王の帰還

[ 何時か還る場所 ]



 見据える先は、崩れ往く冥界の神殿。
 胸の小さなざわめきは。
 喪失の、証。





  〈Amen.〉





「………やっと、眠ったか…」

 背後から突然聞こえた声に、遊戯達は振り返った。
 視線の先では、海馬がモクバと共に佇んでいた。

「海馬君!」

 遊戯は海馬に駆け寄ると、海馬の顔を見上げた。

「…キミも、来れば良かったのに」

 寂しそうに笑う遊戯に、海馬はその顔を見詰め、数瞬の後に呟いた。

「………彼処は、オレのいるべき場所じゃない」
「でも、彼も海馬君がいてくれたら嬉しかったんじゃないかな」

 遊戯は知っていた。
 どんな山よりも高いプライドを持つ頭脳明晰なこの男と、先程あるべき場所へと還ってしまった彼が恋仲だったという事を。
 好敵手であり恋人だった彼を失った今、海馬はどう思っているのだろう。
 遊戯は聞いてみたい衝動に駆られたが、しかし聞くような無粋な真似はしなかった。
 それは海馬と彼との問題であり、遊戯が介入するべき問題ではない。
 そしてまた、遊戯自身も彼を失ったばかりで気持ちの整理がつかないでいる。
 せめて後少し時間が欲しかった。
 そう考えていた遊戯に、海馬は「違う」と短く否定した。

「オレが彼処に行かなかったのは、そういう理由ではない」
「え? ……どういう事?」

 小首を傾げて聞く遊戯に、海馬は淡々と事実を感慨無く言う。
 非情なほどに、あっさりと。

「オレは還るべき人間ではないからだ」

 どういう事だと、遊戯は眉を顰める。
 それは、一瞬の事だった。

 ―――あの場所に、もう一人の遊戯が還っていった場所に、オレの居場所はない。

 遊戯は海馬の言葉の真意を理解して呆然とした。
 まさかという思いが胸を騒がせる。
 そんな筈はない…!、と遊戯は自身の考えを否定した。
 だって海馬はオカルトを信じてはいなかった。
 今まで散々もう一人の自分を否定し、千年アイテムを馬鹿馬鹿しいと嘲り、過去を憎んできていた筈だ。

(―――けれど)

 あぁ、そうだ。
 彼は、還ってしまった彼は、確かに言っていたじゃないか。

『海馬は時々オレと誰かを重ねてる……オレを見ながら、オレじゃない誰かに想いを馳せている』

 そう言って、唇を尖らしていた。
 そんな彼を遊戯は宥め、そんな筈はないと諭した。
 彼と重なるような人物を遊戯は知らなかった―――いや、いる筈がないと確信していたからだ。

(あぁなのに)

 今、その遊戯の確信は脆くも崩れ去った。

(海馬君が、彼に古代のファラオを重ねていたのなら…)

「海馬君、キミは……、まさか――」

 目を見開いた遊戯の驚きの声に、海馬はもう隠す必要はないとばかりに躊躇い無く頷いた。

「…覚えている。ヤツが還っていったあの時代に、何があり、どういう結末を迎えたのかを」

 そして、ずっと見ていた遊戯から視線を逸らし、海馬は空を仰いだ。

「オレとヤツが、どう生きて、死んでいったのかを。だからこそ知っていた。何時かはアイツの去っていく背中を見る事を―――……」

 海馬の告白は澄み切っていた。
 感情を交えず、心情を見せず、ただ事実のみを吐いていた。
 それはまるで海馬の視線の先にある空のように澄み切っていて。
 呟くように、小さく歌うように海馬は言葉を更に紡いでいく。
 それは悲しいほどに、無機質な声で。

「……どうして」

 少しの間黙っていただけだというのに、遊戯の口の中は乾いていた。
 それを感じながら、それでも遊戯は口を開く。

「どうして、彼に教えてあげなかったの…? 分かっていたのなら、認めていたのなら、どうして彼にもっと優しくできなかったの!?」

 それではあんまりではないか。
 彼は終始、海馬は何かを知っているなんて考えた事も無かっただろう。
 彼が存在する為に必要な千年パズルも、海馬はくだらないと言い続けてきたのだ。
 それでも彼は、海馬を愛していたのに。

「優しくするのはいけない事…? 限られた刻なら尚更優しくしてあげても良かったじゃないか! 何時か消えてしまうと知っていたのなら、未来を見ろとか、そんな言葉は残酷だよ!!」

 彼は知らなかったのだ、海馬が知っているという事を。
 だから最後まで海馬を想って何も言わなかった。
 会社を経営する海馬に遠慮して、必要以上に会おうともしなかった。
 愛しいと感じていても、傍にいたいと熱望しても、言わなかったのだ。
 闘いの儀が行われる事も、どういう風に伝えれば海馬を傷つけずにすむか、迷って迷って自分自身が一番傷ついて伝えたというのに…!

