足りない世界

[ 足りていればきっと、それはそれで破綻した世界に生きる俺達は。 ]



「…ちょっと外に出てくる」

 何時もと変わらぬ風に聞こえたその声に反応したのは、何故だったのだろう。
 何かが何時もと違うような気がして。
 そして俺の隣に居た彼の幼馴染が、酷く翳のある視線を彼に遣ったように見えたから、だろうか。
 少しだけ開かれた唇は、けれど音を発する事なく閉じられた。
 いやむしろ、その言葉を閉じ込めるように、彼は唇を強くきつく噛み締めて。
 握った拳が震えている事など、彼は気付きもしなかっただろう。
 俺は冷静にその横顔と拳を見つめて、扉の向こうに消えていった彼の後姿を思った。
 彼と彼の押し込めた何か。
 それを知ろうとしたのか、ただ純粋に病院にいる彼女の事が気になったからか。
 疑問だらけの自分の頭の中。
 ただそれでも冷静だった俺はふと椅子を引いて立ち上がる。
 気付いた彼が、どうした、と見上げてくるのに笑んで返し、行ってきますと俺は言った。
 彼は何も言わなかった。
 さっきと同じように、言いたい事をその唇で閉ざした。
 視線に紛れた翳の濃さが、増した気がした。





  それは夜に似ていた。





 彼女と自分の関係を言い表すのは難しい。知人と言うには知りすぎてるし、友人と言うには知らなさすぎる。ただ、彼女が自分にだけは気持ちを、言葉を与えてくれる事は事実で、誰よりも心を開いてくれているという自惚れに似た自負と認識はある。先輩達には一言だって漏らさなかったと言うのだから。

(だからっつって、凄く親しいかって聞かれて、しっかり頷ける自信はねぇけど)

 親しいとは思う。笑ってくれる。順平と呼んでくれる。けれど自分が彼女の何を知っているのかと言えば、チドリという名前と、絵を描く事が好きという事しか知らない。ストレガの仲間だと言う事は考えもしなかったし、彼女も教えてはくれなかった。彼女は知っていて近付いたんだろうか。自分を敵だと知った上で、会ってくれていたんだろうか。俺を、騙すつもりで。

(そう思うのは、…辛らい、かも…)

 そう心の中に呟いて前を見据える俺の目には、暗闇しか映らない。それ程夜の闇は深すぎて、何時もなら僅かでも見える星の輝きも届かなかった。後を追う彼の姿も、もう見えない。それでも俺の足は淀みなくある場所を目指して歩いていた。彼と初めて会った場所へ向かって。その道が正しい事だけを確認して、また俺は思考に耽る。

(……どーなっちまうのかなぁ)

 何が、と問われれば、答えが多すぎて困ってしまう。手近な回答で言えば、自分と彼女と彼と彼の幼馴染みが。もっと抽象的に言えば、世界が。あぁそう自問したところで。

(正義の味方になりたい訳でもねぇのに)

 世界を救いたいだなんて思ってない。だいたいあの寮に行く事になった理由も、部に入ったのだって、ただ自分がもっともっと生きていたくて、そしてあの何もかもが破綻した家から抜け出せるのならといった、桐条先輩からしてみれば殴りたくなるような理由だ。偶々シャドウに対抗できる力を持ってたのだって、俺にしてみればそこそこの幸運だった。

(……いや、そりゃ入る前は、か)

 学校の部活動とは思えない、というか学生がやる事自体問題があるような事件を解決する為に態々危険に飛び込んで傷を負って戦っても、その代償が自分に直接返ってこない。見返りがほしいという訳ではないけど、頑張ったという証がないのは、正直キツい。その意味では多分不運なんだ。好きでやる訳がない。…けど。

(先輩達やあいつらと出会えたってのは、幸運だったかもなー…)

 あれだけの危機を乗り越えて、一つ屋根の下で共に暮らし、世界の危機の一端を垣間見た数少ない仲間達。この絆は何年経っても消える事はないだろう。秘密の共有は何よりも強い繋がりを生む。だからきっと、忘れない限り。

(…って、忘れられるかっての)

