泡沫
[ 時間の止まった、音を聞いた ]紅の瞳。
手に入れられるのなら。
何度だって罪を犯す覚悟は出来ているのに。
夢で、サヨナラ
崩れ落ちた神殿を一度だって振り返らず日本に舞い戻ったオレは、それから穏やかと形容できる日々を送っていた。
仕事を着実にこなし、息抜きと出席日数の為に学校へ足を運ぶ。
其処では当初、喪ったばかりの友の存在に躊躇う姿が見られたものの、今ではそれもなりを潜めている。
決して忘れた訳ではないだろう。
それでも奴等は進む事を選ばない訳にはいかない。
未来に、立ち向かわねばならない。
オレもまた、そうであるように。
(……進めているだろうか?)
唐突に不安になる。
そのつもりだ。
果たすべき約束も、実現すべき夢もある。
だからオレは進み続けなければならない。
此処で、この場所で。
アイツのいない、世界で。
(分かっているのに)
眠る瞬間、意識を手放すその時に、何時だって願ってしまう事がある。
(それが〈叶えられてはいけない事〉だと知りながら…)
心中そう呟いて、考えを振り払うように瞑目した。
止めよう。
考えてはいけない。
そうすればまた願ってしまう。
だから―――。
(夢でも、なんて、思ってはいけない)
喪う絶望は、一度で良い。
穏やかな日々。
それは言い換えれば単調だと表現しても良い。
そしてそれは日常だけでなく、海馬の心の形容詞としても当て嵌まっていた。
嵐のような彼が居なくなったその時から、海馬の心に
それだけ彼が海馬にとって大事な人物だったと言う事を、海馬は躊躇いもなく認めている。
口にしないだけで、何時だって海馬は彼を想っていた。
幾星霜を経ても、その想いに翳りはない。
だからこその心に、けれど海馬は気付いていなかった。
前に進まなければという一念だけが海馬を支えた。
忘れなければと彼との記憶を封じ込め、想いを排除しようとした。
そして押し殺された心は、悲鳴を上げ始める。
気付いたのはモクバだった。
微かな違和感、ただそれだけだ。
顔色、表情、挙措、口調に変わりはない。
何時も通りだ。
エジプトでの事があった後の数日は矢張り何かしら思う事があったのだろう、小さな変化はあったものの、それも落ち着いたと思っていた。
恋人を失った事を考えれば、若干早すぎるのではと思う立ち直りではあったが。
(何がおかしい? 何が違う?)
パズルは得意だ。
真っ白なピースでも当て嵌めていけば自ずと分かるとモクバは自負する。
兄を注視した。
分からない。
更に注視する。
そして、当て嵌まらないピースを見つけた。
(瞳、だ)
改めて見て、モクバはぞっとした。
感情がない、硝子のような瞳だった。
あまり感情を出す事のない兄ではあるが、それは交渉、またはゲームに於いてだけだ。
交渉相手のいないこの時に、ゲームをしている訳でもない此処で、そんな感情の抑圧は無意味だ。
そして、兄は決して感情が貧しい人間ではない。
(あの時の瞳に、似ている…)
遊戯とのゲーム。
あの、
(―――嫌だ…っ)
モクバは兄に近付き揺さぶった。
あれは、モクバの心も大いに傷付けた。
冷たいものが背に宛がわれたような悪寒が駆け上る。
「兄サマ、兄サマっ!」
騒ぐモクバに驚いたのは傍に居たメイドだけだった。
案ずる当の兄は、寂寞とも言える居住まいでモクバを受け止めるだけ。
「どうした?」
有り得なかった。
取り乱すモクバにこのような冷静な反応を返す兄など、何より、表情一つ動かさない兄を、モクバは見た事がなかった。
「兄、サマ……」
力が抜けていく。
震える足は、モクバを立たすまいとするかのようだった。
それでもモクバは気力を振り絞ってこの事態と向かい合わねばならなかった。
「磯野を呼べ…!」
モクバの行動は早かった。
当面の兄の仕事を取り上げ、急がねばならないもの以外のプロジェクトの凍結、急ぐものは全てモクバが引き受けた。
交渉は手練を向かわせる事、セレモニーなどは全て欠席の旨を各会社に通達。
兄と言う抜けた穴は大きいが、それでも機能の全てを止める訳には行かなかった。
モクバもまた、未来に立ち向かわねばならない者だった。
「兄サマの事が変に報道されないように、予め各マスコミに体調不良だと伝えろ。 イメージダウンは以ての外だ」
真実味を持たせる為に、モクバは兄を本当に入院させる事を決めた。
情報の漏洩を防ごうと思うのなら家に居た方がやり易い事は確かだったが、それではマスコミに無闇に騒がれる事を覚悟しなければならない。
厳重な警備、そして徹底した身元調査の上で決められた医師と看護士に脅迫紛いの言葉を渡して、モクバはやっと息を吐いた。
ベッドに横たわって寝る兄は以前と変わりはないのに。
(……兄サマ…)
兄は今回の入院に、一言も文句を言わなかった。
白い部屋。
何もかもが白い。
床も天井も壁もベッドも布団も。
着ている物だけが、違うだろうか。
……良く分からない。
(此処は…、何処だ…?)
