紅紫(三)

[ 逕庭(けいてい)の門閥 ]

 人は愚かな夢を見る。
 零細の栄光。
 僅少の幸運。
 一抹の非望。
 そんなもので酷く酷く簡単に。
 身を滅ぼす夢を見る。
(あぁ、だから)
 ふと下を覗く。
 蠢き呻く何かは、恐らくそんな夢の残骸。
 夢に敗れた、(つわもの)達の。
(何時か何時か、…何時か)
 それは微かな予感。
 己の未来に対する。
 密やかな恐怖にも似た。
(私も、あの中に混じるのだろうか)
 そう考え、ひっそりと息を吐く。
 そうでない事を祈りながら。
 遠く遠くに聞こえた、暁鐘の音。
 それが酷く。
 耳に、残って。


  柔脆の拒絶


 礼をして剣術の稽古を終えた清苑は、何時もより疲れたようだと身体を弛緩させながら思った。種類にも因るが、毒を摂取した後は大抵こうだ。数日間身体を全く動かしていなかったように辛い。それでも無理矢理身体を動かせば何とかなるものだと、経験の中で知っていた。
(しかし、久々に疲れたな…)
 直ぐさま歩き出す事を躊躇って、剣を佩きながら清苑はその場に立ち尽くす。その時、激しく動いた為に首筋を伝った幾筋もの汗を拭う柔らかな春風が通って。
(……涼しい)
 それが思いの外心地良くて、清苑は傍らの壁に寄りかかって座り、瞳を閉じて暫くの間その風を受け止めた。
 その中で不意に口元に淡い微笑が広がって、清苑はそっと目蓋を押し上げる。
 見詰める先は昊。快晴の天空に在るのは、薄い蒼と薄絹のような白雲。気紛れに飛ぶ鳥と偶に視界を遮る胡蝶。聞こえる音は、風の音と鳥の鳴き声だけ。けれど、それに笑った訳ではなくて。
(…まるで可笑しい)
 今この状況。何も思考せず警戒せずただゆったりと時に身を委ねるなど、清苑にとっては非日常でしか在り得ない。
 数日前、毒を呷った時の緊張感を滾らせた己は何処へ消えた。次期国王の座を獲得しようとする異母兄弟達との熾烈な争いを繰り返す己は何処に行った。笑みを貼り付け一片の隙もない立ち居振る舞いを崩さない己は、一体、何処へ。
 そう考えながらも、ひくり、と楽しげに喉を鳴らして清苑は動こうとはしなかった。
(今襲撃されたら、確実に死ぬな)
 ふと自身の死を連想する。何時もなら想像する事も厭うそれを、何故か今日は簡単に出来てしまうらしい。その違和感を自覚しながら、そう言えば、と清苑は一つ深呼吸。
(久々に、呼吸した気がする)
 息を吸えばそれと共に毒も吸ってしまうのではと恐れるように、漏れる呼気が自分の居場所を誰かに教えてしまうのではと慄くように、ずっと息を殺して生きてきた。安息の時などない。安心する場もない。安住など出来ない。
(―――私は、紫清苑)
 それが全ての答えだ。一切の言い訳を必要としない、唯一つの答え。兇手を殺し、毒を食し、策を施し、邪魔な相手を屠る為の免罪符たり得るもの。清苑が光の中に生きながら闇の中を這いずり、そして死ぬその時まで。
 だから清苑は一切の休息を求める訳にはいかない。――…その、筈なのに。
(何を、しているのだろう)
 自分の行動が分からなかった。今だけの事じゃない、最近の行動、全てが。
(劉輝に手を差し伸べ、そして、…)
 その後続く筈だった名を思い浮かべる事は躊躇われた。出会ってしまった事はしょうがないと割り切れる。だが、その後の会話は絶対的に不要(まず)かった。思い出して、清苑の玉顔にも苦味が混じる。
(毒を食らっていたとは言え…)
 語るべきではなかった。喩え彼の境遇と才能に憐憫し、彼が抱える孤独を誰よりも自分が分かっていたとして、決して、彼には。
(――…紅、黎深には)
 紅の氏。彩七家筆頭の家柄。次期当主は恐らく彼だろうと私語かれる存在。そんな彼に自分は一体何を言った。
(…馬鹿な事を)
 あれは全て清苑の弱さだ。全て、…全て。
(けれど)
 小さな手。水晶のような瞳。震える声。高い体温。それらを受け入れた事を、後悔などしない。
(弱味になろうと、私は)
 そう考える事自体が既に笑止すべき事だと気付いてる。弱点を抱え込みながら生きていける程この世界は決して甘くない。だからこそ黎深との邂逅は歓迎すべき事ではなかった。
 あぁそれでももし…、と考えた自分を、清苑は思い切り嘲った。
…? ――――なんだ、それは)
 何を考えた、紫清苑。万に一つもない事など承知だろう。無理なのだ、絶対。分かり合えても喩え同じでも。それは決して許されない。例外は、ないのだ。
(私が私でしか在り得ないように)
 その言葉は嫌に清苑の心を蝕んだ。じくじくと熟れ過ぎた果実が崩れていくような痛み。その痛痒を抱えながら、清苑はやっぱり可笑しいようだと哂った。最近の自分は、何処も彼処も。…あぁ、けれど。
(そんな自分が少し苛立たしくて、…少しだけ、ほっとする)
 相反する感情。それを抱える自分はまだ大丈夫だと意味もなく思えた。何が大丈夫なのかも分からないのに。それが最後の一線だと、願うように。
「まだ、大丈夫…」
 そっと目を閉じ零されたそれは、生きていける、と同義の響きを持っていて。


