百鬼夜行

[ 清月夜のお祭り騒ぎ ]



 零れる吐息の白いこと。見上げて見届け、それが昊に溶けるまで。じっとじっと見送って。

「――――…」

 そうして別れの言葉を言ったのか、それとも再会を願う言葉を言ったのか。
 それはどうにも、分からないけれど。





  (おわ)りのない夢





 月の蒼い夜、何があった訳でもないのにどうしてか家に帰る気になれなくて、寒桜の咲く木の下で昊を眺め続けていた。心配しているだろう兄と弟、家人を脳裏に思い描くが、それでも矢張り足は其処から動かない。
 何故と問う事も諦めて、幹に寄り掛かり瞼を瞑る。そうすればじわりと広がる疲労感。あぁ疲れているのかと自覚した。知れば自ずと帰宅を忌避する理由に辿る。
 彼処は些か多すぎる。無視するにも自己主張の激しい奴ばかりで好かない。とっとと何処かへ行けば良いものを、何が気に入ったか居座り続けるからいけない。結果、自分が疲れる。帰りたくない。

(面倒な事だ)

 心底思う。何とかする力があれば良いのに見えるだけ、そして自分の周囲に己以外その力を持つ者はなく、だから言葉で説明しようもない。理解される事もない。耐えるだけの生活は生まれた直後から始まり、あと少しで廿(にじゅう)の枠に到達しようとしていた。

(…面倒な事だ)

 再度心中に呟きまた昊を見た。視界に広がるのは薄紅の桜が所々舞う様と深い宵、蒼白い月の三点のみ。澄み切った夜の空気を肌で感じ、吸い込んで吐く。
 安堵に似た笑みが口端に少し上る。此処は静かだった。何も見えない。何故かは知らないが、心地良い。帰宅中、惹かれるように見知らぬ此処に辿りついたが、思った程悪くはない。否、寧むしろ良い。だから帰る気になれず、昊が変色していく様を知りながら、夜が来た事を知りながら、此処からどうも動けなかった。

(……あぁそれでも)

 そろそろ本当に帰らなければと残念に思う。家が嫌いなのではない。ただ其処に居候の意識もなく我が物顔で跋扈する奴等が嫌いなのだ。

(本当にやってられん……幽霊なぞが見えるなんてな)

 小説や物語のようにこっそり物陰や闇に潜んでいる幽霊は、実の所あまりいない。人に見えない事を良い事に、触れられない事を良い事に、奴等は好き勝手に存在する。その代わり作り話とは違い奴等は呪いなどとは縁遠く餓鬼臭い悪戯を仕掛けてくるだけだが、見える人間にしてみれば無視出来ない以上、鬱陶しい事この上ない。しかも此方が見えると知られれば執拗に馴れ馴れしく絡んでくる。それもまた、煩わしい。

(偶に例外も居るが、大体は例に漏れず、だ)

 溜息を吐く。ただの人間であればこうも苦しむ事はなかっただろう。見えぬ所で奴等に馬鹿にされても、見えぬのだからそんな嘲弄はないに等しい。なのに二つの世界を一つの空間に見てしまうからややこしい。
 人と奴等の丁度重なった世界に佇むのは、誰にも理解されないだけに酷くしんどいものだ。仕方ないと諦める事に早く慣れるしかない。

(負けたようで嫌なのだがな…)

 それでも一生付き合っていかねばならないのだろう。この力が薄れ行くのか消え行くのかなど知りえないし、今の所その傾向も見られない。ならば恐らくその仮定が正しいと判じた上で生きていくしかあるまい。本当の本当に、嫌なのだが。

「…帰るか」

 静寂を聞き夜の深さを知って、この場所を離れる事を惜しく思いながらもまた来れば良いと自身を慰めて幹から身を離す。そして一歩を踏み出そうとした時。

「……?」

 足の裏に振動を感じた。大勢の人間が近くを全力疾走しているかのようなそれ。地震と言うには小さいが、しかし無視できる揺れでもない。見上げた桜は気付かない風で、未だ緩やかに散っている。幹に手を添えても震えは感じなかった。

「何だ…?」

 こんな時間、こんな夜に、と思えども、確かに感じるそれを無い事には出来ず立ち竦めば、どうやらその揺れが此方に向かってきている事を漠然と知る。気になって帰れもしないと腕を胸の前で組み、徐々に近付くそれを待てば。

「―――――」

 当たりを付け視線を向けていた先の角を曲がってくる何かが見える。そうして知った。振動の理由、その正体を。

(騎馬隊…?)

 馬だ。何十頭という馬が人を乗せて全力で駆けている。幸いこの近辺は家々を挟んだ道幅が広く、馬二頭が横に並んで尚余るくらいには広いがそれにしてもと駭然(がいぜん)としていれば、騎乗する者達の恰好に更に吃驚する事になった。

(鎧兜…!?)

 何時の時代だと時代錯誤のそれらに馬鹿馬鹿しさより呆れを覚え、しかし何だって近隣の住民は文句の一つも言わないのだろうと訝しく思う。こんなの騒音以外の何者でもないのに。

(図太い神経だな。あいつ等も、此処の奴等も)

 それはもう呆れを通り越して感心にすら行き着き、かと言って振動の原因を知ってしまえばそれだけの話。さて帰るかと今度こそ歩み出そうとすれば、帰る方向の道を埋めるように馬が止まりだした。人もあわせて降りてくる。

(……面倒な事だ)

 今宵三度目、そう呟いた。





 観察するように良く良く見れば、全員が全員鎧兜なぞ重い物を身に付けている訳ではなく、逆に少数だと気が付いた。殆ど着物に直接武具といった格好の者の方が多い。
 それ自体付けていない者も一人居た。ほぼ大人で構成されているであろうその中で却って目立つ、小さな子どもがそうだった。此方に背中を向けている所為で明確な所は分からないが、背の高さから言えばまだ十代の半ばか。

(…全くなんなんだ、こいつ等は)

