紅紫(八)

[ 淵源の終極 ]

(片割れの色が消えた)
 名残惜しげに去るその後姿を、見送る事はしなかった。
 その代わり歌を歌った。
 市井ではそれを幼子が歌うのだと記憶している。
 そんな歌を、貴族である彼が知っているかは知らない。
 そうは言っても、詞をなぞればその意味は自ずと分かるだろう。
 けれどそれは意識した訳ではなかった。
 歌いたいと思った訳ではなかった。
 ただ、零れた。
 それが無意識の想いだなんて信じたくはない。
 これからの為の予防策だとも思いたくはない。
 意を汲んでくれと、彼に言うつもりも、ない。
 別れを切り出したのは此方だ。
 本当なら会う事だって望んでなどいなかった。
 最初から、切り捨てる筈だったのだから。
 あぁそしてその望み通り。
(片割れの色が、消えた)
 なら次は…、と考えたその艶麗な顔が翳る。
 その意味を知って、自嘲的に笑った。
 何を迷う。
 一方を素気無く切り落としておいて、今更。
 同じ事の筈だ。
 同じ事の、筈なのに。
 何故こうも胸が痛むのだろう。
(…片割れの色が消えた)
 なら次は。
(残る片割れの色を、消さなければ)
 藍の後に、残るもの。
 それは。


