あの日々への逃避

[ 遠い遠い恋物語 ]



 昔々読んだ童話。
 子ども達だけの国のリーダーである少年。
 その少年に、憧憬とも言える感情を抱いたのは、何故だったのだろう。





  Endless Night





 突然、オレが働く工事現場に海馬が訪ねて来た。
 まさに陽が沈もうとしていた時間帯だった。
 久しぶりに会った海馬は以前となんら変わらないように見えた。
 最後に会ってから三年は経つのに。

「よ、社長サン。お元気デスカ」
「貴様は…相変わらず庶民だな」
「わぁるかったな。これでも前よりは結構稼いでるっつの」

 笑って言えば、海馬も「そうか」と言って柔らかく笑った。

(こんな顔も出来るんだ)

 純粋に驚いた。
 オレから見た海馬と言えば、何時も不敵に笑ってるか怒ってるか、だった。
 こんな顔をする海馬を、オレはその時初めて見た。

「? …どうした」

 凝視している事に気付いた海馬が怪訝そうにオレを見る。

「い、や。そういやお前、最近どうよ。女とか出来た?」
「……下世話な話だな」

 嫌そうに海馬はを顰める。
 まぁ、誤魔化す為にそんな質問をしたオレに非があるのは確かだが、知りたいのも事実。

「だってお前、超がつくほど大きな会社の社長だろ? そろそろ身を固めても良いんじゃねぇの?」

 それに跡継ぎだって必要だろう。
 海馬だってもう二〇歳を越してるんだ。
 それに言い寄ってくる女はいくらでもいるだろう。
 それこそ、掃いて捨てるくらいには。

「……オレは元々実力主義だ。血筋で社長を決める訳じゃない」

 不満げに返す海馬。
 それに何処かで安心する自分の心を無視して、ふとした疑問をぶつける。

「でも、モクバは副社長だろ? それってお前の弟だからじゃねぇの?」

 そう言うと、海馬は憤然として言った。

「モクバは元々才覚があった。そこんじょそこらの頭の足りん駄犬と一緒にするな」
「……なぁ、それって暗に特定の人物指してたりする…?」
「ほぉ…」

 や、そこニヤニヤすんなよ。
 んな「感心したぞ城之内!」みたいな表情いらないから。

「それくらいは分かるようになったんだな、凡骨」

(…懐かしいな、その呼び名。何か怒る気も起きねぇ)

 そっと海馬を見、そして想像する。
 今海馬が着ているようなスーツじゃなくて、もし学生服を着ていたら。
 きっとオレは過去に戻ったんだろうかと確実に錯覚するだろう。

(お前は、何も変わらない)

 多分何処かで、オレはそれを願ってる。

「城之内?」

 急に黙ったオレを不審に思ったのか、海馬が近づいて覗き込んできた。

「ん?」

 けれどオレは何でもないかのように海馬の方に顔を向け、首を傾げる。

「いや…」
「つーか海馬」
「…なんだ」
「何でお前、こんな所に一人でいる訳?」

 こんな所と言っては悪いが、此処はギリギリ童実野町の区域であるという中心からは離れた場所だ。
 確かに海馬が一人でいるにはおかしい場所ではある。
 まさかこんな離れた所に散歩は無いだろう。

「…お前が此処で働いていると聞いてな」

 そう言って海馬はオレが立つ背後に眼をやる。
 其処には、沢山の廃棄されたガラクタが身を寄せ合っていた。

「ふーん。こんなん見たかったのか?」

 分かってる。
 そんな事ではないと。

「違う」

 案の定きっぱりと否定され、それは逆に気持ちが良いくらいだった。
 分かってるよ、と口の中で呟いて、けれど敢えて「じゃあ何で」と続けて言う。

「何でオレに会いに来たの?」

 微笑を浮かべながら、オレは海馬に問う。
 でももしかしたら眼は笑ってなかったかもしれない。
 そんな事、自分では知りようがないけれど。

「……オレは」

 言いにくそうに一度口を閉ざし、けれど海馬は再度口を開いた。
 その台詞は勿論、

「―――来月の始めに、結婚する」

 オレが一番聞きたくない台詞だった。
 でも、知っていた台詞でもあった。
 海馬は、「女が出来ていない」とは、一言も言わなかったから。

(あぁ…確実に時は過ぎてる)

 漠然と、そう感じた。
 姿や雰囲気は変わらなくても、確実に環境は変わってる。
 それは、やっぱり海馬も例外ではなくて。
 オレの願いがその何処かで呆気なく崩れる音を聞いた。