 変な集団だ。大体何処からこんなにも馬を持ってきた。何かの愛好家の集まりだろうか。それにしたって一日の終わりの差し掛かりに街中を全力で走るとはどういう事だ。そしてがやがやと喋って煩い。
 そう胸中に疑問と批判を零せば、無意識に睨んでしまっていた。それはたった一瞬の事。その一瞬で。

「――――――」

 小さな子どもが、自分に気が付いた。気付いてパッと素早く振り返る。此方を、見た。

「お前…」

 零れた声は変声期前の高いそれ。瞠目する翡翠の双眸が月に照らされ良く見えた。数度ぱちぱちと瞬かせた後、徐に子どもは此方に歩き出してきた。既にシンとした群衆の誰かが引き止める言葉を言ったのだろう、しかし子どもは右手を上げるだけでその抗議を振り落とし歩みを止めない。
 五メートル程の隔たりはゆっくりと縮められ、数歩の距離を置いて立ち止まった子どもは自分を見上げて数瞬、あ、と呟き、なるほど、と零した。

「お前、猫目か」

 偉そうに云われた言葉の意味が分からない。釣り上がった眼でない筈だが。その疑問の色に気付いたか、子どもは笑む。

「夜目が利くと言う事だ」

 久々に見たぞと子どもは尚も笑って楽しげで、しかし一向に此方は何の事やら分からない。

「どういう…」

 だから聞けば、子どもは驚いたように自分を見た。きらりと見開かれた翡翠が月に耀く。

「まさか、我等が最早この世のものでないと分からぬ訳ではないだろう」

 言われて、呆けて、驚いた。それが本当ならば今までの疑問全て説明がつくものだが、それにしてもと思う。今までも確かに見ては来た。しかし何時だって幽霊というものは全くの覇気を感じさせぬ姿であったのに、こいつ等の覇気とも言える生気はなんだ? 生き生きとした様子は他の奴等とまるで違う…。その疑問すら聞こえたか、あぁ、と一つ頷いて。

「死ぬ前の姿だからな」

 事もなげに子どもは言う。綺麗なものだろうと誇らしげに言って笑い、仲間を呼んだ。

「皆此方へ。この者は敵ではない」

 敵ってなんだと思いながらもまた騒がしく近寄ってきた集団を見渡す。年齢層はバラバラ。武人らしい奴も居れば文官らしい者も居る。一様に何か荷物を持っているのを除けば、接点はあまり無さそうだった。しかもどうやら彼等を纏め上げているのは先程の小さな子どもらしい。不可思議、と言うか、可笑しな集団である事は間違いなさそうだ。

(……まぁ、どうでも良い)

 自分には関係ない事だと、集団が動いた為に漸く開いた道を進み帰ろうとした―――のに。

「、…っ」
「何処へ行く?」

 集団を指揮する為に場所を移した筈の子どもが知らぬ間に眼前に立ち塞がって無邪気に笑う。数瞬睥睨して端的に帰ると冷たく言えば、そう急かずとも良いだろうと小首を傾げた。

「今から宴会だ。楽しいぞ」

 その言葉に、宴会?、と疑問を挟む前に子どもが動く。姿を追えば、何時の間にか御座を敷き、杯を回して手に持った集団の前に立ち、同じく杯を渡された子どもが音頭を取る所だった。今から花見でも始めるというのか、幽霊が。

(………面倒な事に)

 目を眇めてそう思う。溜息を吐いても余りある。でも足は其処から動かない。





 宴が始まった。桜の木の下その間を埋めるよう、四五十人の人間、…いや幽霊が場所を陣取り騒いでいる。全く煩いったらない。
 思いながら奴等が来る前に寄り掛かっていた幹にまた凭れ掛かって観察していると、子どもがふらりと現れた。手には杯、口には笑み、瞳に楽しげな光を讃えて此方を見る。何だと素気無く言ってやると、しょうがないなという風に苦笑された。まるで子ども扱いだが、着ている物から考えても見掛け以上に相手の方がこの世に居る年数が上である事は間違いなく、また面倒なので気にしない事にした。
 子どもは酒に酔った風ではないが、それでも機嫌良く話し掛けてくる。良い月だと、眼を細めた。

「今宵は一段と月が蒼いな」
「……」
「時代を経ても夜の美しさは変わらぬのは嬉しい」
「……」
「だが少し、明るすぎるか」
「どうでも良い」
「……」
「…私に話す事はない。あいつ等の処にでも行ってやったらどうだ」

 無遠慮に遮った事でふいと此方に移された瞳が、その言葉でふわりと和らぐ。ちらりと騒ぐ集団を一瞬見遣って、子どもはふと笑った。

「いや、まだ良い。彼等もまだ酔い足りないだろう」
「貴様が行けば酔いが覚めてしまうと?」

 その疑問に返事はなく、ただ子どもは口端で笑む。それが何処か空虚だと知って、しかしだからどうしたと思い直し問わず仕舞い。
 子どもは再び月を見た。今度その横顔に笑みはなく、鋭利な視線が月を射抜く。静謐な月に似たそれに何かしらの覚悟と瞋恚が含まれているような気がして、思わず呟く。

「…今日は貴様等の命日か何かか?」

 言えば違うと首が振られる。そうではないと笑みがまた刻まれる。そして小さく零された。

「……今日は我等が敗けた日だ」

 敗けた日、と口の中で反芻すれば、子どもは尚深く微笑しそれに答える。視線は此方には向かない。

「あぁ、敗けた日だ。大切な者を守れずに、無様に地に項垂れ天を睨み、死を呑み込んだ日…」

 意識に痛烈に遺るこの敗北の記憶だけが、我等を此の日此の地にとどめ置く、…縛られる。言って子どもは子どもらしくもなく艷麗に喉の奥で笑った。その不均衡さに惑いつつ呆れつつ、知らず言葉が零れ落ちる。

「そんな日に暢気に酒盛りか」

 お目出度いな、と言わんばかりの此方の言葉に、すっと向けられた目線。途端、ぞく、と背が冷えた。睥睨ですらないそれに込められた零度の視線。本当にそう思うか、と底冷えの双眸で笑みを亡くした子どもが問う。黙して返せば子どもは視線を彼方へ遣って(しばた)いた。
 暫時何処か遠くから聞こえるような宴の音を双人(ふたり)で聞くともなしに聞き、無音を破ったのは子どもの方。それは矢張り、静か。

