桜(二)
[ 季春の光華 ]
宮城の一室で、静蘭は傷付いた身体を横たえていた。
その室に漂う空気は春と言うには暖かすぎ、夏と言うには何かが足りない。
それでも春は終わり、後少しで夏が始まろうとしていた。
正にそれを証明するような強い陽光が枕元に差し込み、静蘭は眩しげに目を細めてそれを見た。
怪我も癒えてきた。
吸った毒も、実は医者が言う程の事ではない。
毒に慣れたこの身体はどんな毒であろうと取り込んでしまう。
そろそろ帰る頃か。
そう思った静蘭は、小さく笑った。
自分が今此処に居る不自然さに。
王が、劉輝が、些か強引に自分を此処へ留めた事に。
(…知られたか)
それも良い。
別段、それで何かが変わる訳ではない。
何かが止まる訳もない。
(……あぁ、それに)
静蘭は不意に上体を起こした。
視線を扉へと遣る。
誰かが来る。
それも、知った気配の者が。
(知られたのは、劉輝だけではないか)
彼は徐々に此処へ近付いて、そして其処の扉を開けるだろう。
その瞬間を待つ。
ただ、静かに。
そして開かれた扉の音は、歴史の歩みに似て重く。
「失礼する」
その声は、夜の深淵に似た。
懐かしい。
その思いが、静蘭に微笑を作らせる。
「これは…長官御自らいらっしゃいますとは」
静蘭は相手に臆さずただ笑った。
「旺季様」
静蘭として、笑った。
瞬息の離披
沈黙が過ぎる。重くもなく、軽くもなく。けれど二人は気にしなかった。ずっとそんな関係を築いてきたような慣れが、其処にはあった。しかしそれがずっと続く訳もなく、遂に口を開いたのは。
「怪我は、如何か」
凛とした声。揺るがぬそれは、門下省長官、旺季のものだった。此処に居るのにこれ程不自然な人は居ないだろうと静蘭は思う。彼には此処に来る暇もなければ、此処に来る謂われもない筈だ。そう思うのは自分だけで、恐らく相手は違うのだろうが…、と静蘭は知りながら知らない振りをして目線を下に遣って答える。
「主上のご厚意により此方で静養させて頂きました故、ほぼ癒えております。そろそろお勤めさせて頂いている邸にも帰れましょう」
その言葉に旺季は目を眇めて静蘭をじっと見る。威圧する風ではないが、その存在故か、それは酷く重い。暫くの沈黙がまた流れる。それが途切れたのは、また旺季が口を開いたからだった。
「…何も聞かぬか」
何を、とは、旺季は決して言わない。様々な選択肢がある中で敢えて相手にそれが何であるかを連想させ、相手が何を選ぶかを知る為だ。その選んだものこそ真実に近いのだと旺季は知っている。相変わらずだな、と静蘭は笑ったまま思って、だからこそ黙っていた。笑みに微かも彼の影を見出せないまま、旺季は。
「では此方から問おう、茈武官」
深追いする事なく、言葉を換える。
「茶鴛洵は何故、其方に香を嗅がせてまで捕らえようと思い至ったか」
静蘭は思わず僅かに瞳を眇めた。それは微妙且つ絶妙な問いだった。不用意に答えれば、早々に静蘭は表舞台から手を引かざるを得なくなる。それは望む所では、ない。
「…茶太保は、ただ追っ手であった私が邪魔になっただけかと」
途端微かに歪んだ旺季の口元。それが何かを、静蘭は考えずに置いた。
「私を足止めする為に香を使われたのでしょう。捕らえる為などとは思えません」
「その怪我は」
「体力を奪えば追わぬとお考えになったのでしょう。茶太保は戦場の経験もおありですから、勝手はご存知の筈」
だからだと静蘭は私見を押し通す。旺季の疑念を押し返す。そうしなければならなかった。報告にはなかった筈だ。そして誰にも言っては居ない。〈彼〉が言うとも思えない。ならば、旺季が知る筈はないのだ。鴛洵が、静蘭を捕まえようとしていたなどとは。
(そう言う事になっている筈だ―――私も、貴方も)
静蘭は旺季を見た。旺季も静蘭を見る。何度目かの沈黙が、揺蕩う。そして。
「……そうか」
