紅紫(五)

[ 秘密の花園 ]

 雨が降る中、あいつと会った。
 (くら)い灰青色の昊の下。
 三度目の邂逅。
 その中で。
『私はきっと、貴方を傷付けるよ』
 逃がさない、と宣誓した私に告げられた言葉。
 雨音に紛れた掠れた声。
 それを聞いて、私は気付かれぬよう嘆息した。
(何を言うかと思えば)
 私を拒んだ王の子宝。
 紅家を抱き込む甲斐性がないのかと思いきや、まさか私への憂慮の為とは。
(本当に、何処までも愚かな)
 しかし浮かぶ微笑に嘲りは含まれない。
 知っているからだ。
 それが決して作られた言葉ではない事。
 そして、互いが互いにとってどのような存在に成り得るかを。
(同じ者。恐らく、唯一の)
 だから迷う事はなかった。
 迷う理由も見付からない。
 そして。
『それでも私は――…お前が、良い』
 そう言って取ったあいつの手は、思いの外、小さくて。


  紅紫の密会


 あの日から数ヶ月が経った。夏は終わりに差し掛かり、秋が直ぐ其処まで迫っている。風は背後に冷たさを潜ませ、夜と昼の温度差に鳥肌が立つまでになった。息が白くなるまでには、更に数ヶ月を必要とするだろう。
(さて…)
 そんな事を思いながら、翠が薄れ、紅と黄が其処彼処(そこかしこ)を埋める周囲を黎深は見渡した。花も時の流れに従って変容し、あるものは散華しあるものは咲き匂う。
 そっと手近にあった花を摘み意味もなくくるくると轆轤(ろくろ)を回すように片手間に遊ぶ。そんな事をしに態々此処に来たのでないと重々承知しながら、けれど黎深がそれを止める事はない。そんな自分の行為に気付かぬ程、人探しに意識を取られているのだ。
(……何処だ?)
 群れる高低様々な草木。頭上から降る銀木犀に、足元を彩る竜胆や女郎花。それらの影に誰かを探して視線を鋭く巡らし、その努力が報われぬ事に苛立った。髪に落ちて来た花弁を乱暴に払い落とし、滑らせるように足を奥へ奥へと進める。
 何処まで行けば良いのかも、何処までこの森が続くのかも、黎深は全く知らない。初めての場所だ。ただ此処に来いと人伝えで聞いたから来てみたものを。
(呼び出した張本人は、一体何処にいる)
 大量の葉が陽光を遮って薄らと暗く、果ての見えぬ翠と朱の樹林。其処に横たわる踏み均されて出来た小路を颯爽と歩く。
 歩き続けてその景色に飽きてきた頃、唐突に森が終わり視界が開けた。そして其処が切り立つ崖の底辺である事を知る。
「これは…」
 驚いたのは、その所為ばかりではない。不思議な事に此処にもまた木々が点在していた。それも先程と比べ物にならない程の大きさを持ち、年輪を重ねている。すっかり葉の落ちたそれらは天に力強く剥き出しの枝を差し出し、幹を伸ばしていた。何の樹かは分からない。近付いてみると、その大きさがより分かる。黎深の胴回りや背丈など、その何分の一くらいなものだろう。
(まさかこんな場所があろうとは)
 此処へと続く小径を知らなければ、この渓谷の存在は分かるまい。先程通って来た森が此処を隠しているようだ。
(……そうか)
 ようだ、ではなく、事実そうなのだろう。思えば此処に生える樹よりも先程の樹々の方が若かった。それは大きさからも樹皮からも分かる。恐らくこの場所を隠す為に誰かがあの広大な森を拵えたのだろう。考えられない事ではないとしながらも、黎深は眉根を寄せる。
(それ程の景色だろうか)
 素直にそう思った。理を自分の都合の良いように変幻自在に変えられる黎深だが、だからと言って感受性が皆無かと言えばそうではない。琵琶の手が明示するように、黎深とてものの情緒、雅趣、美醜を解する。比較的彼の中では一般的とも言える感性は、此処をそれ程評価しなかった。評価する点もない。そう切り捨てた時。
「遅かったな」
 背後から声を掛けられた。振り返れば、自分の背丈に到底及ばない子どもが少しの距離を置いて、真っ直ぐ黎深を見上げて居た。
 今日黎深を呼び出した相手。本来ならこのような場所でなく宮殿に居るのが似合うであろう彼を、黎深はこの数ヶ月で清苑と呼び馴染み、彼もまた黎深を名だけで呼ぶ事に漸く慣れようとしている。
 そんな彼の翡翠の瞳には、微かに面白がるような色が在る。それに気付き、黎深は憤然とした表情を見せた。
「明確な場所も伝えなかった癖に、何が遅いだ」
 そんな黎深の言葉に、清苑は素気無く言い返す。
