▼静蘭+楸瑛?

「私欲でこの身を穢すものか…! この身はあの方の…っ」

 言ってギリッと唇を噛み締め、瞬時に貌を引き締める。

「触れるな」

 先ほどの激情など遙か昔の事、とでも言うように。
 凪いだ貌には何もない。

「…出て行け」

 凪いだ声には、冷たさしか見つけられない。

「……はい」

 反論は、許されない。



▼静蘭+楸瑛

「…身分が高くなれば、何時死んでも可笑しくないでしょう?」

 どうして、そんな事を笑顔で言えるのだろう。
 どうして、嬉しそうに、笑うのだろう。
 どうして。

「どうして…!」

 それは、絶望の声だった。
 けれどそれを清苑の顔をした静蘭は微笑一つで片付ける。

「もう、私は要らない」

 何でもないように。
 ただそれだけ、とでも言うように。
 そんな言葉を口にする。

「……っ!」

 どうして、許せるだろう。

「貴方は…!」

 どうして、黙っていられるだろう。

「貴方はそうして、また———」

 どうして、再度喪う事が出来るだろう。

「———私を裏切るのか…!」

 ただ一人の、王を。



▼清苑+劉輝+楸瑛


 劉輝の呆然とした声と、楸瑛の厳しい声。
 二人は、清苑が何を言いたいか、正確に分かっている。
 そして清苑も、隠そうなどとは思わなかった。

「彼女はとても大切な一手を担ってくれた。幼い頃から官吏になる事を諦めるなと言い聞かせた甲斐もあるものだ」

 官吏が男でなければならないと、彼女の父は幼い彼女に教えては居なかった。
 そして、彼女自身、官吏になる事を夢見ていた。
 そしてそんな所に、清苑は拾われた。
 そんな偶然が三つも重なっただけの話だ。
 だけ、と言うには、奇跡的すぎるけれど。

「劉輝が王たる座に着きながら、王たる資質を持ちながら、それでもただ私を待ち続けるような者だったら、私は迷わず劉輝を玉座から引き摺り下ろすつもりでいた」

 言葉は詰まる事無く、優しい雰囲気を崩す事無く、笑みを消さないまま、清苑は淡々とそう言い切った。
 それは、清苑が王として君臨する時代があったかもしれないという、示唆を含んでいた。

「ただ惰性で続く王政に、存在するに足る価値を私は認めない」

 そんなものの存在を、清苑は許さない。

「ねぇ、劉輝」

 優しく、優しく、兄は弟の名を呼ぶ。
 なのに、弟はぴくりと小さく震えて。
 震えは、断続的になった。

「ぁに、…うえ……」

 舌足らずだったあの頃のように。
 けれど、明らかに恐怖を含んだ声で。

「清苑…兄上……」

 弟も、兄を呼ぶ。
 其処に、幾らかの救済を、求めて。



▼清苑+劉輝

「…最初、良く似ていると思ったんだ」

 愛おしそうに、その視線は劉輝の顔をなぞる。
 けれどその瞳は、劉輝を見ては無くて。

「本当に、似ている…。……お前は、………あの人に、そっくりだ」

 劉輝は、人の心に聡かった。
 どんな表情を作っていようと、どんな言葉を紡ごうと。
 その人間の瞳を見れば、ただそれだけで感情を見抜けた。
 どんな奥深い所に隠した感情でも。
 それは過酷な幼少期からの癖だった。
 その劉輝ですら、清苑の気持ちは何時だって分からなかった。
 清苑の表情に、嘘はない。
 清苑の言葉に、嘘はない。
 それはただの本能だった、確証はない。
 けれど、劉輝は何時だってその優しい兄を少しだけ恐れていた。
 清苑の瞳は何も映さなかった。
 硝子のように、ただ、透明な。
 劉輝は、優しい兄の、その瞳だけは恐れた。
 けれどその恐怖を凌駕するほどに、清苑は優しすぎたから。
 大好きだった。
 いや、今でも大好きだと言い切れる。
 どんな兄でも、劉輝は清苑が、静蘭が、大好きで。

