卯の花(三)

[ 君冤の余波 ]

 沈黙が漂っていた。
 静けさは破られる脅威を知らず、風はその術すら知らない。
 時の流れを知れるのは、戦ぐ篝火と白く儚い吐息だけ。
 少年はその軌跡を見ようともせず、虚空を見詰め、(ひとや)に座して待っていた。
 孤独と静謐の中、その時の訪れをただ、静かに。
 そんな彼が不意に睫毛を震わせたのは、風の音が変わったからだ。
 それは微かで、けれど、確かな変化。
 敏感にそれを感じたかのよう。
 篝火が揺らぎ。
 吐息が毀れる。
(……それでも)
 少年は、目蓋を伏せた。
(それでも、まだ)
 その時ではない。
 終焉は未だ来ず。
 けれど何時かは。
(…静かに、待つか…)
 その決意と共に、少年はまた翡翠の瞳で世界を見た。
 暗くて寂しい世界を見た。
 と、不意に彼は笑んだ。
 喉を鳴らして笑った。
 気付いたからだ。
 少年の世界、それは恐らく、此の牢獄の存在に等しいと。


  政戦の隻影


 吐く息が白に染まる。秋は疾うに終わったらしい。悴む手足は、一人しかいない牢屋には勿体ない程焚かれた篝火がその程度を和らげていて、耳を澄ませば冬風の啼き声が聞こえた。
 その静寂を毀したのは抑揚のない少年の声。霄は辺りを見渡していた視線を彼の少年へ固定する。その時僅かに霄が眉を顰めたのは、牢に縛された少年の、清苑の姿に痛ましさを覚えたからではない。心を掠めた違和感。彼は此処に居るべきではないという思いだった。
 けれどそれを胸の内に隠し、眉を顰めたのも一瞬吹き付けたの風の所為にして、霄は再度清苑を見遣った。藤色の髪も翡翠の瞳も、寒さに感化されたように冴え冴えとしていた。
「……公務は、如何なされた」
 こんな所に来ている場合ではないだろう、そう言外に言われた事に気付きはしたが、霄は悪びれもせずに笑ってその問いに答えた。
「今現在、私が火急にやらねばならぬ事はありませんのでな」
 机案に向かって仕事をしている姿など見た事はないが、それでも太師である霄には何時如何なる時でも膨大な量の仕事が舞い込んでいる筈。言い訳に成り得ぬその言葉に、しかし清苑はそうかと言って小さく笑んだ。
 その笑みが何かを含んでいる事に気付いた霄は笑みを消し、問うように瞬きをした。清苑は暫く口を噤んでいたが、霄の視線に折れたかのように笑みを弥増して口を開いた。
「茶太保も宋将軍も、そう言って此処に来られたよ」
 易く想像できる二人の姿に、霄は決まり悪げに咳をした。清苑はそんな霄を見て尚も笑み続けた。その笑みは彼の今の境遇を考えれば不自然に思える程穏やかで。
「…貴方達は私に構い過ぎる」
 そして俯き零された声も、咎めるにしては、優しい。
「清苑様…」
 その声に遣る瀬なさを感じて呼び掛けた霄の呼び声とも言えない呟きに、ただ清苑は密やかに目を伏せた。影が、昏さを増した気がした。
「分かっているだろうに。茶太保も、宋将軍も、…貴方も」
 何を、とは決して言わない清苑を、霄は哀笑を零し見遣って思う。あぁそうだ。確かに鴛洵も宋も、自分だって当然のように分かっている。そして、それは言う清苑にしても同じ事。
「…貴方の仰る通りでしょうな」
 あぁ厄介だ、滑稽だ。誰も彼もが分かっていて、なのに望み望まれた道を歩まない。大人しくその通り歩んでくれれば良いものを、自分の理屈を感情を押し通してしまうから誰も彼もが傷付く事になる。喩えば霄の出現に落胆した清苑のように。喩えば清苑の覚悟に悲歎した霄のように。
(……それでも)
 最早思っても仕方のない事だ。もう、意味はない。微かに目を伏せ、霄は笑みを作って清苑を見た。
「老いとは恐ろしいもので、理屈や常識と言った窮屈なものなど、時にはどうでも良くなるのですよ」
 だから気にするなと、なんでもない事なのだと霄はちらりと嘯いて。
