出してしまえば、本当に疲れ切ってしまいそうだと恐れるように。
「包丁の使い方がなってないとか言われたんだけど、だから包丁使った事ないんだって……」
「でも最後は褒めてくれただろ…」
「褒めたって言うか…ただの嫌味って言うか…」
とぶちぶちと零していた二人は、門を出る直前に不意に立ち止まって。
「「で」」
と、今まで一言も喋らなかった劉輝へと視線をやる。
「…ん?」
遅れて二人に視線を向けた劉輝の顔は、何処か嬉しそうに綻んでいて。
「なんでずっと笑顔だったんです?」
「敷布を畳むのは大変だったんじゃなかったのか?」
楸瑛と絳攸は扱きに扱かれて、開放された時には屍のようになっていたものだったが、何故か劉輝は笑顔で敷布を畳むという仕事から生還してきたのだった。
「あ、あぁ…」
どうしようか、と言うのを躊躇った劉輝だが、彼等の疲れようを見ていては何も言わないのは不公平な気がしたのか、そろそろと喋りだす。
「実は…」
「「実は?」」
「その敷布が取り込まれた室に、秀麗が居たのだ」
「…秀麗殿が?」
ほぉ、と驚いた二人の顔を見て、劉輝はまた顔を綻ばせた。
「あぁ、余も驚いた。秀麗も驚いていたな。来ていた事に気付かなかったらしい」
一度熱中すると周りが見えなくなる秀麗だ、当然かもしれない。
そう納得する楸瑛と絳攸に、劉輝は続きを話す。
「秀麗が、どうしてこの室に来たのかと聞いたから、余は静蘭に頼まれた事を言ったんだ。そしたら、秀麗もどうやら其処で敷布を畳んでいたんだそうだ」
その言葉に、絳攸は首を傾げる。
「秀麗は仕事で室に篭ってるんじゃなかったのか?」
静蘭は確かそう言っていたな、と絳攸は楸瑛に確認を取り、楸瑛は軽く頷いた。
それを見て、それはそうなんだが、と劉輝は苦笑して。
「…どうやら煮詰まったらしい」
他の事をすれば気分が落ち着いて、別の見方が出来るかと思って敷布を畳んでいたらしいのだ、という劉輝の言葉に、なるほど、と二人は頷いて、ふとある事に気が付く。
顔を見合わせて、互いが辿り付いた結論が同じである事を悟り、疲れを吐き出すように長い長い溜息を零した。
しかし、一人意気揚々としている劉輝は気付かない。
「そこで余は閃いたのだ」
もはや何をとも聞かなくなっている二人を置いて、劉輝は勝手に喋り始める。
「静蘭は、仕事〈は〉邪魔するなと言っただろう? だけど秀麗は仕事じゃなく気持ちを切り替える為に敷布を畳んでいただけ。だから、余は秀麗とお喋りしていたのだ」
久々にたくさん話した、と満足げな劉輝は、あ、と一瞬だけ不安そうな顔をすると。
「静蘭には内緒だぞ?」
それでだなー、とまたにこにこと劉輝が笑みを尚更深くしたのを見て、楸瑛と絳攸はもう溜息を吐きはしなかった。
(内緒も何も…ねぇ?)
(…………馬鹿だ)
わざわざ静蘭が秀麗がいる事を言った意味。
秀麗に関しては人十倍くらい鋭い静蘭。
そして、劉輝と秀麗の性格や行動など、手に取るように分かってる静蘭。
劉輝を見送った時に浮かべていた笑みはそういう事かと楸瑛は理解し、なんて事だと絳攸は昊を仰ぎ見た。
「………あー……疲れた…」
「………」
一人喋り続ける劉輝を放って、二人はそれぞれの軒に乗り込んだ。
それくらいの意地悪でもしないと、やってられなかった。
おやすみなさい、と秀麗が室に入っていたのを見送って、静蘭は向かいの室へと足を運んだ。
見たところ全て畳まれているようだと静蘭は心中に零し、ふと気付いてある所で立ち止まった。
畳み方を見なくとも、分かる。
きちんと畳まれている大半の敷布の中に、くしゃりとくたびれた敷布が数枚。
それを手に取って、静蘭は。
「…頑張ったね、劉輝」
優しく、その言葉と笑みを零した。
20090709
〈いつも頑張ってるあの子に、ちょっとしたご褒美を。〉