紅紫(十)

[ 春夢の逢瀬 ]

 桜雲を目指して辿り付いた空谷(たに)
 夢幻を思わせる光景は、絶佳と言える筈なのに。
 何処か、哀しい。
 その夢境の中に佇む彼は。
 何を想い。
 何を感じ。
 何を祈り。
 其処に、たった独り、居たのだろう。
 瑞夢の終わりのような。
 凶夢の始まりのような。
 そんな予感に心がさざめく。
 そして彼は振り返り。
 夢の終わりを告げるように。
 莞然として、微笑んだ。


  終焉の渓谷


 その日は春と言うには些か寒い日となった。昊は泣きそうに薄暗く、風は余所余所しい程に冷たい。思わず衣の袷を寄せる。ただ薫る清香と、草木に付き、足下に咲く花の存在だけが、春の訪れを感じさせるに留まっていた。
 そんな中、黎深は生い茂り陽の差さない森の中を一人歩いていた。その手に握るは、友からの招待状。
(…待ち望んでいた)
 苛立つ程に。何故もっと早く呼ばないのかと、焦る程に。この日が来る事を、黎深はずっと待っていた。
(―――その、筈なのに…)
 喜びが、この胸にない。沸かない。愕然とする程に、何も、ない。
(三つ子の訪問…藍家の決定…間の良すぎる、清苑からの連絡)
 その一連の流れからの清苑との逢瀬。これがどうして喜べるだろう。言いようのない不安。漠然とした嫌な予感。そんなものが黎深の心に渦巻いていて、だから黎深は絶え間なく思考する事でそれらから目を逸らしていた。
(藍家が清苑の手を離した)
 …いや。
(清苑が、藍家を突き放したのか)
 それは予想できた事、寧ろ予想さえしていた事だった。ただ誤算だったのは、藍家が、三つ子等が、あっさりと清苑の手を離した事。誰が清苑の手を離しても、三つ子は離さないと思っていた。黎深が最後まで清苑の手を離さないと決意しているように、彼等も、と。
(―――何を馬鹿な)
 自嘲する。勝手な思い込みだ、そんなもの。落胆するに値しない。失望する謂われはない。なのに、裏切られたように感じたなんて。
(…違っただけだ。私と、彼奴等が)
 紅家と違い、藍家にはそのような節がある。惹かれた者に盲目的。だから朝廷は藍家を求める。藍家が付けば、怖いものなど恐らくない。望む通りに動いてくれるのだから。
(しかしその者が望めば、こうして離れていく事も厭わないがな)
 黎深は嘲笑した。その結果が、これだ。黎深には理解できない。喩え清苑が藍家を望まなかったとしても、藍家が必要である事は瞭然。黎深であれば離れようなどとは思わない。だってそれは、決して清苑の為にはならないから。
(…大嫌いだ)
 藍家のそういう所。延いては、藍家そのものが。…三つ子等が。
「……どうして、傍に居てやらない」
 紡がれた言葉を彩ったのは、雪が水面に触れ、消えていくような声。泡沫の声が、黎深から生まれる。
「あいつは―――独り、なのに」
 それは完璧な独語だった。けれど言った事に黎深は気付かない。森が何か言いたげに葉を揺らしてその言葉を掻き消したからかもしれない。あるいはそれ程の思いを吐露しなければ気が済まなかったのかもしれない。
 何れにしても黎深はその事に気付かぬまま考え続けた。意味のある事ない事の差違を考えもせず。ただ思考し続けた。
 その黙想が果てを見たのは、長い長い獣道が終わりに差し掛かった時。瞬間気付いた違和感に軽く眉を顰めながら、黎深は森を抜けた。そして。
「―――――」
 言葉を、喪う。
 以前は何もなかった、ただ大木だけが在ったに過ぎない谷底に、花が咲き乱れていた。枝を埋め尽くすように花が綻び、昊はその所為で見る事が敵わない。何時の間に晴れたのか、明るい陽光だけがその花片を透かして地に届いている。風の動きに合わせて花は揺れ、離れたその身は地へ横たわる。そして香りは楚々とした様子のそれに似て、清しい。その花の正体は。
「―――桜…?」
 けれどそれは、俄には信じられなかった。花の形や匂いは、黎深の知る桜と違わない。しかし、この色は。
「薄紅と…淡紫…」
 純粋な桜の色では有り得ない、桜色よりも尚濃い薄紅の色と、そして淡く薄い紫の色が、桜の花を彩っていた。数の半ばで割られたそれらが、見事に、綺麗に入り交じって。
(美しい…)
 初めて此処に来た時には感じなかった感嘆が、黎深の心に生まれる。それと共にそれまで心の裡にあった暗い思いが消え失せて、黎深は舞う桜花の中に立ち尽くす。ただ美しいと思う心とその対象である桜だけが、その瞬間、この世の全て。自分が此処へ誰に会いに来たのかも、何の為に来たのかも忘れて。
 そんな世界を壊したのは、桜の霞みに紛れそうな、人の声。
「綺麗だろう、この世とは思えぬ程……まるで、仙境のように」
 それにハッと黎深は其方へ視線を遣る。その先に、何時の間に居たのか、待ち人が―――清苑が、居た。散華する一際大きな桜の樹の下、黎深に背を向け、その大樹を仰いで。
 今日こそ清苑は紫の御衣を身に付けていて、だからこそその姿はともすれば桜に紛れてしまいそう。なのにある種の存在感が黎深に清苑の姿を知覚させ、玲瓏とした声が微かに谷に谺しながら黎深へと届く。