矢張り無音の帷を引き裂いたのは旺季で、その声はただ、静かだった。
「ならば、もう良い」
旺季は立ち上がり、扉へと向かった。しかし徒行はたったの数歩で終わり、旺季はその場に立ち止まる。静蘭はその背を凝と見詰めた。また下りた静寂の霧。今まで以上に長く重い時間。それでも静蘭はじっと待ち続けて。そうして聞こえた声と言葉に、睫毛を揺らした。
「…………何故、帰ってこられた」
何度も何度も心の中で問い続けたような声で、旺季が背中越しに静蘭へと問い、清苑へと問う。
「貴方はただ、安寧に身を任せあの邸で過ごしていれば、…過去を捨てて生きていれば、良かったものを」
それに静蘭は答えない。ただ黙して、旺季の独り言を聞き続ける。
「もう貴方自身が王になる事は敵わず、ともすればあの王の脅威にすらなりかねない。貴方にとってもあの王にとっても、貴方が帰ってきて良い事など何一つない。邪魔でしかないのです。……そんな事、ご承知でしょう」
そして、と、袖口から覗く旺季の手が、強く握られた。
「お戻りにならなければ、二度と、貴方が傷付く必要など……こうして傷付く事など、なかったのに――…」
思い出すのは、長らく生きてきた旺季にしてみれば昔と言うには最近過ぎる頃の事。先王が生き、そして彼が居た、そんな時代。その存在故に旺季がずっと注視してきた彼は、誰よりも賢く、誰よりも強く、誰よりも気高く、光を纏って生きているように見えた。
(見せていただけだ。誰もを欺くように、彼は)
その名、その地位、己の誇りを守る為に、誰よりも傷付いてきた。終わりの見えぬ闇の中、たった独りで。それを旺季は知っている。見てきたのだ。そんな彼を、ずっと。
「…もう良いでしょう」
掠れた低い声に、想いが滲む。春の木陰の色をした声が、清苑へと向いて。
「もう、貴方が傷付く必要などないでしょう…」
戻ってきて、十年と少し。その間の生活は、嘗てとは様変わりしただろう。剣の扱いしか知らぬ手を生活の為に使うなど有り得なかった事だ。けれど、幸せでなかった筈はない。
「貴方は、あの邸で笑っておられたではないか」
紅家に引き取られたのを知り、旺季はそっと『影』をやった事がある。その報告に、旺季自身、笑う事も出来たのに。
「身分など貴方を繋ぐ枷にはならず、財も地位も、貴方を動かす一端にすら成り得ない。貴方は最初からそうだった。最後まで、そうだった」
執着などなかった。彼が何時も考えていたのは、そんな事ではなかった。王になろうとしたのだって、生きる為。そして、あの人の為に。
「貴方は、紫家に生まれるべきでは、なかったのでしょう」
そうすれば、まだ、幸せだったのに。
「…今からでも、遅くありません」
旺季は言った。
「どうかお戻りください。殺される前に、どうか」
願うようなそれに、しかし声はない。何も言ってはくれない。それを拒絶だと知る。旺季は溜息を吐き、瞳を閉じた。
「…甘言には乗ってきませんか」
そして次に目蓋を押し上げた時、旺季の瞳が鋭く輝いた。
「……貴方が幾らあの王の為に動こうと、最早流れは変えられません」
少しずつ水量を増した川は、川底を削って自らの道を造り出す。そしてその流れの先を伸ばしはしても、その道が変わる事はない。後は全ての流れを呑み込む濁流へと育つのを、待つだけ。
「貴方には何も出来ない…何も、させません」
決意の声。それにすら返ってくる言葉はなく、落胆すら覚えながら旺季がまた歩き出そうとした、その時。
「―――旺季殿」
呼び止められた。けれど、それは。
「――――」
ざわり、と背が震える。その一瞬で、世界が変わった。まるで違う。その声も存在も、先程とは全く異なるもの。旺季は振り返らないまま喉を震わせ彼を呼ぶ。嘗ての公子、彼の、名を。
「…清苑、様…」
言えば、ふわり、と笑った気配。少し困ったようなそれの理由を、次の言葉で旺季は知る。
「貴方とは、出来れば清苑 として会う事は望んでいなかったのだが」
