羊の墓標

[ 真夜中の逍遥 ]



 月が真上に来るのを待って外に出た。熟睡する犬は気付かない。躰に絡む腕を外し布団をかけ直してもちっとも身動みじろがなかったくらいなのだから、余程深い眠りに揺蕩っているのだろう。
 職務怠慢と笑いながら、羊は独り月の道を往く。夜を遊び、夜の影を踏みながら、足取り軽く雑然と並ぶビルの間を縫って歩く。
 鼻歌さえ聞こえそうなステップ。それが、理想の姿だったのに。

「はぁ…―――」

 一つ溜息が零れてしまえば、もう、駄目だった。
 無邪気な殻が毀れる。無遠慮に地面を叩いていた足は鉛を流し込んだように重く、無気力な顔が薄ら笑いの仮面を剥いで覗いた。
 それはさながら突如ミラーボールが消灯し、音楽が途切れて閉店したバーのよう。置いてきぼりを食らった客は闇に足を取られて蹴躓けつまずき、踊り狂っていた所為で出口の正しい場所なんて分からない。どこから入ってきただろうと頭を捻っても、酩酊した思考ではまともに答えを出せるはずもなく、諦めが先立ってその場に座り込むのが精々という醜態ザマ
 そんな空想の過程と結末が自分の歩んできた道に似ているのに気が付いて、羊はまた一つ溜息を拵えた。回想や懐古など、重ねれば重ねるほど溜息を量産するぐらい惨めなことだと分かっている。頭を空っぽにして家出少年の境遇をシリアスに哀愁を持って演じ、置いてきた過去を未練がましく夢見ていればまだ健全で楽だ。
 それが出来ないから、羊は結局滑稽なくらいに羊だったのだけど。

「…あいつを笑えた義理じゃねぇな」

 言って、いっそ笑ってしまいたいのに、表情筋は笑い方を忘れたように動かない。これじゃあ真面目な顔で思い悩んでいるようだ。格好はつくが、それじゃあ本当ホントに本気で悩んでいますと言わんばかりで、そんなの自分のキャラではないと眉間に皺を寄せる。
 悩む時期はもう通り過ぎたのだ。今は結末の中間点。小さく平凡な脳みそを最大限に絞り、し、捏ねて形にした計画はサイコロの形に押し込まれて投げられた。なるようになるし、なるようにしかならない。だから自分にできるのは、あとは笑うことくらいなのに。

「……困った」

 あいつの前ではそんなこと考えなくても笑えるのになぁと、思った自分がなんだかちょっと可笑しくて、やっと笑いかけた、その時。

「―――やぁ、彷徨える子羊さん」

 羊はまた、笑い方を忘れた。

「初めまして」

 代わりに夜に混じらない紅が。

「―――久しぶり﹅﹅﹅﹅

 チェシャ猫のように笑う。





(―――どうかどうかと、願う声を知っている)

 それは引き攣っていると言うよりは潰れ、憐憫を煽るほど聞き苦しく、不快に思うほど聞くに堪えない。
 あれが美しく歌う声を知るのに、今ではもう思い出せやしない。腹の底から、喉の奥から、力一杯吐き出される声の汚いこと。それが自分の為と知りつつも、その感想を切り捨てることは難しかった。
 喚く為にある声ではない。叫ぶ為にある喉ではない。自分の為に、捨てる命ではない。そう思って、思っても。

(どうか、どうか…―――)

 哀願の声は、まだ続く。だがもう直ぐ判別できなくなるだろう。擦り切れた声はもう保つまい。それは、彼と彼女の命のように。
 可哀想に、可哀想に。

(どうか…、どう――――)

 …あぁ、本当に、綺麗な声だったのに。





「早速結論を聞こう。あまり時間もない」

 案内されて足を運んだのはビジネスホテルの一室だった。照明は落とされ、唯一卓上に置かれた橙のランプの灯りが届く範囲が視界の全てと言わんばかりの中、凛とした声がその響きの良さも相まって放たれた矢のように鋭くよぎる。
 軽く自分の世界に浸っていた羊は俯けていた顔を上げ、足元を彷徨っていた視線をするりと滑らせてバッサリと言い捨てた向かい側に座る赤い彼を見た。
 視線を受け、一人掛けのソファの中、羊と対照的に真白のスーツを纏った細身の躰をしなやかに伸ばしながら、彼は足を嫌味なほど優雅に組み替える。その桜唇は冷たく綻び、目にかかる赤髪の合間から覗える宝玉の如き輝きを持つ異色の双眸も、ランプの光を跳ね返して一層冴え冴えと煌めく。
 愛想のねぇことで、と羊は内心舌を出しながら、望み通り結論だけをくれてやる。

