銀鼠(一)

[ 黒海の光芒 ]

 呼び止められず気配を消して背後から抱き締められた。
 それは鋭い痛みを伴う事を覚悟した抱擁。
 抱き止められた体は、一歩として動けない。
 驚きではなくあまりの力強さに数瞬止まった息をゆっくりと吐き出して昊を見上げる。
(………月)
 墨を流したような昊に、円を描いた白光の星だけが存在していた。
 それはまるで絶望の中の希望。
 抱き締められている彼にとっては彼であるように。
 抱き締める彼にとっては抱き締められている彼であるように。
 すっと掴むように伸ばした手は、けれど唐突に重力に逆らう事を止めた。
 そして闇を願うかのように瞳を閉じる。
(絶望に揺蕩う希望は、決して手に入らない)
 月も、彼も、そして彼も。
 誰かに容易くその身を預けられはしないのだ。
(だから)
 続く願いは心の中だけで呟かれて、知る者は居ない。


  忘却の祝詞


 時折楸瑛は劉輝よりも幼くなる。それはこんな風に月が美しい夜。一切の音を拒絶した世界で。そうまるで、あの日の、昊の色の中で。
「藍将軍」
「………」
「どうなさいましたか、藍将軍」
「………」
「………………」
「………」
「……………………」
「………」
「……………………………楸瑛…」
 根負けしたように清苑へと変わった〈彼〉が名を呼び溜息を吐けば、ぴくり、と体が動く。そんな楸瑛に、〈彼〉はまだ劉輝の拗ね方の方が楽だと心底思う。
(あの子よりも大人の癖に)
 どうしてそんなに、と〈彼〉は思う。藍将軍と呼ばれるのがそんなに嫌か。楸瑛と呼びかけるのとどう違う。〈彼〉には理解できない事を、この大きな子どもはやってのけるのだ。
(………厄介だな)
 あぁそう言って置きながら、放っておけない自分も理解できないのだけれど。
「楸瑛」
 呼べば、抱き締めた腕の力を殊更強める。それでどんな事を言いたいのか、分からない〈彼〉ではない。
(まったく、厄介な事だよ)
 楸瑛も、〈彼〉も。
(寄り掛かってはいけないもの同士、なのに)
 嫌です、と楸瑛は言った。置いていかないでください、離さないでください、傍に置いてください。それだけを、ただ願うように。
 それが十三年前清苑が流罪になる前夜、清苑の許に訪れた幼い楸瑛の言葉だった。まるで劉輝のそれと寸分違わない。けれどそれを清苑は叶える訳にはいかなかった。だから、清苑は伸ばされた手を振り払った。劉輝の時と同じように。
 その事に後悔はしていない。それで良かったのだとすら思っている。
(……それでも)
 きっとその小さな子どもに深い絶望を与えてしまった事は、分かるから。
(手を、伸ばしてしまう)
 あの時伸ばされた手を振り払った手で、今、懺悔する様にその手を取る。
(償いにはならないけれど)
 それでも恐らく何らかの救いにはなるだろうから。……そうである事を、〈彼〉自身が望むから。
「……楸瑛」
 悪かったとは言わないし、認めない。別離は何時の日かの為に必要な事だった。清苑が静蘭として此処にいる事も、あの別れがあっての事だ。だから決してそれに類する言葉は言わない。
(それでも、どうかどうかどうか)
 ひっそりと流れる雫は〈彼〉の衣を濡らして色を塗り替えていく。
(君の涙が少しでも早く止まりますように)
 新たに生まれた色は、絶望か、それとも希望か。その答えに気付かない振りをして、〈彼〉は、祈る。
「………楸瑛」
(早く君が)
「―――――……公子(我が君)…」
(私を忘れて、くれますように)
 見上げる先は、絶望の中に浮かぶ、決して手に入らない希望。
(傷が浅いうちに、どうか、…どうか)
 あぁ、その祈りも。
(恐らく彼の月と同じと、気付いてるのに)


20090411
戻る




PAGE TOP

inserted by FC2 system