紅華狂乱

[ さらば、友よ。 ]



 本当なら、手放したくなどなかったのだ。其処に家名は関係ない。紅の名など知らない。紫の名がどうしたという。

(ただ私達は、双人(ふたり)で居なければ存在出来ないというのに。)

 …あぁそうだ。なのになのに、なのに。

(離れた手…取り戻せず、紫は藍に手折られた…)

 何故…? 何故だ。

(私達は、双人でなくば、生きて行けないのに。)

 そうだろう…? 同じ存在、唯一の。あぁ、…ならば。

(手折るなら――…紅の、名の下に…)





  青は藍より出でて藍より青し





 黎深がその日邵可の邸を訪れたのは、別段意味のある事ではなかったし、用事があった訳でもない。ただ久しく行っていなかったと思い差して足を向けてみただけの事。それだけだ。別に気になる事なんてない。何も、そんな。

「静蘭、なぁに怒ってんだよ」

 …ピキ。

「なぁなぁ、せーらん、無視すんなって」

 ピキピキ。

「聞いてんのか? せいら―――」
「うるさいこの米つきバッタが」
「ひっでぇの。名前呼んでも返事しねぇお前が悪いんじゃん。それとも何? やっぱ俺がつけてやったあっちの名前の方が良かったりすんの?」
「お前…そんなに私に殺されたいのか?」
「…そんなしみじみ聞くなよ。悪かったよ。だからその包丁手放してくださいお願いしますほんとにマジで」

 ピ、キ。

「こら黎深、そんなに怖い顔しちゃ駄目だよ」

 あの子達に悪気はないんだから。

 茶を啜りながらそう言った邵可は、穏やかな顔のまま悪意と殺意の有無を考えなければじゃれあっている風に見える二人の青年と、それを見て顔を強張らせている弟を見遣った。
 黎深は呑もうとして持ち上げた茶器を何時からか途中で止めていて、それは傍目から見ても大きく震えていた。後少しで茶が零れそうだと邵可は溜息を吐き、けれどだからと言って取り上げて机に置いてやる程、優しくはない。

「まぁ、君と彼よりか仲が良いのは認めるけどね」

 敢えてそんな事を言っちゃうお兄ちゃんである。それを聞き、固まっていた黎深は邵可を見た。

「な、何なんですかあの若造は…ッ」

 あぁそうか、と、邵可はポンと手を打つ。そう言えば彼の古馴染みであるという燕青が此処に来てから黎深が来た事はなかった事を思い出す。それにしたって彼の様子を『影』に見張らせているのなら知っていても良さそうなものだが。

(まぁ黎深だし、ぶっちゃけ彼自身、彼の周辺で死に触れるような事がなければ、本当の意味での彼の様子以外の事は聞き流していそうだね、黎深だしね)

 好きなものしか好きではなし、興味のあるものしか興味がない。幼い頃と変わらない。その一方的な見方を変えさせる為に自分は黎深から離れ、世界を広げさせようとした。
 それにより確かに昔よりか黎深の世界は広がった気はするが、しかし、それでも矢張りその性格は変革するには至らなかった。寧ろその傾向が強まったと言っても良い。その理由が分かるからこそ、邵可は小さく溜息を吐いただけで諦めたけれど。

(砕けた硝子を掻き集めて、傷付いても血を流しても、もう零さないようにと握り締めて)

 一度喪いかけた存在。だからきっと、黎深はもう喪わない。喪わないようにと、藻掻いている。

(…まぁ、秀麗の時と同じように裏工作が主だから、過去の心の繋がりが幾分強いくらいで、関係としては秀麗とのそれと然程変わりはないんだけど)

 一瞬柔らかく苦笑し、けれど直ぐに笑みを掻き消して、それもしょうがない事だと邵可は口喧嘩を楽しんでいる風の彼を盗み見る。彼は黎深と二人きりになる事を望んでいない。大勢の中、一言二言の言葉を交わす事すら拒むだろう。

(……それだけじゃない)

