海に臨む蒼

[ 蒼は死と無縁であると同時に生ともまた無縁である ]



 風が運ぶ汐の香り。
 太陽の光でキラキラと反射する海面。
 音は、(さざなみ)





  それはまるで愛を言祝(ことほ)ぐように





 崖に上り、一面を見渡した。
 広大な海原、天高く君臨する灼熱の太陽。
 微かに聞こえる鳥の声は、海の声で掻き消される。

(広いな)

 果てが見えない海。
 ただ水平線を境に空と海が分かれてるのみ。
 時折吹く風が、海独特の汐の香りを運んでくる。
 纏わりつく様な風なのに、何故か不快感は感じなかった。

(あぁ、そうか)

 一つの事実を思い出し、水平線を凝視する。

(今、海の彼方に居る男がそうだったからだ)

 その男はまるで潮風のように纏わり付いて離れなかった。
 何かを抱きしめる事が好きだったらしい、意味も無く人肌を恋しがっていた。
 その行動に呆れつつも、何故か突っぱねようとは思わなかった。
 何故か嫌いになれなくて。
 そして、離れていくとは思わなかったのだ。

(………馬鹿馬鹿しい…)

 オレは知っていた。
 何時か男が消えてしまう事を。
 オレを一人残し行ってしまう事を。
 分かっていたのにそんな事を思うなど、支離滅裂にも程がある。
 そう自嘲して、臨む海に視線を落とす。

(思えばあの男は海の様だった)

 赤が似合うくせに、青は自分の色だと言うのに。
 男は海の様に考えが読めず、心は広く深かった。
 何時も男に振り回される自分。
 困惑する自分。
 それでも、企みが分かった時には嬉しくなる自分。
 男は、色んな表情を見せる自分が好きだったらしい。
 何時か言っていた。

『お前、何時も無表情か人を馬鹿にしてる笑顔しか見せないよな。勿体無い…』
『何故だ?』
『だって、お前普通に笑ったら、凄く綺麗なんだぜ?』

 まぁ、だからって他の奴に見せてやるつもりはないけどな。

 不敵に笑うその姿が疎ましかった。
 自分勝手でオレを翻弄する男が苦手だった。

(………だが、嫌いではなかったのだ)

 あぁ、そんな事。
 今更思っても仕方が無いというのに。





 随分と長い間海を見ていたようだ。
 もう陽が傾きかけている。
 そんな事を思いながら、す、と手を海に伸ばした。
 見据える先は見えぬ大陸、水平線の向こう。
 あの男が居る筈の、地。
 行けぬ距離ではないのだ。
 むしろ、行こうと思えば直ぐにでも行ける。
 直ぐにでも…。
 しかし、それをあの男は望んでいない。
 そんな気がする。

(そしてきっと、自分の勘に間違いは無く………だから)

 だからもう、けじめをつけるべきだと。
 区切りをつけようと。

(この関係に。この、気持ちに)

 そうして伸ばされた手の中から落ちていくのは無数の紙切れ。
 細かな細かな、紙の屑。
 それはあの男からの最初で最後の手紙だった。
 ミミズがのたくったようなその文面。
 解読するのに何日要した事か。
 どんな事が書かれているのかと思い読み解いてみれば、それはいつもあの男が好んで使っていたオレへの言葉をただ文面に著しただけの手紙だった。
 呆れて馬鹿馬鹿しくて可笑しくて、思わず声を上げて笑った。
 笑いすぎて、涙が出た。
 最後の言葉が、とてもとても―――あの男らしくて。
 その手紙を、オレは風に乗せて海へ流す。
 小さな紙屑はあっという間に姿を消して。
 手を、力なく下ろした。
 丁度その時、背後から声をかけられた。

「良いの? 兄サマ」
「……モクバ」

 振り返れば、小さな弟は優しく微笑んでいた。

「良かったの? それで」

 優しく優しく、弟は問う。
 責める風でなく、咎める風でもなく。
 本当にそれで良かったのかと。
 オレとあの男の関係を知る弟は、その手紙が誰から送られたものかも知っている弟は。
 優しくオレに問いかける。
 そんな弟に近付き、オレは頭を撫でた。

「良いんだ…これで」

 過去に意味も執着も、オレは求めないし要らない。
 あの男がオレの傍にいた事も、もう既に過去の出来事に置き換えられた。
 そして、過去を表すこの手紙も、オレには必要ない。
 ―――それに。

「オレは記憶力が良いからな」

 手紙など無くても、文面を忘れる事もあの男を忘れる事も無い。
 大体どうやってあの男の事を忘れられるだろう。
 嵐の様だったあの男を。
 いいようにオレを掻き乱して行った、あの男を。