考えようとするのに、思考がはっきりしない。
血の巡りが悪くなったのだろうか。
頭が重い。
ずっと眠っていたような感覚だ。
そんな事はないだろう。
けれど、記憶が抜け落ちたかのようにない。
頭痛の時のように手で頭を抱えていた事に気付いて、そっと手を離す。
そして、視線を巡らせ光射す場所へと辿りつく。
(…夜、と、……満月…と…)
と。
「――――」
視界と思考の靄が晴れていくような、そんな感じがした。
光を辿ったその先を見た瞬間の事だった。
「……ゆぅ、ぎ…?」
不敵な笑みを浮かべた決闘王が、其処に居た。
願ってしまう自分が嫌だった。
想ってしまう自分が嫌だった。
過去を顧みる自分が嫌だった。
未来を見ない自分が嫌だった。
(だから、ひた隠した)
それは確かに願いも想いも過去も彼から奪ったが、それと同時に未来も奪ってしまった。
願いと想いを奪われた彼には、未来に進む為の動機を失った。
過去と未来が表裏一体だと気付けなかった彼は、過去を否定した事で未来に進む術を失った。
(その頃から、心は
一度人為的に壊された心は脆かった。
そして運の悪い事に、彼はそれを周りに気づかせないだけの術と自身への無関心さを持っていた。
彼の弟が気づいた時には殆ど崩れ落ちていた心。
それを憂え、救えるのは、ただ一人しかいなかった。
『…よ』
そう言って片手を上げたのは、紛れもなく武藤遊戯の相棒で、決闘王であったアイツだった。
信じられないと思う気持ちはあったが、さっきまで澱んでいたのが嘘のようにはっきりとした意識が、それを強く肯定した。
認めるしか、なかった。
「……遊戯」
何と言って良いか分からないオレに代わって、遊戯が口を開く。
『何でこんな所に居るんだよ。そんな恰好して。体調でも崩したのか?』
その言葉を聞きその表情を見て、あぁ、とオレは嘆息した。
(貴様が、救ってくれたのか)
それは嫌に確固とした確信だった。
少しもそれに類するような表情でも声音でもなかったというのに。
だからこそ、オレは聞く。
「……貴様こそ、何故此処にいる」
消えた筈の魂…そしてオレを想うなら、出てきてはならなかった貴様が。
それに、遊戯は微笑んで。
『お前が呼んでるような気がしてさ。体が勝手に動いて此処まで来たんだ』
そう言われれば、笑うしかなかった。
確かに、オレはこいつを呼んだのだから。
認めたオレを見て、勝った、とでも言いたげに遊戯は更に笑みを深めた。
けれど次いで遊戯が紡いだ言葉に、双方笑みが歪んだ。
『……何もかもを捨てる必要は、なかっただろ』
責める響きも咎める気もない、けれど重いその言葉を、オレは素直に受け取った。
分かっていた。
自分が押し殺したものは未来に進む為に必要であった事。
それでも、殺さずにはいられなかった、理由も。
『海馬』
呼ばれて久しい声に、思わず喉が震えた。
それを押し堪えて謝罪するには、まだ気持ちの整理が出来ていなくて。
『―――呼んでくれて、ありがとう』
優しい声は震える喉に追い討ちをかける。
そしてまた、伝えるべき言葉は心の中で事切れた。
意識が睡魔に囚われるその瞬間、何時だって海馬は叫びに近い想いで彼を求めた。
彼に会いたいと願った。
心が完全に崩れ落ちるその時だって例外ではなかった。
何度も何度も繰り返した。
締め出したはずの
一瞬ではあったものの、それが海馬の本心である事には変わりない。
元よりそれは押し殺すべき心ではなかったのだから。
(そして、その叫声に彼は呼ばれた)
彼だけが唯一心を癒せる人だった。
海馬の心を一度壊した事のある、彼だけが。
(呼ばれた魂はしばしの間泣き濡れた)
もう少し早く辿り着けばと後悔して。
少しの沈黙の後、遊戯が静かに言葉を滑らせた。
『海馬』
「……何だ」
『本当は、全部知ってたんだろ』
何を、なんてはっきりと言わない、そんな貴様をずるいと言う資格はオレにはない。
