夢の迷い路

[ 願うよ。君の幸せだけを、ただ ]



 涙の流し方を思い出した日。
 笑い方を、忘れた日。

(その日は、雪が降っていた)

 雪の華は、風景の色を奪っていく。
 幾許かもしないうちに世界は白に塗り替えられ。
 その中心に佇む彼が吐く息も、白色に染められた。

(……世界が、閉じていく…)

 全てが、白に。
 何処までも、何もかも。
 昊も。
 地も。
 心、も。





  雪華舞う世界で





 沓音一つ、響く夜がある。
 全ての人間が外朝から消え去った後の時間。
 鳥も、虫も、動物も、寝静まった頃。
 例えばそう、―――今のような。

(…静かだ)

 そう評した彼は、何処か安堵したように吐息を漏らす。
 彼の知る静寂は、誰もが息を殺して相手の出方を窺う為の静けさであって、決して今のような、誰も居ないからこその静けさではなかった。

(そう言えば、静けさに身を委ねる事なんて、なかったからな…)

 何時だって次の瞬間を生き残る為に、頭を体を、使い続けてきた。
 そこには安息も歓楽も意義もない。
 ただ、生きる為に、生きていた。

(あの頃の静寂は、死、そのものだった)

 そうでなくば手に入れられなかった静けさを、今は何の心配もなく享受できる。
 それは身分を捨てたからなのか、それとも…。

「静蘭?」
「っ、はい」

 物思いに沈んでいた為に気付かなかったが、遠くにあった気配が今はとても接近していた。
 呼びかけに応えながらバッと振り返れば、直ぐ其処ににこにこと上機嫌な王の顔。

「………主上」

 声、顔、仕草、全てに呆れたと形容詞を付けられる態度で、静蘭は溜息を吐いた。

「なんだ?」

 それでも笑みを崩さない劉輝。
 何が楽しんだと、周りの床を見て思った。

「残業だと言うのに、とても楽しそうですね」

 机案の上に乗り切らなかった為に、床一面に散らばる事となった紙の山。
 決算書類やら法改正の手続きやら、その種類は多岐に渡る。
 それもこれも、劉輝がこの半年間、政治(まつりごと)を真面目にやってこなかった事への竹箆(しっぺ)返しだった。
 秀麗と出会ってようやく着手し始めたものの、溜まった半月の仕事がたった一ヶ月(ひとつき)で終わる訳がない。
 減る量よりも日々増える量の方が、明らかに多かった。

「それに、あのお二人はどうしたんですか?」

 王が残業をするなら、当然楸瑛と絳攸もそうなる筈だ。
 仕事が出来なくて苛々していた絳攸なんかは、率先して取り掛かりそうなものだが。
 そう考えていた静蘭に、劉輝は更に笑みを深めて。

「あぁ。楸瑛と絳攸は先に帰った」

 あっけらかんと言い放つ。

「はぁ!?」

 ちょっと待て、と静蘭は咄嗟に抗議した。

「じゃあ何の為に私は呼ばれたんですか!」

 もう静蘭は羽林軍でなければ、紅貴妃という後ろ盾もない。
 ならば王に近付く権利もない。
 なのに今回静蘭が劉輝と共に居るのは、楸瑛から頼まれたからだった。

(頼まれた? ……いや、違うな)

 静蘭は顔を顰めて思い出す。
 それは昨日の事だった。

『明日の晩、溜まりに溜まった書類を片付けようと思ってね。主上と絳攸、そして私で処理をするんだが、その間警護をしてくれないか?』
『羽林軍の方に頼まれたら良いでしょう? 私はもう元の部署に戻ったんですから』
『あ、邵可様にはもう了承頂いてるから』
『は!?』
『快く承諾してくださってね』
『何を勝手に…!』
『頼んだよ、静蘭』

 あの勝ち誇ったような楸瑛の笑顔。
 忌々しい。

(あれは頼まれたんじゃない…嵌められたんだ…)

 あの後邵可に確認を取った静蘭は、「頑張るんだよ」という言葉の前に沈黙した。
 邵可は何も悪くない。
 悪いのは当然あの男。

(しかもその上これか!)