「ぁに、ぅぇ……」

 劉輝は呟いて、でも清苑の瞳が変わらないことを知った。
 もう、無理だと悟った。
 だから。

「……清苑」

 顔を、引き締めて。
 腹に力を込めた。
 自信はあった。
 その自信は、清苑の瞳を見て、確実なものとなった。
 光の入った瞳は、最早、硝子ではない。
 そして、清苑は、誰かに手を伸ばす。

「清苑は、……頑張った、でしょう……?」

 幼い、声。
 まるで過去に戻ったかのように。
 清苑の顔は、子どものそれだった。

「あぁ…。よく、頑張った。よく国の為に、働いてくれたな」

 手を握れば、弱々しく握り返し。
 微笑みかければ、確かに返ってきた。

「…褒めて、……ください、ます……か…?」

 その微笑みは、綺麗で。

「…っあぁ。お前は、私の誇りだ」

 その顔を見て、劉輝は泣きたかった。
 清苑は何時だって劉輝にそんな顔は見せなかった。
 この顔は清苑が幾つも持つ仮面のうちの、「兄」という仮面ですらない。
 これは限りなく清苑の本質に近いのだろう。
 だから、劉輝は泣きたかった。
 けれど泣かなかった。
 そうすれば、後悔する。
 だから。

「そう、………良かった……。貴方の、お役に立て、て……」

 ———父上。

 声はなく、唇だけが紡いだ言葉。
 それが、最期の言葉だった。



▼劉輝+楸瑛

「私は、媒介、みたいなものだったのだろうな…。兄上と、父上の…」

 ぽつり、と呟いて、それがあまりにも似合いだったから、泣きそうになった。
 あぁ、そうだ。
 兄上は、結局、私に父上の面影を重ねていたのだった。
 それだけではなかったにしろ、そそいでくれた愛情の幾許が、純粋に私に向けられたものだったのだろう。
 泣きたく、なる。
 けれど、涙なんて流れず、ただ笑いだけが零れた。

「劉輝様、そんな…」

 楸瑛が硬い声で諫めるけれど、だってそう感じてしまったものは仕方ないと思うのだ。
 己を卑下しているわけでもない。
 ただ、純粋に客観的に考えて、そう思ってしまった。
 自分ですらその結論に至ったのだから、楸瑛なんて劉輝よりも早く辿り付いただろう。
 だから、それ以上のことが言えない。
 違うなんて言い切れない。



▼静蘭+劉輝

「私は彼と似てるから」

 そう言った静蘭を、劉輝は不満げに見やる。

「似てませんっ!」

 何処が如何似ていると言うのか。
 あの狸の霄大師と綺麗な清苑兄上が似てるなどと、誰が思うだろう。

「絶ぇっ対に、似てません!!」

 力を込めて言い切った劉輝を、静蘭は小さく笑って、けれど何も言うことはなかった。



▼清苑

静蘭(ヽヽ)なら、こう言うだろう?」

 そう言って笑った、清苑(ヽヽ)



▼静蘭

 全ての人が幸せになれる方法なんて存在しないから。

「だからせめて、自分が幸せになって欲しいと願う人だけでも、そうなって欲しいから」

 それが傲慢だと、静蘭は思わない。
 全ての人が、と願うほうが、どれだけ傲慢か。

「だから、それで良いのだと思いますよ」

 後はただ、その一部分の人が幸せだと感じる幸せが、できるだけ多くの人と共有されることを祈るしか、ないから。



▼邵可+静蘭+秀麗

『何時からっ…』

 珍しく声を荒げる邵可を、静蘭はただ無表情でじっと見つめていた。

『何時からですか…!』

 答えなさい!、と邵可は静蘭を怒鳴りつける。
 本来の邵可なら、何があろうと人に怒鳴りつけることなどありえない。
 それが「家族」ならば、尚更のことだった。

『静蘭っ!』
『とーさま?』

 張り詰めた空気に、幼子の声が混じる。
 焦りの為に気付かなかった気配に、邵可の顔にはっきりと後悔の色が浮かぶ。

『秀麗、いつから…』

 そんな問いを、幼い秀麗は無視して。

『とーさま、せーらん、いじめちゃ、だめ』

 とてとてと一歩ずつ近づきながら、秀麗は拙く言葉を紡いでいく。
 ようやく辿り付いた父の足元に引っ付きながら、秀麗は静蘭を守ろうと弁を振るう。

『せーらん、泣かしちゃ、だめなの』



▼静蘭+邵可+劉輝

(————暑い…)