  鎖鑰の鳥籠


 時は過ぎる。止まる事を知らずして坂を転げ落ちる石のように。何もかもを素知らぬ振りして、歩み続ける。そうして季節は冬が明けたばかりの春へとなった。しかし春と言い切るにはまだその風は冷たさを残し、薄着で出るには寒さを伴う。
 そう言えば黎深と出会ってそろそろ一年が経とうとしていた。早いのか遅いのか、こればかりは何とも言い難く、清苑は草の絨毯が敷かれた地に腰掛け、大樹に背中を預けながら、蕾を付け始めた樹々と咲きかけの花々を見遣ってくすりと笑った。黎深がこの先にある渓谷の名を知るのは、後少しだけ先の事。春が本当に訪れた時。あぁその頃、黎深を彼処へ招こうか。そしてあの景色を見た時、彼は驚くだろうか、どうだろうか…。
 そんな、悪戯が成功するかどうかを心配し期待する子どものような表情を顔に浮かべようとして、清苑はふと気が付いた。自身の顔が、強張っている事に。途端、笑みが消え失せ翳が差す。僅かに浮いた気分も、浮いた以上に沈んだ。
(…まだ、躊躇うか)
 いや違う、と清苑は吐露した言葉を即座に否定した。本当はずっと躊躇っていた。踏ん切りをつけたつもりで、何時だって何時までも、清苑は迷っていた。
 自分の行いが正しいのか。自分の生き方が間違っていないのか。それは倫理的な問題でも道徳的な疑問でもない。ただ清苑が今まで通してきた生き方が、王位争いという熾烈な戦いの中で真っ当でないと自認しているからこその惑い。
(……知っている)
 自分の行いが、真に愚かである事。その行いを改めれば、自分が真に王になれる事を。
 けれどそれは出来なかった。どうしても、出来なかった。だから清苑は愚かなままだった。黎深に指摘された時からもずっと変わらず、愚かな、ままだった。
(それでも良いと、胸を張って言えないのが辛いな…)
 公子としてその生涯を送り終えるつもりならそれも良い。多少の甘えと愚かさは許されるだろう。けれど清苑が目指すものは王なのだ。百官の吏を従える絶対の存在。毫毛の愚昧すら、許される筈がない。
(だから、隠し続けてきた)
 今は誰も清苑の真意を知らないから良い。けれど誰かが知れば、それだけで清苑は失墜するだろう。
 誰にも劣らない文武の天稟など其処には関係ない。それは王としての素質に関係した。今の王に慣れた官吏等が、それを許容できるとは思えなかった。朝廷三師は兎も角、その他全ての官吏達が清苑に牙を向くだろう。藍家が居れば違ったかもしれないが、それももう望めない。元より望むつもりも、ない。
 しかしそうなれば清苑と言えども勝ちは難しかった。生きられないかも、しれない。
(その事を、知っていたのに)
 今のままなら、それも時間の問題であるような気がした。その時間が、清苑に吉凶どちらを齎すのか。
(願う事しか、今の私には出来ないか)
 そう思って、しかし清苑が願う事など有りはしない。願望と希望は似ているようでまるで似ない。だから清苑は何かを望んでも何かを願う事はなかった。
 願いとは届かないもの。聞き入れられないもの。幼い頃にそれを知り、だから清苑が願う事など恐らくこれからもない。願ってそして傷付くなど、もう、清苑には。
(…結局どちらにしろ、私は最後まで足掻き陥れ誰かを殺してでも、自分自身を生かすだろう)
 それは今まで清苑が実行し、そしてこれからも実行し続けるであろう酷く身勝手な決意だった。他人を殺して、自分が生きる。生きる事しか生きる意味にならない清苑は、情もなく言ってしまえば、ただそれだけの人間だった。
 何かを成したい訳じゃない。何かを守り通したい訳じゃない。何かを愛し抜きたい訳じゃない。それらが出来なかった所で、恐らく清苑は後悔しない。後悔、出来ない。
 それでも清苑は生きていたかった。生き難い此処で、最後まで。
(それが喩え、押し付けられた運命であっても)
 目を細める。昊を見上げる。葉を着付けかけた樹々の合間から漏れて煌めく陽光を顔に身体に受けながら、清苑は、思った。
(生まれの家を、生まれた順序を、生んだ親を)
 微かな息苦しさを感じながら、静かに、思った。
(言い訳にはしない)
 確かにその内のどれかが変わっていたのなら、今の清苑はもう少しだけ幸せで、もう少しだけ、自由だったかもしれない。そう思っても、天命に等しいそれを後悔しても仕方のない事だった。だから諦める事だって出来た。
 ただ悲しかったのは、生きる道が選べなかった事だ。選びたくもなかった道を、選ばざるを得なかった事だ。けれど生きなくてはならない。それが義務でもなく権利でもなく、ただの願望であり希望であっても。…あぁ、だからこそ本当に。
(生きるというのは、難しい)
 清苑はくたりと背を預けていた大木に頭もそっと付けて心に零す。自分の望みを叶えようとすれば自分の生き方に反し、官吏達の願いに応えようとすれば自分の望みに反す。だから自分の望みも官吏達の願いも聞き入れず、自分の生き方に則って第三の道を行こうとする。しかしそれは、修羅の道だ。闇に直結し、鬼が闊歩し、無に終わる道。清苑に、何一つ残らぬ道。
(……旨く、いかない)
 旨くいった事など一度たりともないけれど、と自嘲するのももう厭きた。自分の身の上を(うら)む事だって。それでも清苑には、ただ進む道しか残らなかったから。
「――――……  」
 瞳を閉じる。何かを思う。誰かの名をその唇に宿しながら、けれど言う事なく唇は閉じられて。その紅唇に風に流された早咲きの徒花が落ちた事など、清苑は知らない。気付かない。
 それ程に清苑は疲れていた。恐らく自身が思うよりも、疲れていた。心も身体も酷く疲弊して。何もかもが終わってしまえば良いのにと、無意識に思うくらいには。