「それは…申し訳ありませんな」
「不満か?」
旺季の声に混じった微かな凝りに気付き、清苑は面白がるような色を声に滲ませた。
「…霄太師にはご自分からお会いになったではありませんか」
その言葉に何故と問う意味も含まれている事を知りながら、清苑は旺季の言葉にただ優しく笑んだだけ。思い出すように僅かに伏せられた瞳は柔らかく旺季の背を見詰め、だから次に零れた言葉にその背が震えた様子を、清苑はしっかりと見ていた。
「貴方には感謝している」
今も、昔もだと。清苑は甘く囁いた。
「変わらないな、貴方は」
変わらない。何が変わっても、きっとこの、旺季だけは。それは、清苑の見据える先にある未来のように。
「優しい、ままだ」
嘗て此処で生きていた頃、旺季は常に清苑を見ていた。だからと言って手を差し伸べてくれた事はない。守ってくれた事はない。何時だって彼が清苑の傍に現れるのは何かがあった後だった。けれどそれでも、清苑の身を襲った何かに、何時も唇を噛み締めてくれた。その小さな痛み。それには、清苑が彼に微笑むだけの価値がある。
「………貴方も、お変わりない」
私にそんな事を言うのは貴方だけだと、旺季は笑んだ。知らずに、笑った。けれど。
「…清苑様」
「ん?」
笑みは、崩される。
「感謝される謂われは…その価値は、この旺季にありません」
数瞬で酷く老いたようなそんな年の深さが、顔にも声にも混じる。
「貴方を流罪にした時、私は先王に言われました。貴方の追っ手に縹家の者が一人でも混じっていたら、私を殺すと」
「………」
「清苑様」
ひっそりと、言葉が漏れる。
「混じって居た筈です。あの時、縹家が」
それに対し、肯定はない。否定もない。驚きが、空気に混じった風もない。ただ静かな沈黙に、旺季は自嘲の笑みを浮かべた。
「…いえ、兇手の中には居なかったでしょう。それでも、あの時縹家が絡んでいたのは恐らく事実だ」
でなくば、貴方の行方が誰にも分からなかった筈はない。
「誰にも分からなかったのです。どの家の『影』も、貴方の行方を掴む事は出来なかった。…〈彼〉も、例外ではない」
黒狼が動いても分からなかった。深々と降り続けた雪が痕跡を隠したと言うには、あまりにも不自然な神隠し。そして発見した時には、彼はまた傷付いていた。心も―――身体も。
「…私の、責任です」
縹家が動いている事を知りながら。
「私は、貴方を守る事が出来なかった…」
傷付ける為に流罪にした訳ではない。死地に追いやる為に流罪にした訳ではない。殺されるよりも辛い目に遭わせる為に流罪にした訳では、なかったのに。
「なのに、私を―――」
「―――あの人は、殺しはしなかった」
引き継がれた言葉に。
「……えぇ」
忌々しい事に、と、旺季は苦笑した。
『俺は兇手の中にと言った。違うのなら、それはお前の落ち度ではない。お前を殺す理由にはならん』
そう言われたと零した旺季に、清苑は。
「ならそれが答えだ。その言葉をどう受け止めるのかは貴方の勝手。私が喪った半年をどう受け止めるのかも、貴方の勝手だ」
冷たく突き放す言葉を優しい声で言い、そして笑った。
「私は貴方を罰せない。その心算も、ない」
第一、と清苑は其処で笑みに何かを含ませ言う。
「貴方が守れず後悔すべきなのは、私などではない筈だ」
その言葉に、旺季は一瞬口を開き、二瞬目に口を噤んだ。言葉を亡くす旺季に、清苑は思う。
「旺季殿」
優しい微笑を向ける先は、彼とはまた違う、同じ者。
「願いは一緒だ」
何の因果か、ただ、同じであった人。
「私も貴方も、想いは変わらない」
なのに。
「ただ、思い描く未来が違うだけだ」
違った、人。
「だがそれだけで、袂を別つ意味はある」
恐らく今日、貴方が此処に来たのは尋問でも、懺悔の為でもない。
「貴方は貴方の道を行くが良い」
この言葉を。
「私は私の道を行く」
私に、言わせる為なのだろう?
