何もない風景
[ 綻びの世界に華が啼く ]散る世界。綺麗で、綺麗。
(ただそのままで完結していれば良いものを)
さようならと声がする。耳に直接
さようならの、声がする。
(さようなら、さようなら)
全ての世界、綻びの。
幻に似て残酷な、それでも儚いまでに美しい。
(さようなら、…さようなら)
それでも生きてと、貴方が言うから。
香散見草、舞う昊に
陽光が目に突き刺さる。
そんな錯覚を覚えて、黎深は目を覚ました。眩しい。手を翳して凌ごうとするものの、冬とは言え、朝の日の光は寝覚めの瞳には少々きつい。布団に潜り込んでしまえば良いのだろう。思いつつ、黎深はふと気付く。脳裏に残る寝ている間の記憶を見付けて思う。
…あぁ何か。何か夢を見ていたか。哀しい悲しい、寂しい、夢を。
薄らと瞼を開けて思い巡らす。視界は何処か
あぁならば哀しい夢だったか。悲しく寂しい、夢だったか。
全ては思い出せないまでも気付いた事実に嘲笑に近い微笑が漏れる。それは何時しか哄笑へと変わった。小さな声は大きな声へ。心の痛みも、それと共に。
黎深は布団の中、笑い続けた。その意味すら分からぬまま。
それは異変に気付いた家人が百合を呼び、彼女がやってきて「あぁ…とうとううちの馬鹿当主がほんものの馬鹿に…玖琅が可哀想…本当の本当に可哀想…でも私が付いてるからそれほど苦労はさせないからね…って、冗談にしても質が悪いな」とか何とか言うだけ言って、黎深の頭をぽかりと叩くまで続いた。
「いい加減起きなってば、黎深。朝だよ」
叩かれた黎深は。
「……良い夢を見ていたのに」
と笑声を漸く納めて叩かれた部分を撫でながら恨めしそうに百合を見た。百合は呆れ果ててもう一度ぽかりと黎深の頭を叩いた。
「馬鹿な嘘吐いてンじゃないよまったく。馬鹿馬鹿しいのは普段の言動と過去の愚行と今の顔くらいにしてね。ほら起きた起きた」
「―――顔?」
という黎深の疑問の声を聞いて、ふと何故だろうと百合は思った。さらっと流してしまおうと、なんとなく、本当になんとなく思ったのだ。だから布団から追い立てて起こして、何もなかった振りをしようとした。
そんな意図を見抜いた訳でもないのだろうに、黎深は百合が一番知らないで居て欲しかった言葉を突いた。的確に、それは本当に呆れる程、天才的に。
百合は一瞬だけ動きを止めて息を吐く。それでも笑ったのは、きっと黎深が笑っていた理由と同じなのだろうと。ぼんやりと、思った。
「黎深」
「何だ」
「初恋の人の夢でも見てた?」
「初恋?」
「うん」
「ふん。知らんな」
下らん事を言うなとでも言いたげな口調と表情。あぁ真実、そう思っているのだろうから質が悪い。
「…うん、そうだね」
だから百合は笑うしかないのだ。ただ笑って流してしまう。確かに痛む心を嫌という程知ってる癖に、気付かない振りをする。
どうしてだろう、痛みを飼い殺す事なんて慣れ切っていた筈なのに。それが黎深に対する愛情の深さだなんて、冗談でも思いたくないけれど。
「君は、
うんうん、そんな気がしてたんだと、笑う百合に黎深は首を傾げた。おかしな奴だと思って、まぁ良いと、それを契機に漸く起きる事を決めた。
「…頭が痛い」
「寝過ぎ」
「煩い」
絶対お前が叩いた所為だとか、その前に起きる事だよとか、そんな言葉を交わして、黎深はふらふらと顔を洗いに行ってしまった。百合はその後ろ姿を眺めて眺めて、消えるまで眺めて、そして。眼を、瞑った。
「……馬鹿」
そうして小さく微かに室に響いた単語が、貶すというには哀しすぎて。
「そんな顔して、泣いてんじゃないよ」
そうして溜め息と共に零れた言葉は、哀しいというには、切なすぎて。
