妖綺譚
朝の
それでも、春という季節はただそれだけで優しい。それを信じて疑わない少年――黒子は、丁度信号待ちのために小さな交差点で立ち止まったことをいいことに、歩道に植えられた咲きかけの桜を穏やかに見上げた。その微かに伸ばされた黒子の首筋を、不意に冷えた風がそっと撫でていった。思わず風が通って行った箇所に手をやる。と、ひやりとした肌と一緒にまだ固いままの詰襟に軽く触れた。その固さと表面の布の真新しい手触りに促されるように、まだ何の汚れも皺もない学ランや強ばりのある鞄、白い運動靴を見下ろして黒子は薄く微笑む。
今日から、中学生か。
私服であった小学校と比べて、規定の服を着るというのはやはり気持ちの上で背筋が伸びる気がした。自然、胸を張る姿勢となる。その姿は自分にとってあまり経験のないことで、少し気恥ずかしい。
みんなは、僕以上に似合ってるんでしょうね。
どこかまだ容貌や雰囲気が小学生から抜けて出ておらず、制服に着られている感が抜け切らない黒子だが、彼の友人達は既に中学生然として、良い風に言えば風格があった。口悪く言えば、ただ身長が高い。
みんな既に160後半から170とか、意味が分からないですよ。
未だ150半ばの黒子は羨むように心の中でむくれる。これから伸びるだろうことは分かるけれど、会う度に寝不足の顔で「成長痛で寝られなくて」と聞くと、どうも持っているバスケットボールを顔面にぶつけたくなる。それが嫌味でもなく真実なのだろうと察せられることが、黒子の中では嫌味に他ならなかった。
僕だって、と内心密かに闘志を燃やす黒子。その彼の直ぐ傍で。
「赤に、なっちゃったね」
声が、した。それは涼やかな、例えるなら夏に聴く風鈴の、ちりんと空気をさく澄んだ音。だがどこか秋風の冷たさも持ち合わせたような、そんな、声。
それは紛れもなく黒子の隣から聞こえ、そしてそれは紛れもなく、黒子に向けられた声だった。
「……え?」
それが自分の知る、今思い描いていた誰かだったのなら、黒子はこうも驚かなかったし、常の無表情をかなぐり捨てて目を見開き、呆然とした表情で隣を見ることはなかった。自分の薄い青とは違う、まるで反発するような鮮やかな赤に、目を奪われることはなかっただろう。
「青になった時、声をかけようかとも思ったんだけどね、あまりにも真剣に考え事してたから、気が引けて」
淡々と言葉を零す彼。その彼を見る視界の端で樹々が大きく揺れていた。葉が散り散りに舞っている。あぁ風が吹いているのだろう。自分の髪も靡いているのだろうか。分からない。聞こえない。感じない。全ての感覚が、ただ赤に向いて。
その赤に抗えない。その赤からどうやって視線を剥がせばいいか分からない。まるで金縛りにあったよう、指を微かに動かすことすら、今の自分にはできそうになかった。
この人は、誰だ?
白磁の肌、眼鏡の向こうに見える両目は違う色、同じ制服、大人びた容貌、少年の顔をしながら浮世離れした雰囲気の彼は。
…人、だろうか。
「でも、ほら」
す、と彼の細く綺麗な指が不意に信号機を指す。ただそれだけで、視線はいとも簡単にそちらに向いた。頭の中で何を考えていようが関係なく、自分が何をしたいのかも関係なく、彼は自在に自分を操れるのではないかと錯覚しそうなほど、それは鮮やかだった。
目の前で、信号が色を変える。
「また青になったよ」
赤から、青へ。
彼は立ち尽くす黒子の横を、今度こそ通り抜けていった。遠ざかる彼。振り向きもしない。その背中は義務は果たしたと言いたげで、いややはり黒子など気にもかけていないのだろう。足取りは緩やかで、優雅とも言える。背筋の伸びた姿がどこまでも美しい。自分より5、6センチ高いくらいの身長だろうに、その姿は誰よりも気高い気がした。
だが、そんな彼の見た目よりも、自分は。
「…なん、だったんだ…」
黒子は呟く。その様子は愕然として、足は竦んだように前に進まない。手が小刻みに震えていた。風が、さっきよりも冷たい気がした。
今自分は、何に出会ったのだろう。出会ってはいけない人に出会ってしまった。そんな、気がする。
怖い、恐い、違う、これは。
―――畏怖。
自分よりも強い相手に抱く敬服にさえ似た恐怖。
何に、誰に、自分は―――彼、は。
「僕を、見つけた…?」
青の影である、僕、を?