(だから会うつもりなどなかったのに)
会えば言う事になる―――言いたくなくとも、言わねばならぬ。
(だから優しいと言うのだ)
会わねばずるずると未練を残したままであった筈。
(そんな私の為に、貴方は)
前に進めと言う。最早進む道を違えたのだと言い聞かせる。
(感謝する)
今も昔も。その変わらぬ心、その想いに。
(だから)
息を吸う。心を静める。笑みを浮かべて、零す。
「さようなら、旺季殿」
それを背に受けた旺季は一礼し、歩み出す。止まる事は、もう、ない。
「王子様のご様子は如何でしたか」
廊下を歩く最中旺季にそう聞いたのは、旺季の副官、凌晏樹だった。旺季が例の室に赴く際勝手に付いてきて、入った後は何処かへ行っていたらしいが何時の間にか戻ってきていた。何時も通りの嘘っぽい笑顔を貼り付けた彼の質問に旺季はたった一言で答えた。
「お変わりない」
平静を装ったその声に、けれど晏樹は僅かに眉を上げた。晏樹は旺季に付き従うように彼の後ろに居るので顔は見えないが、声が微かに震えたような気がしたのだ。何時もは揺れる事すら知らぬ大地のような彼の声が。それは、ちり、と何かに触れたような感覚を晏樹に与えたが、それが何かを知る前に晏樹は視界に入ったものに足を止めた。
「おや」
それを知った旺季も足を止める。そして、振り返り晏樹の瞳が追う何かに気付き、その瞳が細められた。
「…紅貴妃」
彼等が歩く回廊とはまた別の廊下を歩く彼女は、彼等に気付いた風もなく、あの室に向かっていた。その姿に、旺季は。
(…違うな)
先程晏樹の言葉に、彼は変わりないと言った。けれど違う。彼は変わった。あの頃ならば、旺季が態々会いに行かずとも自ら会いに来ていただろうに。
(お変わりになりましたな、清苑様)
そしてその変わる切っ掛けとなったのは、疑うまでもなく彼女とその家族。
(喪う事を、躊躇うようになられた)
以前は恐れては居ても、躊躇う事はなかった。だからこそ彼が守りたかった者は守られたが、その躊躇いの無さが彼を守る事はなかった。一度だって。
(…それで良い)
躊躇って欲しい。喪う事を。
(そうすれば、喪わずに済む方法を見付け出そうとしてくれるだろうか。…今度こそ)
そう思い、そしてそれを最後に旺季はまた歩き出した。晏樹もそれに気付き後を追う。彼等の背に、パタン、と扉が閉まる音が風に流されて聞こえた。
「静蘭」
呼び掛けられて、静蘭は一瞬、それが秀麗のものであると分からなかった。我に返れば、秀麗が静蘭の顔を覗き込むようにじっと見ていた。何故か。そう問おうとした矢先、秀麗が口を開いて。
「哀しい事があったの?」
「え…?」
突然の言葉に戸惑う。秀麗は困ったように膝の上に置いた手を、きゅ、と握った。
「…何だか、哀しい顔をしているわ」
思わず戦慄いた唇を、咬む。それと同時に沸き上がりかけた気持ちも噛み殺して。静蘭は、何時もの顔で笑って見せた。
「……大丈夫ですよ」
「本当に?」
「えぇ。ただ…」
「ただ、なぁに?」
秀麗の心配そうな顔から目を逸らし、窓の外へと持って行く。
「春が終わるな、と思っただけですから」
其処から見えた桜の群生は、緑へと移行しつつある。春が終わる。夏が、始まる。それが寂しかった。ただ、それだけだと。
「…なら、良いんだけど」
そう言い、秀麗は「桃を持ってきたのよ」と笑い、其処で剥き始めた。そうしながら「早いわねぇ」と零す秀麗の声を、静蘭は聞くとはなしに聞いていた。その最中、ひっそりと目蓋を閉じる。
『哀しい事があったの? ―――…何だか、哀しい顔をしているわ』
溜息が零れる。
(…あぁ、確かに)
確かに心が、軋んでいた。
20100228
戻る
宮城の一室で、静蘭は傷付いた身体を横たえていた。
その室に漂う空気は春と言うには暖かすぎ、夏と言うには何かが足りない。
