濡羽(一)

[ 緋色の眷属 ]

 血を血で洗い、毒を毒で制するような場所で育った。
 そして周りには血の繋がらない幾人かの母、幾人かの子どもが居た。
 実の母親とも血の繋がり以上の絆はなかったように思う。
 家族とは、とても呼べなかった。
 愛される事を望む事は愚かだった。
 手を差し伸ばせば何かを掴めると思う事は浅はかだった。
 無償で渡されるのは毒くらいで、愛など其処ではただ一人に向けられるべき感情だった。
 母も、その他の母も、その人間に愛される為の道具として子どもを産んだ。
 その行為の無意味さを、誰一人として認めずに。
 家族とはそんな、後一滴雫を垂らせば溢れてしまう水面のようなものだった。
 だから知らない。
 こんな家族は知らない。
(温かさなんて、今まで感じた事、なかったもの)


  来臨の予兆


 いくら外朝が広いと言っても、人の噂が広まるのは何処であっても早いもの。下級官吏ばかりでなく上級の官吏でさえも他の部署に書翰を届ける役目を担う者は多い為に、一つ何時もと違う事があれば直ぐに気付かれ広まる。特に、普段から何かしら注目されている人間がそんな行動をすれば、直ぐにでも。
「聞いたか…!」
「あぁ、つい先程だが…」
「何か起きるのかもしれん…」
「怖いな…」
「な、何が起きると言うんだ!」
「分からんわっ」
「しかし、見てみた気もする…」
「た、確かに…あの方が仕事をする姿なぞ、見た事がないからな」
「止めろ! 何が起こるか分からんのだぞ!」
 そんな囁きが外朝中を駆け巡れば、離れた米倉で門番をしている静蘭の耳にも嫌でも入る。だが、その囁きは静蘭が求めていたもの。静蘭は一度瞼を閉じ、次いで昊を見上げた。
(………今日、か)
 そう、心の中で呟いて。


 黎深は気付いていた。邵可の所へお忍びで行く時、何時もあの家人が居ない事に。お忍びなのだから大っぴらに行く時など告げては居ない筈なのに、何時だって彼はそれを予め知っていたように帰るべき家に居なかった。
(帰るべき家―――あぁそうだ。あいつはもう、此処しか居場所がないのに)
 生家も最早なければ頼るべき人間も居ない筈。彼の事だろうから妓女の所に行く事もないだろう。ではこの時間、彼は一体、何処で如何して過ごしているのだろう。
(だからこそ、こうして兄上の茶を飲めるのだが…)
 そんな事に思考をやったのは、きっと数瞬もなかった筈なのに。
「気になるかい?」
 どうして兄はそんな僅かな心の動きに気付いてしまうのだろう。何がと言わなかった兄に意地悪さを感じながら、黎深は何も答えなかった。それが肯定になろうとも、どうせ邵可には嘘は吐けないのだ。無言であるのはささやかな反抗の意志だった。
 彼に関する限り黎深が邵可に素直でない事を知るのは邵可のみで、黎深自身恐らく気付いていない。そんな黎深に笑いかけた邵可は、茶を啜りながらぽつりと言う。
「今日は、何時もより頑張ったんだね」
 誰が、とも、何を、とも邵可は言わなかったが、黎深は何を指してそう言っているのかに気が付いた。そして何時もなら邵可に頑張ったねと言われて喜ばないなんて事は有り得ないのに、この時ばかりは心得たように頷くだけに留めて。
(そうか)
 すとん、と出てきた答えに、黎深の機嫌が幾分直る。
「兄上」
「うん」
 行っておいで、と笑った邵可に、黎深は一礼して邸を辞す。
「何処だ」
 門を出て一歩。唐突に発したその一言に、紅家の『影』の一人が傍に寄る。黎深は何時でも彼の様子を把握できるよう、彼の周りに『影』を忍ばせていた。それにより直ぐに知れた彼の居所を聞いて、黎深は腹立たしげに眉を顰めた。


