卯の花(二)

[ 後朝の慟哭 ]

 それは天翔る疾風のように人々に知られる事となった。
 愕然とする者。
 溜息を吐く者。
 ただ嘲笑う者。
 様々居る中、紅本家に居住する黎深がその凶音を聞いたのは朝も早くの事だった。
 まだ雪を知らない、冬の朝。
 己の心も、その筈だったのに。
「……………」
 言葉は出ず、涙も出ない。
 ただ知った。
 彼の意図。
 彼の言葉。
 彼の決意。
 そして、己には身に痛い、優しさを。
「……………馬鹿、が…」
 漸く出た小さな言葉は、何度も彼に言ったそれだった。
 けれどもう。
 届きは、しないのだろう。
「――――」
 だから言葉はそれ以上口から出る事なく、心の中で殺された。
 言葉だけが殺された。
 黎深は口を開いた。
 誰にも聞こえぬ絶叫が、空気を長い間震わせた。


  紅雨の葉声


 日が過ぎる。ただ、無為に。あの知らせを聞いたその日から、黎深の時間だけが止まってしまったかのようだった。そんな日常が動いたのは、その日から幾日も過ぎた頃。
「―――黎深」
 声を聞く。久々に誰かの声を聞いた。兄の声だ。何時の間に、この室に…―――そう黎深は思って、けれど何かを言う事はしない。そんな事を考え付きもしない。
「君は、何もしないのかい?」
 邵可の声に、返答のない事を気にした風はなかった。ただ静かに流れている。黎深は小さく笑った。久々の笑みに、顔が強張った。
「…行ってどうにかなると思える程、私は愚かではありません」
 そう。其処まで愚かではない。決定は覆せない。罪は消えない。罪が重すぎる。刑が、重すぎた。喩えそれが偽であり真でなくとも、黎深にそれを証明する手立てはないのだ。
「私にあいつは、……救えない」
 だからこそ黎深は沈黙を保ったままだった。気の抜けたように椅子に鎮座し、日が風の如く過ぎゆくのをただ知らないまま受け入れた。扉を境に外界との接触を拒絶した。もうどんな報せも聞く気はなかった。罪の重さと刑の重さは等しい。過不足なく同等。ならば。
(好転は、有り得ない)
 黎深が動いてどうにかなる話ではないのだ。黎深はそれを知っている。歴史がそれを証明する。邵可だって、知らない筈はないのに。
「彼に忠誠は誓えても、それは無理か」
 ぴくり、と黎深の肩が動く。伏し目がちだった瞳を開き、そろりと声のする方を見た。扉の直ぐ横、凭れ掛かって、邵可が笑って其処に居た。
「王にと願った相手が、主にと戴いた相手が、死すべき道しか残されて居ないのに」
 挑発に似た言葉。黎深はまた笑った。今度は引き攣る事なく、ちゃんと笑えた。それは自嘲と言うに相応しい笑みになった。
「……えぇ」
 言い訳などしない。黎深が主にと戴く相手は彼しか居ない。彼しか―――紫清苑しか。けれど、もう。
「私の手はもう、あいつには届かないんです」
 伸ばした手。振り払われた。何故と問う事も出来ず、桜雨に裂かれた絆。紅家と紫家の渓谷だった場所に、黎深だけが残されて。
(あぁ……そうだ)
 邵可に向けられていた顔が下を向く。黎深は己の手を見詰めた。
「……届かなかった…」
 独り言。私語(ささめごと)
「あの時には、既に…」
 物思いに耽る、ひっそりとした声。
「私は共に死を歩む事さえ覚悟したのに」
 邵可の存在すら無視したその言葉は、空寂な響きを持って空に溶けていった。しかしふと何かに気付いたように黎深は窓の外を見た。その横顔が微かに歪む。邵可も釣られて外を見た。そして瞳に映ったのは。
「…桜が、咲いたか」
 邵可の言葉の通り、淡紅の花瓣が風の中を舞っていた。紅州では珍しくない寒桜。冬に咲く桜の花が、清冽とした冬の昊の蒼に映えて清雅。
 けれど黎深の顔は晴れない。笑みの消えた顔に残るのはただ、哀情だけ。
(………さくら…)
 脳裏に浮かぶのは、半年も前、見た桜。あれはこんなにも寂しくはなかった。ただ美しくて、ただ綺麗だった。紅と紫の淡い色合いが、とても、綺麗だった。
(―――あぁ、けれど)
 寂しい。寂しかった。あの時も、確かに。
『私は王に、なれない』
 そう言ったあいつ。
『私に、その手は取れない』
 そう言って、私を置いて桜花の中に掻き消えた、あの子ども。
(……清苑)
 想うだけで心が痛い。名を思い浮かべるだけで心が崩れ落ちてしまいそう。あぁそうだ。見失ってはいけなかった。何をしても伸ばした手であの細い腕を掴むべきだった。望まれなくても。嫌悪されても。…分かっていたのに。
(王になれないというあの言葉。手を取れないというその真意など)
 分かり切って、いたのに。
「……兄上」
 桜を見たまま黎深は零した。懺悔のように、哀しい声を。
「…分かっていました」
 潤む事のない己の瞳。それすら罪悪であるかのように、黎深はひっそりと瞳を眇め、涙色の声を吐く。
「分かっていたんです…私は、…ずっと前から」
 あの日、輓歌を歌う清苑を知る前から。あの夜、血に汚れた清苑を見る前から。―――いやきっと。
「あいつが、王に相応しくない事なんて―――」
 それこそ、出会ったその時から。
(分かっていた。嫌になる程、…分かっていたんだ)
 そっと瞳を瞑る。そして思い出した面影は、笑っている筈なのに何処か陰がある。そんな顔ばかりを見てきた。見ていたその時には、その陰など欠片も気付かなかったのに。
(…優しすぎたんだ、あいつは。誰よりも)
 痛みを飼い殺す事に慣れている。それが自分を救わず、けれど誰かを救うであろうと知っていた小さな子ども。それが清苑だった。ならばそんな奴がどうして覇者と言われる父王の遣り方に慣れた官吏達の上に立つ事が出来るだろう。そうなれば、清苑はその覇道を歩む事しか許されない。
(清苑の心が、毀れてしまう)
 あぁ知っていた、そんな事。でも、それでも、黎深は。
「兄上の仰る通り、私はあいつを、清苑を…、王にと、願ったんです」