それでも春は終わり、後少しで夏が始まろうとしていた。
正にそれを証明するような強い陽光が枕元に差し込み、静蘭は眩しげに目を細めてそれを見た。
怪我も癒えてきた。
吸った毒も、実は医者が言う程の事ではない。
毒に慣れたこの身体はどんな毒であろうと取り込んでしまう。
そろそろ帰る頃か。
そう思った静蘭は、小さく笑った。
自分が今此処に居る不自然さに。
王が、劉輝が、些か強引に自分を此処へ留めた事に。
(…知られたか)
それも良い。
別段、それで何かが変わる訳ではない。
何かが止まる訳もない。
(……あぁ、それに)
静蘭は不意に上体を起こした。
視線を扉へと遣る。
誰かが来る。
それも、知った気配の者が。
(知られたのは、劉輝だけではないか)
彼は徐々に此処へ近付いて、そして其処の扉を開けるだろう。
その瞬間を待つ。
ただ、静かに。
そして開かれた扉の音は、歴史の歩みに似て重く。
「失礼する」
その声は、夜の深淵に似た。
懐かしい。
その思いが、静蘭に微笑を作らせる。
「これは…長官御自らいらっしゃいますとは」
静蘭は相手に臆さずただ笑った。
「旺季様」
静蘭として、笑った。
瞬息の
沈黙が過ぎる。重くもなく、軽くもなく。けれど二人は気にしなかった。ずっとそんな関係を築いてきたような慣れが、其処にはあった。しかしそれがずっと続く訳もなく、遂に口を開いたのは。
「怪我は、如何か」
凛とした声。揺るがぬそれは、門下省長官、旺季のものだった。此処に居るのにこれ程不自然な人は居ないだろうと静蘭は思う。彼には此処に来る暇もなければ、此処に来る謂われもない筈だ。そう思うのは自分だけで、恐らく相手は違うのだろうが…、と静蘭は知りながら知らない振りをして目線を下に遣って答える。
「主上のご厚意により此方で静養させて頂きました故、ほぼ癒えております。そろそろお勤めさせて頂いている邸にも帰れましょう」
その言葉に旺季は目を眇めて静蘭をじっと見る。威圧する風ではないが、その存在故か、それは酷く重い。暫くの沈黙がまた流れる。それが途切れたのは、また旺季が口を開いたからだった。
「…何も聞かぬか」
何を、とは、旺季は決して言わない。様々な選択肢がある中で敢えて相手にそれが何であるかを連想させ、相手が何を選ぶかを知る為だ。その選んだものこそ真実に近いのだと旺季は知っている。相変わらずだな、と静蘭は笑ったまま思って、だからこそ黙っていた。笑みに微かも彼の影を見出せないまま、旺季は。
「では此方から問おう、茈武官」
深追いする事なく、言葉を換える。
「茶鴛洵は何故、其方に香を嗅がせてまで捕らえようと思い至ったか」
静蘭は思わず僅かに瞳を眇めた。それは微妙且つ絶妙な問いだった。不用意に答えれば、早々に静蘭は表舞台から手を引かざるを得なくなる。それは望む所では、ない。
「…茶太保は、ただ追っ手であった私が邪魔になっただけかと」
途端微かに歪んだ旺季の口元。それが何かを、静蘭は考えずに置いた。
「私を足止めする為に香を使われたのでしょう。捕らえる為などとは思えません」
「その怪我は」
「体力を奪えば追わぬとお考えになったのでしょう。茶太保は戦場の経験もおありですから、勝手はご存知の筈」
だからだと静蘭は私見を押し通す。旺季の疑念を押し返す。そうしなければならなかった。報告にはなかった筈だ。そして誰にも言っては居ない。〈彼〉が言うとも思えない。ならば、旺季が知る筈はないのだ。鴛洵が、静蘭を捕まえようとしていたなどとは。
(そう言う事になっている筈だ―――私も、貴方も)
静蘭は旺季を見た。旺季も静蘭を見る。何度目かの沈黙が、揺蕩う。そして。
「……そうか」
矢張り無音の帷を引き裂いたのは旺季で、その声はただ、静かだった。
「ならば、もう良い」