「忘れたくても、忘れられない」

 しょうがないと笑って見せた。
 そんな事、オレを良く知る弟にはあまり意味のない事だとしても。

「―――さっき連絡が入った。遊戯達、エジプトに着いたって」
「……そうか」

 とうとう始まるのかと、オレは背を向けていた水平線にまた視線をやる。
 これから起こる事は予めあの男から聞いていた。
 あくまで推測であり憶測の域を出ない話ではあったが、恐らく信じるに値する話ではあっただろう。

「行こうよ、兄サマ」

 その言葉に、オレは弟の方を見る。
 先程の笑みと眼差しのまま、弟はオレを見詰めていた。

「行こうよ」

 何処へとは弟は言葉にしない。
 けれど勿論分かっている。
 分かっているから、オレは小さく笑いながら首を振った。

「行かない―――行けない」

 本音にせよ建前にせよ。
 その場にオレが立つ事はない。
 それはあの男との無言の約束であり、暗黙の了解でもある。
 けれど。

「兄サマは行くべきだよ」

 弟の声は、漣にも埋もれず静かに響く。

「何故だ?」

 断言した弟をオレは不思議な気持ちで見た。
 こんなにもしっかりとした目をしていただろうか。
 以前よりずっと、大人びた眼をするようになった。

「兄サマ。あいつに会う事を躊躇ってるんでしょう? だけどね、オレは会いに行く事が大事だとは思わない」

 どういう事だと視線だけで問いかける。

「あいつは確かに此処にいたけれど、それを証明できるのはあいつの周りにいた奴だけなんだよ? 遊戯も城之内も杏子も、あいつの周りにいた奴も、あいつと闘った奴も、みんなみんな、その記憶をもってやっとあいつの存在を証明してやれる。―――それは兄サマも同じ事だよ」

 だからね、と。

「会わなくても良い。けれどあいつが闘うあの場所に行く事は、あいつとの記憶を持った者の礼儀だと思うんだ」

 実体を持たないあの男。
 その存在を知る者は限りなく少数だ。
 クラスメイトですら、知っているものはあの男の周りにいた奴らだけだろう。

「結果はまだ分からないけど、どっちに転んでも後悔しない為に」

 行こうよ、と再度弟は言った。

「兄サマ。あいつの所に行ってやろう? 見届けてやろうよ。あいつがそれを望んでも望まなくても、それは礼儀であり義務だよ」

 それが、あいつを知っている、あいつが確かに此処いる事を証明できる、オレ達の礼儀と義務なんだよ、と。
 弟は優しく言葉を重ねた。

「……礼儀と義務、か」

 ポツリとそう呟いて。
 そしてまた、弟の頭を撫でてやる。

「会わなくても良いんだな?」
「うん」
「闘いの場に赴くだけで、良いんだな?」
「うん」
「他の誰にも会えなくても?」
「うん」

 弟は静かに答える。

「肝心なのは、兄サマがその場にいる事なんだから」

 真っ直ぐな空色の瞳が、優しく細められた。

「………分かった」

 弟の頭から手を離し、膝を折って弟の目線に自分の目線を合わせた。
 その、大人びた眼を見つめながら。

「エジプトへ、行こう」

 にっこりと笑った弟の顔を見ながら思う。
 弟は聡い子だ。
 頭の回転が速いだけでなく、他人の本音すら見抜く力があるのではと常々思っていた。
 オレは何処かで言い訳が欲しかった。
 言い訳、というよりも、動機が。
 あの男がオレの居ない所で闘い、そしてその決着がどうついたのか直ぐに知れない事はオレの本意ではなかった。
 だから動機が欲しかった。
 オレが納得し、そして誰も反論できないような動機が。
 あの男が闘う場に行く為の、動機が。

「ありがとう…モクバ」

 その動機を与えてくれた弟に。
 オレの本音と建前の境界線を打ち壊してくれた弟に。
 感謝した。
 そして。

「どうしてそんな事言うの? オレは別に何にもしてないぜぃ」

 分かっているだろうに。
 けれど誇らないその謙虚さと優しさに、オレはまた笑んだ。

「行こう、兄サマ」

 手を差し伸べてくる弟の手を。

「エジプトへ。―――あいつの居る所へ」

 しっかりと握って。

「―――あぁ」





 そしてオレ達はその丘を後にした。
 ちらりと振り返っても紙の欠片はもう見えない。
 ただ跳ねる波だけが、漣々と音を紡いでいた。





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 20060809
〈今行く。夢の、最果てへ。 〉





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