made in SEIRIN -夏祭り編-

[ 青鈍あおにびに月 ]



 夏になった。外を歩けば一分もしないで汗が滲んでくたくたになる。あちぃ、と熱に浮かされてぼんやりした頭で思い、ついで、ヒートアイランド現象、なんて単語がぽつりと夏空の雲のように頭の中に浮かんだ。
 気づけば期末試験が終わり夏休みが始まって、同時に部活中心の生活が始まった。覚悟してたし分かっていたことだが、ほぼ一日中バスケに時間を費やすと運動量が物凄いことになる。座って授業するよりバスケしたい、だなんて、授業中思っていた自分の甘さに打ちのめされるし、ついていかない躰にも苛々する。なんてことないって感じで体育館を駆け回りボールを追う先輩達や火神を見るのは、ちょっと辛いものがあったし。
 暑さが全てのマイナスの感情を煽った。暑い。鬱陶しい。太陽にも夏休みがあればいいのに、なんて思ったりして。
 だから部活の帰り道、〈夏祭り〉と流れるような書体で書かれたのぼりを見た瞬間、なんだか閃いたように「これだ」と思った。気分転換がしたくて、ちょっと休みたい頃だった。基本学校の都合で日曜は休みだけど、そうじゃなくて、みんなで騒ぎながら遊びたかった。一人部屋で沈んでるんじゃなくて、祭りの雰囲気に呑まれて溺れたかった。それに祭りは土曜の晩だし、部活が終わった後、その足で祭りを楽しめばいいやと考えた。
 早速明日にでもみんな誘ってみようかな、なんて思っていると、その晩にメールが回ってきた。黒子からだった。遅くにすまないと、黒子らしい几帳面な文章が最初にあって、その後に。

『学校の近くに神社があるのを知ってますか? そこで来週の土曜日の晩、お祭りがあるようなのですが、火神君がそれを知って「行きたい」と言い出したんです。しかも、知ってる人達を全員呼ぼうと無差別にメールを送ったらしく、最終的に青峰君や緑間君、そして赤司君が集まることになったそうです。黄瀬君はお仕事があって無理で、流石に紫原君は来られないみたいですが。誠凛の皆さんには会って直接話そうと思っていたらしいですが、こういうことは早めに言った方がいいと、僕が皆さんへの連絡役を引き受けました。降旗君も行きませんか。今のところ皆さんの返事待ちですが、みんなが無理でも僕や火神君がいますし、赤司君もいるので気不味いということはないと思いますよ』

 思いがけない文面に、へぇ、と驚く。

「…赤司も、来るんだ」

 思えばここ数カ月は互いに試験やら試合やらで赤司が来ることはなく、メールはするものの電話は滞りがちだった。部活から帰ってくると即行で眠ってしまい、着信があっても気づかなくて朝起きてメールで謝る、というのが最近の流れだった。

「やっぱ、そろそろ会いたい、かな」

 言って、自分で照れて、楽しみにしてると黒子に了解のメールを送った。その後しばらくベッドに寝っ転がって天井を見つめていたけれど、もそりと起き上がって壁にかかってあるカレンダーの祭りがある日に赤ペンで花丸を描く。堪え切れず、にっと笑った。
 夏もいいとこあんじゃんと、現金に思ったりして。





 それは、金曜日の晩にかかってきた電話でのことだ。

「…何? 祭りに行けない?」

 普段は寮の規則があるからと、規則を把握する赤司が電話をかけ、家にいる降旗がそれを待つ、と言うのが彼等二人の間にあった暗黙のルールだった。
 だがその日は違い、降旗が赤司に電話をかけてきた。運良く入浴から帰ってきた所で着信を知らせる音と光の明滅、そして表示されている降旗の名前に何かあったのだろうかと出てみると、突然の電話を詫びた後、明日の夏祭りに一緒に行けないと言い出した。怪訝に返せば、慌てて降旗が言い直す。

『いや、祭りには行くんだ。多分、近くには。ただ、一緒に夜店とか回ったりはできないってことで…』
「どうして」

 無意識に口調がきつくなる。確かに赤司を祭りに誘ったのは火神だし、返事を先送りにしていたところに他のメンバーも集まると聞かされたから行く気になった。
 丁度一度は東京に帰るつもりだったしと、まぁ色々な打算があったわけだが、何よりも赤司を祭りに駆り立てたのは「降旗に会える」という一念だった。それが行く前に崩されては、表情も声も硬くなる。
 降旗もそれに気づいて、電話の向こうで困った顔をした気配が伝わった。

『や、あの…ついさっき中学の友達からいきなり電話もらってさ、夏祭りの夜に相談したいことがあるって言われちゃって…その日じゃなきゃ駄目なのかって聞いたら、駄目なんだって。絶対その日じゃなくちゃって、頼むからって拝み倒されちゃって…中学時代つるんでたから、断りきれなくって、さ…』

 ごめん、と最後に降旗は言った。沈黙が二人の間を行き来する。降旗は赤司の言葉を待って、赤司は降旗の言葉を脳裏で反芻していた。
 数分にも感じられた無音の後、赤司は小さく溜息を吐いた。

