百鬼夜行




 その夜、黎深は夢を見た。





 雪が世界を覆っていた。外を歩く人など疎らにも居ない。たった一人だけだ。血を垂らしながら雪に足を取られながらも、只管前に進む一つの影。灰色の空を背負い、白い雪を積もらせて、大人にも満たないその影は前へ前へと歩いていた。
 長らく立ち止まる事をしなかったその影が、とある屋敷の前で歩みを止めた。立派な門があり、敷地の広さは其処らの家と較ぶべくもない。だが影が止まったのはその門ではなく、専ら家人や商売人が利用する小さな勝手口の前だった。
 影は奇妙な節を付けて戸を叩いて暫く待った。少し後、戸が開く。敷地内に引き入れられ、戸を潜った所で目深に被っていた傘を押し上げた下から現れたのは、まだ十も半ばの子どもだった。紫水晶の髪がしとどに濡れて首に着物に張り付き、着物は血を吸って重く躰に纏わりついていた。背には更に小さな子どもを負ぶっている。
 何方もが疲弊しているようだった。引き入れた廿(にじゅう)間近の男の顔がその二人の様子に一瞬引き攣り、眉間に皺を寄せる。苛立ちと痛ましさ、両方混じった表情は、悲痛の色を浮かべていた。

『…清苑、これは…』
『何も聞くな。何も言わぬ。ただこの子を、劉輝を頼みたい』
『無理を言うな! 何故血塗れなんだ! 小僧はどうした、お前に、お前達に何が…!』
『聞くなと言った。言わぬとも』
『ッ……お前はっ…』

 激高する男に、子どもが和やかに笑む。雪に似て冷たく遮った一瞬前を思わせぬその笑みに、男の言葉が途中で消える。見て取って、子どもが言った。

『許せ』

 たった一言そう言って、子どもらしくない、大人びた小春日和の笑みを見せる。男は言葉を失い、色を失くす程唇を噛んだ。だがそれで、胸を焼く怒りを押し殺せる筈もない。

『お前は何時もそうだ…っ、せめて一度くらい、助けてくれと私に願えばいいものを…!』

 男の言い分に、子どもは微笑を困ったものに変化させた。それは矢張り大人びて、子どもからは程遠い。声が雪のように深々(シンシン)と優しく降り積もる。

『できぬから言わぬのだ。言えば、お前はとことんまで私を救おうとする。…嬉しいが、それでは今度、私が救われない。私が願うのは、昔も今も、お前が幸せに生きる事だ』
『だったら願え! 私の幸せを望むなら…!』

 頑是ない幼子に似た叫びに、子どもはひそりと吐息を零し、手を伸ばして男の頬に触れた。冷えきった二人の肌では何方の体温も感じる事はできない。ただ感触によってのみ触れ合えている状況に、子どもが小さく白い息を吐き出しながら苦笑した。

『……お前は本当に、時々憐れな程、愚かだな』
『…その言葉、そっくりそのまま返すぞ』

 清苑、と呼んだ男が子どもの頬に涙のように垂れていた血を指の腹で拭う。固まりかけていたそれを完璧に取る事は適わず、隈取(くまどり)のような線になった。元々白い肌が、今は雪に熱を奪われている所為で青白くさえ見え、そこに引かれた紅が一層引き立って不均衡。目を眇めてそれを見て、男は厭うように零す。

『お前に…血は似合わぬ…』

 それが願いに寄り添う言葉だと気付き、子どもは矢張り穏やかに笑んで。

『それでも、私は血を啜って生きる事を選んだんだよ』

 優しく言い聞かせるように、そんな事を言うから。

『…嘘吐きが』

 男はそう零して、けれどもう子どもの意志を変える事は不可能だと悟り、大人しく負ぶわれていた子どもを受け取って即座に医者を呼びに召使を走らせた。子どもはそれを見送って、安堵の顔で笑う。穏やかに静かに、柔らかく。

『…あの子は、恐らく数日しか保たぬ』
『……!』
『その数日で良い…あの子の傍に居てやってくれ』
清苑…っ』
『頼む』
『ッ……』
『頼む、黎深

 男と子どもの距離は、少ししかない。一歩程しか離れてなかった。なのにその間を埋める雪の邪魔な事。男は子どもの表情を僅かでも隠す雪を疎ましく思った。子どもの体温を、体力を奪う雪など降らねば良いと思った。

『お前と出会えて、良かった』

 その小さな声を積もる音で掻き消してしまいそうな雪を、憎らしく思った。…それでも。

『だから黎深、…―――生きてくれ』

 子どもが笑って、流れ星に願うように言ったから。

『……あぁ』

 男は項垂れるように頷いて、近く訪れる悲劇を想い、雪に隠れて静かに泣いた。






 目を開けて、涙が伝う。そんな、真白の夢を見た。





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