紅紫(七)

[ 慫慂(しょうよう)の大罪 ]

 自分と言う存在が闇に融け切ってしまうような感覚の中。
 伝う血と汗。
 握る剣太刀。
 荒れる気息。
 それらが生を身体に刻み込むのを感じながら。
 噎せ返るような血と死の臭いの中、清苑は動かなかった。
 息を整える振りをして剣に寄りかかった清苑。
 俯いた為に髪に隠れて見えなくなった目元とは反対に微かに見える口元。
 激しく動いた為に色付いていた唇は、けれど噛み締められて色を失くしていた。
 白く白く。
 紅に染まったこの場と対照的に。
 ただ、白く。
(…後、何人)
 プツリ、と音がして。
 唇が裂ける。
 流れる血を拭わず。
 清苑は尚、力を込めた。
(私はこの手にかけるだろう)
 やっと年齢を二桁と少しまで増やしたばかりの子ども。
 殺してきた人数は、なのに己の年齢よりも遙かに多くて。
(後どれくらい)
 この十数年。
 喘ぐように生きてきた。
 安心して息吐く事も出来ないまま。
 ただ他人の呼吸を奪うように、生きて。
(私は、罪を重ねるのだろう)
 そう呟いて、清苑は昊を見上げる。
 何もない、蒼黒の昊。
 夜明けが近いのを感じながら。
 ただ。
 清苑は。


  哀色の別離


 弔いの歌を歌い終え口を閉ざした清苑は、傍を過ぎ去った鳥の姿を追い昊を仰いだ。微弱な陽光は清苑の瞳を細めさせるに至らず、故に清苑は薄い雲影と淡い蒼空をはっきりとその目に映す事が出来た。
(こうして昊を見上げるのも、もう何度目だろう)
 そう考え、そして更に、一日が過ぎるのは早く、けれど一年が過ぎるのは遅い気がする、などという事まで考えた。
 そう感じるのは、ふと後ろを振り返る為に立ち止まってしまう時があるからだろうか。以前はそんな無駄な事などしなかった。過去を想うのは死ぬ間際だけで良い。進むしか道のない清苑にそんな時間など、本当ならなかったのに。
(ただあの子がちゃんと私の後ろを付いて来ているか、それがとても気になって)
 小さな弟。出会って二年ともなれば少し身体も大きくなり、細かった身もちゃんと清苑が食べさせるようになってからは年相応の身体付きになった。それでも、清苑を兄と慕い、純真な瞳を向けてくれる事に変わりはない。
(―――劉輝)
 未だ幼い面影を残したままの弟を思い出しながら、清苑は暫し夢想した。
(もし…万に一つで構わない)
 王位争いも公子という立場も、今自分に纏わり付く全てを捨てて何処かへ行けたら。自分の事など誰も知らない場所で、生きていけたなら。そして其処に劉輝が居れば、それだけで良い。…あぁ。その時黎深はどうしようか。
(連れて行かねば、怒るだろうか)
 そう嘆息し笑って描いた叶わぬ夢がまるで母の望む夢と似ている事に気が付いて、清苑は哀しげに苦笑した。
(…弱いか、私も)
 そんな事、疾うに知っていた筈なのに。己が矜持に縋りつかねば微笑すら保っておられぬ程の臆病者だと。生きる為の動機が弱く、ただ玉座を目指す事で生きている。そんな生活を厭い、けれど嫣然と笑わねば明日はない。
(……疲れているのだろう)
 清苑は雑念を振り払うように眼を閉じる。色々な事がありすぎた。劉輝と出会ってから何かが加速して動いている。黎深との邂逅。藍家との接触。干將と莫邪の授受。第六妾妃の怪死。縹家の暗躍。その中で清苑が握る真実はあまりにも少なかった。王位争いも水面下での動きが激しい。今何が起きても、きっと可笑しくないくらいに。
(その激戦を、私は生き抜けるだろうか)
 そう考え視線を鋭くしながら。
(王になりたい訳でも、ないのに)
 清苑は踵を返しゆっくりと歩き始めた。最早昨夜の暴戻さを語る術のない血に汚された筈の戦地を背に。変わらず在る王宮という戦場へと、還る為に。


