⑨cry baby:可愛くて大好きな人

注:赤降が大学生になっており、また二人が都内で同居している設定。


 少し前から、光樹の様子がどうもおかしかった。表情も態度も硬く、会話はブツ切りで、何か思いつめているのか、雰囲気がささくれ立っている状態が続いていた。有り体に言うと、すこぶる機嫌が悪かった。心配で何度か声をかけたが、光樹は素っ気なくなんでもないと返すばかり。だからそういう時もあるのだろうと、僕の知らない光樹の生活範囲で、例えば大学やバイト先などで嫌なことでもあったのだろうと、あまり踏み込まずにいた。もう互いに大学生だし、堂々と飲酒もできる年齢だ。自分のことは自分で解決するだろうと。
 しかし今回は、今夜は、そう寛容に考えることはできなかった。

「光樹」

 深夜近くに帰ってきた光樹は、まだ起きてリビングにいた僕の姿を認めると、ただいま、と小さくぶっきら棒に言って傍を通り過ぎようとした。普段ならそこでおかえりと返してあげるのだけど。

「…何すんの」

 この晩、僕はそうせず、光樹の腕を掴んで引き止めた。光樹は即座に掴む腕を振り払おうとしたが、更に力を込めることで許さない。その鋭い痛みか、それとも常にない乱暴なやり方に不快感を募らせたのか、険の篭った目付きで睨まれた。
 当然、いつもはこうじゃない。喧嘩の強さからはかけ離れて穏やかな彼らしくない素振りに、最近の彼はやはり何かおかしいようだと思いながら、例えそうでも今はその心情を斟酌してやることはできそうになかった。

「誰と、遊んできたの?」

 にこりと笑んで、そう問う。光樹は倦怠と胡乱が混ざった瞳で僕を見た。冷めきった眼だ。飲んでくると一言言って出かけていった割に飲まなかったのか、それとも酔えなかったのか。どちらにせよ、口元で笑いながら目が笑えていない僕の気持ちを逆撫でる。あぁもしかしたら、飲みにさえ行っていないのかもしれない。まったく、―――苛々、する。

「…友達と」

 と、言葉少なに応えて離せと言いたげに腕を引く光樹を、けれどまだ離してやらない。どころか、また指に力を入れる。声にも分かりやすく棘が生えた。

「君の交友関係を全ては知らないけど、あまり趣味がよくないみたいだね」
「なんだよ…」

 敏感に僕の悪意を拾って眉を顰めた光樹は、次の言葉にその眉間に入れていた力を抜いて驚いた顔をした。

「こんな一二時間傍にいただけで他人に匂いが移るほど香水を振りかける女を侍らすなんて―――ね」

 通りがかり、光樹から漂い鼻を突いた匂い。芳香と言うより、少しばかりどぎついそれは、甘ったるい女性物の香水だった。あまり好きじゃないからと、香水を持つこともない光樹からそんな匂いがして気づかないわけがない。

(…苛々する)

 こんな人工的な匂い、光樹には欠片も似合わないのに。

「誘われた? それとも誘ったの?」
「ッ…」
「酔ってないみたいだけど、本当に飲みに行った? 本当はどこに行ってたの?」
「ちょ、何言って…」
「ねぇ、光樹」

 ギリ、と一層掴む力を込める。痛みに顔を歪ませた光樹をじっと見ながら。

「よく、女の匂い付けて僕の所に帰ってこられたね」

 微笑む―――微笑んだ。腹に渦巻く悪意と、名状しがたい黒い感情を滲ませて、それでも、優しく。それに対し、光樹は。

「なん、でっ、俺が怒られんの…っ?」

 くしゃりと今にも泣きそうな、それでいて怒ったような顔で、そう言った。それまで硬く固まっていた表情が崩れたことにどこか心の片隅で安堵しつつ、しかし別の意味で戸惑った。

(…なんで、って…)

 逆に言えば、なんで怒られないと思うんだろう。普通、自分の恋人から他の人間との関係を匂わせる何かを見つければ、恋人という立場から当然怒るだろうし、そうしても許されるはずだ。不貞を働いたのだから。

(なんだ? やっぱり酔ってるのか?)