 王にならずとも良いと思いながら、心の奥底では王にする為にはどうすれば良いかを考え続けていたと零した黎深。その彼に、邵可は。
「―――何故?」
 静かな静かな問いを零す。まるで一滴の雫が落とされたかのようにそれは黎深の心を揺り動かした。波紋を知らなかった心の水面が、騒いて。
(何故…? そんなの…ッ)
 閉ざされていた瞳が激情に煌めき、色をなくした唇で黎深は吠えた。
「―――王にならなければあいつはあいつの持つ才故に殺されるしかなかった!」
 もし清苑が紅藍両家を手に入れていれば、いやせめて紅家が侍っていれば、違っただろう。ただそれだけで清苑は生きられた。王になれない未来など、なかった。
(その未来が姿を変えた)
 あの時だ。隠された花の苑。紅と紫の桜雨。凛とした声が囁いた。最早紅紫は相容れぬと。否、元より。
(紫は紅を求めては居なかった)
 それでもあの時、何をしても嫌われてでも、自分があいつをこの腕に抱き留めて居れば。暴れても押さえ込んで、拒絶されても受け入れて居れば。
(ただそれだけで、良かったのに)
 出来なかった。してやれなかった。あぁそうだ。自分は、何も。ギリ、と唇が噛み締められる。吐く声が、血を含んだ。
「あいつには王となるしか生き延びる道がなかったのに…!!
 味方以上に、清苑には敵が多かった。多すぎた。他の公子。その公子達の母、そしてその母親の親族と彼等に付き従う臣下達。その全てが清苑の敵。そして清苑は誰とも通じない。どの貴族、どの官吏とも手を取り合った事はない。ただ孤高に生きて、その存在に勝手に惹かれた者達だけが清苑の味方の全てで。
 そんな状況の中を清苑は生き続けていた。十三年も。ただ、独りで。
(生きているのが不思議なのだ。奇跡と言っても過言ではない)
 けれどそれは今だけだ。次期国王の定まらない、水面下でしか動けぬその間だけの。もし清苑以外の者が王と決まれば、その瞬間から奇跡はなくなる。如何に黎深と言えども清苑を守り切る事は不可能だ。出来る訳がない。
(徹底的に、殺される)
 だから清苑は王を目指した筈だった。王になれば死ぬ確率が減る。そしてだからこそ、黎深は清苑を王にと願ったのだ。己の主に清苑をと願った。死なせない。殺させやしない。清苑の本当の価値すら知らぬ輩に、私の友を。そう、黎深は思ったのだ。
「…守りたかった……私のこの手で、あいつを…清苑を…傷付ける、全てのものから」
 そう思って、いたのに。
「―――――なのに何故こうなる…ッ!」
 激昂した黎深。心の底からの叫び。思い出したのは、あの、報せ。
『紫清苑様、外戚の謀反の咎を受け、投獄』
 謀反? 馬鹿な。あの、清苑が―――黎深ですら、そうと分かるのに。
「何故、こんな馬鹿な事が罷り通る!」
 何をすればどうなるかなど、清苑が知らぬ筈がない。ましてや王にならねば死すら近しいと知る者が、そんな愚かな事が出来る訳がない。母親の父を押さえ込む事も出来ぬなど、ある訳がない。
 その愚か者に清苑が祭り上げられた。目眩すら覚える程に、怒りが湧く。
「清苑を馬鹿にするな…!!
 何処まで清苑を貶めたら気が済む。そうした奴も、黙ったまま見ている者も、知りながら口を噤んだ者も。どれ程清苑を傷付ければ気が済むんだ。黎深は叫んだ。長らく黙していた間に沈殿していった想いを一時に吐き出すように。
「兄上何故です…! 何故兄上が居てこうなる!? どうして誰も清苑を助けない! どうして誰も清苑の心を分かってやらない! どうして誰も清苑の光の中の姿を見ようとしないのですか!!
 あの漆黒の中、たった一人で敵勢を地に堕とした清苑。それを見ていた『影』。それを邵可は清苑の価値を知る為の場だと言った。
(あんなものが清苑の価値だと? ―――巫山戯るな!!
 ならば手向けの歌を歌った清苑は何処に居る。弟の為に毒まで含んだ清苑は。黎深に笑いかけてくれた清苑は、その何処に居ると言う。
「『影』の情報の中でしか存在しない清苑など知らない、私の知る清苑ではない! 本当のあいつなどではない! 清苑の価値ならば私が誰よりも知っている! 私が、誰よりも…ッ!」
 惹かれた存在。自分とは違い、けれど同じである存在。共有できる者。唯一の。―――なのに。
「なのに何故私にはあいつを救う手立てがないんだ――…!!
 紅家本流、第二子。その才は兄を凌ぐとすら言われ、次期当主は決まったも同然だとも言われる。それを誇った事は一度もない。兄の素晴らしさを知る者は黎深だけで、他の人間の言葉など聞くに及ばない。誰が何と言おうと黎深は邵可より己を高く見た事はない。その価値すらないと知っている。だが、それでも今は。
(何も持たない自分が、ただ、殺したい程に憎かった)
「何もないんです、兄上……私には、何一つない…!」
 紅家を求めろと言っておきながら、自分には紅家を動かす術がない。
「何一つ…私には…っ」
 逃げても逃げても追い掛ける。何度手を振り払われても掴み取る。藍家が手を引こうとも私は。そう、誓った筈なのに。
(――…なぁ清苑)
 後悔しか湧かない。怒りしか湧かない。哀しみしか湧かない。
(知っていたのか? こうなる事を。分かっていたのか? この未来を)
 どうしてだろう。苦しい。嫌だ。憎い。誰も彼も、秩序すら。
(だからお前は、私の手を、藍家の手を、取らなかったのか? 会う場所をあの苑に変えたのか? お前の罪が、私達に及ばぬように)
 安穏と友を見捨て世に独り生きるのなら、いっそこの手で世界を叩き潰してやりたい。全てを破壊し尽くしてしまいたい。
(要らぬ世話だ。嬉しくもない)
 でも、友を救おうと法の一つも壊せない自分にはそれが出来ないから。
(……なぁ、清苑…)
 食い縛った歯の間から声が漏れる。幾筋もの雫滴が両頬を滑り落ちて。
「傍に…何があっても最期まで、お前の傍に居てやれば良かった―――…」
 想いの全てが、其処にあった。