顔を洗って庭院に出る。冬も明けてきた昊は澄んで蒼く、寒々しいとだけ言ってしまうにはその裏に春の空気を感じられた。そうは言っても夜着のみではやはり寒い筈だが、黎深は気にした風なく庭先に立つ。辺りを見渡して深く息を吸い、吐く。
頭痛が薄れていくのを感じながら、黎深は蟀谷を押さえて暫く眼を瞑った。それは消え行きながらも未だ在る頭痛に対する不愉快故のようにも、忘れかけている夢の跡を辿る様にも見えた。
真実どちらかなど黎深にしても分からない事で、けれど瞳がまた世界を映した時、そんな事は些末な事に成り果てた。
「―――雪?」
黎深の目の前で、目の前を。陽光の中、舞うものがある。
白く白く、白く。蒼に映え、光の中を舞い。風に流され、昊に彷徨う。
放浪するそれは、正に雪。
幻想の様に美しく。夢想の様に、儚い。
あ、ぁ。けれど。
(違う―――…)
手を伸ばす。幻想は消えない。夢想は
それがない。
手繰り寄せる。手中に収め、雪に紛うそれを。
「――――」
そうして思い出した夢に、黎深、は。
『―――庭院の梅が綺麗に咲くんだ』
唐突にそう呟いた黎深に「へぇ」と気のない風に答えたのは、少し離れた場所で大地に腰を下ろす、黎深の身長に幾らも足らない小さな子ども。子どもらしくない子どもは淡々とそう答えて、谷に咲く小さな花々を愛でていた。黎深の方に向こうともしない。
その様子に、周りに咲く花に触発され思い出した事をただ言っただけであった筈なのに、黎深は取って置きの情報を無視された様に感じてムッとした。
別に一緒に見ようとか見に来いとか、そういう事を言いたい訳ではなかったし、無理な事は重々承知だった。願っても望んでも縋っても無理な事は。
だから最初から諦めていたし、最近はその諦めに慣れすぎて、彼に対して何かを共にしようと提案する事ももうない。言い換えれば、ただ共に居る、それだけで満足し切っていた、とも言えるけれど。
兎に角そんな自分の心情なぞ露知らず、黎深は子どもの様にむくれた。それを雰囲気と空気で感じたのだろう、敏すぎる子どもは黎深の方へと振り返り、そしてふわりと微笑した。
『…そんな顔をするな』
立ち上がり、黎深の方へと近付く。大人であれば一歩の距離を、子どもであれば一歩半の距離を保ち、子どもは止まり黎深を見上げる。その顔は未だ笑みを崩さずに、それがまるで子どもを宥める大人の顔であったから。
『………』
黎深は面白くなさそうに不貞腐れた顔に眉間の皺も付け足した。それでも子どもの表情が変わる事はなく、そうして。
『屈め』
言葉で言われ、ちょいちょいと手でも姿勢を低くする様にと言われた黎深は、顔をそのままに大人しく従った。膝立ちになってさえ視線は黎深の方が上にある。
それでも何処か新鮮な視線の高さと、より近くにある子どもの顔に顰められていた眉間から力が抜けたよう。素直なのだかそうでないのか、と子どもは内心そう思ったようで可笑しそうに少し笑みを深めたが、何かを言う事はなくそのまま。
そのまま、黎深に抱きついた。
『――――』
驚愕し体を固くした黎深を笑ったのだろう、くく、と言う声は少なからず先程とは違い揶揄を含んだものであったが、黎深はそれを指摘出来る程、心の余裕はその時なくて。ぱちくりと瞬きを繰り返す。息を詰め、次に何が待ち受けるかを恐れる様に。
張り詰めた空気の中、背に宛てがわれていた子どもの手がそろそろと動く。上に行って、下に行って。そろりそろり、そろりそろりと。ゆっくりと穏やかに行き来する。
宥められているのかと、黎深が気付いたのはその動作が十回近く繰り返された頃。
『せい――…』