 あぁ、だから。何時か先輩達が卒業し、俺達の学年も卒業し、天田一人が後何年かあの学校で学ばなければならなくても、きっときっと誰かの呼び掛けに全員が応えるだろう。忙しさの合間を縫って顔を出し、数分、数十分の会話で良い、そんなものを楽しんで。言葉もなく、ただ顔を見るだけでも良いかもしれない。離れていた時間の何十分の一でも時間を共有できたら、きっとそれは。

(……なんてな)

 自分の柄でもない、そんなロマンチストみたいな言葉と思い描いた情景に、ふと笑みが零れた。その事に安堵する。大丈夫。大丈夫。まだ自分は笑える。だから多分、大丈夫だと。

(ほんと、俺ッチってば普通の人なんだから)

 普段の自分らしく(おど)けて言えば、今度は苦笑が漏れる。それにすら心安くして、そんな自分に笑った。嘲ったようなそれでなく、明るくただ滑稽に。

(大丈夫)

 心の準備はもう出来てると、辿り着いた場所、見付けた人影にそう独白した。





「荒垣先輩」

 声を掛けられた事に、荒垣は特別驚いた風もなかった。途中で後を付けられている事に気付いたか、最初からこうなる事を予想しての行動だったのかもしれない。伊織にその真意を測る事は出来ないし、するつもりもない。伊織にとって今大事なのは、荒垣の本意ではない。
 そうして視線を合わせてきた荒垣は、静かな瞳をしていた。それは夜に似て暗く、そして寛容さすら備えていた。けれど余計な事を言う気はないらしく、その呼び掛けに頷く事すらしない。伊織は荒垣らしい態度に口元だけで笑って、言うべき言葉だけを吐き出した。

「チドリに飲ませた薬、あれ、何ですか?」

 昼間の光景。突然震えだし恐慌状態に陥ったチドリ。それが一体何によって引き起こされたのかもどう静めて良いのかも分からず、ただ狼狽えていた自分とは違い、何かを知っていてそれに適切に対処した荒垣。何故荒垣がそんな事を知っている? 何故荒垣はそんな物を都合良く持っていた? 考えれば、答えは一つしかなかった。そうして連鎖して思い出した荒垣の幼馴染みの彼。それを、荒垣も読み取ったというように。

「……何でアキに聞かねぇ」

 ふい、と逸らされた視線。その時風に吹かれて露わになった右頬を注視すれば、赤く腫れ上がっている事に気が付いた。あぁ彼に殴られたのか、と気付くのは簡単で、そしてそれが左拳で行われた事にも気付いてしまえば、言うべき言葉だけを選び取る事の無意味さにも、伊織は気付いてしまった。

「真田サン、本気で怒ったでしょう」

 その言葉で自分の迂闊さを呪うように荒垣は眉を顰め、けれど否定はもっと馬鹿馬鹿しいと思ったのか、素直に頷いて肯定した。そして浮かべた笑みは、自嘲に等しい。

「怒って、殴って、泣いた」

 端的な彼の様子の変遷を辿る動詞の羅列の最後で、伊織は一瞬目を見開いて驚いた。けれど直ぐさまその表情は消え失せる。そう口にした荒垣の言い方と表情に、伊織の胸は小さく痛んだ。小さすぎて、本人すら気付かなかった。そんな痛みを他人である荒垣が知る訳など当然なく、自嘲したまま言葉を続けた。

「あいつの昔からの怒り方だ。ボクシング始めてからは殴る事は控えてたが、やっぱ感情を抑えんのが下手なんだな。最後泣くのは、感情が膨張しすぎて自分でもよく分からなくなるからなんだと」

 そうして細められた目で、荒垣は一体何を見るのか。多分自分が想像したそれと大して差はないのだろうと伊織は思った。そうして痛んだ心を、また伊織は気付けずに見過ごした。