「………そっか」

 けれど。

「まぁ、嫁さんに逃げられないように気をつけな」

 オレは笑ってそう言った―――笑えたと、思う。
 そして海馬から目を逸らす為に腰を屈め、足元に転がる廃材を持ち上げる。
 その頭上から、海馬の声が降ってきた。

「……城之内」

 小さく呟かれたオレの名。
 こんな風に呼ばれるなんて、きっとあの頃は想像もしてなかった。
 何時の間に、時が二人の間にこんな溝を作っていたのだろう。
 何時の間に、海馬はこんなにも表情が豊かになったのだろう。
 その表情が正にしても負にしても。
 そしてこんなにも感情を表に出す人間だっただろうか?
 オレが知る海馬は、感情を表に出す事を極端に嫌っていた。
 まるで知らない人間を見ているようで少し居心地が悪い。
 けれどその言葉を発する人間は、確かに海馬瀬人で。

「…何?」
「それだけ、か?」

 逸らしていた視線を海馬に戻す。
 声同様、その表情はとても海馬らしいものではなかった。

(そんな様子が少しおかしくて)

「ンな顔すんなよ。笑えって」

(おかしくて)

「笑えよ、海馬」

(すげぇ痛ぇよ…海馬)

「城之内…オレは…」
「海馬」

 言いかける海馬の言葉を遮って、オレは言う。

「お前が、罪悪感を抱く必要は無いよ」

 其処に、嘘はない。

「それが普通なんだ。気にするな」

 けれど其処に虚勢が無いとは、決して、言わない。

「オレとお前は今ではもうダチだろ? 困った時は助け合える、相談したければする。そんな関係」

 何でこんなにもスラスラと言葉が出てくるんだろう。
 自分でも不思議なくらい平静を保ってる。

「…なぁ、海馬。分かってただろ? 何度も話し合ってきた事だし、納得してオレ達は別れたんだ」

 恋人だった海馬。
 それは三年も前の事。
 今ではもう良いダチだ。
 だってオレ達だって分かってた。
 ずっとなんて無いって事は。

「…分かってる」
「だったら」

(ンな顔すんなよ。こっちまで、悲しくなるから)

「分かってる…!」
「海馬…?」

 急に声を荒げる海馬に、オレは驚いて眼を見開く。

「でもそれは…そんな簡単に納得できる事じゃない…!」

 さっきよりも苦しげな顔。

(そんな顔、しないで欲しい。お前にそんな顔されるのは、…嫌だ)

「海馬…」

 持っていた物を放り投げて、俯いてしまった海馬の頬にそっと手を添える。
 その感触は、変わる事は無い。

「海馬」
「……」
「海馬」
「……」
「笑って」
「……」
「笑ってくれ」
「……」
「…海馬」
「……」
「好きだ」

(ルール違反だ、分かってる)

 でも。

「……好きだ、海馬」
「城之内…」

 やっと返事を返した海馬は、不安そうにオレを見た。
 そんな海馬をいきなり強く強く抱きしめる。
 そして、悲鳴を上げるように言葉を紡いだ。

「オレだってそんな簡単に納得できるかよ…!」

 周りに誰もいない。
 陽も暮れてきた。
 誰もオレ達を、見ない。

「好きだ…!」

 別れてから、何度後悔して、何度やり直そうと思っただろう。
 けれどそれを、あの時のオレはしなかった。

(納得してなかった許容できなかったけれどしょうがないと諦めた)

「諦めようと、したのに…」

 頑張って押し込めた想いを、お前はこんなにも簡単に暴き出してしまう。
 三年も経ってから。
 もう、どうしようもないのに。

「城之内…」

 静かに、声を殺して海馬が泣く。
 カタカタと、細い肩が震えてるのを感じる。

「―――海馬」





(ずっとずっと十七歳でいられたら)

 何度願って、何度自嘲しただろう。
 分かってた、ある筈は無いと。
 知っていた、不可能だと。

(けれどだからこそ、欲した)

 十七歳でいられたら、オレ達はずっと一緒にいられたかもしれない。
 他愛も無い事で言い合いして。
 たまにちょっと恋人らしい真似事したりして。
 背伸びして一足先に大人の仲間入り。

(そんなユメを、オレ達はずっと見ていたかった)

 互いにそんな事をおくびにも出さず、けれど交わる視線や彷徨う手で、お互いの心なんて見抜いてた。
 それはただの逃避でしかないのだけれど。

(でも二人が真剣に願った事でもあったんだ)





「海馬…」

 そっと、愛しさを込めて海馬を呼ぶ。
 もう陽はとうに暮れた。
 じっと注視しなければ、海馬の表情はよく分からない。

「城之内…分かってる…分かってる……」

 そう言いながら、海馬はオレの腕から逃れようとしない。
 更に縋るようにオレの腰に手を回す。

「分かってるんだ…」
「……そうか」

 海馬の顔を見たいと思った。
 けれど、海馬はオレの肩口に顔を埋めていて、顔を上げようとはしない。
 だからそのままに。
 海馬のしたいようにさせた。
 温もりを忘れないように。
 海馬の匂いを忘れないように。
 感覚を総動員させて。
 そしてようやく顔を上げた海馬は、涙の跡はあるものの、綺麗に微笑んでいた。

「悪かった…見苦しい所を見せたな」

 さっきまでの態度とは違い、何処か過去を彷彿させるような態度。
 けれどそれで良いんだと、無理矢理自分を納得させる。
 そうするのは、もう条件反射のようなものだった。
 そっと、海馬がオレの胸を押して離れる。