 本当は、知っている。彼が、邵可邸(ここ)に居る事すら躊躇っている事を。その度にさり気なく邵可が根回しをしているから、その危機には陥っていないけれど。

(そうなれば、黎深は発狂しかねないね)

 喪う事を畏れている。黎深も、そしてそれは彼もだ。だからこそ微妙な平行の関係を続けている。存在を一番に意識しているのに、声を掛け合う事はない。視線が一瞬触れ合う事も、恐らく今後ないだろう。

(誰よりも近しい存在。無二の双子。なのに…)

 溜息は心の中で砕け散る。自分にその権利はないと邵可は思う。知っていて利用したのは邵可だ。彼の存在をちらつかせて黎深を当主に据えたのだ。こうなる事など、端から分かっていたのに。

「……兄上?」

 不意に呼び掛けられた邵可は「ん?」と首を回らせ、いきなり考え込んでしまった兄を心配すれば良いのか、彼に馴れ馴れしい髭面の男を睨めば良いのかを決めかねるように視線を揺らす弟を見た。
 黎深が恨み言を言った事はない。あぁたった一度だけ彼を喪った時に零されたが、それ以降は聞いた事も、それを含んだような視線を貰った事もない。絶対の信頼と好意を、未だ持ち続けてくれている。

「黎深」
「はい」

 それに一度だけ、報いても良いだろうか。そうふと思ってしまったから、邵可は口を滑らせた。嘘ばかり吐く自分の言葉を、それでも信じてくれる黎深に。一生に一度あるかないかの、混じり気のない、本当の事を。

「あのね」

 喜んでくれれば良いと思った。…ただ。言う台詞を間違えたかな、とは、実際ちょっと、(後から)思った。

「彼、燕青君はね、―――…」





 数日後。

「な、なぁ静蘭! 最近凄腕の兇手でも雇ったのか!? そんなに俺、嫌われる事した!!?」
「はぁ?」

 と、静蘭が燕青から聞くには。

「どうやら、数日前から行く先々で命の危険に曝され、それを持ち前の野生の勘でなんとか凌いでいるそうなんです。俺じゃなかったら死んでるぞ!、と、自慢なんだかそうじゃないんだかよく分からない言葉を吐かれたのですが」
「へ、へぇー…」

 どうしたんでしょうね、当然、私がそんな暇な事に勤しむ訳も、そんな兇手を雇うのにお金を注ぎ込む訳もないのですが。と、のほほんと自分が煎れたお茶を啜って言う静蘭に、邵可は頬が引き攣るのが分かった。

(あちゃー、やっぱりあの言葉はまずかったみたいだね)

 邵可も同じように静蘭のお茶を味わいながら思い返す。

『彼、燕青君はね、あの半年間の殆どを彼と一緒に過ごした、ふかーい仲なんだよ』

 嘘じゃない。嘘じゃない。本当の事でないかも知れないが、少なくとも背中を預けて戦ったくらいだから、浅い仲ではない。

(……うん、でも、やっぱり自分が、悪い、のかな?)

 特に燕青君方面の被害を考えると、と邵可は口を滑らせた事を少し後悔した。

「あー、でも、まぁ、まだ何事もないようで、良かったね」

 あははは…、となんとか空笑いでそう言えば。

「まぁ、あいつの事ですから」

 死んでも死にませんよと、何でもない事のように言う彼に。

「……そうだね」

 邵可は少し、淋しく笑った。

(…自分は少し知りすぎていると思う)

 彼の事も黎深の事も、そして、あの子達の事も。裏の顔を持つという事はそう言う事で、優しい顔をしながら気心の知れた仲の人間の観察も怠らない。何より、彼等が自分に心を隠そうという人間ではなかったから、探ろうとせずとも分かってしまった節もある。
 だから少しだけ、淋しくなった。
 彼が燕青の事を言う顔は何処か優しく、だからその何分の一でも良い、黎深とあの子達にもそういった顔を見せてやって欲しいと思うのだ。黎深とあの子達が彼の失踪に絶望しながらもその存在を渇望し、発見された後も彼がまた笑える日を強く強く待ち望んでいた事を、邵可はよくよく知っていたから。それでも。