「…久々の邂逅だ。年に一度だけの。ならば、騒ぎ、酔い、語らう事に何の障りがある」

 そういう事じゃないと内心思ったが、また睨まれては敵わんと口には出さずにおいた。子どもはその意図に気付いてか他の何かが要因か、兎に角また再び口元に笑みを取り戻した。しかしそれに幽かな歪さを感じ眉を顰めれば、返ってきたのは遠い声。その間、子どもと自分の狭間を桜の雨が滴り落ちる。

「引き止めて悪かったな」
「……」
「何も言わず素直に帰らせれば良かったと、今更ながら思う」
「遅い」
「そうだな、そうだ……しかし」

 と言葉を心に捜すように視線を揺らした子どもは一息吐いて何でもないと打ち消した。その答えに満足した訳ではなかったが、聞いても仕方ないと思ったのは事実で、だから聞かぬままそうかと応えた。聞いて子どもは肩を竦める。そして帰れと一言宣った。

「何れ我等も此処から去る。夜も更けすぎた。お前も去ると良い」

 そうして出来れば全て忘れて二度と此の日此の場所に来ぬと良い。さぁ帰れと。言い置いて桜樹の下から出る子ども。酷く身勝手な言葉に文句を言う事も出来たが、その時自分は他の事に気を取られてそれをすっかり失念していた。
 何に気を取られたか。それは自分から数歩離れた子どもの姿。桜の花弁が子どもの体を摺り抜け落ちる様が妙に目に焼き付いた。あぁ小さいなと背を見て思う。落ち着いた声と大人びた顔につられて錯覚していたが、成程まだこいつは子どもなのだと妙に納得した。納得して、腑に落ちない。

(子どもだ、紛う事なく。ならば何故)

 何故、死んだ。

(何故……何故?)

 疑問が止まない。別れ際になってそれまでの無関心さを裏切るように子どもの事が気になって仕方ない。気になればその答えが欲しくなる。己の心情の移り変わりに辟易しつつも欲求は素直に口を衝いて出た。呼び止めて、問う。

「今日、これから、何がある」

 此処から去るという事は何処かへ往くという事だ。何故なら今日は敗けた日だと子どもは言った。此の日此の地に縛られていると。それ程強い想いを糧に此の世に現れたと言うのなら、この邂逅、花見で終わる筈がないと。
 それはただの推論。だが視線の先、子どもの肩が揺れた。小さく、微かに。それでもはっきりと。我が意を得たりと再度問う。

「何をする?」

 言えば子どもが振り返る。ふ、と冷笑に近しいそれが口元を彩り、す、と細められた瞳は夜を重ねた様に仄暗い。

「…知らぬで良いと思うがな」

 無関係の者に吹聴するようなものでも無し、と含みつつ、子どもはちらと宴を見遣って憚るように笑みを消す。視線を戻す。視線がぶつかる。十数秒、探る色もなく此方を見続けた子どもが折れたように視線を外し溜息を吐く。

「全く……私は何時もその目に弱い…」

 と顔を下向け何の事やら分からない呟きを洩らして思わずという風に微苦笑した子どもは、凛と顔を上げて此方と対峙する。桜唇が開かれ、そして其処から出た言葉は、

「仇を討ちに」

 闇に穿たれ嫌に響いた。





「仇討ち?」

 繰り返せばこくりと素直に頷かれた。しかし待てと早鐘を打つ心臓(こころ)を宥めて子どもに聞く。それはとても可笑しいと。

「…毎年この日この場所に貴様等は現れると言ったな」
「あぁ」
「毎年、同じ事を?」
「あぁ」
「寸分違わずか?」
(くど)い」

 切り捨てられて言葉に詰まる。それでも何とか言葉を繋いだ。

「馬鹿な」

 幽霊に死という概念と現象が存在するかなど知りもしなし興味もないが、しかし毎年繰り返しているという言葉を信じるなら答えは自ずと出る。そして仇討という行為を考えれば、それは酷く虚しい。

(どちらが死んだとして、死ななかったとしても―――結局元の木阿弥だ)

 討てども討てども、仇は依然として居続ける。ならばそんなものに意味は無い。敵を討つ行為にはなり得ない。

「重々承知しているとも」

 喉の奥まで出かかった言葉を、子どもは知ってそう言った。無垢なまでの真摯さに、苛々と心が棘を産む。

「そんなのは全くの無意味だ!」

 そうして思いの外大きく吐き出された声に、周りの奴等の声が止む。一瞬の静けさ。破られて、笑声。大きな大きな大笑い。狂ったように、それは夜の帳にと響いて響く。

「何と言われようと」

 そんな周りに反して月に似て笑む彼の静かな事。揺れない双眸は、変わらず翡翠。

「その為に、今宵皆は集まった」

 お前に云われる事ではないのだよと彼は言う。声に言葉に自分が他者と扱われたと気が付いた。お前は違うのだと線引きされたのだと知った。優しい声音に、何故か酷く傷付く。

「分からぬなら、それで良い」

 だが口を挟むでないよと彼は言い差しくるりと背を向く。薄紫の髪がさらりと揺れて視界を揺蕩う。手を伸ばしかけて、止めた。
 既に遠く離れた彼は他者に柔らかく笑む。言葉を掛け、身に触れ、杯を交わし、合間を縫って皆と語らう。楽しそうだ。桜吹雪の下、宴も酣。どんちゃん騒ぎは最骨頂。五月蝿さに、けれど儚さが付き纏う。
 鬱陶しい程その光景は(うすぎぬ)に阻まれた向こう側の世界だった。自分は這入れず、共有する事は叶わない。それは哀しい程の、別世界。

(…最期の宴、か)