「森に明確な場所なんて在る訳がないだろう。だから小径を見付けたら、ただそれを辿ってくれば良いと言ったのに」
 実際そうだったので、黎深はむぐと言い詰まる。
 遅かった理由は何処まで辿れば良いのか分からず探り探りだった事と、一々観察するように周りを見ていた事に起因する。しかしそれを認めてしまうのも嫌で押し黙った黎深に、清苑はふわりと笑って。
「…確かに私の言葉が足りなかったかもしれない。この場所に出る事を予め伝えるべきだった」
 済まない、と素直に謝った清苑に、黎深は遣る瀬無さを感じて唇を噛んだ。
 何時もなら気にも留めない事だ。自分が悪い事など何もない。そう言い切ってしまう事だってある。そしてその事に罪悪感など抱かない。
 なのにどうしてか、清苑に対してだけは勝手が違う気がしてならなかった。清苑にこうして謝られる事が嫌だった。それは自分の方が子どもに見えるとか、年齢がどうとか、そう言う事ではない。ただ漠然とそうされる事に戸惑いと違和感を覚える。何かが違うと囁くのだ。
 けれどそれが何なのかを黎深は見付けられずに居て、だから何時もそれから逃げるように話題を変える事しか出来ない。この日もそれに漏れず、黎深はふと話を変えた。
「それにしても…何時も以上に簡素だな」
 突然の話の転換にも清苑は驚かず、だが何の事だと言いたげに黎深を見て、その一瞬後にはその言葉を理解した。装いの事かと気付いて、それに対する答えを述べる。
「別に高官の前でもないし、ましてや森の中を歩くのに着飾ってどうする」
 その言葉から伺えるように、清苑は普段でさえもあまり着飾る事はしない。華美を押さえたすっきりとした御衣を好む。それは清苑自身あまり衣類に重きを置いておらず、そして咄嗟の場合に巧く立ち回れないような、じゃらじゃらした服を好まないだけだ。当然公の場に出る場合は別であり、また華美でないと言ってもその程度は王宮の中に限った事だ。
 それでも公子の中で比べた場合、清苑の服の装飾は恐らく一番少ないのだろう。機能と利便性を最も重視した衣服は、けれど決して清苑の品性を貶めたりはしない。彼には衣服など問題にならぬ程のある種の完璧さがその身を包んでいた。
(そうは言っても…)
 黎深は溜息を吐きたくなった。
 今日の清苑はほぼ並みの貴族と同じような格好だった。決して王族がする格好ではない上に、何故か今日は紫色の御衣ではない。白を基調とした服は官吏の服を髣髴とさせる。衿元と袖口には見えない程度に金銀の刺繍が施され、腰帯はその全体の漠然とした雰囲気を引き締めるような青藤色。これもまた手の込んだ刺繍が陽の光に煌やいた。
 だがそれも普段と比べれば格段に大人しい方だ。また髪も左側で一つに緩く括られ、まるで黎深の知る何時もの清苑の雰囲気とは程遠い。
 何かが気に入らなかった。癇に障る。黎深は騒ぐ心に舌打ちして、ある事を思い付く。に、と笑みを浮かべて清苑に向き直り手を伸ばす。何かを感じた清苑は表情を強張らせて一歩下がったが、それより先に黎深の手が清苑へと届いて。
「―――っ」
 手早く結っていた髪を解かれ、そして何故か頭部も触られた。
 いきなりの事に清苑は息を呑み一瞬目を瞑った後、何なんだと黎深を見遣る。と、何故か満足げな笑みを浮かべている黎深。それを見て、清苑は追求を諦めた。清苑にも黎深という人間は良く分からない。懇意にしだしてから数ヶ月経った今でも。多分、これからも。
(…それで良いような気がする)
 その事が彼らの仲を裂くような事はないと清苑は信じている。だから、黎深が今の行為に何か意味を持って挑み、そして満足したのならそれで良いか、と。
 そう、彼にしては珍しく楽天的に考えた清苑は、不意に黎深から視線を外して昊を見た。
(遠いな…)
 白藍の昊は淡雲にも侵されず其処に在った。鳥も飛ばない、雲も揺蕩わない、人の手の届かない。ただ其処に在るだけの蒼の連続。清苑の目指す場所は、あの昊天のように遠く、…そして寂しい。
(…大丈夫)
 その寂寞を振り払うように、心の中で呟いた。そして昊を眺めていた所為で置き去りにしていた黎深へと視線を戻す。不満げな顔は、清苑が一人の世界に篭っていた所為だろう。それでもその世界から無理矢理清苑を引き摺り出さなかった黎深。そんな彼の優しさと思い遣りを、清苑は嬉しく思う。だから。
(黎深が居る。だから、――…大丈夫)