 ただ目蓋を閉じただけの時間が幾許か過ぎ、久方ぶりに目を開くと、蒼い昊の端が僅かに橙色に侵されていた。
 随分休んだ所為で疲れも汗もすっかり引き、そろそろ自身の宮に帰ろうかと立ち上がり歩き始めた清苑。その足を止めたのは、兄上、と遠くから聞こえた幾つも離れた小さな弟の声だった。
「劉輝」
 振り返ればとてとてと危なっかしげに走る劉輝の姿を見付け、頬を緩ませながら清苑はおいでとばかりに片膝を付き、両手を広げた。劉輝はそれに気付き、にっこりと笑うと更に速度を上げて。
「兄上ー」
 ぽすっと清苑の腕の中に納まった。転けやしないかと見守っていた清苑も、腕の中の温もりに安堵したように息を吐く。
「劉輝、どうして此処へ?」
 確か約束はしていなかった筈だと思い至りそう聞きながら、僅かに腕の力を緩めて劉輝と目線を合わせた清苑は、劉輝に気付かれないように、そっと視線を走らせた。
 僅かな時間で弟の身体に怪我がない事を知ると、清苑は考え得る劉輝が此処に来た理由の中から劉輝の母と他の公子からの苛めを排除した。走り方にも異常がなかったようだから、と清苑は再度劉輝を見る。すると。
「兄上にお会いしたかったのです」
 思わぬ答えに清苑は目を見開いた。しかしそれも一瞬の事。直ぐさま清苑の顔に微笑が浮かぶ。
「そうか」
「はい!」
 にこにこと純真な笑みを浮かべる劉輝の言葉に、清苑は何時も何かしらの喜びを見出していた。他の誰かに褒められるよりも劉輝の言葉の方が絶対的に清苑の心に響く。
 宮城にいる幾多もの私欲に駆られた者達の顔を思い出し、清苑は嘲笑にも似た笑みを微かに浮かべた。媚び諂う為の言葉なんて要らない。そんな言葉で陥落されるものなら、最初から清苑は生きていない。無駄な努力だと気付けぬまま、一体何時までいるつもりだろう。
(それならいっそ私を殺した方が手っ取り早いのに)
 そう考えつつ、清苑は。
「劉輝。今日は何をして遊ぼうか」
 心から愛するたった一人の弟に微笑みかけて。
(この温もりを、離したくない)
 ただ切に、願った。


