汚れた絵/汚されたのは
[ ターニングポイント ]昔、孤児院にいた頃。
モクバに誘われて、水彩画を描いた事がある。
絵なんてあまり描いた事はないが、それでもモクバが目をキラキラさせて褒めてくれる程度には、上手かったのだろう。
その時描いたのは、蒼一色の空。
微妙な濃淡の使い分けのみで描いた空を、モクバはそれでも喜んでくれた。
『兄サマの色だね』
綺麗、綺麗。
その言葉の方が、俺は綺麗だと思った。
その言葉をもっと聞きたいと思った。
モクバが喜んでくれるならと、俺はそれから何度も水彩色鉛筆を手に取った。
蒼い空と桜。
たんぽぽ。
向日葵。
紅葉。
雪景色。
知る景色の全てを、描いた気がする。
『凄い。綺麗。兄サマ、ありがとう』
笑ったモクバが好きだった。
兄サマ、と追いかけてくれるのが嬉しかった。
この小さな存在を守れるのなら、何でもしたいと思えた。
けれど、何時だったか。
雨が降った日。
モクバが飽きもせず俺の描いた水彩画をじっと眺めて嬉しそうに笑っていた時。
吹いた風が、俺の絵を連れ去った。
『あっ…』
モクバはそれを追って雨の降る中外へ出た。
俺はそれを追いかけて、そして立ち尽くすモクバの隣に立つ。
モクバの視線の先には、地面に落ち、雨に濡れ、ぐしゃぐしゃに汚くなった紙があった。
『………』
俺達は無言で雨に濡れた。
俺はモクバに、水彩画だから仕方がない、また描いてやるから、など言えず。
モクバは俺に、ただごめんなさいと繰り返して泣いた。
『兄サマ…兄サマ…』
縋るように俺の服の端をつかんで、モクバはその絵を見ながら泣き続けた。
それでも俺は、何も言えなかった。
モクバは肩を震わせて泣いた。
水彩画は、もう何が描かれてあったのか分からなくなっていた。
少し経って気付いた先生が出てきて、怒りながらも心配げに身体を拭いて温めてくれた。
俺は大丈夫だったが、その後暫くモクバは熱を出して寝込んだ。
『兄サマ…兄サマ…』
その時もモクバは俺を呼んで泣き続けた。
あの日、雨の中で立ち尽くした意味は、きっと俺達にしか分からない。
どろどろに溶けた水彩の色。
色んな色が混じり合い、汚くなった絵。
一瞬前の綺麗さは、一体何処へ。
(それは、多分、俺達兄弟に似ていた)
一瞬後の崩壊を、恐らく俺達は思い出したんだ。
綺麗な思い出。
踏みにじられた、思い出。
(それはまさしく、あの絵のように)
絵柄の分からなくなった水彩画。
それを見下ろす俺は、あの時何を考えたか。
その俺の横にいたモクバは一体何を思ったか。
知る事はない。
聞く事もなかった。
モクバは二度と俺に水彩画をねだる事はなく、俺も二度と描かなかった。
気づけば何時の間にかそれまで描いた水彩画がなくなっていた。
どうなったかは、知らない。
そこから多分、可笑しくなった。
それは、剛三郎に初めて会う、一週間前の出来事だった。
20100201
〈変えるつもりだった運命が変わっただけだ。何を嘆くことがあるだろう。(でも泣かせたい訳じゃあ、なかったんだ) 〉