旺季は立ち上がり、扉へと向かった。しかし徒行はたったの数歩で終わり、旺季はその場に立ち止まる。静蘭はその背を凝と見詰めた。また下りた静寂の霧。今まで以上に長く重い時間。それでも静蘭はじっと待ち続けて。そうして聞こえた声と言葉に、睫毛を揺らした。
「…………何故、帰ってこられた」
何度も何度も心の中で問い続けたような声で、旺季が背中越しに静蘭へと問い、清苑へと問う。
「貴方はただ、安寧に身を任せあの邸で過ごしていれば、…過去を捨てて生きていれば、良かったものを」
それに静蘭は答えない。ただ黙して、旺季の独り言を聞き続ける。
「もう貴方自身が王になる事は敵わず、ともすればあの王の脅威にすらなりかねない。貴方にとってもあの王にとっても、貴方が帰ってきて良い事など何一つない。邪魔でしかないのです。……そんな事、ご承知でしょう」
そして、と、袖口から覗く旺季の手が、強く握られた。
「お戻りにならなければ、二度と、貴方が傷付く必要など……こうして傷付く事など、なかったのに――…」
思い出すのは、長らく生きてきた旺季にしてみれば昔と言うには最近過ぎる頃の事。先王が生き、そして彼が居た、そんな時代。その存在故に旺季がずっと注視してきた彼は、誰よりも賢く、誰よりも強く、誰よりも気高く、光を纏って生きているように見えた。
(見せていただけだ。誰もを欺くように、彼は)
その名、その地位、己の誇りを守る為に、誰よりも傷付いてきた。終わりの見えぬ闇の中、たった独りで。それを旺季は知っている。見てきたのだ。そんな彼を、ずっと。
「…もう良いでしょう」
掠れた低い声に、想いが滲む。春の木陰の色をした声が、清苑へと向いて。
「もう、貴方が傷付く必要などないでしょう…」
戻ってきて、十年と少し。その間の生活は、嘗てとは様変わりしただろう。剣の扱いしか知らぬ手を生活の為に使うなど有り得なかった事だ。けれど、幸せでなかった筈はない。
「貴方は、あの邸で笑っておられたではないか」
紅家に引き取られたのを知り、旺季はそっと『影』をやった事がある。その報告に、旺季自身、笑う事も出来たのに。
「身分など貴方を繋ぐ枷にはならず、財も地位も、貴方を動かす一端にすら成り得ない。貴方は最初からそうだった。最後まで、そうだった」
執着などなかった。彼が何時も考えていたのは、そんな事ではなかった。王になろうとしたのだって、生きる為。そして、あの人の為に。
「貴方は、紫家に生まれるべきでは、なかったのでしょう」
そうすれば、まだ、幸せだったのに。
「…今からでも、遅くありません」
旺季は言った。
「どうかお戻りください。殺される前に、どうか」
願うようなそれに、しかし声はない。何も言ってはくれない。それを拒絶だと知る。旺季は溜息を吐き、瞳を閉じた。
「…甘言には乗ってきませんか」
そして次に目蓋を押し上げた時、旺季の瞳が鋭く輝いた。
「……貴方が幾らあの王の為に動こうと、最早流れは変えられません」
少しずつ水量を増した川は、川底を削って自らの道を造り出す。そしてその流れの先を伸ばしはしても、その道が変わる事はない。後は全ての流れを呑み込む濁流へと育つのを、待つだけ。
「貴方には何も出来ない…何も、させません」
決意の声。それにすら返ってくる言葉はなく、落胆すら覚えながら旺季がまた歩き出そうとした、その時。
「―――旺季殿」
呼び止められた。けれど、それは。
「――――」
ざわり、と背が震える。その一瞬で、世界が変わった。まるで違う。その声も存在も、先程とは全く異なるもの。旺季は振り返らないまま喉を震わせ彼を呼ぶ。嘗ての公子、彼の、名を。
「…清苑、様…」
言えば、ふわり、と笑った気配。少し困ったようなそれの理由を、次の言葉で旺季は知る。
「貴方とは、出来れば
「それは…申し訳ありませんな」
「不満か?」
