人形悲劇

[ the last scene ]



(誰がこいつをこんな風にしたのだろうと、意味もなく責める時がある)

 それは特定の人物を責めるのでなく、ただ漠然と〈世間〉とやらを責めるのだ。
 きっと本当に責めるべきはそんなものではないと知りながら。
 溜息を零すような気軽さで、殴りたい程の衝動を飼い殺す。

(誰が、こいつを、こんな風に)

 くたりと寄せられた白く冷たい体。
 銀髪は温度差の所為かしっとりと濡れ、指を絡ませれば吸い付いてくる。
 首に回された両腕は頼りなげに揺れ。
 首筋に掛かる吐息はあまりにも細い。
 それでもとくとくと重ねた胸が規則正しい心音を伝えるから。
 それに安堵して天井に息を吐く。

(これで呼吸と心音がなければ、まるで糸が切れた等身大の操り人形のようだと)

 こいつに限っては洒落にならない事を、思った。





  darkness in my mind





 夜が来る。
 ひっそりと空を侵し空気を変え闇の触手を伸ばして自身の存在を知らしめる。
 口に入り喉を通る夜風は最近また冷たさを増したよう。
 夏の夜のような涼しさは、何時しか秋を忍ばせるようになった。
 寒さが、堪える。

(そろそろ、か)

 感慨も無くそう思う。
 何がそろそろなのかは考えずに置いた。
 ただそう思うだけに留めて、漸く足は最近移り住んだ棲家へと向いた。
 路地裏から出て帰ってきた場所。
 昔と変わらぬまま佇む、運命(さだめ)られた者だけが住む事の許された場所へ。

「お帰りなさい」

 扉を潜った途端、ロビーに点在していた寮生が口々にそう言った。
 まだ慣れないそれに素っ気無く頷き返しながら、俺は足を奥へと進める。
 階段を目指して歩いていたが、その手前に幼馴染が居る事に気付き立ち止まる。
 熱心にグローブを磨いていたアキも俺に気付いて手を動かすのを止めた。
 そして俺を見上げて。

「どうした、シンジ」

 静かに明るく零れたそれは、普段通りのアキだった。
 紛う事なくそれは何時も聞くアキの声。
 けれど。

「…アキ。ちょっと来い」

 アキの手を取る。
 グローブが落ちる。
 それに構わず俺は歩き出し、アキも構う事なく俺に手を引かれたまま付いて来た。
 取り残されたグローブを一度として見る事はなく、大人しく言葉もなく、付いて来た。

「取り敢えず、座れ」

 部屋に入り佇むアキにそう声を掛ける。
 向き合って座ろうとアキにベッドを指差し、俺自身は椅子に座った。
 床でも良かったが、秋口ともなれば流石に冷たい。
 暖房を入れるのはまだ躊躇われた。

「アキ?」

 けれどアキはベッドへと向かわず俺の方へ歩いてきて、コートの袖を引っ張った。
 こっち、と言われている事に気付くのに然程時間は掛からず、俺はその声なき誘導に大人しく従った。
 そして壁に背を付く形でベッドに座れば、その俺の首にアキが腕を回して抱き付いてきた。

「シンジ」

 ただ俺の名を呼んで、縋り付く。
 俺は応えるようにアキの髪を弄ぶようにしてゆっくりと撫でた。
 その密着度はこの年の男同士では絶対に有り得ず、久々の逢瀬を喜ぶかのような熱い抱擁にしては、俺達の顔は淡白なままだった。

「アキ」

 一度離して顔を見ようとするのを、アキは嫌がるように更に俺の首に顔を埋めた。
 そしてその所為で密着度が高まり、互いの正しく胸を打つ心音さえ伝わった。
 アキの体の冷たさも、細い息も微かな震えも。
 何があったかなんて聞かなかった。
 多分恐らく何もない。
 こうなる事に特別な理由など要らない。
 ただ周期的なものだった。
 アキがこうして言葉もなく俺を求めるのは。
 表情を失くしてしまうのは。
 瞳が硝子玉みたいになるのは。
 自分を保っていられなくなるのは。