子ども扱いだと抗議しようと思ったのか、名を呼び掛けたがそれは子どもの声に遮られる。静かな声、風のような。大地のように温かく、冷えた川底の水の様に清い声で。
『…静かに』
そうして子どもは体を離し、背に遣っていた小さな両の手を黎深の耳に宛てる。ぴたりとくっつけ、そうして世界の音を遮断した。
『――――』
そうすれば不思議な程、黎深には何の音も届かなかった。静寂した世界、沈黙の空間。戦いでいた筈の風も、鳴いていた筈の鳥も、たった今落ちてゆく梢の音も。
直ぐ傍の世界から、見える世界から、隔絶されてしまったかのよう。
それでも不安なんてものを覚える事なく黎深は寄り添う程近く在る子どもに眼を遣る。子どもは笑んだまま其処に居て、尚も黎深から世界を取り上げていた。
何故、という疑問も、何故なら、という解答も挟まず見詰め合う二人。幾許の時が流れたなど、黎深は考える余裕もなく彼を見続けて、彼の笑みを心に刻み込むように見ていた。
そうして不意に、彼の笑みが解かれて。
『 』
口元が、動く。桜唇が開かれては閉じて、白い小さな、並びの良い歯がちらちらと見える。それに気を取られていた訳ではないが、その内容を、黎深が知る事は出来ない。
読唇術など嗜んではいないし、それに口の動きが小さすぎる。あまり動いていないと言って良い程それは振動に似た動きで、だから読唇術の体得の有無など実際はあまり関係がなさそうだった。
『 』
子どもはまだ言葉を紡ぎ織り続けた。何を言っているのかは分からない。独白なのか告白なのか自白なのか何なのか。
分からないまま黎深は聞き続けた。無音を聞き続けた。唇の動きだけを追って、口端に微かに浮かべられたままの笑みだけを見て。
子どもが想いの丈を吐き出し終わるのをただ待った。それを聞けない自分が悔しくて情けなくて、哀しみすら覚えながらただ待った。
言葉は生まれて直ぐに死んでいく。聞くものは黎深ではなく、黎深以外の聞く耳の持たぬ昊や空気や植物と言ったもの。
だとしたら、子どもから零される言葉に何の意味が在るだろう。何の意味を持たせる事が出来るだろう。尊い彼の言葉が無為に消えてゆく。子どもがそう望んだとしたのであっても、許される事ではない気がした。
だから黎深は、この時初めて子どもの手を自身の耳から離そうとした。小さな手の上に自分の手を乗せる。包む様に、そっと。
『……黎深』
…名を、呼ばれたのだろうな。と黎深はまだ返ってこない世界の音を推測した。子どもが笑みを少しだけ減らして黎深を見ていた。まだだ、と言う風なそれに、けれどもう黎深が我慢出来ない事も確かで。
黎深は首を横に振る。もう駄目だと。率直に単純に、そのままを子どもに伝えた。
『清苑』
自身の声すら聞こえない。確かに自分は、声帯を震わせて子どもの名を呼んだ筈なのに。そんな世界はもう、たくさんだと。
『私を、お前の傍に居させてくれ』
―――まだ、その時じゃない筈だ。
…耳が聞こえないというのは厄介だ。自分が何を言ったのか、分からない。何故、子どもが驚いているのか、分からない。何故、子どもが泣きそうに笑ったのか、分からない。そんな顔をしてほしい訳では、なかったのに。
『清苑、清苑、―――清苑』
心許なさの中、黎深は子ども名を呼び続けた。呼び続けて、堪らなくなった様に、今度は自分が子どもを思う存分抱き締めた。
自然、子どもの手が耳から離れる。世界が戻る。どんな小さな音さえも、耳が拾ってくる。こんなにも世界は音で包まれていたのかと上の空で実感し、兎に角黎深は強く強く子どもを抱き返した。子どもが身じろぎしてもびくともしない程、しっかりと。離すものかという様に、いう、程に。
『…痛い』
『…そうか』
『黎深』
『…ん』
『いたい』
『……ん』
