白夜

[ 吟じるは、最愛なる友へ ]



 青山 北郭に横たわり
 白水 東城を遶る
 此の地 一たび別れを為し
 孤蓬 万里に征く
 浮雲 遊子の意
 落日 故人の情
 手を揮って茲より去れば
 蕭蕭として班馬鳴く





  秋夜に哭するは誰ぞ





 夕陽差す、戦況を模した盤上の駒。
 それをひそりと眺めやり橙に染まる彼は知略を巡らせる策士のよう。
 ―――否。
 真実彼は策士であった。
 だが本来彼はその地位などさっさと誰かに明け渡し、自身は座したままその知略や他の持ち駒を存分に使役する立場に徹しても許される位置に居た。
 それでも彼は、策士で在って、在り続けた。
 …あぁそれだけではない。
 彼は策士のみならず、武人としても手練であった。
 よって己の弄した策を己で実行する。
 たった一人で何役も熟す彼は正に無双。
 他と比べる事すら烏滸がましい。
 比類なく、比肩すらなし。
 彼は真実高みに居た。
 故に彼の見る世界は常に俯瞰図。
 平面などありえず、顎門を僅かさえ反らす必要もない。
 地に転がる石のように、空から切り離された水溜まりのように。
 彼は侍る世界を見下ろして。
 それでも、彼は。

『…黎深』

 夕闇の微睡みに似たその声は、耳に優しい程穏やか。
 世界を見遣る無機質な視線とは違った、柔らかな眼差しで友を見る彼は。

『私は、世界を求めた事はない』

 何故と友は言う。
 悲痛に顔を歪ませ、痛みを耐える表情で言う。
 そうでなくばと知る友は、泣きそうな顔で問い質す。
 何故だ何故だ何故なんだと、頑是無い幼子のように。
 繰り返されるそれに、彼は何度も同じ答えを返さねばならなかった。

『何時か手放さなくてはならないものを、もう増やしたくはない…』

 そう言っては夕焼けの影に隠れてそっとわらい。
 だから黎深、と、続けて言うのだ。

『早く私の事など忘れてしまえ』

 優しく哀しく、残酷に。





 そんな夢を見る。
 酷く唐突に、不定期に。
 まるで同じ光景を、初めて見たと錯覚して何度も繰り返すのだ。
 その度に心が劈くほどの痛みを叫び、その痛みに。

「———…ッ!」

 黎深は目を覚ます。
 疾うに登った朝陽が窓から滴って、些か煩わしい程に眩しい。
 そう何処か遠くで思いながら、早鐘の心臓に手を置き、明るさを遮るようにもう片方の手を瞼の上に置いた。
 夢だ。
 単なる、どうという事もない、夢だ。
 嘗てあんな場面に出くわした事はない。
 あんな会話をした覚えもない。
 だから、あんなものはただの夢だと。
 何度も何度も繰り返す。
 そうしなければならないほど鮮明で、いつか訪れる現実であるような気がすると、認めたくはない。
 ———なかった、のに。





 いつからか習慣となった秘された花園での逢瀬を今日も繰り返す。

「……そうだな」

 書物から目を離さず、小さく片笑んだ彼は。

「何時か、そうなるかもな」

 なんでもない事のように言う。
 何時か別れの時が来るかもしれないなどと、酷く酷く簡単に。
 途端心を燃やしたのは怒りか、焦りか、それとも、悲しび、だったか。
 分からないまま、黎深は清苑の細腕を取り、地面に引き倒していた。
 手にしていた書物が飛ぶ。
 清苑の睡蓮の髪が地に靡く。
 その顔に驚いた風はない。
 頬は冷たいまでに白く、双眸は春芽に似て鮮やか。
 ゆったりとした瞬きは全てを知るようで、その様にすら心が震える。
 天上の神が天下に渦巻く苦しみを知り得ないような無垢を晒して、厳かに、非情な程、邪気(あどけ)なく。

「そんな事には絶対ならない! 私がさせない、お前を、独りになど…!」

 その先は言うまでもないと、だから唇をくちりと咬んで殺した。
 残響が消えてしまえば、過ぎるほどの静寂が舞い降りる。
 花が舞い、葉が降るように。
 その森閑を壊したのは、一粒の雫。
 音は段々集まって、そして一つの雨になった。
 驟雨が黎深の身を打ち、伝って清苑を濡らす。

「…頼む、黎深」

 手が伸ばされる。
 頬に届く。
 秋の冷雨に奪われた体温。
 そろり、と撫でられたと知れたのは、だからただその感触によるのみで。

「私に、お前と出会わねば良かったなどと、思わせるな」

 闇に響く雨音を縫って届いた言葉。
 一瞬、唇が震え、噛み締めて、耐える。
 身体を支える為に地面に触れていた諸手が土塊(つちくれ)を握り、爪が大地を抉った。
 黒墨の瞳で睨み付けるは翡翠の瞳。
 揺れる事を知らないそれに、震える溜息が溢れる。
 嘲笑と微笑が、混じって、砕けた。

「それが、お前の願いか」

 願う事を厭うたお前の、初めての願いが、それか。
 その問いに、是も非もない。
 緩やかな瞬きが、離れた繊手が、声なき彼の答え。
 酷い事だと笑みが増す。
 黎深の心で火が爆ぜる。
 怒りのもっともっと深い所で、風が吹き抜けた気がした。
 火炎が狂炎へと変じる。
 止められず、止めようとも思わなかった。
 降り続ける涙雨が、黎深の頬を伝って、清苑に堕ちた。

「私に、お前を喪えと…——!」

 血を吐くような想いだった。
 土を握る手が皮膚を傷付ける。
 噛み締めた唇は白くなり、闇を写し取った涅色(くろ)の双眸は、怒りに紅くならんとでもいうかのように光っていた。

(でもどうして)

「————…っ」

 憤怒の灯火が、揺らぐ。
 揺らいで。

(お前の願いを、無碍にできるだろう)

 瞼の奥に閉ざされて。





 そんな、真白の夢を見た。





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 20101006-20121027
〈何があっても、どうあっても、俺はお前を喪うのか。〉





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