紅紫花渓(こうしかけい)―――それがこの谷の名だ」
 す、と清苑が手を伸ばし、昊に蹌踉く一つの花瓣を撫でる手付きでその手中に収める。微かに笑った、気配がした。
「そのままの名。紅と紫の花の咲く渓。紅紫という言葉が持つ美しい色という意味も、含まれてるかもしれないけど」
 そう清苑は言って、尚、言葉を紡ぐ。
「此処がお前の大叔母に当たる、紅玉環の為に設えられたから、とも言えるか」
「……!」
 思わぬ言葉に黎深は鋭く息を呑む。確かに大叔母は後宮にいた。そして王から寵愛を受けていた事も事実だ。しかし、これ程に愛されていたとは。
「紅紫とは、その意味も帯びているのだろう」
 ひっそりとそれは谷底に響いた。
「此処は、紅家と紫家の為の、谷だと――…」
 その言葉は寂しげな余韻を残して消えた。さわさわと揺れる桜がその名残を連れ去る。暫し清苑と黎深の間には、ただ自然の音だけで満たされた。それが永遠に続くかと思われた、その時。
  かさ、り
 桜の下、清苑が振り返った。微風に流された花吹雪の中で、漸く清苑は黎深を、見た。向けられた笑い顔が、何故か黎深には泣き顔に見えた。それは、舞う花の所為なのか。
「……黎深」
 では呼ぶ声が揺れているのは風の所為か? 何を怯えている。何に、泣きそうになって――…。問おうとした声は、次の言葉に殺された。
「私は王に、なれない」
 風息の中。花雨の中。零された言葉は、―――敗北宣言。
(…………何、を…)
 何かを覚悟していた黎深の心も、思わず揺さ振られる。誰よりも王に近い清苑から、そのような言葉が、漏れるなんて。
(何を、馬鹿な―――)
 何の冗談だと笑いたくなる。笑い飛ばせば、清苑も冗談だと笑うだろうか。半ば真剣にそう考え、けれど清苑の表情は崩れない。変わらない。何、一つ。
(……まさか…そんな)
 じわじわと冷たい何かが背中を這う。信じられない―――信じたくない。その違いすら分からず呆然と立ち尽くす黎深を、知りながら知らない振りをして、清苑は。
「……私は、王に相応しくない」
 優しい、声。泣きたい程に、それは優しく。
「黎深」
 凪いだ心はそれに侵されそうになる。
「だから―――」
 けれど。
「―――、なんだ?」
 それを、黎深は許さない。黙ってやらない。流されてはやらない。大人しく引き下がっても、やらない。
「だから、選ぶなと?」
 その声に籠もるは微かな怒り。黎深の心を無視しようとする、清苑への。
(気付いている筈だ、清苑)
 子守歌を口遊んだあの時、黎深の心に浮かんだ言葉。三つ子の訪いのあった日、血を吐くような思いで零した言葉。まだ誰にも、清苑にすら話していないその決意を、清苑なら。
 黎深のその考えを肯定するように、清苑は笑みを消したその顔に蔭を落とした。
「……止めておけ」
 言いながら、清苑は緩やかに首を振る。その緩慢さは、けれど決して躊躇っている訳ではない。行為自体を、倦んでいるような。
「先刻の言葉は弱音でも戯言でも、ましてや空語(うそ)でもない。ただ、事実だ」
 王になれない公子。それに、如何程の価値が在る。
「その私に付こうなどと、愚かな事は思うな」
 貴様が負けるなど何を根拠にと、黎深は問いたかった。勝敗はまだ決していない。なのに清苑は自身の敗北を強固に信じているらしい。何故、と思うよりも先に、黎深は言葉を吐き捨てた。
「それでも良い…構うものか」
 黎深、と咎めるように名を呼んだ清苑すら鋭い瞳で黎深は見て。
「喩えそれが事実であろうとも」
 決めた。決めてしまった。清苑に出会うまで、一度として誰かに傅く事を想像した事もなかったのに。
「―――私は、紫清苑(おまえ)だけの爪牙に」
 傍に居る。守ってみせる。最初から、最後まで。そう決めている以上、清苑が王になるならないなど、黎深にしてみればどうでも良い事。
「それが愚かだと? …なら」
 愚かな主に愚かな僕。
「似合いではないか」
 黎深はそう言って不敵に笑った。そして、思う。
(―――清苑)
 お前ならばと思うのだ。お前になら、私は頭を垂れる事を厭わない。傷付けられても良い。臣下という立場を、受け入れられる。以前から抱えていた違和感、お前が私に簡単に謝罪したその時に覚えたそれは、きっとそう言う事なのだ。
(お前は、私の上に立つべき人間だと)
 だから清苑、簡単に謝るな。簡単に諦めるな。簡単に、―――私を手放そうなどと思わないでくれ。
「清苑」
 優しく呼んで、黎深は手を差し伸べた。黎深の言葉、行動に目を見開く、清苑へ。
「選べ、清苑。私を―――紅家を」
 紫清苑が、紅黎深を。この手を、取ると。
「選べ」
 なれば我等紅家は盾となり矛となり、其方を守ると誓おう。何があっても、最後まで、共に。
「さぁ」
 ―――清苑。
 無言で見詰め合う清苑と黎深。それは、幾許とも言えない時間。無音と無風と無想の狭間。――――それを打ち破る、突然の花嵐。
「―――…っ!」
 狂乱する桜。風は鎌鼬の如く吹き荒れる。思わず黎深は清苑から視線を外した。手を引く。袖で、顔を庇う。