 そうして自身が居住する宮へと帰ってきた清苑は、途端、眉根を寄せた。異物の気配がする。それも、知った気配が。
「清苑様」
 立ち止まった清苑に、迎えた十に上る召使の内の一人が何かを言おうと口を開きかけて、それを制するように清苑は問う。
「誰が許可した」
 それは、感情を伴わぬ声。静謐で揺れる事を知らぬ水面(みなも)の音。故に傅く彼等には酷く冷たく響いたようで、だからぴくりと肩を揺らし緊張を纏った召使達を、けれど清苑は気遣わない。
 清苑の声も存在も、どうやら相手に恐怖を植え付けるのに最適らしく、こうなった事など最早一度や二度の事ではなかった。だから慣れたものだと表情を崩さなかった清苑を、次ぐ言葉が微かに揺らす。
「…主上が、お通しするようにと」
「父上が?」
 此処は宮城。そして清苑が住む宮。ならば如何な彼でも清苑の許可なしに此処へ踏み込む事は許されない。だからこそ清苑は誰何した。誰が彼をこの宮に招いたのかと。
 父が許したなら彼が清苑の居ぬ間に這入った道理も分かると言うものだが、しかし何故。
(何故父が彼を招く)
 分からぬのはその一点。
(私の心など、あの方は知っている筈なのに)
 そう考えて、間を置かずに清苑は歩き始めた。考えても分からない事は考えない。父の心など、清苑がどれだけ考えた所で知れる筈もない。
 だから清苑はそれ以上を放棄して暫く歩いた所にある客間へと躰を滑り込ませた。一度として客など迎えた事のないその室に人が居るのは酷く奇妙で、また、其処に居る人物が招きたいと思うそれとは両極に位置するという事も重なって、清苑の口元を酷く冷冽な笑みが装飾した。
 そんな清苑の登場に気付いた人物も、清苑の氷雨の微笑に気付かぬ風に優艶な笑みを口端に刻み腰掛から立って対峙する。
 その衣の色は清苑が着る御衣の片割れの色。黎深の紅衣と対極の色。昊色を何重にも重ね、夜の深潭を切り取ったような、そんな鮮やかな藍の衣。
 それを優美に品良く着こなした藍雪那を、清苑は硝子玉の瞳で見遣った。
「お久しぶりです、清苑公子」
 それに清苑は笑みを深める事で応えた。けれどそれは、決して友好的な笑みである筈がなかった。
 黎深との幽谷での逢瀬の後、清苑は禁苑で雪那と相見えた。その一別から然程時は経っていない。清苑も雪那も、忘れている筈も、まして忘れられる筈もない。
「言った筈だ」
 その声に瞳に唇に、零下の冷たさを漂わせながら。
「もう二度と、私は貴方にも貴方の一族にも会うつもりはないと」
 清苑はあの時確かに、雪那を、藍家を、拒絶した。そしてそれを「そうですか」と言って雪那も笑みながら受け止めた筈なのに。雪那は二度もそれを破った。藍家の四男を清苑に会わせ、今此処に雪那が居る。
 清苑は雪那を睥睨して見た。けれどそれで雪那の表情が崩れる事はなく。
「えぇ。ですが、私は受け止めはしても、受け入れたつもりはありません」
 やんわり笑んで吐かれた雪那の言に、清苑は僅かな脱力感を抱く。そんなものは詭弁だ。しかし言質を取っていない清苑に雪那の心を解せと言う方が無理と言うもの。
 清苑は一つ溜息を吐いて笑みを消し、雪那が座っていた腰掛の向かいに座した。雪那もそれに倣い、清苑とは正反対の意の笑みを零して言う。
「しかし、貴方と言えども、父という存在には逆らえませんか」
 その言葉に清苑は酷く面白くなさそうな顔をした。それが肯定の意なのか、ただ下らない事を言うなという反応なのかは分からない。分かっているのは、雪那が此処へ通されたのが偏に清苑の父である王の口添えがあったからだという事。
 未だ当主の座に就いていないにも関わらず藍家の一角を占める雪那であっても、公子の宮に勝手に入る事など罷り通らない。喩えば公子がそれを望まなければ門前払いも在り得る事だ。他の公子は雪那が来たと知らされた途端に、何もかもを投げ捨てて媚びるように会いに来たが。