(人形みたいに、なっちまうのは)

 何時からだ?
 何時からアキはこうなった?
 じっと暗闇に目を凝らして答えを探す。
 そして閃きに似て突如浮かんだ答えに、深々と息を吐いた。

(…あぁそうだ)

 遣る瀬無い気持ちが心に纏わりついて気持ち悪い。
 それでも思考は勝手にその時の事をなぞり始めていて、俺は諦めたように、それを許容して心の中で呟いた。

(アキをこんな風に壊したのは、施設の大人達だった)





 血の繋がりなんて全くない集団。
 やたらと子どもの数が多く、母親が数人いる、擬似家族のようなもの。
 施設とはそんな場所だった。
 だからと言って組織である事には変わりなく、言ってみれば林間学校を延々と続ける小学校の一クラスと言った感じだった。
 その小さな社会で、決して社交的な子どもでなかった俺達は、いち早く大人達に目を付けられた。

『他の子と仲良くしなさい。これから一緒に過ごすのよ。何でそれが出来ないの』

 ある時は宥めすかすように。
 ある時は苛立ちを交えて。
 ある時は高圧的に。
 そうして大人達はあの手この手を使って俺達を教育しようとした。
 俺は突っ撥ねる事を何の躊躇いもなく出来た。
 何ではいはいと大人の言い分を聞かなきゃなんねぇんだと。
 でもアキは、それが出来なかった。
 アキはその本来の大人しい性格故に、大人達の言い分を受け取る事しか出来なかった。
 大人達は嬉々として協調性とやらを身に付けさせる為に、反発しないアキに感情を押し込める事を学ばせた。
 アキは直ぐに〈良い子〉になった。

『これをして頂戴』
『分かりました』
『明彦君、あぁいう事はしちゃ駄目でしょう』
『ごめんなさい』
『先生の言う事、きけるわね』
『―――はい』

 それはぞっとするような光景だった。
 其処には俺の知らないアキが居た。
 出会った当初、アキは喜怒哀楽のはっきりした子どもだった。
 笑って泣いて怒って恥ずかしがって。
 大人しくはあったけど、それでもアキは十分普通の子どものようにはしゃぐ事を知っていた。
 感情を吐露する事を知っていた。
 子どものような間違いだって失敗だって好奇心だって、あったのに。

『明彦君』

 大人の誰かが呼んだ時。
 アキの表情は全て消えた。
 それまで泥んこになって遊んでいた事が、妹と一緒にかけっこしていた事が、俺と一緒にはしゃぎ回っていた事が、一瞬にして記憶から消えてしまったように。
 最中であってもアキは大人の言う事を優先した。
 可愛げのない表情でも淡々とした物言いでも、大人達は気に止めなかった。
 ただ手の掛からない子どもであると言う事に重点と評価を置いて、アキを見ていた。
 何時しかアキは、妹や俺の前でもそんな風に振舞うようになった。

(それが俺には、耐えられなかった)

 何もない瞳も表情も、俺の望むアキではなかった。
 大人達の前でさえそう振舞って欲しくなかった。
 嫌なら嫌で良いだろ。
 俺が何とかしてやるから。
 そう言ったって習慣のように反射のようにアキは大人に従順だったから、それだけは諦めた。
 だからせめてと、俺は言ったんだ。

『俺の前では、本当のお前でいろ』

 笑って怒って泣いて楽しんで。
 我侭だって聞いてやる。
 誰かが苛めても助けてやるよ。
 大人に何か言われたら庇うから。
 全部全部、俺がお前から守るから。

『だからアキ、頼むから』

 俺の前では、本当のお前で居てくれ。

『…でも』
『良いから…大丈夫だから』

 シンジ…。

 説き伏せるように願うように言い募れば、戸惑った深い灰青色の瞳が俺を見た。
 不安に揺れて、でもきっと、何かに縋り付きたくて。
 そうして求めるように呼ばれた名は、俺の庇護欲を刺激するのに十分だった。
 アキを守ってやりたいと心底思った。
 守ってやると言った時よりも、ずっとずっと、強く。