 何度も繰り返され、今後も繰り返されるのであろう酒宴。倒すべき敵など最早居らず、仇なども言わずもがな。賢い彼ならば分かっているだろうに、それでも未練を残さずには居られなかったのか。死して尚、この世に現れなければ気が済まなかったか。
 憐憫に思えば、傍らに酒瓶を携えた男が足取り不確かに寄ってきた。名を飛翔というと前置いて零す。あまり憐れんでくれるなと。

「納得づくなんだ。止めた時もあった。もう良いだろうと切れながら宥めた事もあったな。でもあいつはそんな声に耳を貸しゃしない。分かってると言いながら、一人でだって此処に来る。その小せぇ背中の寂しいこと…」

 仕舞いにゃ俺達の方が折れたよと、言う飛翔の顔は聞き分けの無い子どもを手懐ける親のよう。それまでの子どもの様子からかけ離れた逸話に、どんな奴なんだと知らず口から漏れていた。飛翔は簡潔にあれで俺達の主君だと、どこか自慢げに言った。

「あいつはな、親父が死んだ十四の年に家督を継いだ。あいつの他にも血は繋がってねぇが兄弟はいたし、あいつ自身、順番から言えば次男なんだが、誰が当主に相応しいかってぇのはやっぱ年や生まれた順番じゃねぇ。そこんとこ、珍しい事にこの家の奴等は分かってたんだな。家老が全員一致であいつを推した。当然反発もあったが、そいつは他の碌でもねぇ兄弟の親族絡みの連中で、俺なんかはあいつの親父に浮浪してた時に拾われた口だったから柵もなかったし、まぁあいつが一番マシって事は分かってたから、俺もあいつを当主に推した。他の拾われた連中だって皆そうだ」

 彼処に居る仮面野郎の黄鳳珠だって、ブスッとして面白くねぇって(ツラ)してる楊修も、小憎らしく澄ました顔してる陸清雅だってそうだった。あいつの親父に拾われた奴は、全員が全員示し合わせた訳でもねぇのにあいつに付いてきた。義理なんて重んじる奴等じゃねぇし、周りに合わせるなんて絶対しねぇ奴等なのによぉ…。あいつの親父が死んでからも散り散りにならずに其処に居た。言葉なんてなかった。それでも其処に、あいつの傍にだ。

「人柄に惚れたのか、その文武両道な所に惚れたのかは分からんがな。兎に角俺達はあいつの下で働いて、そこそこ平穏に暮らしてた。戦争がありゃ勲を立てて、城下の人間とは天災がありゃ上手くやって…ていう風にな」
「名君だったのか」
「…あいつの親父はな、戦乱の世に生まれて、戦しか知らんかった。戦術は巧みだったし、惚れ惚れするくらい武術はなんでも上手かった。あいつの下にいりゃあ自分が死ぬ事はねぇって信じられるくらいにな。その変わり、市井の事にはとんと疎くてな。それに比べりゃあ、まぁ、あいつはどっちも上手かったな、うん」
「そうか」
「あぁ」
「良い主君を持ったんだな」
「…あぁ」

 照れと何かが混じった返答に、遠ざかった彼を見る。子どもだった。いくらその双眸に叡智を宿そうが、武器を手にすれば修羅になろうが、それでも笑むその横顔も向ける小さな背も、子ども特有のそれだった。小さい。幼い。政を操るにしても戦に手を染めるにしても。彼はまだ、とても幼かった。

「…それでも、死んだのか」

 天から零れ落ちた最初の雨粒のような静けさでそう言えば、飛翔は口元を僅かに歪めて頷いた。苦さはない。ただ、穏やかに。

「あぁ死んだ。あいつも。俺達も。一人だって、残らずに」

 同時に酒瓶を持つ手が一度強く握られて、ミシリと小さな音を立てた。それが何を意味するかは知らず、問わずに、何故と一声呟く。

「しくじりでもしたか」

 答えは微笑と共に返された。

「あいつの弟が攫われた」

 静かな声で、零された。

「あいつが唯一、血の繋がらない兄弟の中で兄として庇護した弟だった」

 聞き逃してはいけないと、耳を、澄ませた。





「生まれつき躰の弱かった末の弟は、邸の奥で静かに暮らしていた。他の兄弟が陰謀を巡らせる中、末っ子だけは無害だった」

 純粋を絵に描いたような奴だったと飛翔は言う。

「本当の事を言うのは、どんな事にしろ、心に負担が掛かるもんだ。花を綺麗と言うのだって羞恥というのが心に伸し掛るように。でも末っ子はそんなのとは全くの無縁だった。ただ素直で、あいつの良心だった」

 あいつが心からの笑顔を忘れなかったのは、人でいられたのは、偏にあの子のお陰だ。俺達じゃあできなかった事だ。
 飛翔は己の息子を自慢するように言って、あの子は俺に良く懐いたもんだと朗らかに笑った。誰よりも遊んでやったのだと誇らしげに言った。そして微かに視線を下げて。

「でもだから、目を付けられた」

 あの子単体で見れば歯牙にもかけられなかった筈だ。戦力にならず、権力からも程遠い。財力もない。母親を早くに亡くした、ただ小さな子どもってだけの事だっただろう。…その筈だったんだ。

「あいつがあの子に執着していると、弱点になる筈だと、あいつに蹴落とされた馬鹿が外に漏らしたらしい。俺達が戦に総出で出払ってる時を狙ってあの子は掻っ攫われた。手際の良さを考えりゃあ、誰かが手引きした事は明白だった」

 屋敷中の強ばった雰囲気。閃きと絶望の表情が駆け巡った一瞬。翔ける小さな背。突き当たりの室。音を立てて開かれた障子。その向こうに穏やかに笑んでいる筈の少年は、いなかった。

「争った形跡はなかった。いつも通り整頓された室に、ただあの子さえいれば完璧だった。絵のように、完璧だったのに」

 崩された幸福。捕らえた間者を、あいつは躊躇わずに斬った。尋問もせず、拷問もせず、その価値もないと無表情で斬り捨てた。俺達も何も言いやしなかった。怒りが、抑えきれなかった。

「敵が誰かは直ぐに判った。奴等は隠そうともしなかった。俺達を裏切ったのは、俺達が仕えていた主だった」
「主人、だと?」
「あぁ。正真正銘、俺達が年貢を納め、戦があれば力を尽くし、呼べば応えてやったご主人様だったよ」