「それに、散る間際の華を見納めようとする事は、決して道理に背く事ではないしょう」
 と諭すように言った霄は、けれどその言葉に内包される皮肉と挑発の色に気付き眉を顰めた。それは霄の意図したものでなくただ不意に溢れただけの独り言に近いものだったが、それにしても清苑の前である事を考えれば不用意に過ぎる言葉を口にした自分自身に霄は不快を覚え、謝罪の為に口を開こうとした。まさに、その時だった。
「…そうだな」
 暫し黙していた清苑が、不意に莞爾に近い笑みを浮かべてそう零す。息を呑んだ霄を見ず、ただ床を見続けて。
「やっと、終わるな」
 石壁に淋しく反響したそれは、安堵の溜息と共に吐き出された、疲れ切った声だった。生きて生きて生きて、そして漸く死ぬ前の呟きに似ていた。
 まだ十を数年過ぎただけの、霄の年の何十分の一という、僅かな生を歩んだだけの子どもの呟き。滑稽だと笑う事は容易かった。年を取り、老いに身を任せた霄にはその権利があった。叱咤する義務があった。何を馬鹿な事をと霄は咄嗟に思って、そのまま声に出すだけで良かったのに。
「――――…」
 思うだけに、留まった。声には終ぞ出されなかった。それをさせないだけの情感がその声には籠もっていて、その理由を知らないと言ってしまうには知りすぎた彼の生き様を思い返し、霄は唇を引き結んで沈黙した。
 その彼を知って、清苑は俯かせていた瞳を上げる。冬の影に囚われそうな瞳が細められて霄を映す。慈愛、に似た温かい感情が、微かに翡翠の双眸に灯った。
「貴方が気に病む事はないよ、霄」
 それと同じくらい温かい声音が、耳朶を擽る。
「こうなるように全てを決めたのは私だ」
 水が山上から流れるように、するすると言葉が零れていく。
「諦めてしまったのも私なんだ」
 まるでせせらぎ。透き通り、少し冷たく響く音。なのに何処か柔らかく。…しかし。
「私が―――毀したから」
 それだけの言葉で、不意に凍った清流。パキリと割れる音。霄は知らずに息を呑み、ゆっくりと、吐いた。ぎこちない微苦笑が笑みになりきれずに消えた。回顧するように、数瞬視線が虚空を彷徨う。
「………貴方は昔から、そうでしたね」
 変わらない。この小さな子どもは、生まれた時から今までに、ただの一つも変わらなかった。期待を込めて見上げていた視線が拒むように下ろされるまでになった年月の間、見据える先もその心も、両の眼に隠された諦めさえも。
「いいえ…、貴方を取り巻く全てが、ただ貴方に優しくなかっただけなのでしょう」
 王宮とはそのような場所、覇権争いとはそのようなもの。そう言い切ってしまう事は出来なかった。
「貴方に何が出来たと言うのでしょうね」
 小さな小さな華。雪に覆われた世界で、たった一つきり、地面から僅かに顔を覗かせ咲いていた花の様に生きてきた彼。寒さをはね除ける草はなく、暖かさを分け合い身を寄せる仲間も居ない。斬り風に負けまいと細い根を懸命に大地に張る事実を知る存在もないままで。それでも凛と背を伸ばして生きてきた。身も心も、冬に侵され冷たく凍ってしまっても。誰もその事に気付いてくれないまま、今まで。
「何を、望まれていたのでしょうね」
 清苑を眼の敵にする異母もその子等も、紅家の彼も藍家の彼等も、全てを知る彼も、その愚かさを知る自分ですら。清苑の卓越した才に、憎悪し嫉妬し期待し畏敬の心持ちをも孕んで、自分達は一体何を彼に望み、そして願ったか。
(…馬鹿な事を)
 あぁそうだ。誰も彼もが愚かだ。哀しい程滑稽で、愚かだった。何故なら彼は、―――清苑、は。
「貴方は何一つとして望む事も願う事も、ましてや選ぶ事すら、出来なかったのに」
 玉座へと続く道の出発点があるのなら、其処に佇んだまま、一歩だって動こうとはしなかった。佇んで、そして、そのままだった。
「そうでしょう、清苑様」