「…行くのか?」
「あぁ、もう……時間だ」

 海馬が時計をオレの目線に持ってくる。
 時計は七時ちょっと過ぎを指していた。

「魔法が解けるには、ちょっと早いんじゃねぇの?」

 ふざけて言った。
 故意に、そうとられるように。

「オレはシンデレラじゃない」

 女扱いされて機嫌が悪くなったのか、海馬はプイと横を向いてしまった。
 その赤い耳は、薄暗い中でもよく見えた。
 気づいていないだろうその事に、少し笑って。

「気をつけて帰れ。変な奴には付いて行くなよ」
「子どもでもないぞっ」

 本気で怒りそうになる海馬に、悪い、と謝って。

「―――絶対に、振り返るな」

 そう、釘を刺す。

「っ!」

 怖いくらい、真剣な顔で。
 そしてまた笑顔を作って言う。

「……じゃあな、海馬。また何時か会ったら」

 声くらい、かけてくれるかなぁ…。

 語尾は情けない事に消えた。
 そんなオレを海馬は「フンッ」と笑って。

「気が向いたらな」

 そう言って、オレに背を向けた。

「っ…」

 いくらかしないうちに、オレはその背に声をかける。

「海馬! 最後に…最後に一つだけ、教えてくれ」
「……なんだ」

 オレの言った事を守ってくれるらしく、海馬は振り返らなかった。
 その背中に投げかける。

「…三年前、あの時、オレを一度でも好きだって思ってくれてたか?」

 一度も、その言葉を耳にした事は無い。
 聞きたくて強請った事もあった。
 けれど上手くはぐらかされ、結局聞けた事は無い。
 真意は分かっていても、やはり直接的に海馬自身に言って欲しかった。
 そうすれば、それを糧にする事が出来ると思った。

(もう恋人として触れ合えないのならどうか)

「海馬…」

 縋るように、祈るように、その名を呟く。

「――…瀬人」

 小さく小さく、背を向ける海馬の名を。

「好きなんて言葉だけじゃ、言い表せない」

 海馬の右手が、強く握られるのを見た。

「それくらいには、オレは克也を想ってた」

 振り返るなと言った自分がとても恨めしい。
 けれど今更撤回も出来ない。
 しても…多分意味が無い。

「…そっか。―――…ありがとう」

 そして、海馬はそれから何も言わずにその場を去った。
 惜しむようにゆっくりと。
 その後ろ姿を、オレはただじっと見ていた。





 三年前。
 そんなにも過去ではない筈なのに、懐かしいと感じるのはどうしてだろう。
 青春と呼べるものを満喫していたからだろうか。
 恋愛と言うには何かが足りなくて。
 真似事と言うには真剣すぎた。
 幼かったオレ達。
 若かくて軽率だった。
 自分勝手だった。
 衝突ばかり。
 喧嘩三昧。
 けれど。

(笑い合ってキスして手を重ねて抱き合っていたあの日々はとてもとても楽しかった)

 後もう少しピーターパンでいたかったけれど、子どもも何時かは大人になる、…ならなきゃいけない。

(だからこれは自然な事なんだと、自分自身に言い聞かす)

 別れと言っても永遠の別れじゃない。
 また会う事も出来る。
 その関係性を少し模様替するだけだ。
 そんなに嘆く事じゃないだろう?
 繋がりがなくなる訳じゃない。

(だから)

「泣いちゃ、いけない」

 そう呟いて戒める。

「泣くな…っ…」

 そんな言葉で、

(涙が止まれば良いのに)





 海馬に言ったあの言葉の数々。
 諭すように「分かっていただろう」と宣った自分が滑稽だ。
 自分が何よりも認めたくなかったのは自明なのに。
 分かっていなかった、子供みたいにそれを許容したくなかった。

(けれどそれを認めなくちゃいけないと気がついて)

「大人って…辛ぇなぁ……」

(多分それが、大人になるって事なんだろうと思った)





(大丈夫。大丈夫)

 きっと、今度会う時は二人ともダチとして接する事が出来る。
 結婚式だって出席してやる。
 涙を流した事なんてさっぱり忘れて、笑顔だって普通に浮かべられるさ。

(大丈夫)

 元に戻れなくても。
 まだ、繋がってる。
 いくらそれが悲しくて苦しくても。
 過去を想う事があっても。
 懐かしむ事があっても。

(大丈夫)

 まるで魔法の言葉のようにただそれだけを繰り返して。

「でもまだ大人になりきっていないから」

 廃棄されたガラクタを前に、ただじっと突っ立って暗闇に海馬を探して。
 けれど直ぐぼやけて何が何だか分からなくなった。
 其処にネバーランドが見えた気がして。
 けれどピーターパンの姿は見えなかった。

(それは、一つの童話から主人公が消えた日の事)





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 20060820
〈モラトリアムは、疾うに過ぎた筈なのに。〉





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