 出る杭は打たれる―――何時の世もそうだ。あいつの親父は戦は好きだったが政は手を抜きがちで、だから天下を取ろうなんて思っちゃいなかった。さっきも言ったが戦に事欠かない時代だったからな。もしその当時戦がなかったら話は違っていただろうが。その意味では上にとって都合よく動かし易かっただろうし、脅威でもなかった。
 だがあいつは親父と違って幼いながらに兵法にも政道にも才があった。意欲もあった。天下を取ろうと思えば取れるくらいにはな。それが、気に食わなかったのだろう。

「あいつが変な気を起こさないよう、弟を人質に押さえ付けようとしたんだ」

 苦々しげに吐き出した飛翔。それに酷く冷静に言葉を返す。

「お前の主は、生まれる家を間違えたな」

 半端な家に生まれたのが運の尽き。才能を存分に発揮して差し支えない最上の家か、発露するのも馬鹿馬鹿しいと思える最下の家にでも生まれれば良かったものを、もしかしたら、などと思わせる家に誕生したのが悪いのだ。…あぁ、若しくは。

「その才を隠す程度に、疑り深くあればな」

 実力のある者がない者に疎まれる事は良くある事だ。しかも無能な奴に限って疑り深く悪い方向へと想像するのが得手と相場は決まっている。それを考慮しなかったと言うのはあいつの落ち度と言っても良い。そう思った後、ふと考える。

(…そうか…それをこいつも分かっていたのか…)

 名君だったか、良い主君だったかと問うた時、やんわりと断定を避けた飛翔。成る程、薄々は感じていた訳だ。その考えに違いはなさそうで、飛翔は容赦無い言葉を静かな表情で受け止めた。

「……あぁ、そうかもな」

 とただ言って、でもな、と飛翔はほろりと笑った。遠くに在る子どもを見て、その遠い日を想う。

「あいつはな、まだ幼かった。賢かった。強かった。それでもまだ、子どもだったんだ」

 これからだったんだよ。その言葉は穏やかに零され、なのにその声は重く響いた。それに次の言葉は出口を失い、彷徨う内に掻き消えた。唇を噤んでせめてとその視線を追おうとした、その時。

「――――…!」

 突風が、桜を葉を散らして巻き上げる。花嵐。耳に劈くのは人の声か風の()か。視界を遮られ分からぬまま、風に煽られ目を瞑る。

「…あの日も、風が強かったなぁ」

 遠く、飛翔の声が聞こえた。





 雪が降っていた。横向きの風は傘の意味を失くして容赦無く白の(つぶて)を躰に浴びせた。(かじか)む四肢。濡れそぼつ衣と髪。だがそれは口から吐き出される白い息と同様、酷く瑣末な事だった。意に介す意味もない。虚ろに先を目指した。ただ、前へ。

『……りゅ、ぅ――…』

 指定された日時に参内すれば、上座に踏ん反り返った小太りの男が偉そうに何か喚いている。声は耳に届かない。些事に構う程懐は広くないのだ。特にこのような見栄ばかり気にする矮小な男なぞ。
 ただ頭を垂れて待つ。反射で何か受け答えした気もするが、気にしない事にした。相手はまだ機嫌良く喋っている。あぁ暫くその余韻に浸るが良い。後少しでそれも終わる。お前に未来はない。暗い思考が続く。それは、唐突に終わった。

『…兄上』

 掠れた声を、聞いたからだ。ぴくりと肩を揺らし、許しも請わず面を上げた。両手を縛され、少しばかり痩せた弟が顔色悪く、しかし頬を赤くして此方を見ていた。妙に煌く双眸が痛々しい。酷く体調が悪いのだ。だがそれでも、心を震わせたのは歓喜だった。

『りゅう、き…』

 良かった。良かった。生きていた。怖かっただろう。辛いだろう。済まない、不甲斐ない兄の所為だ。主君の卑小さを見誤ったこの兄の所為だ。ここまで愚かな主だと思わなかった。己の器の小ささに私の器を見損なうような、そんな暗君だと気付かなかった私が悪い。私はただ、持てる力を駆使して私を慕う者達が安穏と生きていける手助けをしたかっただけなのに。

『リュウキ…』

 生きているのなら、良い。そうだな、そうでなければ人質になるまい。見下げた主に期待はしていなかったが、一応人質はどう使うかの認識はあったらしい。ならばそのまま大事に扱え。私がこの手に奪い返すまで。
 誓いと憎悪が鬩ぎ合う心。ちゃんと笑えただろうか。失敗したのかも、知れない。

『兄上…ッ』

 あの時弟は、何を、考えたのだろう。訳も分からず捕らえられ、久方に見た兄に駆け寄りたかったのか。それとも、不羈(ふき)の兄が誰かに叩頭(ぬかづ)く事を良としなかったか。己がその因であるならばいっそとでも思ったのだろうか。唐突に駈け出した弟。あぁ…、優しい子だった。

『リュウキ…!!』

 押し留めるように、駄目だと言うように呼んだ名は引き攣れていた。瞬時に躰が動く。(守らなければ。)後ろに迫る男。その手には刀。(守らなければ。)(躰を割り込ませるのが無理ならば、せめてせめて、手を引いて抱き込んで。)白刃を晒したそれは振り上げられ。

『この―――…!』

 焦りに塗れた怒声と共に振り下ろされた。

(あぁ、…――――遅かった)

 衝撃に見開かれた瞳。抱き止める躰。ぬるりとした感触。(くずお)れる。掌の紅。血と共に流れ落ちる命。遅いと言うのなら、奪われた日に奪い返さなかった時点で既に遅かったのだ。はは。何処まで―――この男も私も、愚かなんだ。
 蒼褪めた顔の昏君。斬った男も、そんな筈ではと震えている。その間にも血は流れ続けている。助からない。…あぁ、もう良い。そんなのは、もう、どうでも。