 久々の猛暑だった。
 汗は玉のように吹き出し、輪郭を伝って流れていく。
 留まらないそれを拭うことすら諦めて、静蘭は荒い息を吐く。

(…暑い……)

 気温が高すぎて、地面が蜃気楼のように揺らめく。
 水をかければすぐさま蒸発してしまいそうだなどと思った。

「早く来い、静蘭!」

 かけられた言葉通りの行動をしようとして、静蘭は酩酊した時のように視界が定まらないことに気がついた。

(……あれ…?)

 声をかけたはずの人間の顔が、分からない。
 知ってるはずだ、だって聞いたことがある、何度も。
 けれど。

(…思い、出せない)

 思い出せないなら顔を見れば良い。
 そうしたいけれど、頭は急に重たくなったかのように前すら向いてくれない。
 視線はどんどん下を向く。
 それと共に意識がふらふらしてくる。
 此処は、何処だっただろう。
 何の為に、来たのだったか。

(分からない……)

 伝う汗の感触だけが、静蘭を現実と繋ぎ合わせていたけれど。

「静蘭?」

(…あつい……)

 視界がさっきよりも揺らぐのを感じる。
 駄目だ、としっかりと意識を保とうと手を握り締めるけれど。
 その瞬間から意識は流れ落ちていく。

(駄目、だ……———)

 倒れるわけにはいかない。
 まだ、倒れるわけには。
 そう、思うのに。

「っ静蘭…!!」

 駆け寄る衛士。
 真夏の空の下で、紫の髪が花のように咲いた。


「邵可っ!!」

 劉輝が楸瑛と絳攸を引き連れて邵可邸に着いたのは、静蘭が倒れて邵可の家に運ばれたと聞いてから然程も経たない頃だった。

「静蘭はっ…!」

 一介の衛士の為にわざわざ王が来るというのは、事情を知らないものならば相当可笑しく見えるだろう。
 けれど、邵可は劉輝の心が分かるから。
 ぽんぽん、と、安心させるように頭を撫でる。

「落ち着いてください、劉輝様。静蘭は大丈夫ですよ。恐らく熱中症でしょうね」

 今年の気象は少しばかり普段と違っていた。
 朝廷でも官吏がバタバタと倒れているのだ、外に居た静蘭が倒れるのは可笑しくはない。
 邵可の言葉は、そんなことを暗に含んでいたけれど。

「本当に…?」

 ぽつりと、劉輝は邵可に縋りつきながら震えた声を零す。
 その言葉の意味が分からなくて、邵可が首を傾げると。

「本当に、熱中症なのか…!?」

 泣きそうな瞳にぶつかった時、邵可は少しだけ心が動き、けれど結局笑うだけに留めた。

「……本当ですよ」

 だから、安心なさい。

 そう言って、邵可はまた劉輝の頭を撫でた。
 それは疑いの眼差しを安堵の眼差しに変える効果を持っていて。

「そう、か………」

 静蘭が倒れたと聞いた時、劉輝の心に過ぎったのは、静蘭がまたいなくなるかもしれないということだった。
 気付いた時には既に身体は邵可の家に向かっていて。
 後ろからはしょうがないといった顔で楸瑛と絳攸が着いてきていた。
 仕事はまだ机に山積みで、今日中に終わるかさえ、微妙な量だった。
 それでも。
 全てを捨て置いても。
 劉輝には静蘭の許へ行かないという選択肢を切り捨てることが出来なかった。