『あいつは他と違う。お前が其処に居る事に気付きながら、平然と通り過ぎる事もやってのけるだろう』
 以前会った時に王が零した言葉だ。それを雪那は信じなかった。
 自身と言う存在を驕るつもりはない。幾百幾千の人が地に頭を擦り付け、敬意と畏怖の混じった声で(おもね)り願い、そして雪那を上位の人間と見ているのは、ただ単に雪那が冠する、または雪那の背後にある藍と言う氏と組織に対してだ。
 だからこそ人は雪那に取り入ろうと近付く事を、雪那は正確に理解していた。しかし例外などなく、最上の存在である筈の王族とて現国王を除きそれに漏れた者など居なかったのに。
「貴方は一度、私を丸きり無視してくださいましたからね」
 実は、以前のそれが初めての出会いではない。最初の邂逅。その時清苑は、其処に在るのは空気だけとでも言うように、雪那に一瞥すら遣らず、すれすれの所を通って行った。表情は動かず、雰囲気も揺らがず、緊張すら纏わずに。
 清苑は王の言った通り、雪那の一切を無視したのだ。喩えその時の雪那が藍雪那としてでなく、ただ一介の官吏として其処に居たのだとしても、彼処まではっきりと眼中にないと態度に示されたのは初めてだった。
「流石に腸が煮え繰り返るかと思いましたよ」
 その声は真剣からは程遠いが、しかし全て冗談だと言ってしまうには奈辺に何かを含む響きがあった。清苑はそれに気付きながら口を挟む事はしない。興味を持つ素振りすらしない。ただ静かに、雪那の話が終わるのを待っていた。雪那もそれを承知で話を続ける。
「だからこそ物は試しと、突然会いに行ったり、楸瑛を貴方に会わせてみたり、主上を介したりしているのですが」
 何処までなら清苑は許し、許さないのか。それを見極めるのもまた雪那の役目。今の所、此方が能動的に動けば清苑は受動的に受け止める。清苑自身に動く気はないらしい。つまり雪那が動かねば清苑は動かない。それは、清苑が藍家を得る為に動く事など、決してないという事。
「不思議な人ですね、貴方は」
 心底、雪那はそう思う。藍家を欲しがらない者は居ないと思っていた。朝廷は藍家が動く要素が僅かでもあるのならそれに跳び付かんばかりだった。それがただ藍家が侍るだけで国が安定して見えるという、見た目に頼ったものであって、真に藍家を必要としている訳ではなくても。
「…いや、藍家だけじゃない」
 くすり、と雪那は残酷に笑った。ただ聞くに徹して瞼を閉じていた清苑も、それに気付いてか睫毛を一瞬震わせたようだった。それを見ながら、雪那は。
「紅家も手に入れないつもりですか」
 静かに、厳かに。
「紅家も―――黎深も」
 禁句に、触れた。
「貴方が望み、貴方を望んだ、彼も」
 その言葉が終わった瞬間。
「―――――藍雪那」
 氷点下の声と視線。清苑は無遠慮にそれらを雪那に向けた。雪那はそれを真正面から受け止める。既にその顔に笑みはない。何もない。その様子を観察するように、清苑は雪那を凝と見て。
「選ばない事を選んだ者に、語るべき言葉は何もない」
(―――嘘だ)
 雪那は清苑の言葉を瞬時に否定した。初めて笑み以外の表情がはっきりとその麗顔に刻まれる。それは怒りといって差し支えない、激情の煌めき。
「……貴方が、選ばせてくれなかった癖に」
 そうして出た言葉は酷く子ども染みていて、けれど雪那は構わなかった。理性よりも感情が先立つ。それを止められない。止めるつもりも、またない。
「貴方が、私達が伸ばした手を、振り払った癖に」
 私達。藍家の三つ子。藍雪那を構成する同じ容姿同じ挙措同じ声音の三人兄弟。実の親ですら間違い、実の兄弟ですら惑う彼等を、清苑は既に突き放していた。臣下を見分けられない主など要らないだろうと、そう嘯いて。
(何を、言う)