 その後に続く筈だった時を限定する言葉は、敢えて省いた。思う事も、拒否した。今はその事を考えて居たくない。そんな事を考える為に此処に彼を呼び出した訳じゃない。
 自身に言い含めるようにそう繰り返して、清苑は漸く此処へ来た目的を黎深に告げる為に口を開いた。
「今度から禁苑でなく、此方で会おうかと思うのだが」
 どうだろうか、と問われた黎深ははっきりと眉を顰めた。何故そんな事をする必要が在ると言わんばかりで、そしてそのままの言葉が黎深から零れたのは、その少し後だった。
「何故? そんな事をする必要が何処にある」
 何の問題が在るのだと、黎深は思う。そしてまたか、とも思った。
 清苑がそう言う意図を、黎深は何とはなしに悟っていた。清苑は黎深と禁苑で会う事、それを誰かに知られる事を恐れていた。それは言葉の端々にも態度にも表れはしない。けれど明確な事実だった。
 清苑は決して黎深に頼み事をしなかった。紅家と繋がるような事は一切しなかった。忌避しているのだと気付くのに、そう時間は掛からなかった。
 それが黎深の背後に在る紅家を意識しての事だと分かっていたから、今まで何も言わなかったけれど。黎深は溜息を吐く。
「…何故だ? 清苑」
 一度黎深の手を跳ね除けた清苑。その時から分かっていた事だ。清苑は紅家を望んではいない。黎深の手を取る事を決めた後も、それは変わらないのだろう。
 けれど何故、そこまで紅家を忌避する必要がある。紅家との繋がりを忌む事がある。
 それは玉座を狙っている筈の人間の行動ではない気がした。他の公子ならば確実に挙って黎深でなく後ろの紅家に手を伸ばし、その関係を直ぐさま公にするだろうに。
 だから何故だと黎深は問う。無表情を繕う清苑の考えが、分からなくて。
「お前は一体何を望んでいる」
  サアァ…ッ!
 その言葉の後、強い風が通り抜ける。谷の狭間、木々の合間、黎深と清苑の間を。
 一瞬靡いた髪に隠れた清苑の無を貫き通した顔は、次に現れた時には笑みへと変わっていた。それはあの時の微笑に似ていた。黎深が膝を折り、清苑の顔を覗き込んだ時のそれに、酷く酷く、似ていて。そしてその顔で。
「――――貴方が、私に望んでいる事を」
 そんな事を、言うから。狡い、と黎深は今日二度目の遣る瀬無さを唇を噛んで殺した。
 それは酷く卑怯な答えだった。そう言われれば黎深はこれ以上問い返せない。そうと分かっていて、敢えて黎深の問いを封じ込める為に清苑はそう言ったのだろう。けれど、其処に本心が含まれているとも、分かるから。
「……分かった」
 だから黎深は頷くしかない。やっと会えた同じ存在。同じ願いを持つ者。こんな事で傷付けたくも、ましてや逃がしたくもない。
 この子どもの存在は明らかに黎深の中で膨れ上がっていた。清苑を喪う事など考えたくもない程に。
 そう考える黎深の是認の言葉に、清苑は笑みを柔和にしてそれに応えた。
「で、此処はどういう所だ?」
 そう問う事で最初に此処に来た時の気持ちに還ろうと黎深は聞く。清苑は言ってなかったかと辺りを見渡して、説明する為に口を開いた。
「此処は王家が所有する、仙境とも言うべき場所だ」
 その言葉に、黎深は漸く謎が解けたような気がした。この地を隠すように佇むあの広漠な森の事だ。あれ程大きな森を作るには大層な資金が居る筈だと考えていたから、王家の所有地だと言うなら納得がいく、と。しかし。
「仙境? 何処がだ?」
 黎深の審美眼では、到底此処を仙境だとは認められなかった。静かである事は確かだが、清浄とは違う気がする。何もないだけの地に仙境とは言い過ぎだ。仙人が修行する為の場所と言うのなら分からないでもないが。
 その黎深の言葉に、ふと清苑は考えて。
「此処の名前の由来を話せば分かると思うが、…そうだな」
 面白がるように、くすりと笑った。
「今は言わないで置こう」
 その方が面白い、と。本当に清苑が楽しそうに笑うから、黎深は無理矢理聞きだす事も出来ず、結局名も知らぬ渓谷をこれから彼等が共に時を過ごす場所と決めて、二人はその日、別れたのだった。


 来た道を引き返す。黎深が通った道とは違い、清苑が通って来た道は直接宮城に通じる秘密路だった。細く草の茂った(みち)を足早に戻る。
 少しばかり長居し過ぎたかもしれないと焦り、けれど良かったと胸を撫で下ろしもした。これで絶対大丈夫。あの場所は御史台も知らぬ場所。立ち入れぬ場所。だからこれで黎深は安心だ。