「―――この馬鹿が」
 彼は府庫に居た。残業の官吏もとっくに帰った外朝に、何もせず窓辺に座り昊を眺めていた。たった、一人で。
(武器も持たず何をしているんだこいつは)
 一つの舌打ちと共に黎深は彼の前に立つ。
「黎深様…」
 唐突に現れた自分以外の存在に驚き、次いでそれが黎深だと知って彼は戸惑ったように目線を泳がせた。そんな事など気に掛けもせず、黎深は彼の(おとがい)に扇を宛がい、視線を自分へと向かせる。躊躇うように彼の睫毛が震えたのを見詰めながら、黎深は問いかけた。
「何故こんな所にいる」
 理由がなければ承知しない。そんな響きさえ持った言葉に彼は小さく笑って。
「……何も、」
 途端頬に走った鋭い痛みに、けれど彼は声も上げず、痛みに耐える素振りさえ見せなかった。視界の端できらりと光った扇がばっと広げられて、黎深の顔を半分隠す。
「死にたいのか?」
 それでも、その殺気に似た怒気を隠す事など出来る筈がない。ぞっとする程冷淡な声。普通の官吏なら腰を抜かし、身動きすらとれなくなるだろう。羽林軍に所属する武官も立ち竦むのが目に浮かぶ。けれど彼は矢張り笑っただけだった。
「いいえ、……まだ」
 巫山戯た答えだと、黎深は鼻を鳴らした。
(なら何時なら良い)
 そう聞きたくなるのを押さえて、また口を開く。
「もう一度問う。何故、此処に居る」
 答えなど分かっている。けれど彼の口から言わさなければ黎深の腹の虫が収まらなかった。それを分かっているのだろう、彼は諦めたように言う。
「…今宵は黎深様が旦那様のお宅にいらっしゃると思ったので」
「ので?」
「……………お邪魔、かと……」
 聞いて、もう一度扇で殴ってやろうかと黎深は思った。けれど彼はそんな黎深の思いもどうせ知っている。覚悟の上の人間を殴っても面白くなどない。
「馬鹿が」
 代わりに再度吐き捨てた言葉に、優しさなんてこれっぽっちもない。あるのは侮蔑だけだ。それすらも、彼は分かっていた。それでも何時だって黎深から逃げていたのは、こうするしかなかっただけで。
「貴様の存在など私の中では無いに等しい。自惚れるな」
 厳しい言葉に、彼はふわりと泣きそうになって笑う。黎深は邵可に関して、秀麗に関して、何時も誰かに嫉妬を抱いている。近付いた者、喋りかけた者、触った者、その全てに。劉輝もその例外でなく、絳攸でさえもそうらしい。その中で、彼は嫉妬の対象ですらなかった。彼は黎深に無い者として扱われてきた。邵可に拾われてから、ずっと。それが正しいのだと思う。邵可と秀麗の家族でもない、ただの拾われた子。そして、黎深が滅多に会えない彼等と一番多くの時間を共有してきた彼。
(…だから、彼に邵可との時間を楽しんで欲しかった)
 その思いで、彼は黎深が家に来る時は必ず此処に来た。秀麗と面と向かって会う事が叶わないならせめて、余計な人間が同じ屋根の下にいる事のない状況で…。それが、多くの時間を彼処で過ごす事を許してくれている黎深への恩返しだと思ったからだ。
(だが、彼には自惚れに映ったか…)
 彼を想っての考えは、ただの粗悪な閃きでしかなかったのか。自己満足と承知していたが、面と向かって言われてしまえば、少し胸に堪えた。
「……お前は本当に馬鹿だな」
 俯いてしまった彼に、そんな呆れた声が聴こえて。
「いや、馬鹿と言うより、―――愚かだ」
 驚愕に、言葉を亡くす。瞳を見開いた。
(それは…――その、言葉は)
 子どもは思わず面を上げた。それを待っていたかのように、そっと頬に宛がわれた黎深の手。
「え……」
 それは、気遣わしげに先程扇で打った所を優しく撫でた。
「黎深、様…?」
 見れば黎深が小さく笑った気がして、けれど直ぐに手が離され踵を返された為に、それが本当かは分からなかった。
「帰るぞ」
 返事など期待しない。付いて来るかは己次第。そんな声音に、彼はあぁそうかと理解した。
(…だから、絳攸殿は彼に付いて行ったのか)
 それは来るなら来いという簡潔且つ一番の誘い文句だった。特に、本当は弱い部分のある人間には、覿面に効果のある言葉。
(……変わらないな)
 思わず彼は心の中でそう呟き、笑みを零した。昔からそうだった。黎深は何時だって彼の欲しい言葉をくれる。そして、何時だって彼を心配してくれた。
(知っている…本当は、気付いてた)
 彼の不機嫌の理由が、自分の今の在り様ではなく、自分が独り此処に居た所為だと。武器も持たず誰も来ない時間にこんな所に居ては、誰に殺されても文句は言えない。自分の過去を考えればその危険性は極めて高かった。黎深が何時もより厳しい言葉を投げたのは、きっとそういう事なのだろう。
(優しいな、黎深は)
 そっと撫でられた頬に手を当てる。熱を持つ其処は、殴られたからだけではない。
「……やっぱり、嫌いではないよ」
 そう笑って呟いて、彼は先に行って待っているだろう黎深の後を追った。