「……この、馬鹿が…」
 風と梢の音ばかり聞こえるような静寂が打ち破られたのは、その少し後だった。草と何かの摩擦音と衣擦れ。そんな人為的な音が、来る筈のない異物(ひと)が紛れ込んだ事を森に伝えた。そしてそれは、清苑の直ぐ脇まで来て膝を折り覗き込んで漸く詰めていた息を零して散らす。そうして溜息と共に吐き出された声は、黎深のものだった。
 呼ばれず気の向くまま勝手に渓谷を訪えば、大樹に寄りかかり目を瞑る清苑が見えた。それだけなら、こうも息が震える事はなかっただろう。
(元より白いこいつの顔が何時も以上に白く、そしてぴくりとも動かなかったのでなければ)
 息も手も身体も、震える事なんて、なかったのに。
(風に吹かれて鳴る梢や震える草木、香る花々の中で、唯一こいつだけが時の呪縛から放たれたように、静かで、なかったのなら)
 その時背筋を這い、黎深の身体を凍らせた恐怖を言い表せるような言葉を、黎深は知らない。
「………死んでるのかと、思っただろうが」
 眠りの手に抱かれて聞こえぬ筈の清苑にそう静かに毒突いて、黎深はまた溜息を吐いた。確かに顔色は悪く、そして死んでいるように動かない。口元に手を翳せば、吐息は限りなく細くて。胸の僅かな上下がなければそう勘違いしても可笑しくはなかった。
(疲れて、いるのだろうな…)
 当然か、と黎深はまた別の意味で嘆息する。彩七家をも統べる地位にある紫華(しか)の一族。未だ少年と言える清苑もまた、その一族とこの国の未来を担う小さな芽。
 自分が今の彼の年に経験した事など、きっとこいつの足元にも及ばないのだろうと黎深は眉を顰める。僅かな付き合いの中で垣間見えた彼の生活を自分に当て嵌めても、重なる所があるようには思えなかった。色の違いは、明らかに地位の違いだけではなかった。それを黎深はこの少年の傍に居るだけで感じていた。感じずには居られなかったと言って良い。
(……まだ一度しか、こいつの本当の笑顔を見ていない)
 最初に出会った、あの時だけ。それ以降のふと浮かぶ微笑は、何時だって同じだった。同じ雰囲気で形作られ、動く筋肉もきっと同じ。向ける対象は、恐らく誰でも良いのだ。誰が見ても可笑しくない笑み。彼らしく、人の上に立つ者に相応しい笑み。
 それが彼の生きる術だと知っている。それが黎深の為だと知っている。喩え何があっても激痛を飼い殺しても毒を含んだままでも、清苑は黎深に安心してくれと語りかけるように笑うだろう。そして黎深にその差異が分からないのなら、清苑を責める資格はない。そう、分かっていても。
(納得出来るか)
 黎深は安穏と安寧と安心の中で揺蕩う仲間が欲しかった訳ではなかった。全てを打ち明けろなどと言うつもりも毛頭ない。
 ただ息を吐く暇くらい、与えてやれるつもりで居た。私が傍に居るのだと、それが安堵の素になれば良いと。それが自惚れなのだとしたら、黎深は少しだけ悔しくて、悲しい。
 そう思えばふと声が出た。誰も居ない場所。誰も聞かない場所。世界から切り離された場所。そんな環境が、黎深の心の戒めを解いたとでも言うように。
「……なぁ、清苑」
 この呼び掛けに、返答など要らない。完全な独白だ。だから、何を言おうが構わないだろう? 誰も聞かず、お前すら此の声を聞かぬのなら。私の言葉はただ空気に毀れ逝く音に過ぎない。意味のない音だ。鳥の鳴き声にすら劣る私語(ささめごと)。だから。
(聞くな、誰も。お前すらも)
 そう願いながら、黎深はそっと清苑の唇と口付けていた所為で吐息に揺られ続けていた白桃色の花を取る。それは人差し指の腹に乗せた瞬間、小さな風に攫われて昊へと逃げた。目で追っても追い付けるものではない。またそのつもりもなくて。
(あぁ、それはまるで――…)
 と考えて、黎深は鋭く視線を昊から清苑へと返戻する。其処には変わらず清苑が居た。黎深の視線が和らぐ。それで、良い気がした。
「清苑」
 黎深の呼び掛けに、当然清苑は応えない。それでも良い。知らなくて構わない。そう思いながら。息を吸う。姿勢を正す。幼い頃に聞いた旋律を思い出して―――それを静かに、昊へと、還す。


(――――決めた事が、ある)
 ぽつりと黎深は思った。清苑の意外な程子どもらしい寝顔をそっと眺めながら、思った。
(それはまだ誰も知らない、私だけの決意)
 口に出すのが恐いのか、ただ躊躇っているのか。それはどうにも分からないけれど。
(それでも、もう決めた)
 だから何時かその時が来たのなら。
(お前に話そう、一番に)
 でも今は、と終わりに差し掛かる詩をなぞり、そっと願う。
(どうかどうか、知らないままで)
 それが私とお前の間に亀裂を生むかもしれないなどと、考えたくはない。
(今は、まだ―――どうか)


