羊の墓標

[ 生贄讃歌 ]



 紺青の夜を歩く。水を打ったような静けさの中、遠く在る月だけが道標みちしるべ。時折徒に吹く風が耳元をまろび、宵のとばりに爪を立てる―――と言うのが本当ならいいのに、と願う彼が実際いるのは、場末の路地裏だった。
 しかしあちこちにこれでもかとけたたましい電飾があり、場末という単語から連想する風情という言葉や深閑という表現からはどこまでもかけ離れている。月はそれらに埋もれてしまっているし、星などは言うまでもない。極めつけはネオンサインを掲げる店から漏れる嬌声に似た響動どよめきだ。五感に痛いほど迸る蛍光色と喧騒の中、彼――黒子は、腕の中の袋を抱え直し、疎ましさを隠そうともせず瞼を半ばまで下げた。

(騒がしい、煩わしい…。どうも、世界は生き辛い)

 どこもがここのようではないにしろ、今まで流離さすらった場所は例外なく夜を光で埋めようとする人間のエゴで満ち溢れていた。それが、黒子には馴染まない。

(…大多数が享受する世界に馴染めぬ自分が、悪いのだろうけど)

 それにしたって暗闇に沿うように生きてきた時期はさほど長いとは言えないのに、いつまでも世間の騒がしさに慣れないのはどうしたことか。本質的なものか、性格的なものなのだろうか。
 ふと悩んでみたところで答えは出ない。それは、今の生活を送るようになった時の決断が正しかったのかどうかを、悩み続けているのと同じように。

(……詮ないことだ)

 黒子は思う。自分の役割を思えばそれは確かに正しくはなかった。だが彼の未来を鑑みれば、他に選択肢はなかったのだ。
 そう断じたところで、理由にはなり得ない。それは、自分が取るべき選択肢では決してなかった。自分が負うものを、彼の役目を考えれば。
 …否定に否定を重ねて、そんな自分に黒子は微苦笑した。彼にしてははっきりと感情をその顔に滲ませる。馬鹿なことをしたと、今でも思う。だが。

「僕は…―――」

 言って、黒子は夜の目印にもならない三日月を仰ぐ。散らばる星が、瞬くことを忘れて黒子の瞳を見返していた。





 廃墟と間違えそうなホテルは、しかし偶に思い出したように明滅する看板が辛うじて営業中であることを訴えていた。その一室。合図ノックも許しを請うこともなく鍵をカチャリと開けて悠然と入れば、寝入った後のような静けさが黒子を迎えた。
 慣れた動作で鍵を閉め、味気ないフェルトで覆われた通路を抜けて寝室に入る。簡素と質素とを詰め込んだようなそこに視線を巡らせれば、思った通り、探し人はベッドの上にいた。
 中途半端にベッドに放り出された躰は華奢で、不揃いに長い前髪が表情を隠す。だが目元に刻まれた疲労の色は本物で、それに憐憫の情は湧くのだけれど。―――ぴくり。その格好に、黒子は鋭く眉宇に不満を漂わせた。

「…寝るのなら夜着に着替えなさい。スーツに皺が寄ります」

 何度言ったら分かるんです、とサイドテーブルに抱えていた袋を置き、胸の前で腕組みをして溜息混じりに零せば。

「それ、いい加減飽きない?」

 冴えた夜に侵食された声が、気怠さを湛えて返される。ベッドの上に寝転んだまま、うっそりと閉じていた瞼を押し上げ黒子に視線を遣る彼―――降旗は、言って一つ溜息を吐く。そうしたいのは自分の方だと心底思いつつ黒子は言い返す。

「貴方もいちいち言われるのが嫌ならもっとカジュアルな格好をなさったらいかがですか。私としても助かります」

 そう言いながら、そういう人だと分かってはいるのだ。諦めてしまえばいいと思う気持ちもどこかにある。だからこれは様式美みたいなものだ。変革は望んでない。言って、言われて、ただ、それだけで。

(彼はきっと今の格好を、スーツを着ることを止めはしないだろう)

 黒のスーツに黒のネクタイ、そして黒の革靴。それは紛うことなく喪服だった。そして間違いなく、彼は喪に服しているのだ。年中無休で、葬儀に行くことはなくとも。

『死者を悼んでいるんだよ』

 最初、何故そんな格好をと問うた黒子に、降旗はそう答えた。あぁそうだろうと、黒子は妙に納得したのを覚えている。それが彼が悼むべき死であるかは別として、彼を起因とした死であることは明白だったからだ。

「黒子は母親みたいだなぁ」

 …片笑んで自分を見る彼はまだ幼い。その表情ばかりでなく、実年齢も自分よりずっと若いのだ。なのにその細い肩に伸し掛かるもののなんと多いことか。

(生まれた家、…せめて生まれた年が、別であれば―――…いや、止めよう)

 何とでも言える。言い出したら限きりがないし、そもそも自分が悲観していいことなど何もない。憐れむことにもやっと飽きてきた頃だ。自分は自分の役割を自覚し、自認していればいい。―――そう。

「…間違えないでください。僕は番犬ソルダートです。今までも、これからも」

 違うものに例えられる度、黒子はそう律儀に言い直す。何度も何度も、何度だって。だからここにいる。だから彼の傍から離れない。それは粛々とした誓いの祝詞。だがそれも。

「俺だけの、ね」
「……」

 降旗に茶化される。とは言え、間違いではない。しかし安易に肯定するのも面映おもはゆく、そして彼を調子づかせる気がした。故に言葉を噛み、視線を下げたことで会話を終わらせた黒子に、降旗は口元をなおさら緩めて。

「…脱がせて」

 聞いて、目を上げる。ベッドの上、さっきの格好のまま、降旗が黒子を見上げていた。窓から注ぐ夜景のネオンがコーヒーブラウンの瞳に映り込む。そこにとろりと交じる誘いの色を見て、黒子は無表情を俄に崩す。

「僕の気持ちを受け取る気もないくせに、そういうのやめてください」

 思いがけず厳しい声が出る。それを恥じたこともある。だが今となっては気にしていられなかった。決して短くない彼との共同生活の中で、それが功を奏すこともあると学んだからだ。けれど、今は。

「だったらこのまま寝てやる」

 目論見は失敗したらしい。最後の抵抗と唇を引き結んでみても、それだけのことだよと降旗はまた笑みを深めるだけだ。柔らかく、それでいて、艶やかに。…まったく。

「この、…―――La monellaいたずらっ子

 どこでそういうすべを得たのだかと、堪らないほどの苛立ちと諦め吐き捨てて、黒子はその薄い唇に噛み付いた。





[以下設定殴り書き]

▼降旗光樹
 未年。家業を放り出した為、相棒の黒子と共に逃亡生活中。ストレスにより痩せ気味。

▼黒子テツヤ
 戌年。光樹ひつじの番犬。こちらも家業。そもそも番犬は羊がちゃんと仕事をするように監視・管理、時には懲罰の係を担うのだが、黒子はその役割を捨て、光樹あいぼうに降りかかる厄災を払う剣になることを決める。

▼降旗家
 いつからかも分からない昔から、一族は人の不幸を背負う仕事を生業としている。特に未年の人間は「生贄」の意味合いが強く、そして不幸に見舞われてもそこそこ頑丈に育つことがこれまでの事例で実証されているため、未年の子は重宝される。羊に戌年の者を付けるのは相性が良すぎる牛より、相性がそこそこの方が肩入れしないだろうという考えから。





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 20150201





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