 思わず怒気を表した静蘭に、劉輝は困ったように微笑んだ。

「済まない。騙すような事をして」

 謝る劉輝に、主犯はお前かと静蘭は(めじり)を吊り上げたが。

「でも、もう一度、会いたかったから」

 それを聞いて、静蘭は小さく息を呑む。
 そして思い出す、少し前の宮城の一室での事。
 確かにあの時以来、静蘭と劉輝は顔を合わせていなかった。

(けど、それは…)

「静蘭は秀麗がいなくなったし、部署も元に戻った。その為に宮に近づく事は出来ないし、近付くような仕事もない。私は私で今まで放っていた仕事が忙しい」

 静蘭の顔を見て、分かってる、と言うように劉輝は言った。
 二人が会えなかったのは、ただ会う事が困難であっただけの事。

「だからただ待つよりもと、仕事の合間に宮城をあちこち行ったりもしたんだが」

 実は、と劉輝は無邪気に笑う。
 それはまるきり子どもの顔。
 驚き、そんな暇があるのかと咎めようかと思った静蘭も、その笑みに言葉を飲み込んだ。
 やっぱり悪いのはあの常春頭だけ。
 劉輝は何も…悪くない。
 そう再認識した静蘭は、けれど目敏く劉輝の笑みが微かに変化したのに気が付いた。

「……でもやっぱり、会えなかった」

 そう言う劉輝の、眉根の下がった笑顔。
 久方ぶりに見たそれが、酷く哀しくて。

(それは、劉輝が何時もより落ち込んだ時の、笑い方)

 劉輝の癖を思い出して、静蘭は小さく心を痛ませる。
 どちらも、悪くなんてないのだけれど。

「…その時に、ふと思い出したんだ」

 ぽつりと零した劉輝は不意に静蘭から視線を外し、近くの窓の外を見た。
 僅かな街灯に照らされる外朝。
 広大な敷地は、当然其処から全て見れるものではない。

「幼い頃の私にとって、宮城は迷宮のようだったと」

 何処か懐かしむように細められた目。
 何を思う、と静蘭は劉輝の横顔をじっと見る。

「思えば、嘗ての私の世界は王宮で完結していた。…いや、王宮ですらも、全て知っている訳ではなかったな。私が知っていたのは、自分が住む場所、池の在る場所、閉じ込められた蔵の場所、…そして」

 劉輝は一瞬だけ、静蘭を見て。

「……清苑兄上が、私と会ってくださる場所、くらいか」

 それに対し静蘭が何かを言い返す程の時間を与えず、劉輝は視線を元に戻し、言葉を続けた。

「でもそれで良かったんだ。私にはそんなに広い世界は必要がなかった。私にとって大切な人が居る場所さえ分かっていれば、それで、良かったから」

 けれど、と劉輝は繋げる。
 今まで穏やかさを見せていた横顔が、僅かに苦しげに歪められた。

「…後悔、した」

 世界を広げようとしなかった事。
 その世界が永続的なものであると、思い込んで居た事を。

「兄上が居なくなった時、私には何処を探せば良いのかも分からなかった」

 何時もの場所にいないのなら違う場所を探せば良い。
 …けれどそれは、何処だ?

「我武者羅に探した。宮城の中を歩いて歩いて、歩いて。そうするしか方法はなかった。その時に気付いたんだ。私は、兄上が住んで居た場所すら知らなかったのだと」

 その言葉に、静蘭は視線を下げる。
 確かに、そうだ。
 それは偶然でも何でもない。
 意図的に、劉輝に何も教えていなかった。
 あの時の自分には敵が多すぎて、何も知らない劉輝がのこのこと現れれば殺される可能性はとてもとても高かった。
 己の身一つを守る事は出来ても、誰かを守りながら戦う経験などないあの頃の自分が、劉輝をそんな危険に曝す事など到底出来る筈もなかった。
 知る事は何かを背負う事だ。
 けれど、小さく純粋な劉輝に、何を背負えと言う。

