愛を閉じ込めた時間の中
[ 崖を見下ろして立ち竦む ]シャドウ討伐隊の俺達にも、タルタロスに行かない夜はある。
そんな日は何時も、誰もが寝静まった影時間の中で。
俺とあいつは、そっとベッドを抜け出すんだ。
in secret time
『影時間に、一緒に風呂に入ろう』
それは何時からの習慣だったか。
確か中学生の頃だったと思うが、何しろ回数が回数だけに覚えてない。
その習慣が始まった理由さえも覚えてないのだから、当たり前かもしれない。
タルタロスに行かない夜、主にあいつが足音を忍ばせて俺の部屋のドアを一つだけ叩く。
それを待って、俺は腰掛けていたベッドから立ち上がり、持つ物を持って外に出る。
其処には笑顔のあいつが居て、早く、と言いたげに、軽やかな足取りで先に階段を下りていく。
それに俺も笑って、けれど思い通りに早く足を動かしてやる事はない。
ゆっくりゆっくり足を運んで、先に浴場に辿り着いていたあいつがむくれる顔を拝むのだ。
ようやく現れた俺に、声を出せば影時間が終わってしまうと恐れるように、視線だけで文句を言うそいつ。
毎回の事なのに、毎回同じ反応をする。
それを素直というのか馬鹿というのか、兎に角自分の心に正直なそいつらしさに笑みは深まるだけだ。
そして何故だか俺の笑みは免罪符の役割を果たすようで、それだけでそいつは不機嫌さを忘れたようにまた笑う。
可笑しな奴だ。
そんな無言の時を越えて、ガラ、と湯気で溢れる部屋へのドアを開き、入る。
そいつが開けて、俺が閉めて。
そうしてようやく、無言の呪縛から解かれたように声を出す事が許される。
何時も最初に声を上げるのは、あいつだ。
今日もそれに違わないらしい。
「シンジの馬鹿」
「いきなりなんだよ」
湯気に揺れた第一声は俺への批判で、けれど何故か顔は笑っているのだから意味が分からない。
湯を被って湯船に入れば、丁度良い温度に息を吐く。
隣に陣取ったそいつは首まで浸かって俺を意地悪げに見上げた。
「言いたくなっただけだ。意味はない」
「何だそれ」
意味なく貶されたとはどういう事か。
まぁ分かってはいるけれど。
そこから話は脱線して、今日の事、昨日の事、明日の事、楽しかった事、退屈だった事。
様々な話を続けた。
温めの湯で上せる事はないから話は延々と続く。
にしても便利な事だ。
影時間の中でも電気が使えガスがつくなんて。
さすがは桐条の家が支出しているだけはある。
なんて事をぼんやりと考えていると。
「うわっ!」
突然水をかけられた。
此処には二人しか居ないのだから、当然犯人はもう一人のそいつ。
目をやると、笑顔から一転、また不機嫌な顔に戻っていた。
「今度はなんだ」
「シンジの馬鹿」
あぁさっき聞いたような台詞。
けれど今度はちゃんと理由があるようだと、何も言わずにいたら。
「……何の為の時間だ」
そう、言われた。
この時間は、何の為に設けられたのかと。
思わず息を呑み言葉を呑む。
あぁそう言う事かと遅蒔きながら理解して、じっと睨んでくる灰と青の中間色の瞳を見返す。
「悪い」
分かっていた筈だった。
俺達がこうしている事の意味。
この時間を選んだ意味を。
「悪かった、アキ」
だから素直に謝る。
無駄にしている暇はない。
今この時だけは、全ての雑念と常識を取り払い、相手だけを想うのだ。
普段は出来ない事を。
だからこの在り得ない時間の中で。
「……分かったなら、良い」
その言葉に、更なる謝罪と感謝を込めて既に濡れきっている銀髪を撫でた。
昔の癖だ。
けれどそれを、こいつも昔と同じように受け入れる。
そして怒っている時間が無駄だとばかりにけろりと機嫌を直すと、そいつは味を占めたように又俺に水をかけてきた。
「わ、こら、アキっ、止めろ! 止めろっつってんだろ!」
