春残す

[ 坎壈かんらんの公子 ]



彩の六将軍
・赤司征十郎:姓を(せき)、名を狼司(ろうし)(あざな)を征十郎
・青峰大輝:姓を(せい)、名を虎峰(こほう)、字を大輝
・緑間真太郎:姓を(りょく)、名を蝠間(ふくかん)、字を真太郎
・紫原敦:姓を()、名を原兎(げんう)、字を敦
・黒子テツヤ:姓を(こく)、名を子蝶(しちょう)、字を嚞哉(てつや)
・黄瀬涼太:姓を(こう)、名を鳥瀬(ちょうらい)、字を涼太

彩の弟国
・降旗光樹:姓を(こう)、名を旗雲(きうん)、字を光樹
・火神大我:姓を()、名を獅神(ししん)、字を大我





 ―――さいに変あり。
 歴史書である『彩史さいし』のはじめは、その一文から始まる。変とは一般に、六人の将軍が君主に反旗を翻した「六彩氏りくさいしの変」、または「六花将りっかしょうの変」と伝わり、彩はその戦乱ののちに制定された国名であるが、それ以前の王朝など存在せぬと言うように、幾多の正史や稗史はいしを紐解こうとも、他の王朝名と思われる名称は盡く消されている。それが民間で編まれた歴史書、野史にも及んでいることから、大々的に、挙国一致で行われたようだ。その箇所は黒々とした墨で乱雑に塗り潰され、よって「彩」という字が、本義の通り、否が応でも目も綾に書の中で際立つのである。
 だがそれは傲然とも思える国威や御稜威みいつの誇示誇張による改竄ではなかった。
 ―――臣民、愧赧きたんし、名を捨つ。
 何事かを深く恥じてのことであった。彩はそれまでの歴史との永訣と雪辱を込めて、闇に葬るように過去の王朝名とその業を歴史から抹消したのである。





 彩の一つ前の王朝を、仮に前彩とするが、その前彩が倒れる十年ほど前のこと。彩北部の大都市・紅蓮こうれんの行政を一手に引き受ける官庁・通称「紅府」近くの一画に、現当主が今の留守りゅうしゅであり、また代々名士を輩出することで知られる名家・せき氏の、絢爛というより威風堂々とした邸が堅牢に構えてあった。
 季節は冬に差し掛かっており、北部ともなれば夏も涼しいままで、秋口から既に冬の様相を見せていたその地帯は、冬本番ともなればその寒さは彩のどこよりも厳しいこと間違いない。その過酷とも言える寒波を体現するように、赤氏の一族は礼に厳しく、規律に厳しいことでも有名だった。
 ある日の夕方。忍び寄る闇とともに冷たさが床から立ち上るような中で、邸の家僕達が邸内を慌ただしく小さな灯籠や肉や菜を盛った大皿を持って歩き回っている。朝廷の命を受け、北方の遊牧民族の掠奪行為を鎮圧するために家を空けていた当主の十番目の息子が、三ヶ月ぶりに帰ってきたのだ。

「父上、変わらずご壮健の様子」

 当主の前に拝跪し滔々と父に形ばかりの挨拶と成果を告げるのは、名を狼司、後にあざなを征十郎とする、数えで十四になる少年であった。当時、十代のはじめで従軍することは珍しくない。だがこの年で軍を率い、剰え野を駆け巡って狩猟を生業とする屈強な遊牧民と戦ってまったきの勝利を収めたのだから、並の子どもでないことは確かだった。





 彼の逸話として一際名高いものがある。
 ある日七歳の征十郎が、街中を供も付けず一人で歩いていた時のことだ。一人の官服を着た貧相な壮年の男が、とある露店の主に何やら苦情を喚いていた。近くに寄って聞いてみると、どうやら税が満額支払われていないと言う。店主はそんな筈ないと証書を見せるも、最近税が増額され新たな証書が発行されているが、その形式のものは以前の証書であり、さては偽造書を作り税を納めぬ気だなと官服の男が弾劾する。
 そう言われれば店主の旗色が悪い。偽造はしていないが払い忘れただろうかと店主は思うし、周りの店子や通行人もそうなのかと疑惑と冷淡な視線を送るか、あるいは自分の所にまで火の粉が飛んでくるのを恐れて顔を引っ込める。ぐぅと言葉に詰まった主を見て、官服の男は己の勝利を確信して早く税金を出せと怒鳴る。そこで二人の間に入ったのが、征十郎であった。

『その証書は本物か』

 少年特有のよく通る声で一言、二人にそう問いかけたのである。店主も官服の男も、周りの野次馬もやっと彼の存在に気づき、そして更に彼の容貌から彼が何者であるかを悟って驚嘆した。
 地平に沈む夕焼けを写し取ったようなはっとするほど鮮やかな赤髪に、同色の冴えた双眸、白磁の如き貴人の肌を纏うほうも赤を基色としており、その生地が麻ではなく絹であることは触らずとも分かることだった。そして十人に聞けば十人、美童と絶賛してやまないであろうかんばせ
 直接彼を目にしたことがなくとも、この地域でその容姿から彼が誰かを推察できぬ者は一人たりともいなかった。