 光樹らしくない、些か的外れな言葉にそう勘繰るも、しかし今の光樹を支配しているのは酔いではなく怒りのように思えた。どういうことだと頭を悩ませていると。

「お前だって、この前の飲み会で香水の匂いベッタリ付けて帰ってきたくせに!」

 光樹は僕の掴む手を無理矢理振り解いて怒鳴った。突きつけるような言い方で、どこか夫の不倫を詰る妻のよう。しかし。

「僕が…?」

 僕に心当たりはなく、なんのことだと首を傾げる。僕は滅多に飲みに出かけず、出ても付き合い程度に飲んで早々に帰宅することにしている。また酒の席での付き合いなど上っ面もいいところで、だから今後の人生に影響するほどの会話や対象でなければ僕が飲み会などというものを仔細に覚えていることはない。そりゃ、人の弱みを握るのに最適な場所ではあるけれど。

(最近飲みに行ったっけ…行ったとして部活の集まりとかだし、中学、高校の集まりもバスケ関係しか行かないから、女性なんて見ることすら稀なんだが…)

 はてさて、と思い悩む僕に。

「先週! なんか、同期と集まるとか言って、遅くに帰ってきたろ!?」

 つんけんした声で光樹は言葉を重ねて思い出せと迫り、そしてそれは功を奏した。

「あぁ…」

 不意に、あれか、と思い出す。確かに光樹の言う通り、一週間前の今日、僕も今晩の光樹のように飲み会があって午前近くに帰ってきたのだった。

香水の匂いをベッタリ付けて﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅、ね)

 そう、確かにその通りで、即座に思い出せなかったのは、女性というキーワードとその飲み会とがイコールで繋がらなかったからだ。―――しかし。

(…思い出してしまった)

 こめかみ付近がずきりと痛い。胸の辺りもムカムカする。あぁ、まったく。

(思い出したくなかったのに…)

 そんな僕の内面に光樹が気づくはずもなく、思い至った素振りを見せた僕に更に怒りを募らせて言葉を続けた。

「お前普段はガード堅いから、酔ってなきゃ女の子なんて傍に寄らないだろうし、だから強かに酔っててその隙に女の子が寄ってきちゃったんならいいかと思ったけど、でも帰ってきたお前、全然素面だったしさぁ…!」
「公衆の面前で自分を見失うような醜態を僕が晒すわけないだろ」

 と言うかあの晩は…、と続ける前にまたもや光樹が口を挟む。怒りのあまり、対話するという考えが吹っ飛んでいるらしい。最後まで言えなかったせいで、僕の言葉はただ光樹の内に燃える火にくべられた薪の役割を果たし、余計に光樹の怒りを煽っただけになってしまった。

「そうだよ、分かってるよっ、お前がそういう奴だって! でも、だったら、酔ってもないのに女の子の香水が移るくらいの距離にいたってことじゃん!」
「…光樹」

 激高する光樹の口調に徐々に悲痛な色が混じる。双眸には哀しみが過り、声や表情から窺える怒りがほろりと薄れて。

「―――俺が、いんのに…!」

  ぽろ…

 僕を睨む瞳から、とうとう涙が溢れ出す。堰を切ったように、次々と。

「お、俺があん時、どんなっ、想いしたか…ッ」

 喉を詰まらせてそう零した光樹は、耐えるように堪えるように、服の裾をぎゅっと握った。

「お前が、浮気したとは思わねぇよ…ッ、違うって分かってる、けどっ、やっぱ嫌だったよ…!」

 嗚咽を漏らす光樹に罪悪感が滲む心を持て余す一方で、だからか、と冷静に思う。実は光樹と同居するにあたり、双方の親には、

『高校の時に意気投合し、お互いが近くの大学に通うことになったため、気心知れた互いと共に協力しながら自活することの困難と、それに打ち勝つ術を学びたい』

 とかなんとか、尤もらしいことを言ってある。流石にダイレクトに「自分達は付き合ってて、傍にいたいから一緒に住みたい」とは言えないと光樹が言ったからで、その手前、当然ベッドは僕と光樹の部屋に一つずつある。まぁ専ら一つのベッドで寝ているわけだが、この一週間、光樹は風呂に入って早々自室に篭り、僕と一緒に寝ることはなかった。