(大人に怒られる事なんて怖くない。嫌われる事もどうでも良い事だ)

 そんな事よりも、ただ。

(アキの心が見えなくなってしまう事の方が、どれ程も、怖い)

 だから俺はアキを当時持てる力全てで抱き締めた。
 お前の居場所は此処なんだと、知らしめるように。

『アキはアキで良いんだ』
『…ん』
『俺はそのままのアキを受け止めるから』
『……うん』
『無理して笑ったりするくらいなら、泣け』

 その時、アキが本当に泣きたいのかなんて、俺には分からなかった。
 そんな素振りも見せなかったし、目を泳がせている以外は至極平然とした表情だったように思う。
 それでも俺はその言葉を口にした。
 本能で導き出した答えなのか、それともただ漠然とその言葉を思い付いたのか。
 だから本当の所はアキにしか分からない。
 それでも。

『――…うん』

 アキは一つ頷いて、その白い頬に雫を零したんだ。





 それからだ。
 アキは徐々にではあるがまた自分の感情を出すようになった。
 大人達に完全に逆らい切れた訳ではないけれど、それでもまた笑ったり怒ったり泣いたり出来るようになった。
 でも時たま、ふと感情を失くしてしまう期間が出来てしまった。
 大人に押さえつけられた感情。
 無意識に実行してしまう抑制。
 その事にアキは自分では気付けない。
 何時も通りにしているつもりなんだ。
 それが見ていてとても痛ましくて哀しくて。
 そんな風になる前に助けてやれなかった自分が、酷く酷く、憎くて。

「アキ」

 自分の腕の中に閉じ込めて、ただ名を呼んでやる。
 お前はアキだ。
 ただの真田明彦でなく、俺の親友で幼馴染みの、大事な大事なアキなんだと、言い含めるように。
 それにアキは何も返さない。
 聞いて居るのかも分からない。
 ただ静かな呼吸と拍動を繰り返してる。
 乱れもなく正確に。
 それもなんだか人形じみていると気が付いて唐突に怖くなる。
 無意識に抱く力を強めた。

「…アキ」

 もう何年も経つのに。
 もう、時間がないのに。

「アキ―――…」

 自分は何をしてやれる?
 自分は何をしてやれた?
 アキの為に、俺は。

「しん…じ……」

 至近距離、聞こえた声。
 その瞬間、自分の身体への付加が増えたような気がした。

「アキ…?」

 浅い呼吸は深いものへと変わり、伝わる心音は緩やかなまま。
 けれど、何処かそれらは先程とは違い、生を感じさせて。

「…寝たのか」

 ほんのりと暖かさすら戻ってきたかのように思い、安堵する。
 あぁ、けれど。

「アキ…――」

 またきっと、再発する。
 其処に自分が居れば良い。
 けれどそれはもう、望めない。
 時間がない、哀しい程に。
 例え時間があったとしても、自分一人で抱え込むには深い深い傷だった。
 分かっていたのに。
 誰かに任せる事が、最後まで出来なかった。

(アキの養父母に任せる事はアキが嫌う。桐条に言うには荷が勝ちすぎる。他の奴だって…)

 そう思って誰にも任せず話さずに。
 その代わり、自分が気付いてやれば良いのだと。
 傍で守ってやれば良いのだと。
 幼い頃の誓いを果たし続けるのだと。

(あぁ、だから)

 これは独占欲などではないのだとこじつける。
 アキの為だ。
 アキが呼吸し易いように。
 アキが、生き易いように。
 アキ、の――…。

(―――嘘だ)

 ギリ、と唇を咬み締める。
 深い嫌悪と絶望と、怒りに任せて咬み締める。
 そうしてただ心の中を占拠する矛盾をじっと見詰める。
 見詰めて見詰めて見詰めて。

「………最低だな」

 零す。
 毀れる。
 …堕ちる。

(俺が、アキを壊すのか)

 その矛盾を、視線で殺せるくらいに、憎んだ。





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 20101226
〈the end.〉





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