「あんたにする」

 対し、そうか、と鷹揚に頷き、話し始めようとした彼の出鼻を挫き。

「ただし、もう一人と掛け持ちだ」

 羊はそう、付け足した。

「……どういうことだ?」

 怪訝に問う彼に、羊は平然と見返して。

「そのまんまの意味」

 とだけ言う。彼は羊を凝視したまま黙り込み、そしてその秀麗な眉宇を不快に歪めたのは、束の間の出来事だった。

「…憎らしい子だな。僕の為じゃないと理解させておいて、その上で助力を求めるなんて」

 羊のバックボーンを知る彼は、その僅かな時間で全て余すところなく悟ったのだろう。苦く詰る口調で言い、聞いた羊の胸はちりと焼けた。焦がして、炎上する。抑えきれず、冷静でいられなくて弾けるように言い返す。

「だってそうじゃなきゃ家を出た意味がないんだ。手段は選んでいられない。俺は贄だ。どうなってもいい。どうなろうと覚悟はできてる」
「折角家を捨てたのに、自分を羊の枠に押し込むのか。哀れだな」

 違う、違う、そうじゃない。頑是ない子どものように、羊は首を振って彼の嘲弄を否定する。

「これは仕事や役割じゃない。生まれ持った性質だ。いくら家から遠ざかろうとそのことに変わりはない。俺は羊なんだ。どうしたって、どうしても」

 そんなこと、分かっているだろうと彼は微かな苛立ちを込めて吐き捨てる。その声が最後滲んだことに赤髪の彼は敏く気付き、自分の言葉の苛烈さにも思い至る。感情的になりすぎた自分を恥じて、瞬間、言葉を噛む。次いで出された声は、先程よりずっと落ち着いたものだった。

「………そうだな。君の生い立ちを思えば、…そう、僕だって同じ境遇なら、同じことをするだろう」

 まぁ君みたいに馬鹿正直に言わず、もう少しうまくやるだろうけど、と、冷静を取り戻した彼は言って目元を和らげた。そして。

「…確認する。僕とそのもう一人、二人分の不幸を背負い込んだ場合の君と契約して、僕の不幸の排除を誓約できるや否や」
「できる」

 間髪を入れずの返答。迷いはない。勢いだけの返事でもない。彼ならきっとやるだろうと、安心さえさせてくれる力強さに、やっと彼は心から微笑んだ。

「なら、もう何も言わない。これまでのように援助も惜しまない。僕は僕の事情で君を使うんだ。君は君の事情で生きるといい―――…」

 見送りはいいと言う羊に甘えて彼はソファに座ったまま、しかし羊がいた時とは違い、気怠さを漂わせて背凭れに撓垂しなだれ掛かり、天井を見上げていた。そのまま、羊が部屋を出てから五分が過ぎた頃。

「……あいつ、なんとかしてやれないのか?」

 光の届かない部屋の片隅から、声がした。よくよく知った部下が許可なく喋ったことに彼は少し驚いたが、しかしそれも仕方ないかと妥協する。今回、特に羊のことは、彼等の関心を一際ひときわ引いていた。それ故に、応えることに少し躊躇しながら。

「…できないな。彼は殆ど混じってしまっている」

 考えなかった訳じゃない。取り戻せるものなら取り戻したかった。何とか出来るものなら、した。けれど、彼の方は、もう。

「涼太が、泣くな…」

 言われて、そうだなと彼は空虚に返す。気が重かった。彼の躰を受け止めていた背凭れが、ミシリと鈍い音を立てた。





 生まれるに至らなかった命を知っている。罪深い理由で、贖えない結果を齎したことも。
 泣くこともままならない、どす黒く臓腑をぶち撒まけたかのような悪夢の所業。それは忍び寄る夜のように密やかに、しかし呑み込む意思を持った獣の如き無慈悲さで行われた。
 知り、識って、口元まで迫り上がった衝撃を、噛み合わない歯を食い縛って食い止めた。喉が痙攣し、口内は強張り、そして口から出なかった分、見開かれた目からは止めどなく溢れるものがあった。
 その過去があるから、現実いまがある。羊は、だから、ここに居た。

「う…」

 見詰めていた先、寝返りを打つ犬が、微かな呻き声と共にふわりと目を半ばまで開ける。それが、薄い水の膜に覆われていることに気が付いて。

「どうした…?」

 常の皮肉さを捨てた声で問う。柔らかささえ潜ませたそれに犬はどうやらほっとしたようで、応える前にまた眠りについた。瞼が下りてす…と流れる雫を、羊は落ち切る前に拭う。そのまま、冷えた頬に手を宛てがって囁いた。

「大丈夫、…大丈夫」

 静かに、静かに。犬が見る夢にまで、この声が染み渡ればいいのにと、心のどこかで願いながら。

「籠の扉は、俺がきっと開けてやる」

 羊は独り、朝焼けを待つ。





戻る



 20150418





PAGE TOP

inserted by FC2 system