口元を手で覆う。そうでなければ叫びだしてしまいそうだった。恐怖に、歓喜に、ごちゃごちゃになった感情に、飲まれて。
そうして、目の前で信号がまた赤になる。
青から赤に。赤、に。
赤―――あか。
あぁ、彼の。
鮮烈な、赤に。
入学式というものに対し、黒子は常に清楚というイメージを持っていた。それぞれ校風や敷地、制服に合った見栄えというものは考慮されるにしても、粛々とした式の進行、新しいものが始まる緊張と期待、それを胸に秘める新しい制服に身を包んだ新入生が集う入学式は、まさに清く楚々として好ましい。
そのような場で。
「おい、黄瀬、オマエどこの組?」
黄色い髪に絡むガキ大将と言うよりヤンキー風情な青髪色黒の青峰。
「えー、オレはぁ」
入学式早々ピアスをつけて「校則なにそれおいしいの?」状態な黄瀬。
「峰ちん前向きなよー行儀わるいー」
170を超えた大柄な躰を縮こまらせることなく背もたれに投げ出している紫原。
「そう言うお前もポケットに手を突っ込んでいるのだよ…」
注意するものの手に持つグッズがどう見てもおは朝のラッキーアイテムで且つ校則違反ですありがとうございましたな緑間。
「…………」
こんな騒音と校則違反が、許されていいはずが、ない。
「あ、テツ、オマエは」
「うるさいです静かにしてください恥ずかしい舌抜きますよここで」
さすがの黒子も、一言言わずにはおれなかった。
予定通り入学式が終わり、クラスでの終礼も終えての帰り道。色取り取りの髪が横一列に並ぶ彼等は、身長が高いことも相まって少しだけ目立っていた。
その視線ももう慣れたものだと、彼等は気にする素振りさえない。五人がそれぞれに好き勝手喋っていた。
「て言うかオマエ怖いわー、テツ怖いわー」
「あの時は一瞬閻魔様が降臨したかと思ってビビったっス…!」
「…閻魔は地獄にいるのだから降臨したらおかしいのだよ」
「「え? どこが?」」
きょとん、とする青峰と黄瀬。指摘した緑間は愕然とし、紫原は我関せずと棒つきの飴を舐めていた。黒子はそんな彼等に少しだけ笑んで、ふと考えこむ様子を見せた。気づいたのは、隣を歩く紫原。
「どしたの、黒ちん。さっそくいじめられた?」
「…まるで嘗ていじめにあっていたかのように言うのやめてください。それに違いますよ。まぁさっそく驚かれはしましたけど」
「あぁ、そういやテツだけ誰とも組被らなかったんだよな」
「オレと紫原っち、青峰っちと緑間っちかー」
「誰も黒子をフォローする者がいないのだよ」
「まぁフォローしても見えない人には見えないんだけどねー」
「人を幽霊みたいに言わないでください…、ってそうじゃなくてですね」
話がどんどん逸れていく。それはこのメンバーでは珍しくないのだが、今回は少しみんなにも聞いてもらおうと黒子は軌道修正に取り掛かった。
「気になる人がいまして、それで」
と言ったところで、四人の足音が綺麗に途絶えた。数歩進んでそれに気づいた黒子が振り返ってみれば、みんな一様に、常では自分とはるほど無表情を崩さない紫原でさえ、どこか唖然とした表情を見せていた。
「あの、みなさん?」
「………え、何、いきなり入学一日目で一目惚れ?」
「は?」
「わぁ、どんな人っスか!? 綺麗な人? 可愛い人?」
「…まぁ今日の水瓶座は第三位だったからな、何が起きてもおかしくはないのだよ」
「応援してるよ、がんばれー黒ちん」
…こうも的外れだと、いっそ清々しいな。
遠い目をしながら黒子は思い、しかし自分の言い方も勘違いできる言葉であっただけに強く言えない。この年で「気になる人」と言えば、確かにいの一番に思い浮かぶのは「好意を抱く人」だろう。自分には縁遠い言葉だと思っていたが、四人にしてみれば自分にもその可能性があると思われているだけ人としてマシなのかも…、と自虐的に思いつつ黒子は心を鎮めた。一呼吸。
「違います。登校中、僕に声をかけてきた人がいたんです」
今度こそ一息で言い、よってその意図は充分四人に伝わったようだった。効果も、抜群だった。
途端、空気が凍ったように、止まったのだ。痛いほどの沈黙だった。それがどうしたと茶化す者はここにはいない。それがありえないことだと知っているからだ。
「…どんな、奴だった」
青峰が口を開く。重々しい声だ。滅多なことでは聞けない、彼の慎重な声。
「中性的で大人びた風貌、眼鏡を掛けてますが、恐らく伊達でしょう。両目の色が違いましたから、それを隠すためかもしれません。静かな声に、髪は、」
一瞬、目を伏せて思い返す。瞼の裏。黒はそこにない。あるのはただ、鮮やかな。
「赤」