『黎深――…』
子どもの声を聞いた。他の全ての音を捨てて、黎深は子どもの声を全身全霊を掛けて聞いた。息遣いすら例外ではなく、声にならない声も聞いた。
世界は其処に在った。先程までは、子どもによって無理に閉ざされ奪われた世界が、其処には在ったのに。黎深は世界を捨てて、子どもの声を聞いた。子どもだけに囚われた。
『……庭院の梅が、綺麗に咲くんだ』
『…ん』
『何時か、見に来い』
『……』
『…約束は要らない…そう、思ってくれれば』
それで良い。
そう、言った黎深は。
『…黎深』
許しを請うような、その子どもの声は聞かなかった。絶望に染まったような声を聞かなかった。涙に濡れたような声も、泣く様に震えた声も。覚えていたのは、感じていたのは、…そう。
子どもが自身の腕の中に居た、その、事実だけ。
それが哀しみの
それで彼の手を取ったのは子どもの落ち度であると、けれど責められる訳もない。だからと言って運命という言葉で片付けてしまえば彼等の悩みも哀しみまでもが汚される。仕様のない事だったと言ってしまえば身も蓋もないが、それが一番適当な言葉で在るだろうか。
彼が選び、子どもが選んだ。その道が偶々重なっただけ。
一瞬であったけれど、その一瞬きの間に、どれほどの幸せが在って、どれほどの哀しみが在っただろう。筆舌には尽くし難く、だから誰もが沈黙を余儀なくされる。言葉にする必要などなかった、それで良かった。それは彼も―――黎深も、知っていた筈だったのに。
「――…清苑」
喘ぐ様に名を呼ぶ。嘗ての名、もう呼ぶ事の許されない、存在しない人の名前。ずっとずっと前、傍に居て喪って、でも巡り巡って傷付きながらも還ってきた彼。
もう会いたいと願い会えない事はないのだ。彼はきっと彼処に居る、黎深が敬愛する兄の邸に優しく笑んで居るだろう。煩わしい遠慮などもう要らない。ただ赴くだけで良い。
以前は適わなかったその無理が、今では簡単すぎる程出来るのだ。出来る、のに。
「清苑」
黎深はただ、哀しげに名を呼び続けるだけだった。足は根が生えた様に動かない。
見せたかった景色が目の前に。あぁ呼べば、嘗ての願いが叶うのに。共に見ようと、見に来いと。約束にまで昇華出来ず、ただ押し付けのような言葉では在ったけれど。この景色を彼と見る事が、敵うのに。
『庭院の梅が、綺麗に――…』
あぁあの時、彼はどんな顔をしていただろう。そうかという風に零された声は、どんな色をしていただろう。抱き締めていたから分からない。聞いていたのに覚えていない。
「せ――ぇん」
昔よりずっと、住む距離は近く、訪問する自由が許されている。行けば居るだろう、呼べば来るだろう。それでも、もう。けれど、もう。
「庭院の、梅が」
―――彼は、黎深の友では、在り得ないから。
「綺麗、に…――」
黎深は頽れる。庭院の土に膝をつく。手の中に、小さな小さな梅の花を抱きながら。今尚降り続ける梅の花を身に受けながら。
夢で彼と共にそれを見た。子どもは黎深の傍に居て、あぁ綺麗だと、確かにそう言ったのに。綺麗な微笑を浮かべ、綺麗な声を零したのに。
夢が霞む。
夢が散る。
梅の花の様。
夢が舞う。
願った景色が此処にある。願った存在は此処にない。
ならばそれは―――意味のない事。何もないのと、同義であると。
梅が霞む。
梅が散る。
夢の後の様。
梅が舞う。
それは崩れる黎深を包む様に。
彼の居ない世界。
―――何もない、風景の中で。
20110102
〈散るなら共にと誓った。いっそ散れば、世界は其処にあっただろうに。散る事は許されず、そして共に咲く事も叶わない。そんな世界ならばいらないと華は嘆く。華が、啼く。綻んだ風景のただ中で。〉