(何があっても、絶対に)
 その思いが清苑の足を軽くする。それにより遅れるかという心配も杞憂に終わった。清苑がそっと身体を現した場所には、今日会うと約束した彼の弟の姿はまだなかった。
 ほっと息を吐き、清苑は衣に草や葉が付いていないかを点検した。気を付けてはいたが、何しろ勝手気侭に生えている森の中を抜けたのだ。完璧とは言い難い。劉輝にさえも何処に居たのか悟られぬようにしなければ。そう思い服の袖を払った時。
「清苑兄上!」
 聞こえた声に手を止めて声のした方向へ目を遣った清苑は、突然驚きの表情で立ち止まった劉輝に首を傾げた。どうしたのだろう、と思えば、劉輝はぱぁっと表情を明るくして清苑にまた駆け寄った。そして。
「兄上、そのお花、良くお似合いです!」
「…花?」
 劉輝の言葉に、清苑は自身の衣を引っ張っては覗き込む。やっぱり何処かに花を引っ掛けてきてしまったのだろうか。そんな清苑の様子に劉輝は慌てて清苑の袖を引っ張った。
「どうした、劉輝?」
「兄上、こっちです」
 何か見せたい物でもあるのだろうかと、劉輝の一生懸命な顔に釣られて清苑は大人しく袖を引かれるままにした。そして連れて行かれたのは、池の畔。
「見てください」
 と、湖面を指す劉輝の指先を膝を突いて覗き込む。何も居ない。魚でも潜っているのだろうか。何だろう、とじっと見詰めて、少し。
「―――あ」
 暫くして、理解した。劉輝が言う花は、清苑の左の蟀谷辺りの髪に簪のように挿してあった。紅紫色の蘭のような花。これは確か、―――柳蘭か。
(……黎深め…)
 今更ながら分かる。あの時黎深が笑った意味。一瞬目を瞑った時に挿したのだろう。確かに最初、黎深は何か花を持っていた。まったくあの人は、と清苑は毒突こうとして、それは失敗に終わった。
 劉輝はそれを眺めて驚く。兄がこんな風に笑う所など初めて見る。照れたような、嬉しそうな優しい笑み。その笑みを引き出したのが自分でない事に僅かな落胆を覚えるものの、そんな風に笑う兄は綺麗で。劉輝は自分の事のように嬉しくて、幸せだった。けれど。
「――――劉輝」
 その笑みは、唐突に崩されてしまった。声は緊張を孕み、顔は無に帰る。劉輝はその時の兄には逆らってはいけない事を本能で知っていた。だから大人しく次の言葉を待つ。
「どうやら私に客人が居るらしい。済まないが、今日の約束を明日に伸ばしても良いか」
 それでも笑ってくれた兄に報いようと、劉輝は大人しく頷いて立ち上がる。
「では、劉輝はこれで失礼します」
 そう言って踵を返そうとした劉輝は、しかし兄に呼び止められて素直に顔を其方へと遣る。と。
「…うん。これで良い」
 数瞬の後、そっと伸ばされた手が離れる。劉輝の左の視界の端で、揺れる何かが見える。それは、紅と紫の混じった色の花。
「兄上…」
 場所を移された花は、その事実に気付かないまま薄く薫り風に揺れる。それを見て、兄を見て、劉輝は困惑したように眉尻を下げた。清苑はただ笑んで、劉輝を、その花を、見ていた。その瞳が哀しげだと劉輝はぼんやりと思ったが、口にはせず小さく頭を下げる。
「…では、兄上」
「あぁ、また明日」
 今度こそ呼び止められず、だから振り返る事はしなかった。こんな場合でも兄は何時ものように劉輝の姿が視界から消えるその時まで見送ってくれているだろう。劉輝はそれを知っていて、時折振り返るのだ。そして兄の笑みに安堵して帰る。
 けれど今日は出来なかった。それは少し寂しくて、でも何かあった事だけは分かるから。それにまた明日と約束してくださったから。そう言い聞かせ、視界の端で揺れる花を意識しながら、劉輝は足早に立ち去った。
 その背を矢張り清苑は最後まで見送って、そしてゆっくりと立ち上がる。カサリ、と音がして誰かが立ち止まったのを聞いてから振り返った。その顔に、表情はない。押さえ付けている訳でも、隠している訳でもない。抜け落ちたように何もなく。そして。
「何か御用か」
 その声にすら、感情は皆無だった。それを楽しげに笑い、空気を揺らした人物の氏を、清苑は口にした。
「藍家が、―――私に」
 藍雪那はそれを聞いて、更に笑みを深めて其処に立っていた。


20091024
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