(……無理な話、か)

 話す事はおろか、顔を合わす事すら危険になりかねないのだ。望んだ所で…、と邵可が思った、その時。

「…馬鹿、ですよね」

 茶器を両手で包み、唐突に静蘭は言う。視線を中腹まで減った茶の水面を彷徨わせて。

「顔をつき合わせて言葉を交わさなきゃ分からないような、そんな関係を築いてきたつもりは、ないのに…」

 哀しげで、優しくて、でも穏やかな、微笑。そのどれもが等分に混じり合って、何とも言い難く綺麗で、けれど微かに淋しくて。
 あぁそうだと邵可は嘆息する。黎深やあの子達だけではないのだと。彼もまた、見えない壁に阻まれる者。
 触れ合う程近くにいるのに、彼等の間にある隔たりの、なんと遠い事だろう。本来なら隣り合う筈の色と色。解り合えた筈だった。啀み合いながらも、彼を挟んでなら、存在し得た筈の黎深とあの子達。

(…もうその光景は、夢なのだろう)

 見る事は最早ない。一度だけ見る事の出来た、白昼夢のような。哀しいだろう。黎深もあの子達も、自分も、少しだけ。
 でも誰が一番嘆いているのか、分からない訳も、ないから。

「春の次に秋が来たような、きっとそんな感じなんだよ」
「え?」

 邵可は微笑む。一番心砕いて、哀しんで、嘆いたであろう子どもを見て。

「喪うってそういう事」

 優しく優しくそう零す。忘れては駄目だよと。

「会えないって、そういう事なんだよ」

 だから分かった風にそんな事を言わないで。自分の心に嘘を吐かないで欲しい。そんな言葉を言う代わりに。

「忘れないで。人は、喪う事に慣れてないって事をね」

 そう言って薄紫の髪を撫でれば、彼は僅かに瞑目した後、ふわりと笑って肯いた。見えない涙が、流れた気がした。





「黎深」
「はい」
「君、やりすぎ」
「……」

 深夜、机案を挟んで向かい合う紅家の兄弟は、今宵は秀麗曰く父茶と呼ばれるものを飲んでいた。しかし愛のお陰で簡単に父茶は飲めても兄直接のお咎めはそうはいかないらしい。黎深は項垂れてちろりと上目遣いで兄を見る。許しを請うようなそれにも邵可は知らん振りを決め込んで、尚も。

「嫌われるよ、彼に」
「うっ…」
「燕青君は、彼を支えてくれた人なんだから」
「……わ、私だって…」
「支えていたのは彼の方だと思うけど」
「………」
「…言い過ぎたよ」

 兄に怒られ彼に嫌われるかも知れないとなったらどうして良いか分からず泣きそうな黎深に、流石の邵可も口を緩める。それに実際悪いのは邵可だったりするから、本来強い事を言えた義理ではないが、それはそれ、力関係というやつである。

「本当に君は、一直線なんだから」
「……猪みたいに言わないでください」
「まっしぐら?」
「…猫でもありません」
「馬鹿の一つ覚え」
「せめて一途と…!」
「そうだね」

 むすっとむくれた黎深に、邵可は彼に向けたのと同じくらい、優しい笑みを向けた。

「一途だね、君は。だからこそ、彼も此処に居るんだろう」

 心配、と言うには過保護な黎深の一方的な守護。嫌うだろうと思えば、彼は気付かない振りをし続けている。そうして黙認しているのは、黎深のその心を、彼は分かっているからだろう。

(もう寄り添えない色。隣り合う事もない。それでも、存在を許し合えるなら)