 吐き出した歌が昊に消え森に霧散し空気に毀れたのを待って、黎深は清苑へと向き直った。依然、清苑は穏やかな顔をして其処に居た。それを毀す前にと、黎深は小さく笑んで、そして。
「お前が、思うように」
 その言葉を最後に、黎深は何もかもを振り捨てたかのように清苑の傍を離れた。振り返らずに、離れた。
 昊に消えて行ったあの花弁を清苑に見立てた癖に、黎深は全く考えなかった。その小さな花弁の差異すらも時には影響するかもしれないと。その時は全く、考えなかった。


 ぱちり、と翡翠の瞳が昊を映したのは、風がぴたりと止んだ時。完全に黎深の気配が絶ち、独りきりになってからだった。
 人が居ては決して眠れぬようになった清苑が、黎深と言えども傍に居ては安からず眠れる筈もない。また最初から眠りに身を委ねるつもりもなく、黎深が来る前からずっと起きていた。
 つまりは意識がはっきりした上で、言う所の狸寝入りをしていただけの事。それを恐らく黎深も分かっていた筈だ。喩え清苑が完璧に寝姿を擬態しても、黎深にはきっと分かってしまうと、清苑は何故か思う。それでも黎深はきっと清苑を清苑が望むように扱うだろうと。
 それは清苑の黎深に対する甘えだ。黎深が望む事を決してしないと心に誓ってる癖に。
 そんな自分を深く嫌悪し、清苑は静かに嘆息して身体を起こす。そしてそのまま立ち上がり、また一瞬目を閉じた。視界を遮り意識を傾けずとも、まだ歌は残っていた。耳を擽る、黎深の。…あぁ、それにしても。
(子守唄、ね)
 くすり、と清苑は笑った。それは寂しさを残した笑みだった。嬉しかった。心地良かった。それでも、黎深が歌ったそれは清苑の心に漣を残していった。小さな爪痕を、遺していった。
(私が歌った弔歌とは、まるで趣が違う)
 弔歌は彼岸へ逝く死者の為に。子守唄は、これからを歩む生者の為に。
 それはそのまま清苑と黎深の関係に思われた。歌った者と歌われた歌が直結しているような気がした。気の所為かも知れない。気のし過ぎかも知れない。それでも、清苑にはそう思えてならなかった。
「私、は―――……」
 戸惑いの声は、最後まで言い切る事なく其処で途切れた。気付いたからだ。誰も知らない筈の名もなき森に、誰かの存在を。自分以外の、異物を。
(この森に、誰が)
 そう思いながら、清苑は腰に下げた剣の柄にさえ手を遣ろうとはしなかった。ただ呆然と立っていた。正体の分からない存在に臆した訳ではない。そうでは、なくて。
『此処は王家が所有する仙境とも言うべき場所だ』
 以前清苑が黎深に言った言葉だ。この場はどういう所かと聞かれたから、そう答えた。あぁそうだ。なら、分かり切った事ではないか。
(此処がどういう場所なのかも)
 隠された場所。秘境とも言うべき隠匿の。王家が所有し、隠した、森。
(此処に、どういう人間が立ち入れるかも)
 瞬間、空気が凍った気がした。後少しで春を迎える頃だと言うのに。冷気が、清苑の頬を、項を、背を、這って。
 姿を現し自身の前に佇むその人を、清苑は、知っていた。
「……どう、して…」
 閃きに似た予感が、清苑の脳裏を駆け抜ける。
(何かが終り、何かが始まる)
 向けられた鋭い視線を受け止めながら、清苑は耳の奥で、カチリ、という重い音を聞いた。それは、鎖で雁字搦めにされていた鳥籠の錠が開かれたような。けれどそれは決して。
「――――清苑」
 父の声の裏に隠された、甘く残酷な響きに、似ても、似つかず。


20091227
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