銀鼠(三)

[ 蒼穹の薄片 ]

 共に居た時間の長さを考える事は無意味だった。
 大事な事は、共に居て、一緒に居たいと願った事。
 そしてそれは現実になると、信じていた。
(なのに、消えてしまった)
 森を駆ける。
 木に登る。
 川を飛び越えて。
 あぁどれくらいが経っただろう。
「はぁ、っは、ぁ…!」
 立ち止まれば、それだけ遠ざかるような気がした。
 当てなんてない。
 それでも、我武者羅に走り続けて。
(それしか、ないんだ)
 絶望に似た思いで、そう呟く。
(俺は、あいつの事、何も知らないから)
 何処から来たのかも。
 帰る場所も。
 本当の名前すら、知らない。
(全てはこれからだと思ってた)
 次があると思い込む事の無意味さを。
 嘗て、あの夏の暑い日に、身をもって知った筈だったのに。
「―――――セイ…っ」
(大切な、友達)
 そう思っているのが俺だけだったとしても良い。
 聞き出してしまえば良かった。
 一緒に行動するべきだった。
 何があっても、守ってやるべきだったのに。
(あぁ、本当に)
 後悔だけで、自分を殺せそう。
 心から、思った。


  孤影の夕星


 銀色の星が丸く光る紺青の夜。一人山肌に腰を下ろしじっと昊を見上げていた背の高い男は、カサリという極小さな音に反応した。ちらりと視線を遣れば、彼の弟子が音もなく其処で仰向けに身を投げ出していた。
 大きく上下した胸と裏腹に、呼吸音は酷く小さい。それらは全て山での生活の成果だったが、あまりにも人間離れしている。自分が教えた事ではあるものの僅かな罪悪感が心に顔を出して、けれど彼は一瞬にしてそれを捻じ伏せた。自分が後悔して得るものは何もない。彼の弟子が手に入れる事を選び、そして彼もまた教える事を選んだ。ただそれだけの話だ。
「……どうだった」
 夜の声で彼はそう尋ねる。その頃にはもう彼は弟子を見ておらず、また昊を見上げ、彼の弟子が探し人を見つける為に駆け回った日々を思った。
(もうどれ位が過ぎただろう)
 指を三つ折った日を最後に、彼は数えるのを止めた。だからもう何日目かなど分からない。ただ分かるのは、彼の弟子がまだ諦めていない事だけ。それでも日増しに絶望の色が増している事に彼は気付いていた。
(こいつのこんな顔は、拾った時以来か…)
 そう心の中で呟いた彼の問いに、へへっと笑った彼の弟子は、乱れた呼吸に言葉を混ぜた。
「見つかんねぇやぁ…」
 ぼろぼろの手を、夜空へと翳す。土で汚れ、折れた枝で引っ掻き、乾いた血が浮かんでいた。全身がそうだった。
「手当ては?」
 気付いた彼はそう言ったけれど、弟子はふるふると首を横に振る。
「大した事ないし、良いよ」
 それに、と弟子は言った。
「…頑張ってるって、思えるし」
 見付からない。見付けられない。手掛かりすら、なくて。その中で探し続けるのはとてもとてもしんどかった。そんな進歩の見られない日々の中で、ふと見下ろした手。自分の頑張りの証だと思えた。そして、そうでも思わなければ立ち上がれない自分に、失望もした。
(それでも、諦めたくねぇんだよ…)
 もう一度掴むんだ。自分の弱さに落胆しても、見付からない事に絶望しても。もう一度、あいつの手を取ってやるんだ。そしたら二度と離さねぇ。離すもんか。この傷だらけの手で。だから。
「あいつを見付けるまで、このままで良いよ」
 そう言って今度は屈託なく笑った弟子を彼は不思議そうに見て、暫くの後ぽつりと零した。
「……どんな、奴だったんだ?」
 途端、えっ、と声を出し飛び起きた弟子は、まじまじと自身の師匠を見詰めた。彼が知る限り、師匠が誰かに興味を抱いた事はない。興味を抱くのは何時だって自身を取り巻く世界だけで、人間の事は良く分かっていなかったりする。
(俺は特別っていうか成り行きっていうかでもまぁ興味とは違う訳なんだけど…)
 そうなんやかやと考えている弟子に見詰められている師匠は、ぽりぽりと頬を掻いた。
(そりゃ気になるだろうが)
 正直、復讐が終わると共に弟子は死んでしまうのではと彼は危惧していた。だからと言って手を出すつもりはなかった。宿命は自分自身でしか変えられない。いくら彼が寂しさを心に抱え込もうが、手出しは出来ない。諦めていた。けれど彼の弟子は帰って来た。憔悴はしていた。絶望もしていた。それでも、生きて。
(こいつの覚悟を変えさせるのは、容易ではないだろうに)
 そして一本増えた頬の傷を見た時、彼は弟子の生涯で二度目の生きる理由を知った。
「セイ…とか言ったか」
 何度か弟子から聞いたその存在の名を記憶の底から引っ張り出してくれば、弟子はうんうんと何度も首を縦に振った。
「すっげぇ! お師匠が人の名前を覚えてる! 何度も来てくれた鴛洵じっちゃんも覚えなかったのに!」
 尊敬の色すら浮かぶ笑みに、彼は早く教えろという言葉を飲み込んだ。こんなにも明るく笑う弟子は久々だったと思い出して。そして暫く笑い続けた弟子は、笑声を収めて師匠の前に座り、口を開いた。
「セイはね、月みたいな奴だったよ」
 それはまるでこの弟子と真逆な譬えだと、彼は思った。
「俺と最初に会った時は、後少しで新月になっちまうような月だった。後少しで弾けそうな弦とか、切れ味が鋭い刃みたいな、でも、危うい感じの」
 真実、あの時のあいつは色んなものを磨り減らしていった結果の姿だった。
「でも時間が経てば、あいつが本当は今日みたいな綺麗な満月だって、分かったんだ」
 夜の昊に君臨する大星。他の星を霞ませる月は、冷やりとした色を持つ孤高の星。
「あー…、でもちょっと、違うかな」
 確かに綺麗で色が薄いから冷たいのかなって思うけど、でもそんなのはただの思い込みだ。そう思い込むから誰も近付かなくて、あいつはひとりぼっちに成らざるを得ないだけ。
「ほんとのあいつは、曇りのない鏡みたいな月なんだ」
 他人の思考も感情も、そして傷みも、自分に写し取ってしまうような。それは多分、無意識の反射の行為。あいつ自身気付かずに、そうして生きてきたのだろう。いや、そうでもしなければ、生きていけなかったのかもしれない。
「他人の考えが分かるから、相手の表も裏も、そしてそれ以上も知る事が出来る。他人の気持ちが分かるから、相手が嫌いなら自分も嫌いってなっちゃう。他人の痛みが分かるから、あいつ、全部、受け入れてさ」
(―――あ、やばい)
 思い出して、しまった。セイが首から提げてた笛。そっくり同じ笛を持った、子ども。その子どもを守る為に剣を取ったセイ。罵倒されても刺されても、約束を破ってまで、その手で殺し尽くし血を被った、セイ。誰も責めず、ただ自分が殺した事であの子どもが受けた痛みだけ受け取って。
(……そんで、俺を小兄上に会わせようと、嘘、吐いて)
 瀕死の重傷。そんな時に、俺の望みまで、写し取って――…。
(ッ、ダメだダメだダメだ)
 今はダメだ。お師匠の前なんだ。あぁもう、彼処から動かなきゃ良かった。なんて思うのに。
(ダメだっつってんのッ…!)
 膝に置いた手を強く握る。その上に落ちた、雫。それは直ぐに不規則な雨になった。
(お師匠の、前で…ッ…)
 咄嗟に拭おうと手を持ち上げようとした瞬間、その手を覆った、更に大きな手。
「おし、しょう…」
 次いで大雑把に力強く撫でられた頭。
「……雨を降らせるのは、何も天の特権ではないからの」
 その言葉の所為で、雨は暫く降り続いた。