オレの方こそ、どれだけ卑怯だったか。
「……あぁ」
けれど、認める事と心は比例しない。
頷いたその瞬間にもまた心は悲鳴を上げかけていた。
知っていたと言う事が、こんなにも辛い。
そんなオレに、遊戯は小さく笑って。
『責めてる訳じゃない』
そうじゃないんだと、繰り返す。
そしてオレに手を伸ばし触れる寸前に、ぴくり、と動きは止まってまた遠ざかる。
望んでいた温もりは手に入らない。
もう触れ合えない。
触れるなと怒鳴った時、それはこんなにも辛かっただろうか。
(あぁ、だからこそ、呼びたくなかったのに)
呼べば知る事になる。
だから押し殺した。
オレの言葉は言霊となって遊戯を呼んでしまうと、分かっていたから。
『海馬』
ふい、と視線を遊戯から逸らせば柔らかな声が降ってくる。
それはオレが怒って相手をしなくなった時にだけ使われる、遊戯の声音。
その時の声が好きで、わざと怒ったフリをしていた時もあった事を遊戯は知っているだろうか。
『瀬人?』
凛とした声も好きだ。
『せーと』
ちょっと情けない声も実は好きだ。
『……瀬人』
でも一番、優しくオレを呼んでくれる声が好きだったんだ。
『お前はちょっと…いや、かなり、肝心な言葉が足りないんだよな』
何を知った風に。
貴様がオレの何を知っていると言うんだ。
何も知らない癖に。
何も分かってない癖に。
(何も知らずに、いった癖に)
そんな愚痴も出てこない。
再度震える喉が、それを許してくれなくて。
『……それでも、好きだったぜ』
遊戯の声が、優しすぎて。
「……馬鹿が」
やっと出せた声は、酷く頼りない。
『瀬人』
そんな声を出さないでくれ。
二人きりの時だって滅多に出さなかった声を、今、この時に多用しないでくれ。
何でもないような顔をして、何時もなら直ぐに出してくる手も引っ込めて、そんな声を。
『瀬人…』
けれど言える訳がない。
そんな言葉を。
それを言えば最後、遊戯は寂しげに微笑んで消えてしまう。
今だって、ほら、声が小さく震えてる。
不安になった時の、遊戯の声。
だから何か返してやらねば。
繋ぎ止めておかなくては。
出来る限り。
許す限り。
「―――情けない声を出すな。鬱陶しい」
視線を遊戯に向けて笑う。
何時ものように。
今はそれが大事なんだ。
あの時のように振舞う事が。
何よりも。
『…言うと思ったぜ』
そう言って笑んだ遊戯は、けれど抱き締めては来なかった。
夜の
風もない音もない星もない。
ただ、満月だけが頼り。
その中で二人は吐息を漏らし、水を打った静寂に身を委ねた。
何かを喋る事は容易かった。
嘘も真も織り交ぜて言の葉を紡ぐのは、どちらも上手かったから。
(けれどそれが互いを繋ぎとめはしないと分かってる)
言葉がなければ触れ合えば良い。
そんな理屈が通らぬ今、出来る事と言えば口を噤む事だけだった。
一人は触れ合っていた時を追懐し。
一人は触れ合えない事を忍苦した。
刻々と迫る時の
ピンと張り詰めた閑寂の中を揺蕩っていた二人は、不意に閃きにも似た不確かさで、けれど間違いないと信じられる確かさで、感じた。
(―――…猶予の終わり。願いの、切れ目を)
視線を合わせる事は恐怖だった。
けれどどうにか成功して、そして途端、後悔した。
願った事、呼んだ事、会えた事、その全てに。
「…消えるな」
『海馬…』
困ったような遊戯の声。
分かってる分かってる分かってる。
無理なんだ。
不可能なんだ。
終わらない事なんて何もない。
全てが終焉に向かっていく。
そんな事は自明の理。
それでも大人しく納得する程、オレは人間ができてない。
「消えるな…!!」
やっと会えた。
願った事が叶ったんだ。
だからどうかこのままでと願う事は許されない事ではない筈だ。
許されない、なんて事は。
(許されないのなら最初から叶えるな…!)