『…答えは、聞かせて頂いた』

 不思議と静かな声が出た。(ひび)割れてはいたが、冷静な声だった。それ、でも。

『私も、私の答えを出しましょう』

 誰にも、私は止められない。

『ぎ、あぁァアアアアあ!!』

 見苦しい。醜い。何処までも、汚い。一閃した所から血が吹き出す。それすらも、穢らわしい。君主だった男はのた打ち回っていた。慌てふためいて家臣等が取り巻く。素知らぬ振りで小さな弟の躰を抱き上げた。

『この(むくろ)に、もう用などありますまい』

 では、と一声置いて背を翻す。邪魔する者は殺した。城から出る頃には全身血に塗れていた。雪が、紅く染まった。






 風の止む音に、目を開く。数度瞬いて、胸に(つか)えたものを吐き出すように息を吐いた。どうやら白昼夢を見ていたらしい。…あれは、あの子どものだ。

(初めてだな…幽霊の記憶に介入するなど…)

 暗い泥の中を泳ぎ回り、喉に肺に汚泥を詰まらせたような息苦しさはどことなく現実味を帯びていて、垣間見た今の子どもの楽しげな表情との落差にまた暗澹と心が陰る。

「…お前達は守れなかったのか」

 その、弟を。気鬱なまま思わずそう溢せば、飛翔は言葉を返さず、ただちらりと苦く笑った。それが是か非なのかは判じ得ず、だがあの傷では結局の処助かるまいとそれ以上は聞かずに置いた。
 不意に、さっきより弱い風がそよりと吹いて酒の匂いを運んできた。今なら、と黎深は思う、このような日に酒盛りをする理由が分かる気がした。酒を呑まずには、笑わずには、いられないのだと。

「そして、仇討ち、か…」

 私語(ささめ)いて夜空を見上げる。子どもの言うように、月は美しく、蒼々として其処にあった。彼等が辿った過去を思えば、嫌味な程、清冽に綺麗だった。

「…笑いたきゃ笑え」

 飛翔が言う。黎深と同じように夜空を見上げていた彼は、自分こそが仄暗く笑いながらそう言った。

「俺達だって、あいつ自身、分かってんだよ。もうあいつの弟が捕まってたあの屋敷はねぇ。当然、弟が居る訳も、仇が待ってる訳もねぇ…。ただこうして集まって、あの日のように敵の本陣に向かって、その跡地を見る。屋敷の形すら残ってねぇただの空き地を前に佇む。…分かってんだ」

 言い聞かせるよう。聞いていて、その(おもて)に表われない悲痛さが胸を打つ。

「それでも、俺達はこの日を忘れられねぇ。あいつが壊れた日を。あの子が散った日を。…俺達はな、あいつら兄弟が好きだったんだ」
「……」
「まるで自分の兄弟のように、子どものように、親友のように、愛してたんだよ…」

 言って、飛翔は月を見ていた視線を下げた。その視線の先を追う。子どもが、月の下で花のように笑っていた。





 深更近くになり、宴はやっとお開きになった。飛翔も彼等の輪の中に戻って行き、片付けに精を出している。本当に幽霊らしくないと呆れながら見遣って、黎深は自分も帰る頃かと凭れていた樹から躰を離した。それを見計らっていたように子どもがすっと黎深の脇に現れる。こんな所ばかり幽霊らしいと、また呆れつつ黎深は子どもを見下ろした。子どもはやんわりと笑んで、(にこ)やか。その笑みをどう捉えていいのか惑って、黎深は素っ気なさに磨きをかけてぶっきら棒に呟いた。

「…お前も片付けに混じったらどうだ」
「私がしようとすると皆が嫌がる」
「……不器用なのか?」
「違う。完璧主義だからだそうだ」

 なるほど、と如才なく相槌を打ち、黎深は視線を集団へと放る。片付けをしているだけだと言うのに、宴の時と然程変わらない騒ぎよう。だがそれも今日という日が彼等にとってどういうものかを知ってしまった後ともなると、どこか色褪せて見えた。
 そう思ってしまった自分に黎深は眉を顰め、また先程から無遠慮に向けられている隣からの視線に顔を顰める。鬱陶しい気持ちを微塵も隠さず、子どもの視線に視線で応えた。そうして見遣って十余り。子どもが耐え切れずという風に、へにゃりと相好を崩す。照れ笑いに似たそれは、初めて見る子どもらしい笑顔だった。

「…何なんだ」

 思いがけない表情に戸惑いが先走り、苛立ったような声が出た。気にしただろうかと子どもをひそりと見たが、酒に酔っているのか雰囲気に酔っているのか、はたまた最初からこちらの様子など些かも気にしていないのか、子どもが機嫌を悪くした風はない。漠然とそれに安堵していると、子どもがいや何と機嫌良く応えた。薄っすらと黎深を見る双眸が細められる。それは、何かを思い出すよう。

「久方ぶりにあいつに会えた気がして、嬉しかった」
「あいつ…?」
「あぁ。昔馴染みの男でな、いつも私のする事なす事、胡乱げに見てはあーだこーだと口を挟む奴だった。煩いくらい、時には鬱陶しい程にお節介を焼いてきた」
「……」
「でも、それで良かったんだ。あいつが一々口を挟むのは、何時だって私を心配しての事だった。私を、想っての事だった」

 言って、子どもはまた遠い目をする。自分を見ながら自分じゃない誰かを見る子どもに、黎深の心がちくりと痛む。気の所為だと振り払って言葉を接いだ。

「…そいつに、私が似ていると?」
「これが驚く程似ている。最初にお前を見て驚いたのは、私達が見えている事ではなく、実はその事だった。お前の家が此処らに長年住んでいるのなら、血を引いているのかもしれないな」

