最初で、最後。
[ 守人は剣を天に翳す ]『嘘を吐いてはダメ。
絶対に、ダメよ。
言われた相手も、言った自分も、傷ついちゃうんだから。
相手の為、なんていう言い訳は最低よ。
だって、それは誰も救わないもの。
傷つくだけ。
だからダメよ。
相手が大切であるならあるほど、ね』
幼い僕に、母は優しい声で繰り返した。
その言葉を、その声を、僕はずっと覚えてる。
だから僕は、嘘なんて吐いた事がない。
言わない事を選択した事はあっても。
一度だって、一度も、僕は。
虚言者の願い
窓から見える、蒼空に映える薄紅の花。
風に吹かれて舞うその中に一人の少年の後姿を見つけて、あぁ、もうそんな時期なのかと、心の中で呟いた。
すらりとした身体に纏う雰囲気は、年齢の割に落ち着いて見える。
年相応に笑っていた時を思い、胸が痛んだ。
何がそうさせたのかを、分かっているから。
(慎君……)
そして、その姿が想起させる人を、想って。
「―――戌井」
余程考え込んでいたのだろうか。
呼ばれるまで全く気付かなかった彼の気配に、僅かに苦笑する。
振り返れば、あの少年と姿を重ねていた人が其処に居た。
…そう、似ていた。
あの少年は、大切な人を喪った後の、彼に。
だからこそ、思う。
(どうして…)
どうして、世界はこんなにも残酷なのだろう。
それが人であれ物であれ、何にしても。
大切な何かを失くさなければ、大人になれないのか。
(彼のように、あの子のように、……僕の、ように)
失くして。
気付いて。
それで傷ついても。
前を向かなくちゃいけなくて。
(そうでもしなければ、大人に―――)
「戌井?」
頬に触れられる感触。
ハッと気付いて俯かせていた視線を正面へと持ってくる。
そうすれば、視界は遠くに居たはずの彼の心配げな表情で占められた。
どうかしたか?、と覗き込む彼に、心配しないでと笑って首を振る。
「何でもありません、真田さん」
思う事を口にすれば、彼はまた表情を曇らせる。
真田さんのそんな表情は、もう見たくなかった。
なら良いが、と言って手を離しながらも、まだ納得のいかない表情を崩さない彼に、呟くように言う。
「…慎君、来ていましたね」
それに一瞬瞳を大きくした真田さんは、何故と言うまでもなく答えに辿り着いてただ頷いた。
僕が真田さんに声をかけられるまで見ていた先に、思い至ったからだろう。
「あぁ」
吐息と共に零されたその一言には色々な感情が含まれている気がして、けれど真田さんはただ笑うだけだった。
どうしてかこの人は、こんなにも自分の心を綺麗に隠してしまう。
その事に気付いたのも、それが癖のようなものだと気付いたのも、実は最近の事だった。
気付いてしまえば、それは僕が真田さんと出会った時には既に完成されていた事だという事も分かってしまって。
真田さんはその頃にはもう何かを失くしていた。
気付きたかった。
気付きたくなかった。
そんな両極端な気持ちが、今もある。
決して表面には出さないけれど。
「真田さん」
「ん?」
「今回も、断ったんですね」
何を、とは言わなかった。
伝わる事は分かってた。
視線の先の真田さんは、ゆっくりと一つ瞬きをして笑みを消した。
まるで仮面を剥いだ本心に触れたよう。
次いで出された声は、少し、冷たい。
「…あぁ」
けれど、それはほんの一瞬の事で。
ふわりと真田さんが笑う。
それだけで、空気はまた繕われた。
見事、と言うしかない、芸当にも似た技術。
そうそれを、真田さんは僕に会う前から体得していた。
それが酷く、哀しい。
「俺が一緒に行く訳にもいかないだろう」
そしてそんな事を言うから、そうじゃない、貴方の所為じゃない、と思わず言いかけて、けれど結局僕はその言葉を呑み込んだ。
そうする事が呼吸をするように自然と出来た事に小さく苦笑する。
言いたい事を言わない。
それに僕は慣れすぎていた。
真田さんが嘘を吐く度、表情を曇らせる度、僕は何かを殺し続けてきた。
言葉や感情、痛みだったりと。
それで良かった。
正直にものを言えば真田さんが傷つく。
かと言って嘘を吐けば、傷つくのは真田さんだけでなく僕もだ。
正直者にも嘘吐きにもなれない僕は、ただ言わない事を選択し続けてきた。
(それは多分、これからも、ずっと)
そう、思って居たのに。
「……お前は、俺の傍から離れるなよ?」
思いがけず近くから聞こえた声に目を見開く。
え…?、とも言えず固まった僕は、突然の冷たさを甘受するしかなかった。
(何?)