「今なら兄上にはお考えがあったのだと分かる。けれど、当時はそれが酷く哀しくて…。それでも兄上を見つける方が重要だったから、泣きながら、探した」

 色んな場所をそれから知った。
 それでも幼い足で辿り着ける場所など高が知れていて。
 歩き疲れては自分の宮に戻るの繰り返し。
 恐らく王宮の三分の一程も、見聞出来てはいなかっただろう。

「その頃のお陰で、今ではすっかり宮城のありとあらゆる場所を知っているけど」

 本当に迷宮のようだったと、劉輝は零す。

「でもそう感じるのは、自分が小さくて、何も知らなかったからだと思っていた」

 そこでようやく静蘭に向き直った劉輝は、やっぱり眉尻を下げて笑っていた。

「…違ったんだ」

 世界を広げるには無知で臆病だった幼い自分。
 それは確かに要因の一つだけれど。

「今でも此処は、―――迷宮のままだ」

 何も変わってない。
 あの頃から、何も。
 雪の降るあの日と、何も何も、変わらない。

「辿り着けないんだ」

 脳裏に浮かぶ。
 探して探して探し続けた日々。
 その努力も報われず、絶望し続けた日々が。
 そして白に染まった世界を最後に、劉輝の世界は色を失った。
 春も夏も秋もない。
 冬以外の色を一切奪われた世界(こころ)は、酷く、空虚で。

「居ないんだ」

 傍に居ないけど、此処には居る。
 だから今度は大丈夫だと思っていた。
 なのに、探す所、行く所に、求める姿は何時もない。

(それは、あの日の自分に酷似しすぎていて)

 一瞬過ぎったその恐怖は、冬の冷たさを想起させた。

「静蘭が―――兄上、が」

 劉輝の言葉に、だからか、と静蘭は眼を閉じた。
 不要な嘘を吐いてまで今此処で会っている意味。
 あぁけれど、不要と言ってしまうには劉輝の傷は推し量れぬ程深いのだろう。
 その原因は何処までも自分にある。
 だからと言って、劉輝の言葉全てを認めてしまう訳にはいかないから。

「…私は、貴方の兄上ではありませんよ」
「っ…!」

 あの一室でも言った言葉。
 何度でも静蘭は言うだろう。
 例え劉輝が傷付いた顔をしても泣きそうでも。
 例え静蘭自身の心が、軋んでも。

「でも今は代わりに言って差し上げましょう」

 え…?、と歪めた表情を驚きに変えた劉輝の頬に、静蘭はそっと手を宛がった。

「兄上ではありませんが、私は此処に居ます」
「あ…」
「貴方の一言さえあれば、…それで良い」

 何処に居たって飛んできます、と笑って、それに、と静蘭は続けた。

「迷宮を抜けられないと言うのなら、知っている人間に聞けば良いだけの事でしょう」

 簡単な事。
 でも、思いつかないだけの時間を、劉輝は過ごしていた。
 昔にはなくて、今、あるもの。

「もう、貴方は独りではないのだから」

 そう言うと、劉輝は一瞬呆けた顔をして、「…あぁ」と、くしゃりと笑った。





 それから一緒に寝たいと駄々を捏ねる劉輝を黙らせて、静蘭は一人帰路についていた。
 見上げた昊は晴れていて、幾つもの星が顔を覗かせている。
 冬とは明らかに違う星の並び。
 それに、春の終わりを知る。

(春、か…)

 そう零しながら、静蘭は先程の遣り取りを振り返った。

『…主上』

 ようやく独りで寝る事を承知し、けれどせめて寝るまではと引き下がられて渋々引き受けた静蘭が褥に這入った劉輝に声をかければ、期待に満ちた顔を向けられた。
 にっこりと笑いかけてやる。

