破片(一)

[ 擾乱の濫觴 ]



 静謐な水面(みなも)は、揺れる事を知らない。
 溢れそうな程満たされた杯は、けれど溢れてはいなかったのに。
 たった一滴の衝撃。
 それは水面を揺らし杯から水を零した。
 保たれていた均衡が崩されて。
 祭りが始まる。
 殺戮の舞。
 裏切の刃。
 瞞着(まんちゃく)の言。
 兇手の闇。
 骨肉の毒。
 それらを全て紙一重で交わし生き残らねば。
 明日はない。
 事の発端である彼女は、小さく笑って安堵する。

(あぁこれで、あの方は私の―――)

 その笑みは、邪気(あどけ)ない少女の、それだった。





  夢想の終幕





「……私を、利用なさいましたのね」

 肯も否も、彼の口からは零されず。けれどその口元に刻まれた、勝ち誇るような微笑。分からない筈が、ない。

「私の策を、この牢獄からあの子を出す為の格好の理由に…」


  ―中略―


「愛していらっしゃいましたの?」

 鈴蘭の問い。戩華は笑う。答える迄に、逡巡すらなく。

「私はお前を一夜のみ愛した。清苑はその一夜がすこしばかり長かっただけの事だ」


  ―中略―


「…鈴蘭」

 可笑しな事、と鈴蘭はふと思う。戩華の声に迷いが生じるなど。英断と呼ばれる残酷な決断を息を吸うようにしてきた王が、何を躊躇うのか。気になって鈴蘭はその背をじっと見つめて。

「清苑は全てを知っていたぞ」

 その言葉に、息が、凍った。

「ただ、最終的な確たる証に辿り着けなかっただけだ。誰がこうなる事を願い、自分を陥れたのかは……」

 其処で言葉を区切り、一つ戩華は嘆息して。

「流石、お前と私の子どもだ」

 二度と鈴蘭に振り向く事なく、冷たさ漂う牢を出た。鈴蘭はただ、その背を見送るしか、なくて。





 清苑の態度が変わった事など、一度としてない。頬を緩ませただけの冷たい表情。声も揺るがない。義務としか言いようのない訪問を続けて。

(…それが既に、貴方の仮面だったのかしらね)

 きゅ、と手を握る。そうさせたのは鈴蘭だ。愛せなかった。どうしても、鈴蘭には清苑を愛す事は出来なかった。それが全ての始まりだった。清苑は母に手を伸ばす事を止めた。話しかける事を止めた。助けを求める事を止めた。何かを学ぶ事を止めた。母と共に住む事を止めた。

(それは、誰の為だ)

 今なら、分かる。

(…清苑を忌避した、私の、為ね)


  ―中略―


 清苑の瞳から、何かが見える。雪に輝くそれが何かを認識した時。鈴蘭は、確かに幸せだった。それだけで、鈴蘭はずっと願っていた幸せを手に入れた。

(―――愛しい我が子)

 漸く、貴方は私の為に泣いてくれたわね。





 20090401





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