 それから月が僅かに動いた頃に泣き止んだ彼は、ぐずぐずと真っ赤になった鼻を擦りながら、声を零した。
「お師匠…」
 呼び掛けに、どうした、と視線だけで応えれば、弟子は一瞬迷うように視線を逸らして、でも何かを決心したようにまた視線を合わせた。
「あのさ……あいつ、寝言を一回も言った事ねぇんだ」
 そう言う弟子の表情があまりにも真剣だったから、彼は何も言わず耳を澄ませた。
「誰だって言うだろ? 寝てる時なんて意識ねぇんだから」
「……」
「でもあいつ、言わなかったんだ」
「……」
「ちゃんと寝てんのにさ。なんか言いそうになると、唇噛むの」
「……」
「あれってさ、もう癖だよ」
「……」
「まだ子どもなのにさ」
「……」
「言うと弱みになるって、知ってる」
 ねぇ、お師匠。
「そんな生活、想像できる?」
 寝てるその時まで、気を張らなければならない生活。子どもでさえ、弱みになると知っていなければ生き抜けない生活。彼には到底想像できなかった。
(そんな策謀に塗れた生活を送るのは、大層な身分の奴だけじゃろ)
 そこで何かが引っかかり頭を捻った彼は、けれどにかっと笑った弟子の次の言葉で、忘れた。
「だからまた会った時、俺があいつをそんな生活から抜け出させてやるんだ」
「……それって、身分の高い家の娘の窮屈そうな生活を垣間見て、よし俺が自由にしてやる!、って駆け落ちを唆す平民の男の台詞みたいじゃの」
「はっ? な、何だそれ?」
 おっ、お師匠ってばよくわっかんねー! でも何か分かるーッ!、と爆笑し出した弟子に師匠は一つ息を吐いた後、ふと昊を見上げた。
(……のぉ、燕青)
 その視線の先には、冷たく輝く明鏡の月。
(月は、太陽が輝かねば輝けぬもの)
 そんな一対の陽と陰の星。
(ならば、お前が笑うなら、セイという子どもも、きっと)
 そんな願いに似た呟きを零し、まだ笑い転げる陽の子に視線を移して。
(………お帰り、燕青)
 南老師は小さく、本当に小さく、笑った。


20090520
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