 だから、と邵可は言う。

「守りなさい、黎深。今度は、絶対に手放すんじゃないよ」

 それは、何気なく言った、邵可にしてみればただの励まし程度の言葉だった。邵可はどちらもがまた傷付くのを見たくなくて、だから喪わないよう努力しなさいと鼓舞したのだ。
 ただそれだけの言葉だった。それ以上の意味はなく、それ以下でもない。はいと黎深が素直に頷く事を期待して、そうなるだろうと確信していて、けれどそれは些か違った方向で叶えられた。
 その言葉を聞いた途端、黎深の表情が薄く変わったのだ。瞬き一つの間のそれは驚く程小さくて、だがとてつもない変化だった。

「―――…っ」

 ぞっとした。得体の知れない霊気に触れたような感覚。喉に息が言葉が突っ掛る。何かを言わなくてはと思って、何故か諌めなくてはいけないと、押しとどめなければならないと思うのに。

「……えぇ」

 しかし結局何も言えなかった。

「えぇ、兄上」

 言おうと藻掻く邵可を知らず、しかしそんな邵可を凝視しながら、黎深は言葉を紡ぐ。

「今度こそは、―――…絶対に」

 ゆらりと笑んだ黎深。凄絶な、幽鬼に似た、笑み。それを零して、黎深は立ち上がり姿を消した。見た事のない弟の表情に邵可は絶句し、そして呼び止める事は叶わなかった。
 その黒墨の瞳に交じるそれが狂気だと気付いてしまった。何時の間に育ったそれを知らず、しかしそれを自分の言葉が開花させてしまった事に残酷にも気付かずにはいられなかった邵可は絶望に喘ぎそうになる。
 止められない。もう自分の言葉も、通じない。そう、分かってしまった。

「黎深…」

 推して知るべきだった。彼への執着を、あの時の絶望を。耐え難いあの時期を乗り越えたのだからと安堵し切っていた。
 馬鹿な。今も彼に関して手加減など一切して来なかった黎深に、何を期待したのだろう。喪う事に慣れていないと彼に諭すように言ったのは自分なのに。黎深が一途であると認めたのは自分であるのに。
 何も、分かっていなかった。
 ならばあれは、燕青の件は、ただの脅しではないのだ。ただの嫉妬ではなかったのだ。本気で兇手を差し向けたのだろう。真剣に彼を、殺す、つもりで。

「黎深…!」

 室を出て、邵可は黎深を追いかける。遅すぎた事など分かっていたが、それでもそうせずにはいらなれなかった。廊下を抜け、扉を抜け、門を抜けても、既に黎深の姿はない。辺りを見渡し、閑散とした夜の道に邵可は慄く。
 昊を見上げれば、満月。宵闇にぽっかりと開いた穴。邵可はそれを、呆然と見詰め続けた。





 ふわふわとした心地だった。意味もなく浮つき、浮き足立つ。ふふ、と笑った事にも、意味はない。あぁ楽しい嬉しいと、呟いた事に気付きもしない。
 黎深は月に酔っていた。絶望に酔い痴れて。どうしてやろうかと、笑った。
 兄に二度と喪ってはいけないと諭されて、許しを得て、黎深はそれを実行に移そうと考えた。誰に心奪われて喪うのも、誰に傷付けられて喪うのも、嫌。そう思うのなら、解決策はあまりにも簡単で、そしてそれは強固に彼を護るだろう。

「……ふふ、ははは…っ」

 黎深は笑った。酷く酷く愉しげに。悦んでいた。くくと笑い、なぁと心の中の彼に問う。

(どんな衣なら、綺麗なお前に似合うだろう)
(どんな檻なら、お前は気に入る?)
(どんな鎖なら、お前を縛り付けて置けるだろう…?)

 黎深は、笑った。心の底から、悦んだ。明日にでも衣も檻も鎖も全て作らせよう。気に入らなければ作り直させれば良いだけの事。ならば後は、そう。

(捕まえる、だけ)

 笑みが溢れる。瞳の狂気が移ったよう。笑声にも狂いが混じって。
 紅が、狂う。





戻る



 20101228
〈たとえばの、はなし。〉





PAGE TOP

inserted by FC2 system