(一人で寝ながら、恋人への無配慮な僕の振る舞いに対する嫌悪と哀しみに、この一週間戦っていたわけか)

 光樹の言葉と涙に自然と胸が痛む。僕自身、本当に光樹が浮気したと思ったわけじゃなかった。光樹から与えられる好きを疑ったことはない。ただ最近の光樹の行動と合わさって、香水の匂いはあまりにタイミングが悪すぎた。近頃自分は光樹の傍にいられてなかったのに、匂いが移るほど、それだけ知らない女が光樹の傍にいたかと思うと堪らなかった。だから詰るように厳しい言葉を投げつけてしまったけれど。

(じゃあ、この会話の流れと光樹の性格から言って、あの香水の匂いは…)

 まさか、という思いが頭を過った時。

「…だから、ちょっとした仕返しに、俺も香水かけてみただけじゃん…っ」

 彼女いる友達に、彼女が部屋に忘れてったっていう香水借りてさ、お前を懲らしめようとしただけなのに…――。

「…なのに、女の匂い付けて、とか、…お前が、言うの…?」

 ひくりと喉を鳴らして今だ涙を流す光樹に、なるほどね、とまた一つ合点がいって溜息を吐く。まったく光樹は変な所で色々と屈折してるな、と思いつつ。

「仕返しを思いつく前に、今日みたいに僕を追求する方を思いついて欲しかったよ」

 そうだったら、こんな誤解に誤解を重ねるような、ややこしいことにはならなかったのに。

「…どういう、こと…」

 涙を浮かべたままじろりと睨む光樹に。

「弁解すると、実はあの日の飲み会はキセキの世代の集まりで、気心知れた仲間だけということもあって無礼講だったんだよ。それでテツヤが飲み会を盛り上げるためにって最初にみんなに籤を引かせたんだ。当たりなしの、ハズレクジの寄せ集めをね」

 途端、光樹の顔が微妙に歪む。そうだろう、あのさり気にSなテツヤが組み合わせた籤だ、碌なものがないのは簡単に想像がつく。

「それは飲み会中、みんなが何の芸をするかを決める籤だったんだが――まぁみんなが何に当たったのかは言わないでおくよ、可哀想だからね――それで僕は女装することになった」

 声が途切れた。さっきまでのやりとりを思えば、静かすぎて耳に痛い。視線の先、光樹の瞳がゆっくりとまぁるくなって、信じられないと言うように表情に困惑の色が差す。

「…お前が…女装…?」
「それでもまだマシな方だったんだよ、他のみんなを思えば、だけど。服はもとより、以前の君と同じくウィッグなんかも用意されててね、流石に化粧はしないで済んだけど」

 あの強烈な記憶を忘れていたのは、殆どはそのせいだ。

(あんな馬鹿馬鹿しい記憶は消去したかったからな。別に今後、あれが役に立つわけでもなし)

 だが当然それだけでは光樹も納得しない。唖然とした顔を直ぐ様不機嫌に戻して、僕をじとりと睨めつけた。

「嘘っ…」
「まぁ、言葉ではなんとでも言えるからね」

 そう思われるのも仕方ないか、とごそごそとポケットから携帯を出して操作し、光樹に向ける。

「僕も嘘だと思いたいんだ、悪い夢だってね。でも残念なことに、こうしてちゃんと残ってるんだよ」

 ほら、と向けた画面には、写真が一枚映し出されていた。そう、先週の飲み会での、僕が女装している場面を撮ったもので、ちゃんと管理画面には日付と時間が記録されている。光樹はそれを見た瞬間、ぽかんと口を開けた。

「……これ、赤司…?」
「そう。可愛いだろ」
「…うん、めっちゃ可愛い、美少女…でも目付き怖い…」

 僕としては睨むでもなくただ静かに視線を向けたつもりだったが、嬉々として何枚も撮ってやるとカメラを向けていた涼太がその僕の目を見て一枚だけしか撮らなかったのは、事実だ。まぁ、それも当然だろう。