「……良かった…!」

 二度と喪うのはごめんだった。
 あんなのはもう、一度で充分だ。
 一度でさえ、身を切られるような思いをしたのだから。

「ところで邵可様、その静蘭とは会えますか?」

 嘆息する劉輝の脇でずっと沈黙を守っていた絳攸が、ふとそう聞いた。
 ばっと劉輝が絳攸を見れば、ぷい、と視線を逸らされた。

「どうせ会うまで帰らないんでしょう?」

 絳攸が言わなかったそれを、楸瑛が補う。
 まったく出来た臣下だと思う。
 凸凹の様で居て、そのくせちゃんとした形を作る二人は、劉輝の願うことをいつだって叶えてくれようとしてくれる。
 出来ることと出来ないことの差は在るけれど、出来るだけ叶えてくれようとする二人に、劉輝は深く感謝した。

「そろそろ起きる頃だし、静蘭も喜ぶでしょう」

 邵可は、そう言って笑った———のに。


「お帰りください」

 顔色は悪く汗もまだ引いていなかったが、それでも静蘭は毅然とした態度で劉輝達を迎え、そして拒絶した。
 劉輝達を視界に入れた途端の出来事だった。

「静蘭?」

 突然の事に、言葉を忘れて立ち竦む劉輝達。
 唯一言葉を発した邵可だって、落ち着いたままではいられなくて。
 それでも、静蘭は構うことなく捲くし立てる。

「何故一国の主とも言うべきお方が此処におられるのですか。李侍郎も藍将軍も、何故この方と共に此処へいらっしゃる。たかが衛士一人の為に」

 侮蔑すら含んだ言葉に、怒りよりもただ、別の感情が溢れてくる。

「わ、私はただ、兄上が——…」
「私は貴方の兄ではございません」

 ただ、戸惑うばかりだった。
 劉輝も楸瑛も、絳攸も邵可も。
 此処には部外者などいないのに、何故そんな頑な態度を取る。

「静蘭、主上は心配で来てくださったのだよ?」

 そんな邵可の言葉も。

「理由になりません」

 一言の元に切り捨てる。

「官吏が少ない今、主上並びに李侍郎、藍将軍は城に居なければならない。そうしなければ機能するものも機能しない。私如きを見舞いに来る暇など、ないはずです」

 正論だ。
 何も言葉が出ないほどに、静蘭の言葉は正しい。
 だけど。

「余はっ、心配、だった……。また、…静蘭が、いなくなるのではと…!」

 恩を売るつもりも、変に意識させたいわけでもない。
 ただ怖かった。
 居ても立っても居られないほどに。
 二度目の喪失は、もう、嫌だったから。

「だから…!」

 子どものような理由だ。
 分かってる、静蘭が正しいのだ。
 それでも、譲れるものと譲れないものがある。
 この気持ちは、明らかに後者だった。

(————兄上。たった一人の、私の)

 それでも。

「……お引取りください」

 静蘭は、最後まで敬語を崩そうとはしなかった。


「……静蘭。何も、あんな言い方をしなくても」

 珍しく咎めるような言い方の邵可に、静蘭は小さく笑って、言い放つ。

「邵可様は何時まで甘やかすおつもりですか?」

 言われた言葉に、邵可は小さく息を呑む。

「邵可様の優しさは、飛べるはずの鳥の羽根をもぎ取るようなものです」

 違いますか?

「私は、鳥を空に還したい」

 傷ついただろう、怪我も沢山負って。
 けれどもう飛び立てるはずだ。
 傷を癒せるだけの時間は、もう過ぎたから。
 一緒に空を飛んでくれる仲間も、見つけた今なら。
 だからこそ。

「何かに縛られているべきではないのです」

 それがどんなに大切でも。
 例えどんなに離し難くとも。

「それが私だと言うのなら、私の存在など、ない方が良い」
「静蘭…!」

(———冗談ではない)

 あぁ、きっとそうだろう。
 劉輝が後一歩踏み出せないのは何時だって静蘭を、清苑を喪ってしまうことを恐れているからだ。
 だからと言って、どうしてその理論を肯定できるだろう。

(冗談ではない…!)

 誰かを失うのはもう嫌だ。
 そう思うのは、劉輝だけではない。

「私は、あの子の足枷になるべきではないのです」

 それは違うと、邵可は静蘭に言ってやりたかった。
 誰かが枷になって生きていける人間も居る。
 静蘭が何かに縛られなければ生きていけないように。
 けれど、結局邵可は何も言えずに、静蘭を見つめるしかなかった。





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