 時間の経過を忘れかけた頃、清苑は昊がすっかり暗くなっているのに気が付いた。
「劉輝」
 これ以上暗くなれば危険だと判断した清苑は弟に呼び掛ける。それを聞き、先程兄に教えてもらった漢詩を諳んじていた劉輝は、ぱっと口を噤んで清苑をじっと見た。その素直な行動に、清苑は頭を撫でて。
「もう帰りなさい。夜になれば危険だから」
 まだ劉輝は自分の身を守る術を知らない。その為救いとなったのは、皮肉な事に、劉輝には何の後ろ盾もない事だった。
 それ故に劉輝が誰かに襲われる可能性は酷く低く、母親や他の公子に苛められはしても、清苑と同じ公子という身分にある事を思えばそれだけで済んでいるのはほぼ奇跡に近かった。
 それでもそれがずっと続くかは分からないし、用心に越した事はない。そう考え帰宅を促す清苑に、劉輝は疑問も持たないようで。
「はい!」
 元気よく返事をし、また会う約束を清苑に取り付けて幸せそうに帰っていった。
 その後姿が消えるまでずっと見送り、偶に振り返る劉輝に手を振る。そして完全に劉輝の姿が消えた後。
「…もう出て来られても構わないが?」
 清苑は振り返りもせず、声だけを後ろの背の高い木に身を隠している存在に向けて放った。
 劉輝と戯れる途中から近付いてきた気配は、自分達を見付けるとその歩みを止め、観察するようにじっと見ていた。害意はなく、そして知った気配だったから清苑は放って置いたけれど。
 数瞬の間隔の後、姿を現したのは先日初めての対面を果たした黎深だった。
「紅黎深。どうして貴方が此処へ?」
 正面を黎深に向け問う清苑。しかし黎深はその問いに答えず。
「…あれが、お前の生きる理由か?」
 去っていった小さな小さな姿を思い返し、囁くような声でそう聞いた。清苑もまたその問いに答えない。ただ全ての表情を消して黎深を見遣るだけ。それに黎深は気にした風もなく、言葉を続けた。
「お前が守る価値が、あの餓鬼にはあると?」
 理解出来なかった。黎深が調べた所によると、今まで清苑が誰かに心を傾ける事はなかったという。それがよりによってどうしてあの子どもなのか。
 黎深には分からない。母親はただ美しい事とそこらの女よりかは知識がある事だけが取り得の妓女。後ろ盾も何もない。その息子は更に何もなかった。他の公子の陰湿な暴力に対抗する武も持ち合わせなければ、学で負かす事も出来ない。上手く立ち回る事も出来ず、ただ泣いて過ごすだけ。
(私が最も嫌いな人種だ)
 黎深がそう評する劉輝を、清苑は何故庇い、共に居るのか。
 その言葉を鋭い視線と共に黎深は清苑に投げかける。清苑はそれを真正面から受け止めて。
「…それは、分からなくても良い事だ」
 静かに静かに、言い切った。
「人が誰に好意を寄せ、嫌悪を抱き、庇護したいと欲し、殺したいと願うかなど」
 経験が清苑にその言葉を喋らせる。
「その感情を抱いた本人にしか分からない」
 清苑が劉輝を守る意味など清苑にしか分からない。黎深が兄に執着する理由を、黎深にしか分からないように。これは説明して誰かに諭す事でもないのだ。それに、と清苑は言う。
「私にしても、貴方が今此処に居る理由など分からない」
 此処には貴方が態々わざわざ来る程の価値があるのかと、清苑は言外に聞く。それに無言で返す黎深に、清苑は漸く笑って。
「…それと同じ事だ」
 理由など当人の中で消化されるべき事柄で、他人に同意を求めるものではない。人には人の想いがある。それが、他人と相容れないものであっても。
「だから、もし貴方が劉輝に危害を加えようものなら、容赦はしない」
 手を尽くして、私は紅家を壊す。
 物騒な言葉を吐きながら、清苑は艶麗に笑った。
 そう言ってしまう事に迷いはなかった。劉輝を初めて抱き寄せた時、守ってみせると誓った。何があっても。何をしても。喩え。
(自分の望みの一つが、潰えても)
 こそりとそう心の中で呟いて、清苑は黎深に別れを告ぐ為に息を吸った。もう完全に日が暮れた。闇が動けば、その時は黎深と言えども危険が過ぎる。だから別れの言葉を、と思う清苑に。
「……あの餓鬼に、興味はない」
 黎深が視線を揺蕩わせてそう言った。言って良いのか悪いのかを、手探りで感じ取るように。
「ただまた話がしたくて、此処に来た」
 そしてそれは明らかに。
「私は、お前に――…」
 口にすべき言葉では、なかったから。
「―――――紅黎深」
 清苑は黎深の言葉を途中で奪い、名を呼んだ。その先を言わせない為に遮った。その先を聞きたくないとは、思ってもいなかったけれど。
「私を、此処に来る理由にしてはいけないよ」
 その言葉に黎深は絶句して瞳を開く。絶望に似た何かにその瞳が翳るのを知りながら、清苑は。
「貴方はに会いに来たんだ。そして、私はただそれを待つ貴方と話をしたに過ぎない」
 残酷にもその言葉は揺るがない。初めからこの日この場所この瞬間に言う事が決められていたように、さらさらと清苑は紡いでいく。呆然とする黎深を置き去りにして。
「またお会いしてお話出来るのを楽しみにしている」
 そう言って、せめてと清苑は笑った。そんなもので拒絶に等しいそれを紛らわせる事など、出来る筈もないのに。