旺季の声に混じった微かな凝りに気付き、清苑は面白がるような色を声に滲ませた。
「…霄太師にはご自分からお会いになったではありませんか」
その言葉に何故と問う意味も含まれている事を知りながら、清苑は旺季の言葉にただ優しく笑んだだけ。思い出すように僅かに伏せられた瞳は柔らかく旺季の背を見詰め、だから次に零れた言葉にその背が震えた様子を、清苑はしっかりと見ていた。
「貴方には感謝している」
今も、昔もだと。清苑は甘く囁いた。
「変わらないな、貴方は」
変わらない。何が変わっても、きっとこの、旺季だけは。それは、清苑の見据える先にある未来のように。
「優しい、ままだ」
嘗て此処で生きていた頃、旺季は常に清苑を見ていた。だからと言って手を差し伸べてくれた事はない。守ってくれた事はない。何時だって彼が清苑の傍に現れるのは何かがあった後だった。けれどそれでも、清苑の身を襲った何かに、何時も唇を噛み締めてくれた。その小さな痛み。それには、清苑が彼に微笑むだけの価値がある。
「………貴方も、お変わりない」
私にそんな事を言うのは貴方だけだと、旺季は笑んだ。知らずに、笑った。けれど。
「…清苑様」
「ん?」
笑みは、崩される。
「感謝される謂われは…その価値は、この旺季にありません」
数瞬で酷く老いたようなそんな年の深さが、顔にも声にも混じる。
「貴方を流罪にした時、私は先王に言われました。貴方の追っ手に縹家の者が一人でも混じっていたら、私を殺すと」
「………」
「清苑様」
ひっそりと、言葉が漏れる。
「混じって居た筈です。あの時、縹家が」
それに対し、肯定はない。否定もない。驚きが、空気に混じった風もない。ただ静かな沈黙に、旺季は自嘲の笑みを浮かべた。
「…いえ、兇手の中には居なかったでしょう。それでも、あの時縹家が絡んでいたのは恐らく事実だ」
でなくば、貴方の行方が誰にも分からなかった筈はない。
「誰にも分からなかったのです。どの家の『影』も、貴方の行方を掴む事は出来なかった。…〈彼〉も、例外ではない」
黒狼が動いても分からなかった。深々と降り続けた雪が痕跡を隠したと言うには、あまりにも不自然な神隠し。そして発見した時には、彼はまた傷付いていた。心も―――身体も。
「…私の、責任です」
縹家が動いている事を知りながら。
「私は、貴方を守る事が出来なかった…」
傷付ける為に流罪にした訳ではない。死地に追いやる為に流罪にした訳ではない。殺されるよりも辛い目に遭わせる為に流罪にした訳では、なかったのに。
「なのに、私を―――」
「―――あの人は、殺しはしなかった」
引き継がれた言葉に。
「……えぇ」
忌々しい事に、と、旺季は苦笑した。
『俺は兇手の中にと言った。違うのなら、それはお前の落ち度ではない。お前を殺す理由にはならん』
そう言われたと零した旺季に、清苑は。
「ならそれが答えだ。その言葉をどう受け止めるのかは貴方の勝手。私が喪った半年をどう受け止めるのかも、貴方の勝手だ」
冷たく突き放す言葉を優しい声で言い、そして笑った。
「私は貴方を罰せない。その心算も、ない」
第一、と清苑は其処で笑みに何かを含ませ言う。
「貴方が守れず後悔すべきなのは、私などではない筈だ」
その言葉に、旺季は一瞬口を開き、二瞬目に口を噤んだ。言葉を亡くす旺季に、清苑は思う。
「旺季殿」
優しい微笑を向ける先は、彼とはまた違う、同じ者。
「願いは一緒だ」
何の因果か、ただ、同じであった人。
「私も貴方も、想いは変わらない」
なのに。
「ただ、思い描く未来が違うだけだ」
違った、人。
「だがそれだけで、袂を別つ意味はある」
恐らく今日、貴方が此処に来たのは尋問でも、懺悔の為でもない。
「貴方は貴方の道を行くが良い」
この言葉を。
「私は私の道を行く」
私に、言わせる為なのだろう?