 眼を瞬かせた黎深が次に窓の外を見たのは、既に黄昏時の昊になった頃。一息だけ叫びの残滓を吐き出すように零した黎深は、ぼんやりとその紅に近付いた昊を見上げ続けた。桜がひっそりと揺れているのが、昊と同化し切らない花瓣によって知れた。
 それを見ながら、けれど依然室にまだ邵可が居る事に黎深は気付いていて、しかし何も言わないまま居る邵可に話し掛ける事はしなかった。疲れていた。何故か酷く。ただ、意味もなく。そんな空白の時も終わりを迎えて。
「…黎深」
 邵可が声を出す。相変わらず微笑んでいるのか無表情でいるのか、それとも怒っているのか、分からない声だ。黎深ですら区別のつけづらい声音を零した邵可は、黎深が自分の方へ向いたと同時に少しだけ微笑んだ。優しい、笑みだった。
「清苑公子は、死なないよ」
 何を馬鹿な―――思わず兄に向かってそんな事を言いそうになった黎深は、無意識に唇をきつく咬んだ。慰めなど要らないとばかりにふいと邵可にやっていた視線をまた窓に戻す。けれど、それは一瞬の事。
「清苑公子は死刑には処されず、流刑になるそうだ」
 弾かれたように黎深は立ち上がり邵可を見た。真っ直ぐに見て、今度は優しげな兄の顔から視線を逸らさない。逸らせなかった。信じられなかった。
「……流、罪…?」
 震えた唇が零す刑の名。それは、謀反という罪に科せられる刑ではない。
「謀反は十罪…外戚の罪だとしても、連座で極刑の筈……例外はこれまで、一度たりともなかった筈では…?」
 あの王が法を曲げた? 我が子の為に? 清苑を死なせまいと? まさか、そんな。驚く黎深に、邵可は尚深く笑んで。
「あの人らしくないのは認めるよ。私も驚いたくらいだ」
 それでも、と邵可は黎深に近付き立ち尽くす弟の頭にそっと手を添えて、自分の肩に押し付けた。
「彼は、死なない」
 優しい、慈愛の声。安心しなさいと、語り掛けるような。
「この裁量が彼を救うかは分からない。例外が出来てしまった事を悔やむか、若しくは反発するだろう。彼は優しい人である以前に、公子だから」
 そうだろう。清苑は軽罪に変えられた事を許すまい。それが王の心だと言って、納得する筈もないだろう。でも…それでも。
「ねぇ、黎深」
 邵可の声。兄の、声。
「彼は生き続けられる」
 それは一度閉ざされた未来。黎深が切望する事も出来なかった、存在し得なかった筈の可能性。それでも今、その選択肢が開かれた。
「君の大切な友人は、生きていられるんだよ」
 黎深の世界が、また、滲んだ。