「好き好んで女装したわけじゃないからね、そりゃあ機嫌も悪くなる。しかも有難迷惑にも匂いのきつい香水も用意されててね、それをちゃんとした付け方も知らずまるで湯水の如く吹きかける馬鹿がいて、まぁ大輝なんだが、自分が動く度に匂いが鼻につくから最早悪臭だよ。だから匂いが混じって碌に食事も喉を通らないし、酒を飲む気にさえなれなかった」
「え、じゃあ香水って、その時に…」

 こくりと頷く。光樹に言われるまで香水のことを忘れていのは、帰ってくる頃には匂いに慣れすぎて、と言うより、嗅覚が麻痺したのだろう。それほど、咽返るような匂いだった。

「そんなわけで散々な目に遭ったと思ってたら、まさか光樹に誤解されてたなんてね、女装させられたことと香水のことも合わせて三重苦だよ」
「う…」

 辟易した僕の声に口籠る光樹。ちらりと見遣れば気まずそうな顔をして、既に涙の引っ込んだ瞳を懸命に僕から逸らしていた。どうやら誤解は解けたらしい。自然と厳しくなっていた表情が、和ぐ。

「でも、君を不安にさせて傷つけ、それに気づかなかったのは僕の落ち度だ。ごめん」
「赤司…」

 さきの不安と哀しみを思い出してか、光樹の瞳がまた潤む。零れそうになる。泣き虫だな、と今度は柔らかく微笑んで、唇で雫を掬った。ぱちぱちと瞬いたせいで、睫毛がくすぐったい。離れようとした時、きゅ、と服を引っ張られた感覚。何?、と俯くと、数センチの差がなくなった。

「…お、俺も変なことした…ごめん…」

 唇が離れていって、聞こえた小さな声。頬は赤く、視線は目一杯逸らされて、それはとてもとても可愛いのだが。

  ふわり…

 鼻孔を擽る香り。こればかりは―――頂けない。

「赤司…?」

 言葉が返ってこないことに不安に思ったのか、無垢に見上げてきた光樹はきっと一週間前の僕だ。何も気づいてやしない。その匂いに、例え事情があろうと、相手がどう思っているのかなんて。

(だから)

 ほんの少し、意地悪をしてみたくなった。

「光樹」
「ん?」
「君の場合は本当に浮気じゃないか、確かめないとね」
「…え?」

 すっといつものように光樹の服に手をかける。あぁボタンでちょっと面倒だな、と思いながらぷちぷちと三つ四つと外していくと、しばし突然のことに固まっていた光樹が動き出した。

「って何、なんで脱がす!?」

 慌ててシャツを掻き合せる光樹を壁に追い込み、両腕を付いて閉じ込める。待て待て待て!、と言うように首を振る光樹だけど、聞いてはやらない。

「だって僕には証拠があるけど、君には証拠がないだろう?」
「とっ、友達に連絡すれば…!」
「君の味方をするに決まってるじゃないか。そんな人間の言葉を信じるより、だから直接僕がその浮気を疑ってかかって信憑性を確かめる方が、君と僕のこれからのためだとは思わない?」
「だから浮気してないって、てかお前分かって、ぅひゃっ」
「それを今から僕が手ずから確認してあげるんじゃないか」
「止めろって、んっ…ばか…ッ」

 このまま流されてしまえばなんだかヤバイ―――光樹の真っ赤になった顔からその危機感がありありと窺える。さぁどう出るかな?、と首筋に舌を這わせていたら、光樹が僕の肩に手をついて距離を取り、そして。

「お、俺のこと、信じないの!?」

 俺は信じてたよ!?、と、最後の手段とでも言うように上目遣いでそう言う光樹は、抵抗して乱れた息や僕に乱された服、紅潮した頬も相まって非常に可愛らしかったのだけど。

「僕を騙そうとした前科があるからね」

 と優しく微笑んで素気なく却下。青褪める光樹の額に宥めるようなキスをして。

「さぁ、じっくり調べてあげるから」

 一週間分、ね? ―――と、裁定を下した後、長い長い夜が始まった。





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 20121025





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