 黎深の視線を振り切って宮城の奥まで来た清苑は、群生する鈴蘭の姿に足を止めた。あぁ明日また此処に来なければと、義務にも似た想いで自身の母を心に思い描いた、その時だった。
「清苑様」
 静かで重みのある声が、背後の闇から聞こえた。誰かなどと誰何しなくとも分かった彼の名を清苑は口にせず、そろりとそちらを肩越しに振り返る。
 旺季が其処に立っていた。清苑が何も問わないのを見て取って、旺季は静かにまた口を開く。
「お気を付けくださいませ」
 さもなくば、と言い掛けた旺季の言葉を遮ったのは、清苑の小さな笑み。
「貴方がそれを言っても? 旺季殿」
 皮肉でなく楽しそうに零された言葉に、旺季は微笑み返して。
「私は貴方に賭けているのですよ」
 賭けている。何を。何に対して。賭けているのか。言わないまま笑む旺季を清苑は。
「…貴方は優しいな」
 清苑こそ優しい笑みを浮かべているのに、そんな事を言う。旺季はそれに反駁しようとして、しかし清苑の次の言葉にそれらは全て奪われた。
「……私には、無理なのだろうか」
 ぽつりとした、声だった。一粒の雨が地に落ちた音など誰も気付かないように、きっと一瞬梢が鳴っただけでも聞こえなかったであろうその声。垂直に寂しく落とされたそれは、旺季の心を揺さぶって。
「…もう戻られた方が良いでしょう。お風邪を召されます」
 だからこそ答えられなかった。無理だと言い切るしか旺季には答えがない。旺季に限らず、誰だって。
(万に一つの可能性すらない)
 どうしたって、どうしても。清苑には。
(友を作る事など、許されない)
 清苑の歩む先には玉座がある。その椅子に座る為に友など要らない。清苑に必要なのは友ではなく臣下だ。けれど恐らく清苑が黎深に望むのは臣下ではない。…だからこそ。
(…無理なのだ)
 清苑が気に掛けている一人の青年。滅多に人に懐かないその彼も、清苑に手を伸ばしかけている。差し出す為か、引き止める為か、分からないけれど。結局許されない事には変わりない。
(紅黎深と、交友を持つ事は)
 せめて清苑が王家でなければ。彩七家でも良い。紫の氏を持つ者でなければ、ただそれだけで良かったのに。
「…貴方は、紫清苑なのですよ」
 最も玉座に近い人なのだと、旺季は小さな背に語りかける。歩き始めていた清苑は、振り返らなかった。


20090909
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