 全てを決めたのは己だと彼は言った。自分が毀したのだと。馬鹿な、と霄は思う。
「―――諦める事すら自分で選択できなかった貴方が、そんな事を許された筈がないでしょうに」
 それでも多分清苑がふと王座を手にしようと考えた事はあった筈で、霄ならばその道へ誘う事も出来ただろう。分かっていた。しなかった。手を拱いて、ただ見ていた。
(…儂も毒されたものよな)
 嘲笑を含んで毒突く。それでもそう決めたのだ。手出しはしないと。運悪く小さな華が諦めの先に見出した結末を、その未来を知ってしまった時、霄はたった一つの願望というには幼く拙い想いを叶えさせてやりたくなった。そう思ってしまった。ただそれだけの事。ただ、それだけの。
(些末程もこの国の為にもならぬ事を)
 それが凶と出るか吉と出るか…、と考え耽る霄の耳が、不意に零された涼やかな声の応いらえを聞いた。
「……そうかも、知れないな」
 見れば清苑は相も変わらずほんのりと笑っていて、けれど何処か、凍り付いた冬の一景を写し取ったかのようにも見えた。そう感じながらも、彼の微笑に霄は賛嘆の想いを拭えない。
「それでもね、霄」
 綺麗で哀しい微笑だと思った。
「私は、これで良かったと思っている」
 それが哀しいから綺麗なのか、綺麗だから哀しいのか。分からないまま、霄は清苑の言葉を心の内で反芻する。清苑を見る瞳が、そっと微かに細められて。
「……えぇ、貴方がそう言うのなら、そうなのでしょう」
 霄の返答は素っ気なく、その声には僅かな不満の色が窺えた。敏感に気付いて、清苑は霄を凝視する。其処には小さな驚きが含まれ、だからきっとその一瞬後にくすりと笑んだ清苑の表情に揶揄いの片鱗が見えたのは、余りない霄の子どもっぽい一面を感じたからなのだろう。
「拗ねているのか」
 躊躇いもなく指摘した清苑を面白くなさそうに霄は見て、今度はそっぽを向いて大きな溜息を吐いた。
「拗ねたくもなりますよ。後悔してます。貴方に目を掛けた事をね」
「そうだったか?」
「えぇ。しかし今はさっさとその心に見切りを付けて、此処から追い出せば良かったと、そう思いますよ」
「…そうだな」
 遠慮ない落胆の言葉を吐かれ、清苑も流石に苦笑する。それを一瞬だけちらりと横目で見て、霄は少し間を開けてから言葉を続けた。その声は少しだけ、掠れた。
「…貴方は弱い」
 優しいのだとは、言ってやらない。
「私が期待するよりも遙かに脆弱でした」
 そんな言葉ですら、清苑を傷付けてしまいそうで怖かった。
「だからこれで良かったのです」
 優しかった、甘かった。剣を握り血を被り屍を積んだ子どもは、なのに一度だって自分の為に生きた事はない。
「貴方の言う通り、これで、良かったのですよ」
 哀れだと、見る度に思う。彼が笑う度に思う。彼は完璧である事を求められて、その期待に応えて疎まれた。慧眼である彼は瞬時にそれに気付き何事もなかったかのように内にある才能を隠そうとしたけれど、一度翳した剣の切れ味は思いの外鋭くて、そしてそれは直ぐに周りに知られる事となった。剣を鞘に収める事は、最早不可能だった。
(力を隠す事は死に近付く事と等しくて、だから彼は力を誇示していく道しか残らなかった)
 自分の為にではない。生きる為ではない。最初に才をひけらかしたのだって、自身の身を守る為ではなかった。
(ならば、何の、為に)
 霄は溜息を吐いた。清苑は目を瞬かせた。
「貴方は馬鹿ですよ、清苑様」
 心底思う。この小さな子どもは最初から最後まで愛おしい程愚かだった。
「これが良い機会です。もう少し自分の馬鹿さ加減について考えて、出来るのなら直しなさい」
 哀しい程、愚かであろうとした。
「そして、少しは自分の為に、生きなさい」
 だから霄は願うのだ。心の片隅で小さく、どうかこの子に幸あれと。