 子どもはそう笑うと、一歩二歩黎深から遠ざかる。あぁ、と嘆息して黎深はそろりと小さく息を吐いた。

「……行くのか」
「あぁ。想いが途切れない内に、目的を果たさねばならないからな」

 何時の間にか子どもの静けさが全員に波及したように、四五十人の幽霊が静寂に身を(やつ)して子どもが動き始めるのを待っていた。何処までも子どもは彼等の君主で、彼等は子どもの臣下なのだろう。何十年もその関係で来たのだ、これからもその関係が連綿と続くのだろう。何年も何年も、この日を同じように過ごすのだろう。
 …飛翔は憐れむなと言った。だから黎深は一度長く目を閉じる事で深く考える事を止め、瞼を押し上げて子どもを見る。子どもは面映(おもはゆ)い程真っ直ぐと黎深を見ていて、視線が交わった瞬間、一層笑みを深めたかと思うと。

「お前と出会えて、良かった」

 そう、言うだけ言って身を翻し、脇目も振らず馬に騎乗し闇夜を駆けて行った。五十弱の幽霊達もその後ろへと続く。此処へ来た時と同じように騒音を撒き散らして次へと向かう彼等のその背を、今度は微かに穏やかな心持ちで黎深は見送った。彼等の姿が角の向こうに消え、蹄の音が消え去るまでじっとじっと佇んで。

「…帰るか」

 ぽつりと呟いて一呼吸。返る声はなく、その事に黎深の表情が小さく切なげに綻んだ。





 帰宅すれば長針も短針も時計の真上を過ぎていて、兄の帰りを玄関で待ち構えていた末弟の小言の嵐を受け流しつつ二階へ続く階段を登ろうとすれば、丁度上階から下りてきた長兄に柔らかく窘められた。不承不承、末弟に口先だけの謝罪を吐いて自室へと向かう。
 その途中、すれ違い様何時ものように幽霊達に絡まれた。怒られたと揶揄う者や、遅かったなと一声かけてくる者など、やんややんやと煩い。鬱陶しいとそれらを無視しながら後少しで部屋に辿り着く、と言う所で。

「……ん?」

 ふと、気づく。視界の片隅を何かが遮った感覚にそちらを凝視すれば、廊下の奥、暗闇に紛れるように小さな童が黎深を窺う様子で壁からひょこりと顔を出していた。
 何度か見た顔だ。背を過ぎる長い榛色(はしばみ)の髪、古めかしい着物、生気はなく、目を合わせればおどおどとして掻き消えてしまう、七八歳程度の子どもの霊。
 声を聞いた事はない。自己主張の激しい幽霊が多い中、例外中の例外であるその大人しい幽霊は、何時もなら黎深と目が合った瞬間、何処ぞに消えてしまうのに。今宵はその様子が見られない。びくびくとしながら、それを耐えてまで黎深を見続けている。ぱくぱくと口を小さく開閉する様子を見れば、言いたい事もあるらしい。
 まったく今日は尽く何時もとは違うのかと溜息を吐き、それならばいっそ敢えて乗ってやろうではないかと何処か投げ遣りに思いつつ、黎深は子どもに向かって言葉を放る。

「……何だ」

 無愛想で頑ななそれに肩を少し跳ねさせながら、それでも霊は果敢に小さな手をぎゅっと握りしめて口を開くと。

『皆に、お会いになったのですか?』

 強張った、幼子の声でそう言った。線の細い声だ。硝子のような…いや、冬の雪に似て人肌に触れただけで溶け消えそうな声。だがその声で言われた内容を理解できず、黎深は怪訝に目を眇める。霊はまた言葉を紡いだ。

『皆の気配が、匂いがします。皆が、何時も呑んでいたお酒の匂いがします』
「酒? …あぁ、酒盛りをしてる霊の一群に会って…」

 と言いかけて、止めた。記憶の端に引っ掛かった僅かな既視感。なんだ?、と記録を(さら)うように眉間に皺を寄せて考え込んだ黎深の脳裏に、それは唐突に浮かび上がった。

(雪景色…紅に塗れた稚児…抱き止めるあの子どもに―――抱き留められる、榛の…)

 白昼夢の中で、彼の記憶に見た子ども。あの子どもが全てを(なげう)って守ろうとし、できなかった弟の、その姿。

「……貴様…」

 名を、なんと言う。知らず、声が掠れた。霊は怖々と片笑んで。

『私はリュウキ―――劉輝と、申します』

 首を傾けた拍子にさらりと流れた榛の髪。それが黎深には嫌にゆっくりと見えた。





 黎深の私室。必要最低限の物しか置かれていない部屋は、機能美と言うよりは殺風景で、その中で黎深と小さな霊が向き合っていた。無言が幾許か過ぎて、少し。溜息と共に吐き出された言葉は、奈辺に(しこ)りを残したままで零された。

「…お前の事を、夢に見た」
『夢…?』
「お前の兄の記憶が、あいつの感情が高ぶった際、私に流れ込んできたんだろう。飛翔と名乗る男からも大体の所は聞いた」
『そうですか…』
「だが何故、貴様がこの家にいる。貴様は主君の城で斬られたのではなかったのか?」

 あの白昼夢が正しいのであれば…と考えて、つとその考えを打ち消した。自分は斬られた場面を見ただけだ。死んだ姿を見た訳じゃない。深手ではあっただろうが、即死という訳でもなかったようだ。飛翔も明確な答えを返さなかった。となれば…。
 思考の深みに嵌っていく黎深の耳に、劉輝の脆い声がそっと届く。見遣れば、静かな表情で見返された。

『私は、斬られてからも数日は生きてました。しかし助からなかった事は事実です。今このような姿で貴方の前にいるのがその証拠。もとより躰の弱かった私があの斬撃に耐え切れる筈もありません…兄上も、それはよくよくご存知でした』

 穏やかな声が切ない。僅か十にも満たない子どもが口にする内容ではない。静々と語られる事に黎深は幾分心をざわめかせながら、今は口を挟まず耳を傾ける事にした。劉輝は尚も言葉を紡ぐ。細雪の如く、深々(シンシン)と。

『ですから兄上は、兄上が最も信ずる友人に私を預けたのです。兄上は君主に刃を向けてしまった。一族郎党、粛清されるのは目に見えている…ならばその災が私に降りかからないようにと、私はあの場で死んだものとして振る舞い、数日の余生を静かに送れるようにと取り計らって下さいました。そのご友人の家が、私が息を引き取った場所が…』
「此処、なのか…」
『はい』