「黎深」
「はい、何でしょう」
 彼と共に帰ってきた黎深は、また兄と一緒に茶を飲んでいた。邵可に話しかけられた事が嬉しくて笑顔を向ければ。
「君、実は静蘭、好きだろう」
 茶器を割りそうになった。
「………兄上」
「うん?」
「その心は」
 動揺を隠し切れず声は震えていたが、邵可はまるで何も気付かないかのように笑って言った。
「君があぁやって意地悪をするのは、好きな相手にだけだものね」
「私はあれを苛めたつもりはありませんが」
 というか「あぁやって」ってどうして知っているのですか兄上此処にいらっしゃった筈なのに、などと言う言葉は賢明にも黎深の口からは出なかった。それ以前に。
「苛めたら兄上、怒るでしょう?」
「当たり前だよ」
 即答だった。
「私だけじゃなく、きっと秀麗からも嫌われてしまうだろうね」
(そうか、怒るだけではなく嫌われるのか…。それも二人から…)
 最早彼が使用人として扱われていない事に気付き、そして悟った。
(あぁ、だから〈家人〉なのか)
 気付くのが遅すぎた。紅黎深ともあろう者が。けれど、その意味を正確に理解したこの瞬間も、黎深に彼に対する嫉妬なんてものはまるでなかった。
「君も素直じゃないからね」
 邵可はやっぱり大事な部分を言わない。それでも何と比較して言っているのか分かってしまう黎深がその言葉に何も言い返せないのは、彼の矜持が高いからだけではない。
「……放って置いてください」
 そう言って拗ねた黎深は、兄が淹れてくれた茶を啜った。


 似た者同士なのだ、根本が。彼と黎深は、とてもとても似ていた。一度懐に入れてしまったら外に出す事など出来はしない。一度意識してしまったら、それが当然になってしまう。けれどそれを外に見せるのも、嫌で。
『損な性格だな』
 そう言ったのは黎深だったのに。
『嫌いではないよ』
 そう言ったのは彼だったのに。何時の間に、逆になっていたのだろう。
(あいつの存在など、無いに等しいに決まってる)
 そう息巻くのは、そうでも言わなければ気が済まない、ただそれだけの話で。
(家族とは意識しているものではないだろうに)
 そんな平易な言葉で言わなかったのは、ただの意趣返しだ。
(今まであれ程兄上と秀麗に家族扱いしてもらって、気付いてないとはな)
 呆れるだけでは物足りなかった。あれは本当に賢くありながら愚かだ。まぁ元の環境があぁだから仕方ないか…、と思いつつ。
(自分が〈使用人〉ではない意味を考えた事があるのだろうか?)
 それは黎深もさっき気付いた事だから何も言えないのだけれど。軒に揺られながら、黎深は呟いた。
「見付けたぞ。清苑」
 私も、お前と同じように。
「命を賭して、守りたいと思えるものを」
 それまで、命を懸けて守りたいものなんてなかったのに。見付けてしまった、お前の所為で。
「あぁ、そうだな」
 お前の言う通りだ。
「だからこそ、生きていける」
 ―――この、執着も何もない世界で。


20090411
戻る




PAGE TOP

inserted by FC2 system