「もう一人のボクは最後まで優しかった! ボク達の事に関しても、キミの事に関しても、彼は最後まで優しさという強さを貫いたのに……!!」

 遊戯の叫びは、砂と空しか無いその場所に、嫌というほど響き渡った。
 海馬が視線を空から遊戯へと移す。
 先ほどまでの声と同様、その視線も静かで落ち着いたものだった。
 けれど、その瞳の中には僅かに困惑の色も映し出されていた。

「―――どうやって、言えば良かった…?」
「え…?」

 海馬の言葉に、遊戯は戸惑って海馬を見た。

「ヤツは、もう一人の貴様は、貴様のもう一つの人格としてでしかこの世にいられなかった。謂わば意識だけの存在で、しかも此処には生きて動く躰は無い。だからこそ、ヤツは必ずあの時代に還らなければならなかった」

 それを分かっていたからこそ、貴様もヤツを還したのだろう?

 海馬の言葉に、遊戯は何も返せない。
 そんな遊戯を気に留める事無く、海馬はまた口を開く。

「しかしオレは…オレはもうこの世で転生し、此処で生きていくべき人間だ。オレの還る場所は此処しか無い。けれど、オレ達は過去に出会い、同じ時を生き、そしてまた共に同じ時代を歩んだ。…身分はどうであろうと、その事実は二人共同じだ」

 海馬は笑った。

「なのに、オレだけ此処に残ると、貴様だけ還れと、―――どうやって言えば良かった?」

 嘲った笑みでも、皮肉の笑みでもなく。

「貴様だけ共に前に進めないと、……どう伝えたら良かった…?」

 泣きそうな顔で―――笑った。





 海馬とて優しくできるものならしたかった、してやりたかった。
 誇りとか矜持とか、それらを捨てるのは確かに難しかったけれど。
 それでも、できた筈で。
 それでも、できなかった。
 別れを分かっていて優しくするのは辛すぎる。
 まして自分はこれからを此処で歩んで行けるのに、相手にはその術が無い。

(なのにどうして言えるだろう)

 未来を見ろと言い続けなければ不安でおかしくなってしまいそうだった。
 分かっていても望みの無いその考えに期待を抱くほど、離れたくなかった。
 だからせめてと辛く当たった。
 真実から目を逸らした。
 起こる未来を知らない振りをした。
 過去を、認めなかった。

(そうでもしなければ、押しつぶされそうなくらい、好きだったのに)





 何時の間にか、砂漠には遊戯と海馬しかいなかった。
 陽が、傾き始めている。
 その夕陽を見つめながら、遊戯は落ち着きを取り戻していった。

「…ねぇ、海馬君」
「………なんだ」

 微かに掠れた海馬の返事を聞いて、遊戯は優しい微笑を浮かべた。

「ボク、嬉しかった」
「……何故だ?」

 怪訝そうな表情を浮かべる海馬に、より一層優しい笑みを向けて遊戯は言った。

「彼がこの世にいた時間なんて、ほんと、一年にも満たなくて。何千年も暗闇で眠っていた割に、ボク達と一緒にいた時間は、本当に短い」
「………」
「沢山ゲームをした。城之内君や杏子、本田君や獏良君や御伽君と学校で行事を楽しんだ。時にはボクの代わりに授業受けてもらったり、放課後みんなでゲーセンに行ったり、体育祭じゃ、子どもみたいにはしゃいだりしてた」

 遊戯は、静かに続ける。

「彼と出会って、ボクは沢山友達ができた。沢山の人と出会う事ができた。ボクがボクのままだったら絶対に無理だっただろう事が、彼と一緒にいたらできるようになった。―――海馬君とも友達になれた」

 あまりにも嬉しそうに言う遊戯に、海馬は少し目を見開いた。
 そして気まずそうに目を逸らす。

「……別にヤツがいたお陰では無かろう。元々貴様にあったものだ」
「そうかも知れない。でも彼はそれを引き出してくれた。もう一人のボクは、沢山ボクに与えてくれた。……ボクは、彼の為に何もできなかったけど」
「―――それは違う」

