The World

[ 雨鈴鈴曲 ]



「……離せ」

 それは小さな声。
 反発も落胆も、怒気すらない、雪の声。
 あぁならば、踏みにじればどうなるのだろう。
 本物の雪のように汚れてしまうのだろうか。
 汚す事すら躊躇う白が。
 思うものの、畢竟、思うだけに留めておいた。
 私を踏み留めさせたのは、私が持ちうる理性ではなく、掴む繊手の持ち主の瞳の強さだった。
 跪く事を知らず、ただ誇りと潔癖なまでの孤高さが私の暴走を押し留めた。
 それでも手は離さない。
 熱が徐々に籠もる。
 不快感が増す。
 それでも互いに涼しい顔をして、睨み付けるでもなく、視線を交わし続けた。
 何の意味が、と問われれば、意味などないと言い切れる。
 何の為に、と聞かれれば、恐らく互いの為にと言うだろう。
 言葉もなく、それ以上の行為もない。
 掴んで掴まれて、見て見られて。
 …そう。
 意味などない。
 ただ、互いの為に必要であった。
 無言の応酬は、口に出せない言葉の分だけ、長く。

「離せ、黎深」

 だからきっと、こうして沈黙が壊されたと言う事は、彼の方は既に思いの丈を沈黙の中に紛れ込ませたからだろう。
 普段なら、此処で終わり。
 唐突に無言の時を始めるのは私の特権であったが、終わらせるのは相手の彼の特権であった。
 それすら、無言の中で交わされた約定。
 けれど今日、繊手を掴む私は、その契りを無視した。

「…黎深?」

 訝しげに名を呼ばれる。
 常と違うと、声に不可解さが混じる。
 それにすら心を動かされながら、けれど彼の手を離す事はなく、ただ、彼を見詰め続けていた。

「黎深」

 許された筈はなかった。
 けれど不快の色を見せず、怒りを露わにしない手を掴まれたままの彼に、甘えた。
 多分、ずっと前から、私は区切られる時を嫌悪していた。
 憎んでいた。
 何故永遠ではないのだと傷付いていた。
 傷付いて、そして、

「…黎深――――泣くな」

 哀しんで、いた。

(何処かで知っている)

 今向き合う現実が幻想だと。
 一瞬でも気を抜けば水泡に帰す。
 そんな夢を、見続けている。
 何時からだろう。
 現実は幻想に変わっていった。
 徐々に濃度を増していく夢に変わって、現は酷く儚くなっていく。
 気付いた時には遅かった。
 もう後戻りは出来ない。
 なのに進む先は地獄にも等しい夢の終わり。
 ならばと停滞を望んでも、彼はそれを許してはくれない。
 優しく笑んで手を離す。
 何も言わないまま、次があるような素振りだけを見せかけて。
 離れる度、会う度に、幻は実体になっていく。

(何時、その幻想は現実に優るだろう)

 後少し、と何処かで誰かが囁いている。
 あぁそうなのだろう。
 後少しで、この夢の終わりを見るのだろう。
 幾ら嫌でも憎んでも、哀しんだとしても。
 彼は其れを選ぶだろうし、私に其れを選ばない道はないのだろう。
 だからこれは、酷く意味のない行為だった。
 彼の手を離さない。
 それに、何の意味があるのだろう。
 何の意味もない。
 そして恐らく、誰の為にもならないのだ。
 それが酷く哀しい。
 哀しい。
 悲しい。
 嫌だ。

「清、苑」

 それでも何度だって私はお前の手を掴むだろう。
 離される事が約束された道であっても。
 馬鹿馬鹿しい程同じ道を歩み、愚かな程お前を逃すまいと力を込める。
 そうして、最後。

「…――黎深」

 消えゆくお前の涙を見ながら、私は夢から覚めるのだ。



 あの日出来なかった事を、延々夢に見続ける。
 目覚めなければ良いのに。
 傷付いても傷付けても、夢の中でずっと手を繋いでいられたら。
 言葉などなくて良い、視線を交わすだけで構わない。
 不可思議な程しっかりと感じられる体温と、傍に居るという感覚。
 それがあれば、他に何も、要らない。
 何も要らない―――のに。

 ―――おかえり(﹅﹅﹅﹅)

 現実が目前に、鎮座する。





 色が失せる。
 音が消える。
 心が、冷える。

 此処は君のいない世界。





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 20100701
〈お前も、こんな夢を見るのだろうか。〉





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