 頷いて、劉輝は言葉を接ぐ為に一息つき、そしてまた語り出す。ほんのりと影が深まった。

『兄は君主を斬ったその足で、大雪の中、斬られた私を抱えて此方へ参ったのです。そして何も告げず、ただ私を頼むとだけ言い置いて、兄上は友人であったその方に私を託しました。私の安寧な臨終と、そして、ご友人の命の為に』
「命…?」
『えぇ。その数日の記憶は曖昧ですが、それ以前、それ以後の事は鮮明に覚えております。私や(ちか)しい者以外には心許さぬ兄上が、そのご友人には心を傾け、心を開き、心から笑っていらっしゃった。常に気を張っていた兄上にとって、その方は他と異なった、特別な存在だったのでございましょう。また、その方にとっても兄上はそのような存在であるようでした。兄上がどれ程綺麗に隠し事をしようと、瞬く間に何かあると勘づいてしまう方で、それは兄上も同じだったのですが…よくよく兄上はその方を、その方は兄上を知っていらしたのでしょう。その日も、直ぐ様兄上が窮地に陥っていると気づかれたようでした。そして、兄上を助けると申し出た…』
「…あいつは拒んだのか」
(さき)に言った通りです。私を頼むとだけ言ったと。…兄上はその方が自分の願いを拒めない事を知っていた。重篤な私を託し、そんな私の傍から離れられない状況を作りました。兄上は私を預ける事で、私と、そしてその方を戦いから遠ざけたのです』
「……酷いな」
『兄上がですか? それとも、私にとって? その方にとって?』
「お前の兄も、お前の境遇も、その友人の雁字搦めの状況も、だ」
『それは部外者の弁ですよ』

 さらりと言われ、こいつもか、と黎深は苦々しく劉輝を見る。あの子どもも自分を余所者に位置づけたなと要らぬ事を思い出し、黎深の眉間に皺が寄る。劉輝はそれに気づかないまま、そろりと視線を下に遣る。

『とは言え、流石にあの方も憤りを隠せないようでした。何度も言っておられました…助けて欲しいと願えと、何度も…』
「あいつは…」
『…静かに、笑うだけでした』

 易く想像できたそれに、黎深は溜息を吐いた。劉輝は口元だけで笑ってそれに応え、直ぐに消し去って声を紡ぐ。

『そういう方なのです。兄上は自分の為に誰かが傷つく事を特に嫌いました。だからこそ、私が(かどわ)かされた時、そして斬り捨てられた時、怒りを殺せなかったのでしょう。…自分の尊厳や誇りを傷つけられた時などは家臣が哀しむ程、無関心の癖に…』

 優しい、方だったのです…。劉輝はそっとそう零し、きゅうと手を握った。まるで耐えるようだと、黎深は思った。

『そうして翌日、城を包囲される前に、自由に動ける今こそと思ったのでしょうか、明け方の、まだ夜が残っている時間に主君の城に攻め入り、そのまま…』
「……」
『ですからその方とご家族は戦いに巻き込まれる事のないまま、事実上無関係のまま、兄上と、兄上と共に戦った四五十人もの家臣が武人らしく戦いの中で散っていきました』

 黎深は宴を思い出した。飛翔を思い出し、黄鳳珠と呼ばれた仮面の男を、楊修という名の青年を、陸清雅という少年を、そして、あの子どもを、思い出した。まだ若かった。死ぬ事が許されない程、彼等はまだ若かったのに。

『皆、死んでしまった…』

 ぽつり、と雨音のように零されたそれは、宵の静けさに溶け消える。劉輝の握り締められた手が、何かを背負うには幼すぎる肩が、微かに震えたのが見えた。

『兄上の事です、きっと飛翔達にも逃げるようにと勧めたでしょう…業は全て自分が背負うと、言ったでしょうに…』
「……」
『…私は、私だって、私などの為に誰かが傷つくなんて我慢なりません。あの日が来なくとも、何れ天寿をまっとうする事なく死んだであろう私の事など…!』

 逃げて欲しかったのです…生きて、欲しかったのに…――。言って、それでも淋しく笑うだけの劉輝に、黎深は数瞬躊躇い、けれど結局口を開いた。

「……あいつ等はお前達が好きだったんだと」
『え…?』
「…飛翔が言っていた。お前が斬られた日を今も忘れられないと。兄弟のように子どものように、親友のようにお前とあいつを、愛していたと」

 劉輝は呆けた表情でそれを聞き、少しして、そうですか、と微かに零して俯いて、また、そうですか、と言った。二度目はほんの少し、泣き濡れた声だった。





『私は地縛霊ではございません故、明くる年には兄上に、飛翔達に会わせて頂きとうございます』

 そう言って頭を下げた劉輝は、お休みなさいませ、と言い置いてふわりと宙に消えた。一人になった黎深は寝台に身を投げ出し、そっと目を閉じてあの寒桜の下での宴の事を、そしてあの子どもと弟の劉輝、飛翔と喋った事を思い返した。
 たった数時間の出来事だったが色々あったなと、じわりと心身に滲む疲労感に身を委ねれば、睡魔がするりと擦り寄った。抗わず、徐々に沈みゆく思考の片隅で別れ際の劉輝の言葉をなぞる。

(来年、か…)

 子どもはもう来るなと言った。今宵の事は忘れろと。だが、あの子どもが現世に留まる原因となった弟が会いたいと言うのだから、恐らく咎めは受けはすまい。

(ならばその時に何を聞こう。何を言おう)

 存外言葉を交わしたと思うのに、裏を知ればまだまだ足りない事に気付かされる。…そう。

(私は、あいつの名前さえ知らない)

 思って、黎深は一つ心に決めた。

(名を聞こう…それから、私の名を…)

 そして、今度は私がお前に出会えて良かったと言ってやろう。

 微睡む意識の中、月影の中で黎深はひそりとそう誓い、子どものように微笑んだ。





夢の話戻る



 20110909-20121126
〈あふ時は かたりつくすとおもへども 別れとなれば のこる言の葉〉





PAGE TOP

inserted by FC2 system