(だから会うつもりなどなかったのに)
会えば言う事になる―――言いたくなくとも、言わねばならぬ。
(だから優しいと言うのだ)
会わねばずるずると未練を残したままであった筈。
(そんな私の為に、貴方は)
前に進めと言う。最早進む道を違えたのだと言い聞かせる。
(感謝する)
今も昔も。その変わらぬ心、その想いに。
(だから)
息を吸う。心を静める。笑みを浮かべて、零す。
「さようなら、旺季殿」
それを背に受けた旺季は一礼し、歩み出す。止まる事は、もう、ない。
「王子様のご様子は如何でしたか」
廊下を歩く最中旺季にそう聞いたのは、旺季の副官、凌晏樹だった。旺季が例の室に赴く際勝手に付いてきて、入った後は何処かへ行っていたらしいが何時の間にか戻ってきていた。何時も通りの嘘っぽい笑顔を貼り付けた彼の質問に旺季はたった一言で答えた。
「お変わりない」
平静を装ったその声に、けれど晏樹は僅かに眉を上げた。晏樹は旺季に付き従うように彼の後ろに居るので顔は見えないが、声が微かに震えたような気がしたのだ。何時もは揺れる事すら知らぬ大地のような彼の声が。それは、ちり、と何かに触れたような感覚を晏樹に与えたが、それが何かを知る前に晏樹は視界に入ったものに足を止めた。
「おや」
それを知った旺季も足を止める。そして、振り返り晏樹の瞳が追う何かに気付き、その瞳が細められた。
「…紅貴妃」
彼等が歩く回廊とはまた別の廊下を歩く彼女は、彼等に気付いた風もなく、あの室に向かっていた。その姿に、旺季は。
(…違うな)
先程晏樹の言葉に、彼は変わりないと言った。けれど違う。彼は変わった。あの頃ならば、旺季が態々会いに行かずとも自ら会いに来ていただろうに。
(お変わりになりましたな、清苑様)
そしてその変わる切っ掛けとなったのは、疑うまでもなく彼女とその家族。
(喪う事を、躊躇うようになられた)
以前は恐れては居ても、躊躇う事はなかった。だからこそ彼が守りたかった者は守られたが、その躊躇いの無さが彼を守る事はなかった。一度だって。
(…それで良い)
躊躇って欲しい。喪う事を。
(そうすれば、喪わずに済む方法を見付け出そうとしてくれるだろうか。…今度こそ)
そう思い、そしてそれを最後に旺季はまた歩き出した。晏樹もそれに気付き後を追う。彼等の背に、パタン、と扉が閉まる音が風に流されて聞こえた。
「静蘭」
呼び掛けられて、静蘭は一瞬、それが秀麗のものであると分からなかった。我に返れば、秀麗が静蘭の顔を覗き込むようにじっと見ていた。何故か。そう問おうとした矢先、秀麗が口を開いて。
「哀しい事があったの?」
「え…?」
突然の言葉に戸惑う。秀麗は困ったように膝の上に置いた手を、きゅ、と握った。
「…何だか、哀しい顔をしているわ」
思わず戦慄いた唇を、咬む。それと同時に沸き上がりかけた気持ちも噛み殺して。静蘭は、何時もの顔で笑って見せた。
「……大丈夫ですよ」
「本当に?」
「えぇ。ただ…」
「ただ、なぁに?」
秀麗の心配そうな顔から目を逸らし、窓の外へと持って行く。
「春が終わるな、と思っただけですから」
其処から見えた桜の群生は、緑へと移行しつつある。春が終わる。夏が、始まる。それが寂しかった。ただ、それだけだと。
「…なら、良いんだけど」
そう言い、秀麗は「桃を持ってきたのよ」と笑い、其処で剥き始めた。そうしながら「早いわねぇ」と零す秀麗の声を、静蘭は聞くとはなしに聞いていた。その最中、ひっそりと目蓋を閉じる。
『哀しい事があったの? ―――…何だか、哀しい顔をしているわ』
溜息が零れる。
(…あぁ、確かに)
確かに心が、軋んでいた。
20100228
戻る