「遊戯…!」
慟哭する事が恥ではない事。
想う事が間違いではない事。
触れ合うだけが全てではない事。
願う事が許しではない事。
(全て全て分かってる)
それでも泣き叫ぶ自分が許せないんだ。
間違いだと思ってしまうんだ。
全てだと勘違いしてしまう。
許されたいと願うから。
「消えるな…っ…!」
縋り付く体がないならどうすれば良い。
想いを伝える言葉を素直に吐けないなら。
(我侭を言うしかないじゃないか)
今まで黙っていた事を悔いるように、オレは叫んだ。
哀咽に近いそれは細い声にしかならなかったけれど、それでも良かった。
何でも良い、静かにその時を迎える事の方が耐えられなかった。
「遊戯遊戯遊戯、ゆうぎっ―――…!!」
誰か頬を伝う熱の正体を教えてくれ。
何の為に唇を噛み締めるのか。
喉の痛みは一体どうしてなのか。
誰でも良い。
分からないんだ。
だから誰か、誰か…!
『―――瀬人』
静かな、声。
睦言のように熱を孕んだ、けれど、少し泣きそうな、遊戯の、声。
『瀬人』
何度も呼ばれる。
背を擦るように穏やかに。
抱き求めるように優しく。
温もりを分け与えるように、和やかに。
鎮静作用を持ったそれは、オレの呼吸を静かに正した。
「……遊戯」
それでも恐怖が去った訳ではなかった。
カタカタと震える手はどうしようもない。
握り締めて欲しい相手は、困ったように眉尻を下げて笑うだけ。
遊戯のらしくない笑みを揶揄する心の余裕は、とうになかった。
『瀬人』
聞いてくれ、と言うように、遊戯は人差し指を口元に立てた。
何かを言っていなければ狂いそうだったけれど、諦めて口を閉ざした。
そうすれば、良い子だ、とでも言いたげに笑みを浮かべた遊戯は、滔々と言葉を紡ぎ出す。
『お前に出会えて良かった。アテムであった頃から今まで、何度出会いを繰り返したのか、オレには分からない。でもきっと何時も幸せだったんだろうなって、思う。お前はどうか分からないけど……。オレの願いを叶えてくれて、オレに会いたいと思ってくれて、……オレを愛してくれて、ありがとう』
一呼吸。
『ずっと傍に居られなくて、…ごめんな』
その言葉を最後に、遊戯は風に攫われたように、飛沫が弾けるように、姿を消した。
瞬きもしなかったと言うのに。
目を逸らしも、しなかったのに。
「ゆぅぎ…っ……ァ、あぁ…っ」
また喉が震える。
目頭が熱い。
頭が痛い。
鼻の奥がつんとする。
頬が、濡れる。
(堪えようとは、思わなかった)
「、ぅあああぁあぁぁぁぁぁああァ…っ!!!」
号哭は闇に響いて、熔けた。
望んだ事。
望まれた事。
願った事。
願われた事。
選んだ事。
選ばれた事。
彼と彼は、全く同じ事を求め合った。
ただ一つの誤算は、彼が少しだけ弱かった事。
ほんの少し、耐えられなかった事。
心が、壊れてしまう程。
(だが、今なら…)
彼は気付いた。
彼が願ったのは、別れるその時を含めた出会いだと。
そして彼との別れは、彼を想うのなら祝福すべき事であると。
(此処ではないけれども、彼もまた、歩み続けている)
だから立ち止まる訳にはいかないと、少し立ち止まってしまった事を悔いて、彼はまた歩き始めるだろう。
その時、もう彼は手放したりはしない。
彼との思い出、彼と歩んだ過去を。
(それら全てを背負って歩き出す)
―――彼が願った、光の中に完結する物語を。
20090401
〈ありがとうもさよならも、云いたくて、云えなかった。愛していたから、云えなかった。〉