アマオトリズム
[ それはシャボン玉がふと視界に入った時計を見て、今日という日が後少しで尽きる事を知った。
それを確認した途端、疲れがどっと押し寄せて。
そろそろ寝ようと仕事を切り上げベッドへ向かおうとした時。
トン、と、窓が叩かれた小さな音を聞いた。
途端、ぴくり、と跳ねた己の肩に気付かないフリをして、そっと耳を
トン、トトン、ト、トン……
音は段々不規則に、そして不規則から規則的に、変わってく。
その変遷を追いながら、気付けば窓際に立っていた。
窓に、指を這わせる。
次いで、コツリと額をくっつけた。
(……振動…)
きっと肌で触れなければ気付かなかった、その小さすぎる硝子の揺れ。
気付いてしまえば、その存在は大きくて。
(…なんで、こんなにも心が騒ぐんだろう…)
分からない。
でも…と何かを思いかけて、気付く。
歪む硝子の向こう。
灰色の景色に突然現れた、空を切り取ったような鮮やかな青色。
(あれって…)
ゆっくりと動いていたそれは、その窓の真下で止まって。
「……バクラ…?」
驚きに見開いた瞳に映ったのは、雨傘の下から覗いた、悪戯っ子の笑み。
夢魔は驟雨の如く
(…犬みたい)
と思ったのは、先ほど玄関に入ってきたバクラの、髪を振って雫を払う姿だった。
しばらく飽きもせずそうしていたバクラはようやく満足したのか、さっと手櫛で髪を整えると、呆れ顔で突っ立っていたオレにニヤッと笑いかけた。
「よぉ」
「………よぉ、じゃないよ」
遅すぎた挨拶に、盛大な溜息。
(ってか、それ以前に何時だと思ってるんだよ。もう日付が変わる頃だろ? 雨も降ってるし。あーもう何で来たんだこいつ。帰れよー…)
そんな言葉がざっと頭に浮かぶのに、何故か言葉に出来ない。
それにこのまま双方ずっと黙ったまま立ち尽くしてもしょうがないと思い至って、ぶすっとした顔を隠さず口を開く。
「……入れば」
そうしてくるりと踵を返したオレの背に、バクラの、あ、という短い声。
なんだよ、と肩越しに振り返れば。
「なんか雰囲気違うと思ったら」
バクラがオレの髪に手を伸ばす。
「結ってないからか」
そう。
何時もはポニーテールに近い高さに括られている髪が、今は肩に背にと散っている。
それをバクラはそっと髪を梳いて。
「もう寝る所だったのか?」
そう言や、髪乾いてんのにちょっと体濡れてるじゃねぇか、なんて言いながらバクラはオレをじろじろと見る。
その視線が酷く居心地が悪くて。
「そうだよ」
と、ぶっきらぼうに返し歩き始める。
そんなオレにバクラがニッと笑った気配。
「あーあ。風呂に入る前だったら良かったのにな」
何が、とは言わない。
けれど気付かない訳もなくて。
「…ばぁか」
オレは硬くしていた顔を保ってられず、背を向けている事を良い事に、小さく笑った。
(それはまるで、日常に区分出来てしまいそうなほど、穏やかな)
何時だった?
何時だっただろう。
結構前?
最近だったかな。
バクラが、オレに言ったのは。
『……もうちょっとしたら、お前の傍にいてやれなくなる』
だから先に言っとく、わりぃ。
そう言って、笑ったバクラ。
少し泣きそうだと思ったのは、オレの気の所為?
なんて言えず、オレは。
『…何言ってんの?』
分かんない。
分かんない。
違う。
分かりたく、ない。
『まぁそりゃ、一生一緒に、なんて思ってないし。つか、オレ達付き合ってたっけ?』
そっからして疑問なんですけど、なんて。
言いながら。
笑いながら。
ある疑問が、オレの頭から離れない。
(……もうちょっとって、なに?)
曖昧な時間表現。
なのに。
(傍にいてやれなくなるって、どーゆーコト?)
別れるのは、決定事項で。
『ほんと、いきなり何言って……』
どうして、と言えたなら。
『訳、分かんないし…』
嫌だ、って、言えたなら。
(何か、変わる?)