 清苑は知ろうとしないだけだ。三つ子を見分けようとしないだけだ。だから清苑は雪那の顔を見ない。極力会ってはくれないのだ。
(それがどれだけ私達を絶望させているのかも知っている癖に)
 見分けて欲しいと、名を呼んで欲しいと、三つ子はあんなにも願ったのに。最後まで聞き入れてはくれないのか。
「…酷い人ですね、貴方は」
 その能力を持ちながら、清苑は三つ子を欲してはくれない。藍家を求めてはくれない。それどころか。
「楸瑛との対戦を踏み台にしてまで、藍家(わたしたち)を拒むとは」
 苦々しさが雪那の声を彩った。あの戦いがなければ藍家は清苑を選んだだろう。そしてそれは何の問題もなく疑問も抱かれずに、当然の結果として官吏と貴族に受け入れられた筈だった。他の誰も選ばず、清苑すら選ばず、藍州に帰ると決断するような事など、決してなかったのに。
「……楸瑛を、貴方に会わせなければ良かった」
 必要だと思った。雪那達が当主を継げば、恐らく藍家の総意により退官させられる。藍家であるという矜持ばかりを持ちすぎて自らの地位に驕る事に慣れた故老達が、当主がそのまま官吏として働く事を許すとは思えない。雪那達は、清苑の傍に居られない。だから自分達の代わりに誰かが侍れば良いと。
 そうして楸瑛を選んだのは、雪那達が押し付けずともその道を選んでくれる事を知っていたからだ。
(…それと同じく)
 楸瑛がまだ、清苑の裏を読み取れる程駆け引きに慣れていないとも、分かっていたのに。―――あぁ、ならば。
「そうなる前に、掲げてしまえば良かったか…」
 藍家は、貴方を選んだのだと。
 そう零した雪那があまりにも切ない溜息を吐いたから、清苑はずっと保っていた無表情を解いて、小さく笑った。
「…楸瑛を責めてはいけないよ」
 その言葉に雪那は微かに瞠目し、瞬時に眇めて些かぶっきら棒に「分かってます」と投げ返した。
「あれはあの子の落ち度ではありません。狐に騙されて泥団子を食べた子どもを誰が叱りますか」
 あまりと言えばあまりの喩えに清苑はまた僅かに笑みを深くし、そしてあぁそんな事よりもと再度口を開いて言う。
「お前達が劉輝に毒を盛らなければ、主になる事を考えてやらない事もなかったのに」
 それに対し咄嗟に、あれは…!、と雪那は言葉を紡ごうとして、けれど直ぐに諦めて口を噤んだ。
 確かに、雪那達は劉輝に毒を盛った事がある。しかもそれは劉輝を殺す為ではなく、清苑を試す為だった。当然、清苑が劉輝を可愛がっている事を知った上での事だ。
「…一応、予防線は張っていたでしょう」
 雪那は視線を躊躇わせながら言い訳めいた事を口にした。あらゆる毒に精通した清苑だ。気付かない筈がない。そして確かに清苑は気付いただろう。
(あの毒が、十を超えていない、成熟していない子どもには効かない事を)
 それを見越した上で、清苑がどんな行動に出るかを雪那達は知ろうとした。人の上に立つ者としてただ見殺しにするのか。兄弟の絆を重んじ自ら毒を呷るのか。どちらも選ばず危機を回避するのか。結果、清苑は二番目の行動を取った。何も気づいていない劉輝からその毒杯を取り上げ、躊躇いもなく毒を呷ったのだ。だからそれに毒が入っていた事など、幸せな事に劉輝は今も知らない。
「王としては失格でした」
 当然だ。王は誰を犠牲にしても生き続けなければならない国の象徴。だとしたら清苑のそれは真に愚行だ。兄弟の絆など本当なら考えるべきではなかった。
 それを分かっているからこそ雪那は逡巡言うべきかを迷って、けれど結局、「ですが」とぽつりと零して続けた。
「兄としては、合格だったと思っています」
 雪那という人間が三人居るという事は、つまりそういう事だ。他の二人を失いたくなかった。失わないで済むのなら、不自由な生活をしても良かった。何かを耐える事も出来た。