『兄上だけでなく私も居なくなりますが宜しいですか?』
『あぅ…』

 嘘ですすみませんもう寝ます…、と小さくなって涙を流す劉輝に、静蘭は苛めすぎたかと優しく頭を撫でた。
 それだけで幸せそうにへらっと笑った劉輝。
 思わず静蘭の口元にも笑みが浮かぶ。
 それと同時に、ある考えが脳裏に浮かんで。

『……主上。身体を楽にして、眼を閉じてください』
『え? あ、あぁ』

 突然の言葉に戸惑ったようだが、それでも劉輝は素直に従った。
 瞑られた目の上を、静蘭の手が更に覆う。

『主上』
『ん…?』
『これからの事は、全て夢です』
『え?』
『私が何を言っても、貴方が何を思っても、それは全て夢の中の出来事』
『……』
『宜しいですね?』

 一方的な言葉に、けれど劉輝は何かを聞く事をしなかった。
 静蘭の言葉を正しく理解したのかもしれない。
 ただ混乱して聞く事を失念しているのかもしれない。
 分からないが、兎に角しばらくの静寂の後、劉輝は小さく頷いた。
 見届けて静蘭は笑みを零す。

『ふふ、…良い子だね、劉輝』

 その言葉、その言い方、その笑みに、驚きと何かでふるりと震えた劉輝の体。
 目の辺りを覆う手が僅かに濡れる感触。
 そして、戦慄く唇が言葉を紡ぐ。

『あ、…兄、上…?』

 恐る恐る零された呼びかけに、けれど静蘭は応えず、優しく穏やかな声を出す。
 まるで、泣く幼子をあやすように。

『劉輝。お前はまだ、冬の中にいるのか?』
『冬の中…』

 僅かの思考の後、えぇ、と溜息にも似た肯定の返事。

『真っ白です。雪が、ずっと降っていて…』

 兄上がいなくなってから、ずっと…雪が…。

 そう状況を説明していく劉輝の声が、徐々に虚ろになっていく。
 同時に、さっきまで明確だった思考も輪郭がぼやけていって。
 急激な眠気。
 おかしい。
 そう、何時もなら思うのに。
 疑問を持つ事も許されず、劉輝はただ静蘭の声に堕ちていく。

『劉輝、それは違う』

 何、が…。

『ずっと降っているそれは、雪じゃない。少なくとも、今は』

 え…?

『よく見てみれば分かるよ』

 ……。 …分から、ない。 よく、見えなくて…。

『手を伸ばして、取ってごらん』

 手を、…伸ばして…。……これ…。

『気付いたか?』

 …花?

『今なら、何の花か分かるだろう』

 桜…。…どうして…。

『お前が迷宮で見つけた、守るべき者だ』

 …兄上。

『劉輝。笑い方を思い出したのは何時からだ? 立ち止まる事を止めたのは、泣く事を止めたのは、何時からだった?』

 ………あの日……秀麗、に…。

『そう。お前はもう独りじゃない。共に歩く人が居る』

 …えぇ……あにう、え…。……。

(あぁ、そして)

 完全に眠りについた劉輝から、手を退ける。
 僅かに残った涙をそっと拭い去って、ぽつりと零した。

『私を待つだけの存在でも、…最早、ない』

 それは強引な催眠誘導。
 縹家に繋がる紫家の者だからこそ使える術。
 初めてだが上手くいったようだと、静蘭は劉輝の様子を見て思う。
 これで捻じ伏せられた記憶が思い出される事は、余程でない限り、ない。

(それで良い)

 雪華は桜花へ。
 兄は愛する少女へと変えられた。
 そして誘導中の記憶は、夢として薄っすらと記憶に引っかかる程度になっているだろう。

(…それで、良い)

 劉輝に必要なのは過去ではなく、現在であり、これから歩く未来だ。
 何時までも冬に囚われている訳にはいかない。

(何時までも私に囚われている訳には)

 立ち止まる。
 昊を見上げる。
 幾百もの星が、何か言いたげに瞬いていて。

「……良い夢を、劉輝」

 どうか桜咲く夢に、私が居ない事を祈る。





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 20090615
〈例え進む道が正されたとしても、貴方がいなければ、意味などないのに。〉





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