『紅十郎令郎坊ちゃん…!』

 紅十郎。つまり、紅府を任された赤家の、十番目のお坊ちゃんという意味である。赤家には十人の子息がいることは周知の事実で、全員の年齢は空で言えずとも九男は既に十を超えているはずであるから、消去法で彼は十男ということになる。
 跪拝する法はないが、それでも眼前に貴族がいれば直視するのは恐れ多いと感じる庶民は多い。それでなくとも紅蓮の礼節や法律に対する厳格さは人口に膾炙しており、そこに住む人々の生活に秩序を齎していた。それを成したのが彼等赤氏の一族であることを思えば、自然と背筋が伸びるか視線と共に頭が下がってしまうのである。
 征十郎はそんな民衆の挙動にも慣れた様子で意に介さず、店主と官服の男に一瞥をやり、店主が純然たる困惑を、官服の男が恐怖とともに焦りの表情を一瞬だけ見せたのを見逃さなかった。征十郎はひとみを煌めかせつつ、静かに言葉を重ねた。十を数えぬ年なれど、書を好み、暇さえあれば種別なく読み明かすという征十郎は、既に一端いっぱしの大人ほどに口巧者であり、頭の回転はそこらの大人より速かったと噂される。

『寡聞にして税が増えたなどという話は知らぬ。証書が改められたという話も聞かぬ。それが真実ならば官庁から市井に広く通達があろう。店を持つ者がそれを知らぬというのはおかしい。まして主が持つ証書は、我が赤家の家紋が堂々たる威を持ってそれが正しいことを表しているように思うが、如何いかが

 赤家の家紋は狼を模しており、公的な文書にはその証明として家紋と同じ印が捺される。征十郎にしてみれば見間違えるはずがないし、御璽ぎょじと同様、家紋印は贋作を作っただけで叛逆罪に問われる。そうなれば主犯は楽に死ぬことはできず、財産や土地を奪われた上で一族郎党が根絶やしにされるのだ。犯して得る利益よりも、損益があまりにも大きすぎるため、これまで実行したという愚か者の話は聞かない。
 征十郎の声は自信に満ちて朗々としており、途中で詰まったり言葉を考えあぐねる素振りもない。最初から言うことは決まっているとでもいう風である。その上、双眸には七歳児とは思えぬ眼光の鋭さが灯り、向けられる方としては堪ったものではない。征十郎の言を借りれば「向けただけだ」とのことだが、それに呑まれて声を発せぬ者が確かにそこに二人いたのだ。

『して、貴君はどこの所属か』
『…っ』

 聞いておきながら、征十郎に言葉を待つ雰囲気は微塵もなかった。問われた男はそれに気づかないまま、しかし言う言葉もなく無様に口を開閉する。

『我が赤家の傘下にあって、簒奪者の如く金を出せと民に声を張る輩がいるとは誠に心外だ。さぁ、く答えるといい。…それとも』

 ここで初めて、それまでの無表情を崩して征十郎は笑ったという。整いすぎるほど整った顔を俄に綻ばせたのだ。しかし、佳人の笑みというのは時折肝胆を寒からしめるものともなる。まして。

『その官服をどこで手に入れたかを聞いた方が答えやすいか、下郎げろう

 敵と見做した輩に向けたともなれば、より凄絶なものとなったに違いない。男がそれを見て足を竦ませ逃走の動きを封じられたのもむべなるかな。そうしているうちに、市中を見回っていた武官が騒ぎを聞きつけ、男を引っ立てていった。
 七歳という年齢に対し、正鵠を射た弁論と論調、そして貫禄ある佇まいに、見ていた市民達は感嘆の溜息を吐き、翌日には紅蓮中に大凡おおよそのところが「紅十郎坊ちゃんの武勇譚」として伝播したのである。
 後にその男はさる文官の家から服を盗み、官吏のふりをして商人から金を巻き上げようとしたと白状した。どうやら未遂で、実害を被った者はいないらしい。報告にあがった市の警備を司る武官の長は、親しみの笑みを湛えながら更に征十郎に向けて労るように声をかけた。

『狼司様、あまり無理をなさいますな。いかに右文左武に聞こえたる貴殿と言えど、何かあればご家族が悲しまれまするぞ』

 末子であるということや、既に成人した長子が後継者として父の補佐についていることもあり、継嗣の観点から見れば征十郎はいてもいなくても同じである。しかし、親はどんな子どもでも自分の子となれば可愛い。悪しく見ればさかしらにさえ思える態度をとる征十郎とて、父母はもとより九人の兄達でさえ、憎むことができずにいた。
 兄弟間でも覇権を巡って血で血を洗う争いが珍しくない時代に、微笑ましいか、いっそ奇妙と囁かれるほど、赤一族は家族仲がよかったとされる。征十郎はと言えば、家族愛というものに少々冷めている部類に入るが、それでもわざわざ迷惑をかけたり殺したりする気はない。ただ、末子のさがであろうか、傲岸不遜ではあった。それを隠しおおせていると思ってできていないところが、征十郎なりの不器用な家族愛だったのかもしれない。