 幼い頃でも数える程しか泣く事のなかった黎深の涙が擦る指からぱらぱらと散って行くのを見ていた邵可は、不意に緩めていた表情を引き締めた。それは黎深の部屋から出て、少し先の室が見えた時。それは無表情と言うには固すぎて、そして微かに憂慮の陰が見え隠れしていた。それでも邵可は何でもない振りをしてその室の扉を開く。断りは入れずとも、中に居た彼等が気にした風はなかった。
「邵可様」
 代表するように彼等の内の一人が呼び掛ける。邵可は少しだけそれに表情を和らげて彼等を見た。
「此処に君達が居る事を知ったら、そして先程の報せが君達からもたらされたものだと黎深が知れば、どう思うんだろうね」
 その問いに応えるように浮かべられた淡い笑みは、黎深が嫌い、清苑が手を切った、藍家の三つ子のものだった。
「兎も角、ありがとう。黎深の代わりに、お礼を言わせて欲しい」
 そう言って零された謝辞に、三つ子等のそれは一層深められた。けれどその穏やかな雰囲気は長くは続かない。自然と彼等四人の表情は厳しくなって。
「…邵可様」
 何かと問う事を邵可はしなかった。分かっていた。言いたい事も、共有する疑惑も。そして、底知れぬ不安を互いに感じている事も。
「十罪が定められてから今まで、こんな事はなかった…」
 溜息を零すような声。黎深との会話の時には一切伏せられていた感情の揺らぎ。邵可は鬱蒼とした瞳を床へと投げた。
「何かあると見て良いと思われますか?」
 あぁそうだ。何かある。今回の罪の軽減。それも。
「鈴蘭の君も、極刑を免れている」
 例外が二人。有り得ない。公子である彼であってもこの軽罪への変更はあってはならなかった事だ。なのに、何故。
「いきなりあの男が家族愛に目覚めた訳でもあるまいし」
 何かある。ある筈だ。なければならない。
「……まぁ、良い」
 邵可は一つの瞬きで思考を変えてついと視線を上げ、表情を固くしたままの三つ子に微笑みかけた。その笑みにはもう、不安も強張りもない。ただ純粋に、笑顔。そして。
「良かったね」
 その言葉に一瞬三つ子は呆けて、けれど直ぐに彼等もまた笑みを浮かべる。疑念はある。不安もある。それでも今は。
「本当に、良かった…」
 彼が生きていられる事が、ただただ、嬉しい。


 明けの昊の下、黎深は庭院に出る。さぁ…っ、と目の前で桜が吹雪いては散っていく。それは変わらず美しいまま。寂しいまま。けれど彼は居ない。…居ないのだ。もう、彼は。
(…後少しで良い)
 後少しでも、手を伸ばすのが早かったら。後少し強引に手を掴んでいたら。手を差し伸べるだけでなく、無理矢理掴んでいたのならきっと、何かが変わっていた筈なのに。
(けれどそれはもう遠い幻想(まぼろし)
 掴む事の叶わぬ夢。
(ならばせめて、生きていられる事を喜ぼう)
 共にではない。それでも。
(死を免れて、生きて…)
 けれど何処か夢に囚われたままの瞳で、黎深は。
「今度会うその時、清苑、私は―――…」
 その先の言の葉は、溜息のように儚く、…毀れて。


20100522
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