 なら、清苑が毒を呷った事と雪那達の出した答え。それらの何処が違うと言えるだろう。
(その意味でも、私達は貴方を選んだのに)
 その言葉は雪那の口から出て行かず、心の中で積もって消えた。知っていて気付かない振りをする清苑に教えてやるのは癪だと言わんばかりに。清苑はそれに対し皮肉げに更に笑みを深くして。
「まぁ、そのお陰で黎深に会えたのだけどね」
 そうだった。思い出して雪那は不満を眉宇に漂わせた。
「あれは本当に私達の手違いでしたよ。あの日あの場所に、あいつが居るなんてね」
 『影』に聞いた時は本当に驚いた。黎深が宮城に? 有り得ない、と。
「…あいつを貴方と会わせるべきではなかった」
 清苑の中で藍家と紅家に違いはない。何方も等しく忌避すべきもので、手を差し伸べるものでは決してなかった。
 ただ違ったのは、人の違い。藍家には雪那が居た。紅家には黎深が居た。そして清苑は、雪那でなく、黎深を選んだ。三つ子の雪那ではなく独りの黎深を。
 その理由が身に沁みて分かるからこそ、三つ子はそれを何よりも危惧していた。防げなかった。
「せめてあいつと出会わなければ、貴方は此方を向いてくれたかもしれないのに」
 手を取ってくれと言うつもりも、手を伸ばしてくれと言うつもりもない。ただ会ってくれるだけで良かった。話してくれるだけで良かった。笑ってくれるだけで、良かった。
(黎深にしたように、雪那(わたしたち)にもしてくれたらと)
 ただそう願っていたと表情を翳らせた雪那を清苑は寂しく一瞥し、ふいと逸らして努めて柔らかく微笑した。
「それでも、―――知っているだろう?」
 …知っている。清苑は誰も選ばない。手を伸ばしはしたが、結局、黎深とも手を切るだろう。清苑の傍には最後誰も残らない。それを雪那は知っている。黎深は恐らく、知らない。
「……それで、良いのですか」
 そう聞くのは、黎深の為じゃない。清苑の為だ。たった独りで生きてきた、清苑の、為だ。
「それで、貴方は最後まで独りきりで――…」
 縋るような言葉だ。雪那はそう気付き、何をこんなにも恐れているのだろうと思った。分からなかった。ただ何かが不安だ。酷く、何かが胸に痞えて。
 けれど分からぬまま清苑が初めて雪那の瞳を見た事に気付いてしまったから、意識が全てそちらへと向かう。他の事を考えられない。そんな雪那に。
「許せ」
 清苑は緩やかに微笑んで、そんな事を言う。
(それは、何に対して?)
 私達を拒んだ事? 黎深を選んだ事? 楸瑛を傷付けた事? 全てを知りながら知らない振りをし続ける事? 敢えて愚かであろうとする事? それとも。
(…何、だろう)
 他にも何かがある気がするのに。分からない。そんな雪那の戸惑いの瞳を見据えた翡翠の瞳が、酷く酷く、優しくて。
「許せ、――――雪」
 そうして呼んだ名が、彼だけに与えられた愛称だったから。
「………酷い、人ですね」
 やっぱり、知っていたんじゃないですか。
 そう零して、雪那として其処に居る人間は震える息と声を殺して笑った。それが最後なのだと、漠然と分かってしまった彼は悲しかった。清苑はただ笑って、それを見ていた。


 宮を出る。見送りは召使だけで、清苑の姿は其処にはない。最後まで酷い人だと微笑んで、さぁ後の二人に何と伝えようかと雪那が思案していた時。
「――――」
 聞こえたのは、微かな声。それはただ言葉を零すそれではなく、音律に言葉を、詩に心を乗せた、微吟の声。
「――…えぇ」
 その歌の意を解し、雪那は笑う。嬉しいような、悲しいような。そんな、笑みを。
「何時か、必ず」
 約束とは到底言えないそれを、雪那はそっと心の奥に閉じ込めた。そして何時か来るその時を、ただ静かに想った。


20091215
戻る




PAGE TOP

inserted by FC2 system