 遊戯の言葉に、海馬は小さく、けれどはっきりと否定した。

「貴様はヤツの大事な相棒だっただろう。確かに凡骨もヤツの大事な仲間には違いなかっただろうが、貴様とアレではまたカテゴリが違う。…貴様はヤツには無くてはならなかった。むしろ、貴様がいたからこそ、ヤツは今日まで挫折を経験しつつも決して諦めようとはしなかった。―――ヤツは、貴様あっての決闘王だ」

 キッパリとした物言いに、遊戯は照れたように「ありがとう」と言った。
 遊戯を遊戯として見ていてくれた事、そして海馬が彼の事を「決闘王だ」と言ってくれた事に。
 過去形ではなく、現在形で。
 それは意図して言った訳ではないかもしれないが、それでも遊戯はニッコリと笑った。
 彼を過去の人物としない海馬に、心から感謝した。

「彼は、後悔しなかっただろう」

 遊戯は、確信を持って言う事ができた。

「短い間だったけど、みんなと過ごした事を。色々なゲームをした事を。決闘王になれた事を。色んな人に出会えた事を。あまり古代では使えない知識を持った事も、みんなみんな―――勿論、海馬くんに出会えた事も」

 彼は後悔なんてしないだろう。
 もう会えない事を寂しく思っても、この世で生きた短い、一年にも満たなかったあの時間を、悔やむ事は無いだろう。
 そして何より。

「彼は幸せ者だったから」

 確信を持って言おう。
 彼は、とてもとても孤独な幸せ者だった。
 独りだったけれど、みんなと交わる事の無い空間に身をやつしながら、彼はとても幸せだった。
 彼がみんなを好きだったように、みんな彼が好きだった。
 ―――いや、きっと今でも。

「……ありがとう」
「―――――」

 遊戯の言葉に海馬は絶句する。
 しかし、遊戯はそんな海馬に更に言葉を重ねる。
 言う事が、自分の務めだというように。

「彼を好きになってくれて、ありがとう。彼を愛してくれて、ありがとう。彼は何時もキミに助けられていた。彼の支えは、キミだった。ボクだけじゃ足りないものを、海馬くんが補ってくれていた。勿論、城之内君達も彼の支えには違いなかった。でも、海馬君は支えであり、好敵手であり、恋人だった。一番彼に必要だったのは、海馬君だ」

 遊戯の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
 彼とはまた違う、それでも揺るぎない光を持った、紅き瞳。

「ありがとう――――」

 限界を超えた涙が、一筋だけ丸みを帯びた頬を伝った。





 陽は沈んだ。
 消える事を惜しむような残光が少しの間あったけれど、直にそれも消えた。
 それを見送って遊戯と海馬は歩き出す。
 崩れたその遺跡に、背を向けて。
 遊戯は太陽が消えていった地平線をじっと睨んだ。

(砂漠に舞い降りる夜)

 あぁ、それは。

(もう一人のボクの死と同義だ)

 神を喪った地。
 けれど。

(また会えるって、信じても良いのかな)

 死を乗り越え太陽がまた空を君臨するように。

(…そうだったら、良いのに)

 そう願いながら、けれどそれが叶わない事を、遊戯は何処か知っていた。





 穏やかなものだ、と海馬は自身の心をそう評す。
 幾分乱れるかと思っていたのに、何事もなかったかのように凪いでいる。
 口の端を小さく引き上げて、夜の帳とばりが広がった空を見た。

(ヤツとは、もう二度と、会う事はないかもしれない…)

 物語の終焉は、穏やかに誰にも知られる事なく幕を閉じた。
 知っているのはこの海馬瀬人だけだ。
 この物語を紡ぎ、傍観し、何かを犠牲にし続けた、彼だけが。
 様々な制約を背負いながら、それでも海馬は願ったのだ。
 物語の輪廻を。

(―――ヤツともう一度相見えるその時を)

 その願いは何度も果たされた。
 だから。

(だから―――)

 彼の唇が象った言葉に、彼自身も気付かなかった。





 また零れ落ちていった、一つの物語。
 三千年前に始まって、幾度も繰り返した〈物語(生と死)〉が。
 その裏に『未完の英雄譚』があったのだと、一体誰が気付いただろう。
 その未完の英雄は振り返らない。
 過去今までも、そして、未来これからも。
 もう二度と会えないとしても、決して…。
 だから最後に贈ろう。

(ファラオよ、安らかに眠りたまえ―――……)

 彼が無意識に零した、たった一筋の涙をもって。





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〈生者に穏やかな安寧を。死者には優しい終焉を。〉





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