 ――…だから、気付けなかった。
 花をも巻き込んだ疾風の寸前、清苑の手が僅かに持ち上がった事。黎深へと、伸ばされようとしていた事を。
 ――…黎深は、気付く事が出来なかった。
 風花を遮る紅の袖の向こう。黎深の手が遠離るのを見遣って、清苑が哀しく微笑した事も。
 ――…自然の気紛れが、彼等二人の運命(さだめ)となった。
 その瞬間を清苑は見た。黎深は、見なかった。


(……これが、定めか)
 舞い続ける桜花。風吹き荒ぶ紅紫花渓。それを見ながら、その先の黎深を見て、清苑は小さく笑った。
(どうあっても、お前との未来はないようだ)
 奮い立たせて決めた心も、花嵐に挫かれる。視線は途切れ、手はもう、遙か遠い。
「……黎深」
 悲しい。哀しい。寂しい。……切ない。
「黎深…」
 何度名を呼ぼうが、視線は交わらない。手は伸ばされない。―――花嵐は、まだ、止まない。
(―――――)
 清苑は瞳を閉じた。笑みを壊す。そして何かを秘めて、また、紅と紫が溢れる世界を、見た。


 聴覚を刺激し続ける葉擦れの音、風の叫び、花の声。その中で、黎深は清苑の声を聞いた。
「黎深」
 遠くに居る筈の清苑の声が、不思議と近くに聞こえた。
「…済まないな」
 それは酷く酷く平坦で、何処か、以前会った三つ子の声に似ていて。
「私にその手は取れない」
 その声で。
「……黎深」
 呼ばれた名。
「感謝を…」
 囁かれた言葉。
「お前に出会えた事、…お前の傍に在れた全ての時に」
 震え脆弱としたその声を、嫌でも拾ってしまう。
「……お前と出会えて」
 そんな別れのような言葉など。
「本当に、良かった――…」
 聞きたくなんて、ないのに。
(―――…清苑…!)
 風下で風と向き合うように立つ黎深の行動全てを、風が悪意なく押し留める。
(清苑…清苑…!)
 足を踏み出す事も手を伸ばす事も声を出す事も許されず、黎深に出来た事と言えば、強風の中の清苑の声を拾う事のみ。
(清苑!)
 頭の中で友を呼び続ける事。ただそれだけ。その歯痒さと苛立ちに心を灼く黎深の全てを縛ったのは。
「――――紅黎深」
 弓を射たような、凛とした声。
「これが最後と心得られよ」
 さっきの言葉の裏に隠された弱さも情も。それにはない。
「以後一切として、此処へ立ち入る事、そして禁苑にて私に会いに来る事を…」
 いっそ感情の揺れを捉えられたのなら、少しは救われたものを。
「―――紫清苑の名に於いて禁ずる」
 その声が揺らぐ事は、最後までなく。


 弱まって尚乱れる風。
 散り散りに落ちる桜。
 地面は紅と紫で埋まり。
 微かに見える昊は蒼。
 僅かな間で散った花の命。
 それを思い遣る事も出来ず。
 黎深は視線を泳がせて知る。

 人影はない。
 気配もない。
 存在が、消え失せていた。

 友が、居ない。

 黎深は、花散る世界に独り立ち尽くしていた。
 紅と紫の世界に。
 紅だけが、取り残されて。

「――……清、苑…」

 喘ぐようなその声に何も応えず。
 桜はただ、降り続けた。


20100209
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