『…卿に案じられるまでもない』

 そう、年齢的にそろそろすらりとしてくる頃合いの頬の輪郭が、なにやら膨らんでいると感じられる程度には、征十郎も人の親を持つ、人の子だったのである。





 とは言え、それも十を迎えるまでの話。戦場の空気を知り、武勲を立てるようになったこの頃になると、さすがに表情を作ることに慣れてか滅多なことでは笑顔も見せなくなっていた。

「お前も怪我なく、息災でよかった」

 子の言葉に応えて父が返す。内心では、「あぁあの頃はまだよかったなぁ」と子煩悩な嘆きをさめざめと吐いているが、表面上では私的な会話とは言え、完璧な能吏の顔である。
 征十郎の父は子と違い、戦場の空気を知らない。生来、躰が弱かったのである。よって生涯を文官として送ることになるが、篤実な人柄や好々爺然とした風貌に、民衆の人気は高かった。当然、赤氏一族の当主に恥じぬ厳格さも持ち合わせおり、時には好々爺の仮面を捨てて罪人を取り調べ、刑の執行を命じることもある。優渥ゆうあくが人心を救おうとも、それだけでは人々の生活は守れないことを、彼はよくよく知っていたのだ。

「さて、狼司。帰ってきたばかりで悪いが、京華みやこに向かってもらいたい」
「主上に何か?」

 半拍も置かず返された言葉と真摯な瞳に、「さてこそ」と父は子を冷静に評価した。三ヶ月もの間、都市から離れ荒野を駆けていたというのに、然るべき情報は網羅していることを示す反応に息子を誇らしく思いながら、主を思い僅かに表情を曇らせた。

「…もう長くはあらせられまい」

 四半世紀に渡ってこの国を支えてきた皇帝は、数年前から病を抱えていた。それが近頃になって重篤になり、現在は政務を皇太子に委任している状態だと聞く。

「今の朝廷には倖い豪傑の忠臣が多い。だが、過半数が主上と同様、宿老の身。もう引退しても許される年齢であるゆえ、いっそ新しい風を呼びたいと皇太子はお考えのようだ。つい先日、朝廷から使者が来られて、お前を京華に呼びたいと上意が下った」
「私を、ですか」
「うむ。お前のような若く才ある者達を、今のうちから」
「自分の手の内で飼い慣らしておきたい、と」
「そうじゃ、…って、何を言わせる、狼司!」
末成りすえっこの他愛もない戯れ言ですよ、父上」
「真顔で何を言うか…」

 跳ね上がった心臓を袍の上から宥めるようにそろりそろりと撫でながら、破落戸ごろつきにも一歩も引かぬ歴戦常勝の父も、心ない者に聞かれれば不敬罪に問われかねない征十郎の物言いに「まったく…」と深い息を吐いた。

「皇太子、御直々の招請と言えば、本来なら将来を約束されたも同然と喜ぶべきところぞ」

 ぼやく父に、征十郎は「他者に導かれて得る栄達や未来など…」と言いかけて、やめた。さすがに父の心労を徒に弥増すことが躊躇われたからだ。結局、父の愚痴は聞かなかった素振りで流すに留めた。

「しかし、突然の大々的な官位官僚の改造は、諸侯の反感と混乱を招きましょう。それこそ、私達を招いた利と釣り合いがとれぬほどに」
「皇太子もそこは心得ておられる。朝廷にあって無位無官の豎子こどもを、矢庭に高官達と肩を並べる官位に迎えるなど、愚昧なことはなさらぬよ。恐らく、一度朝廷に集めたところで、各々の特性に応じて各庁に配属が命じられる。最初は無名の官吏等と共に働くことになろう。そこで期待通り功績をあげれば重用されようし、功を立てられねば、閑職に回され飼い殺されるだろう」

 何れにせよ、皇太子直々の命に征十郎が否やと言う余地はない。それでも、飼い慣らされるつもりも、飼い殺されるつもりもなかった。

「赤家の者として、そうならないように努めますよ」

 そう軽く言ってのけた征十郎に、父は哈哈ハハと満足そうに笑った。幼いながらに兄の誰より聡明で武勇に優る末っ子は、それを誰より自分自身で知っており、そして誇ることを躊躇わない。おもねることを知らず、天つ才を己が為に振るう麒麟児を、父は心底愛していた。だからこそ言うのだ。

「よいか、狼司。天下をとろうなどとは努々思うな。主上も天に選ばれたには違いないが、それでも人であることに変わりはない。そして、天下が揺れる時、それは天が変わってしまったからではなく、人が変わったから揺れるのだよ」

 その言葉を征十郎は後々痛切に、身に沁みて知ることになるが、…それにはまだ、十年の歳月が必要となる。





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 20130313





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