ねぇ、バクラ。
『――……もう一緒に、…いられないの…?』
零れてく。
零れてく。
震える声が。
何かが、いっぱい。
それを感じる事に、精一杯で。
無意識に伸ばした手。
一瞬の迷いの後、それは強く、引かれた。
『――…御伽…』
熱を孕んだ呼びかけに流されるままされるがまま溺れて。
その後の事は、あまり覚えてない。
(痛みと涙と叫びを、全部それの所為にして)
そしてその翌日、何もなかった風に笑ったオレに、バクラは何も言わなかった。
それが一週間以上続こうとも。
(…あぁ、そうだ)
バクラが来た日。
別れに似た言葉を言った、あの日。
(その日は雨が降っていた)
今日、みたいに。
その事を、バクラを見つけた窓に伝う雨粒を見た一瞬で思い出す。
けれど、それを気付かれちゃいけない。
あの時からずっとずっと何もなかったフリをし続けたんだ。
し続けるんだ。
これからも。
(だから)
と、きゅ、と握り締めた手を、噛んだ唇を、見られないように隠そうと、したのに。
「御伽」
ぎゅっとバクラの腕の中に閉じ込められる。
「…なぁに怖がってんだよ」
呆れた声。
でも。
優しい声。
そして宥めるようにぽんぽんと叩かれる肩ののんびりしたリズムに、泣きそうになる。
(何時もは、そんなんじゃないくせに)
強引に手を引っ張って、オレのリズムなんてお構いなし。
こっちに合わせろと言わんばかりに何時だってオレを振り回す。
そんなんだからオレは仕方なくしょーがなくバクラにステップ合わせてやってさ。
…そう。
お前はそんな、ジコチューでオレ様で傍若無人な奴なのに。
(…ダメ…)
バクラの声に、リズムに、オレの表情を、リズムを、保ってられない。
崩される。
「……やめ、てよ…」
こんな時に、優しく、しないで。
優しく触れないで。
優しく、言わないでよ。
「やだよ…」
やだ。
やだ。
やだ、よ。
だって、だって。
「夢、見ちゃうじゃん…ッ…」
何にもなかったフリさせてよ。
何にも聞かなかったフリ、させてよ。
お前がそんなんじゃさ。
オレ、知らないフリ、できないじゃん。
(…ううん)
それだけじゃ、なくって。
「―――〈ずっと〉なんて、思っちゃうだろ…っ」
何で会いに来るの。
何で優しくするの。
何で、どうして。
(嫌いに、ならせてくれないの)
嫌ってしまえれば楽なのに。
会いたくないと思えれば、それだけ心が軽くなれるのに。
(好きなままで、いさせるから)
もうちょっとのモラトリアム。
何時始まってるか分からないカウントダウン。
待ち受けているオレ達のエンディング。
そして、バクラの居ないアフターストーリー。
(その全てが怖いんだ)
だからお前が居る未来を願ってしまう。
叶わないと知っていて。
無駄だって、分かってて。
痛みを消したくてわざと傷を増やしてるようなものだ。
(痛みは痛みでしか、ないのに)
そう震えるオレの耳元に、囁いた声。
少し掠れた、それは。
「――…見たら良いじゃねぇか」
回された腕の力が増す。
痛い、くらい。
「お前の見る夢に、オレがいるなんてよ…最高だろ」
らしくもなく弱い声でバクラはそう
「それが、本当になるかも知れねぇ」
そうであって欲しい、なんて。
(可能性がないって言ってるようなもんなのに)
小さく笑う。
でも、知ってる。
バクラもそれを知ってるって事。
知ってて言うのは、オレの為。
オレが、ちょっとでも安心できるように。
(…あーぁ)
もう止んでしまった肩へのリズム。
思い出しながら、それに身を委ねて。
(ほんとお前は、…優しいんだから)
トン、トン、トン…。
優しいリズム。
雨音みたいに、聞き逃しそうで、でも、気付いてしまえば忘れらんない。
バクラは多分、そんな音。
「……そうだね」
だから騙されてあげる。
もうバクラの言うその未来から眼を背けないけど、受け入れるけど。
夢を見続けるよ。
叶うって信じて。
叶わない、夢を。
「ずっと、一緒に…」
そう、それは、
キミとボクが、別れるまで。
『―――〈ずっと〉なんて、思っちゃうだろ…っ』
そんな夢物語を語った時。
ちょっとだけ、期待した。
バクラがその夢を食べてくれやしないか、って。
ちょっとだけ、…思ったんだ。
(でもあいつは…)
『それが、本当になるかも知れねぇ』
なんて、強がっちゃって。
(ははっ…)
ほんとは、そんな事無理だって分かってたよ。
でもそれで良いんだと、息を吐く。
自分の中に在る回答の一つは、確かにこの未来だったのだから。
「……はぁー…」
(だから、願っちゃうんだよ)
静かに視線を滑らせて、窓から見た灰色の曇天。
(……どうか)
目蓋を閉じる。
(どうかどうか、どうか)
神に向かう、敬虔な信者のように。
(一緒に、…居させて…って)
そう願う傍ら思い出したのは。
(―――……バクラと、って…)
切り取られた、青空の色。
20090713
〈オレをこんなに弱くしたのは、お前なのに。〉