 外に出れば、冬の寒さが一層身に沁みた。けれど身体に吹き付ける風よりも更に、獄中の冷たさは厳しかった。
(彼処には何もない。時の流れも、生も死も…。流れというものを、一切として拒絶した場所…)
 例外は篝火だけだ。あれが唯一時間を宿していた。
 それにしても、と霄は昊を見て思考に耽る。諭すように言った後、逡巡(しばらく)の無音を経て口を開いたのは清苑だった。
 躊躇いを見せた僅かな時を挟み、迷いを殺すように微かに唇を咬んだ後、清苑は霄をしっかと見た。その視線は強く、瞳は静かな覚悟を湛えていた。何を…、と霄が僅かに怯んだ、その狭間に。
『守ってくれ』
 一瞬、全ての音に優って聞こえた彼の言葉。その響きが持つ意味を悟って、霄はふるりと身を震わせて絶句した。強い口調ではなかった。命令ですらない。それは懇願と切望に近い、願い、だった。
『霄』
 霄の目の前、格子の向こう側で、王の子は微笑む。打算的にかも知れない。ただ、溢れただけなのかも知れない。どちらにしても、その笑みは春の日差しに似て温かかく。
『置いていくよ、此処に。厄介事も私が残した爪痕も…、…――私が愛したものも、全て』
 でも何処か、薄氷(うすらい)に投影された偽りの陽光のようにも感じられて、霄は戸惑う。それを知るだろうに、清苑は気付かない振りをし続けて。
『…本当は貴方の言う通りなのかも知れない。私が、何も選べなかったと』
 けれど、と彼は言う。違うんだと、言い張って。
『矢張り私は選んだのだよ。自分で選んだんだ。この道を。この、未来を』
 噛み締めるような言い方。まるで言い聞かせるようだと思った。霄に、そして、彼自身に。
『……それで、貴方に何が残りますか』
 固く緊張を孕んだ声と睨むかのような鋭い眼光。それらをするりと交わして、それでも一瞬だけ霄を見て、清苑は微笑を翳らせた。その変化は本当に小さく、闇に掻き消されそうな程だった。なのにその彼の微笑が心からの笑みで、つまりこれから述べられる事は清苑の本心なのだろうと、そう分かってしまった霄は哀しかった。
 綺麗で綺麗で、酷薄な笑み。ただそれだけであれば良いものを、何時だって彼の想いは霄のそれとは対蹠にあって、だから霄が彼に微笑み返す事はない。一度もなかった。だから、今だってきっと。
 その考えを見透かし肯定するように、清苑は一瞬深めた笑みを口元に刻んで。
『散り行く華に、散った後の事を貴方は聞くのか』
 淡々と返された自身の言葉に、霄は苦笑も出来ず唇を咬んだ。酷な事を聞いた事は分かっていた。散ると知りながら、その行く末を見届けようとした者の言う事ではない事も。そしてその答えすら、自分は分かっていたのに。
『……でも、そうだな』
 と、沈黙し自省する霄を置いて、清苑はぽつりと声を挟む。
 不意に視線が絡まり合った。言葉をなくしたまま見詰め返す霄に、矢張り清苑は柔らかく目元を和らげた。そうして零された声も微笑も、稚い程弱々しくて。
『何かは残ると、信じてみたい』
 だからだから、霄。
『守って欲しい』
 私がいなくなった此処で、私が、残すもの達を。
『――――』
 何の―――誰の為にと問いたくて、けれどそれは出来なかった。霄が出来たのは、ただ沈黙を守る事。そして静かに目蓋を閉じて世界も霄も拒んだ清苑の凛とした貌を眺め見て、跪き、身を起こして踵を返す事だった。
「……馬鹿な事を」
 回想の終わり、そう口に出せば、それは白い吐息と共に昊へと逃げる。見送って俯き、心の中で雪の如く降り積もる哀しみを見た。静かに、閑かに。その哀しみを排除しようともせず、眺め続けて。
(清苑様……貴方は……)
 託す、と彼は言った。霄は笑う。苦く苦く、ただ深く。
(守る事は容易い。だが守るだけでは救われぬ)
 霄は心に呟き辺りを見遣る。宮から離れた此処は遠くにその姿を認めるのが精一杯で、目前に広がる一面は昨夜降った雪をそのまま肌に纏っていた。その雪原に標はない。ただ白く白く染まっただけの地面に道などない。霄は立ち竦むしかないのだ。どちらが北か南か西か東かなども分からぬまま、進んだ所で消え行く足跡を辿る事もままならぬまま。そんな場所で一歩を踏み出す意味などあるだろうか。その問いに答えはない。
(儂にはどうしようもない…)
 どうにか出来るものなら歩んだだろう。標がないのなら作れば良い。道がないのなら切り開けば良い。単純な事だ。そして、そう出来るだけの力が霄にはある。それでもしなかった。…出来なかった。
(何故です? 何故、この結末を選ばれたのですか)
 彼も、彼も、そして、あの人も。回避できた筈だった。他の道もあったのに。霄は何度でもそう問い、何度でも詰るように零すだろう。喩えば、そう。
「―――奇遇だな」
 霄の目前で夜の深淵に似た笑みを浮かべて佇む、此の男にでも。


 また一人きりになってしまった空間で、清苑はひっそりと目蓋を閉じる。瞑想の中思い出したのは、今までの事。殺して殺して殺した日々。その中には、けれど僅かでも安らぎの時も存在した。
(…まるで走馬燈のようだ)
 瞑目したまま清苑はそう思って微笑した。不思議と嘲る気持ちは沸き起こらず、哀しみともまた出会わなかった。心が凪いでいた。何も感じない。心の水面は、水を打ったようにただ静かで。多分それこそが哀しい事なのだろうと、清苑が気付く事はない。
(あぁ、ならば)
 そっと瞳を世界に向ける。先刻と変わらないまま、暗くて寂しい世界が横たわる。けれども清苑は落胆しない。
(……あぁ)
 見付けたからだ。篝火に揺れる人影を。
(…やっと)
 悟ったからだ。
(やっと―――終わる)
 その時が、来た事を。
「清苑」
 名を呼ばれ、それが断罪の声である事を知りながら、清苑は笑った。無垢な顔で笑った。子どものように笑った。泣きそうな顔で、笑って。
「父上…――」
 耐えきれず、清苑は呼んだ。
「―――――…戩華」
 その微笑は何処までも、綺麗、だった。


20101211
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