「…それくらい、真田サンは荒垣先輩の事好きなんですよ」

 そう言った伊織を、荒垣は見もしなかった。ただ第三者からのその言葉に浸かるように目を閉じて。

「だろうな」

 と、静かに言った。とてもとても静かなそれは、驕りとも皮肉とも言えず、ただ闇に燻って消えた。

「何度も聞いた。耳に胼胝(タコ)ができるくらい、何遍もな」

 好きだ、シンジ―――そう言って、子どものように笑った彼。同じような言葉を返してもらえると、疑わず信じていた。あぁ確かに、荒垣は彼を好きだったけれども。

「だからって、言えるかってのな」

 それは世間体の問題じゃない。言ってしまえば、寿命の問題でもなかった。ただ、荒垣と彼の、好意の質の違い。

「…あいつは何も分かっちゃいねぇんだよ」

 あいつの好きは、好きな相手に好きと返してもらえばそれで満足できる程度のそれだった。あいつが求めたのは、たったそれだけ。小学生並の好意。

「今時あんな奴も珍しいぜ。それに気付かない事も。それ以上を望まない事も」

 だからこそ荒垣の想いは彼に伝えられる事はなかった。伝えてしまえば垣根がなくなる。彼は遠慮なく荒垣に擦り寄ってくるだろう。信頼と安心を荒垣に求めて。ただ好きと言ってほしいが為に。ただ傍にいたいが為に。そんなもの、荒垣にとっては苦痛でしかないと、気付かずに。

「だから、お前は距離の測り方を間違えるなよ」

 不意に外されていた視線を合わせられ話を振られた伊織は戸惑って口を噤む。相変わらず荒垣は何も気にしない。伊織の心の機微に、気付こうともしない。

「あの薬は万能薬じゃねぇ。あの女が抱える問題を一時的に押さえてるだけだ」
「つまり、具体的にどうゆう…」
「それを言えば俺はあの女に恨まれるだろうから、言わねぇ」
「え? ちょっ、…」
「恨まれんのは一人で十分だしな。それ以上は抱え切れねぇし」
「あの…!」
「だから、忠告だけしとておく」

 自分の言葉を聞かず一方的に喋り続ける荒垣の口調に押されて伊織は何も言えず、その言葉を聞いた。

「迷うな」

 それがその夜の最後の言葉になった。





 消えていった後輩の後ろ姿を最後まで見送る事なく、取り出した煙草の先に火を付けて、その灰が落ちていく様を見た。じりじりと白を侵す灰が何かと被って見えて、荒垣は舌打ちと共に煙草を揉み消した。途端に周りが夜に染まり、その事にふと笑う。

(言えた義理じゃねぇ)

 あいつに言った言葉。分かった風な顔をして、何を言った。そう言った自分自身がきっと誰よりも迷っているのに。

(迷って迷って迷い続けて、それでもまだ、答えを出せないで居る)

 それは薬の服用以前からの惑い。最近出会ったあいつとは比べものにならないくらいの時間を迷いながら過ごしてきた自分が、あんな事を言うとは。

(…柄じゃねぇんだ)

 誰かを励ます事も。誰かの恋路を応援する事も。妙な感傷に浸る事も。だから。

(世迷い言だ、結局)

 自分にはもう時間がない。多分あの女以上に、時間がない。薬の服用の量がもう既に違うのだ。数日服用せずとも自我を保てるあの女よりも、自分は多分、もっと酷い。

(あぁ、だから―――だからこそ、迷わずに居られない)

 あいつが傷付くのを分かってて、最後の最後で奪ってしまえば良いのか。あいつを傷付けたまま、最期の最後まで拒絶し続けるのか。

(……一緒じゃねぇか)

 気付いた事に、笑った。笑う。笑える。笑うしかない。まるであいつと一緒だ。あの頃の俺と一緒だ。変わらない。変われなかった。命が足りないと分かって尚、俺はあいつを失う事を恐れてる。折角の命の期限を、理由にすら出来ないなんて。

(笑える)

 俺は調教された犬か。御馳走が目の前にあるというのに、涎を垂らして見ているだけ。噛み付こうとだってしない。純粋に、馬鹿だ。

(笑える。最悪な冗談だ)

 自分の想像図に腹の底で生まれた衝動は、肺を通り気管へと上り詰め、喉の奥で息絶えた。

「―――――……っ」

 誰もいない路地裏。夜は等しく全てを隠した。だから彼が喉を震わせた理由を誰も知らず、夜は従順に明け方を待つ。





(迷わずにいるのには何かが足りない)

 あいつには想いが足りない。
 俺には覚悟が足りない。
 だからどっちも動けない。
 進む事が、出来ない。

(進めなければ掴み取る事など出来ないと知っているのに)

 クソ、と心の中で吐き捨てる。
 臆病者だ、両方が。
 俺は知りながら、あいつは知らないまでも。

(時間の足りなさを、理由にすら、出来ない)





戻る



 20091012
〈最後まで。最期まで。〉





PAGE TOP

inserted by FC2 system