「聞こえない!」
「聞こえてんじゃねぇか!」
「何の事だ?」
「ぶっ…惚けんじゃねぇ!!」
目に入る。
口に入る。
耳に入る。
終いに俺も応戦し、湯が半分に減りかける。
けれどそれがどうした。
もう使う奴も居ないのだ。
気にしてやる事はない。
思いっきり今を楽しめたら―――良いじゃないか。
そんな感傷を抱きしめながら。
俺は笑うアキの顔面に湯をぶっかけた。
体力を削ぎ落とされて二人とも大人しく膝を抱えて座り込んで、少し経った。
まだ息は切れ、そして減った湯が自分達の行為の馬鹿馬鹿しさを伝えてくる。
まったく、とその馬鹿馬鹿しい行動をせずにはいられなかった本人を見遣れば、ずっとこちらに視線を向けていたようで。
ぱちり。
と、視線が交差する。
「シンジ」
その呼び声が、俺の身体を、縛った。
風呂の中である所為か、動き回った所為なのか。
薄く色づいた体と頬。
唇も血が通って桜色に近く。
そして、濡れて、て。
あぁきっと意識していないのだろうなと、分かってはいたけれど。
「―――アキ」
呼び寄せて、引き寄せて、抱き寄せた。
その流れで。
情を込めない、キスをした。
友愛と親愛と恋慕の狭間に揺れるキスを。
それはもう幾度となく繰り返した行為。
こいつから漏れる吐息。
震える睫。
逃げる舌先を追いかけて。
長い長い、きっと誰よりも長い、口付け。
それでもそれは永遠には成り得ず、何時も終わりを迎えて散る。
名残惜しげに離せば、潤みきった瞳を伏せてそいつは息を整えようとする。
その姿が健気で。
また、この手に抱きそうになる。
けれどそれは、出来ないから。
「もう上がるぞ、アキ」
その行為がなかったように、呼び掛ける。
癖のようなものだ。
そうしなければ、自分が抑えきれない。
「…分かってる」
普段を気取って、けれどまだ、揺れる声。
その声を、その身体を、その瞳を、その全てを。
抱けるものなら抱き続けていたい。
でも決めたから。
〈何時も〉を崩すのは、影時間の中だけだと。
そう言った俺に、それで良いと言った今より少しだけ幼いこいつ。
気付いていたのに。
影時間の中だろうが普通の奴らにはない時間だからといって。
俺達にとってこの時間は恐らく他の時間よりも色濃いものになるだろうと。
俺達の中で、この時間は事実以外の何者でもなくて。
なかった事には、出来ないのだと。
それでも。
もうその影時間の終わりが近付いていた。
普通に戻らなければ。
早く早く。
この誰も知らない時間が、終わってしまう、前に。
そう思い自然と足が速くなり、扉に辿り着く寸前で。
「シンジ」
また、呼ばれて。
俺の身体は再度こいつに主導権を握られる。
声もなく振り返る。
そして笑うそいつの顔を、見た。
「シンジ―――…っ」
一瞬の笑み。
その後の、涙、も。
そして反響する泣き声に紛れる俺の名前を探して。
俺は来た道を引き返す。
それは驚くほど、あっさりと。
(―――あぁ、なんだ)
区切った時間。
それを憎む気持ちが、俺に願いのまま行動する事を許してくれる。
どうして気付かなかったんだろう。
心はこんなにもあいつを求めているのだと。
ただその事実を認めるだけで、良かったのに。
「アキ」
シンジと呼び続けるこいつが愛しい。
「アキ」
離れないでと掴まれた腕が嬉しい。
「アキ」
傍に居るだけで良いと喘ぐこいつを愛してる。
だから。
「まだ影時間は終わってない」
だから大丈夫だと。
「まだ俺達の時間は終わってないから」
嘘を吐くくらい、約束を自ら破る事くらい。
許して、ほしい。
「シンジっ…」
その先に続いただろう愛の告白を。
自分の唇で封じるから、どうか。
―――…どうか。
20091020
〈(どこから、狂い始めたのだろう)〉