頬に触れたそれは、ひやりとした冷たさを持つ皮手袋だった。
視線を動かせば、至近距離に真田さんの顔。
何処か睨みつけるような鋭い視線に、喉を鳴らす。
「お前は」
そして強いるように言われた言葉。
「俺を、置いていくな」
その簡潔な言葉に、漸く理解した。
途端唇が
噛み、締めた。
(……あぁ、この人は)
真田さんの傍には、もう誰も居ない。
彼も彼も、彼も。
誰かを守った代償として、彼等はいなくなってしまった。
だから。
(僕に貴方を守るなと、真田さんに何があっても放っておけと、言いたいのか)
感じたのは、身を焼くような怒りと、行き場のない哀しみ。
(真田さん)
憧れて、傍にいたくて、此処まで付いてきた。
諭されても耳を貸さず、危険だと言われても突っぱねて、哀しそうな顔すら無視した。
そうまでして、付いてきた。
何の為に、僕が、此処まで。
(その僕に、守るなと)
貴方は何処までたった独りの道を行くの。
もう喪いたくないからですか?
もう傷つきたくないからですか?
それを僕は弱さだとは思わない。
貴方が辿ってきた道を思えば当然と言っても良い。
(それ、でも――…)
怒りと哀しみは心の中で渦を巻く。
それをきっと真田さんは気付いてる。
知ってて僕から瞳を離さない。
まるで祈るように、決意した瞳で。
(………真田さん……)
瞳を閉じる。
目を、開ける。
そして僕は。
「―――分かりました」
しょうがない、という風に、笑って、見せた。
「真田さんが危険な目に合っても、僕はさっさと逃げさせてもらいますよ」
笑顔を作って。
「後で恨まないでくださいね?」
生まれて初めて、嘘を吐く。
「真田さんを…、見送ってあげますから」
そんな僕に。
「…うん。―――それで、良い」
真田さんがほっとしたように笑って、その言葉を、言うから。
僕は泣きたくなる。
嘘だと叫びたくなる。
けれどそれ以上に、心が痛い。
(……あぁ、ほんとに)
嘘は、誰も救わない。
「―――っ…」
離れた腕を掴んで、体ごと掻き抱く。
驚きに見開かれた瞳を射抜いて、噛み付くように口付けた。
「……!」
体の強張りは一瞬。
すぐさま押し返そうと腕で胸を押す真田さんを、更に強い力で抱きしめた。
何時の間にか逆転した体格と体力は、圧倒的で。
「…ッ、いぬ、い…!」
苦しそうな声。
泣きそうな瞳。
震える体。
それでも離さない。
息継ぎなんて、させてやらない。
「――――…、…け、ん…っ…」
痛む心は、それを、許さない。
『真田さんを…、見送ってあげますから』
『…うん。―――それで、良い』
そんな訳、ない。
(嘘に決まってるじゃないか)
どうして生きていける。
真田さんがいない世界で。
(だって無理なんだ)
きっと真田さんが危険な目に合ったら咄嗟に助けてしまう自分を知ってる。
理屈じゃないんだ。
それは本能的なもので、どうしたって、止められない。
(生きていて欲しいんだ)
遺された者が苦しい事、哀しい事、分かってる。
誰よりも、僕が。
(だけど、分かってて願うよ)
―――生きてください。
(僕がいない世界で)
貴方は最後まで、僕が命を懸けて守るから。
20090429
〈たまにふと思い出す。あの、でかくてちょっと怖くて不器用で、でも優しいまま死んでいった、彼を。〉