「…分かったよ。君がお人好しなのは、今に始まったことじゃないしね」
『ん…』
「でも、日曜日は僕のために予定を空けておくように。折角そっちに行くんだ。君の顔を見ずに京都に帰る、なんてことにはしたくない」
『それは大丈夫だよ。俺も赤司に会いたいし』

 なんて可愛いことを言う恋人に笑って、じゃあもう遅いからと電話越しにキスをしておやすみと囁く。同じようにおやすみと返されて切れた携帯を机に置く。
 ふぅ、と小さく息を零して椅子に座り、背凭れに背中をぐたりと預ける。一緒に行けないというのは物足りないが会えないわけじゃない。言い聞かせるように思う。―――それでも、まぁ。

「妬けるけどね」

 確かにその人の良さも、好きなのだけど。





 囃子はやしの声が遠くに聞こえる。神社に設置されたやぐらで狂言か能でも披露しているのだろうか。提灯の赤が橙の沈んだ淡藍の空の下で道を作る。
 人に押し流されるように歩いて、歩いて、歩いた。手を引く友人の背を見て、周りを見て、屋台を見て、また友人の背を見る。時折転びそうになるのを堪えて進んだ。子連れの親が、中学生の子等が、手を繋いだカップルが、自分達の横を過ぎ去っていく。
 …あれ?
 そこで気づいた。いつの間にか人の流れに逆行している。祭りの中心に近づいていたはずなのに、その中心点を通りすぎて祭りから離れて行ってるのだ、と。
 なぁどこまで行くんだと友人に声をかけても周りの音に掻き消されてか届いていないようで、反応せず振り返りもしない。何度かそれを繰り返した後、まぁいいやと諦めて引かれる手を信用して上を見る。空を見て、月を見つけた。真白の月。薄墨になりきらない空の、紺に映える。
 それを見ながらぼんやりと考えた。今頃はとっくに集合時間を過ぎて、もう歩き出しているだろう。いくつか夜店を冷やかし、射的なんかで青峰や火神が遊んだりしてるだろうか。それを周りの奴等は放っておこうと言ったり頑張れと応援したりしているだろうか。自分もいたはずの光景を思い描いて、なんだか寂しくなった。
 気分転換になるはずだった今日。それでも選んだのは友達。今も大切だが、昔も大切にしたかった。間違ってないよな、と誰に問うでもなく思っていると。

「……降旗」

 考えごとをしていたせいで気づくのが遅れ、ようやっと立ち止まった友人の背につんのめりそうになるのを足を踏みしめて回避する。
 辺りを見渡せばどこか拓けた場所だった。神社から離れた所で、それでも祭りの音は聞こえるが、目と鼻の先とはいかないらしい。提灯もここまでは渡されていないらしく、近くに街灯が一柱あるばかりで、これから夜になることを考えればあまりにも心許ない場所だった。

「え、ここで話すの? 暗すぎねぇ?」

 些かの不安を覚えてもっと別の場所をと言いかけた時。

「…ごめんな」

 そんなことを、言う。なんで、と問いたかった。何を謝るのか。ここに連れてきたことか。予定をキャンセルさせたことか。
 分からず、きょとんとして背を向けたままの友人を見る。肩が震えていた。手がぎゅっと握られて。
 怯えてるのか。顔を見ずとも何故かそう感じて、その直後、視界に蠢く影を見つけた。幾つも、幾つも。――…あぁ。

「……うん、いいよ」

 責める気にはなれなかった。咎める気にも、なれなかった。見えてないことが分かっていた。友人は相変わらず背を向けている。だからこれはただの強がりだ。独り善がりの、安心しろ、大丈夫だと言う、伝わらない励ましだ。その程度にしか、口元にある微笑に意味はない。

「俺はぜってぇ、負けないから」

 耳障りなときの声がその言葉に返る。丁度その時、花火が打ち上がって夜空を照らした。





「た~まや~」

 見上げて火神が嬉しそうに言う。凄いな!、とワクワクする顔は幼く、それはよかったですね、と黒子も穏やかに応えた。

「つーかてめぇ、買いすぎだろ」

 青峰が目を眇めて火神の腕に盛られた食料や腕に吊るされた綿菓子の袋、手に持ったカキ氷にリンゴ飴を順繰りに見て、その量と取り合わせに気持ち悪そうに顔を歪めた。

「なに祭り満喫してんだよ。餓鬼か、黄瀬か」
「い、いいじゃねぇか! こっちは部活帰りで腹減ってんだよ! それに祭りは久しぶりだし…」

 恥じるように言って、その直後ハッとしたかと思うと、何を勘違いしたか「これは渡さねぇぞ!」と青峰の視界から食料を隠そうと躍起になる火神。青峰はその行動を正確に理解して「いらねぇよ!」と叫び、火神が「だったら見んじゃねぇよ!」と応戦し、と騒がしくなり始めて、黒子や緑間や赤司は構うことなく放って先に行く。

「花火も上がるんだね、今日は」
「えぇ、毎年そうみたいです。小さなお祭りですが、粋ですね」
「あの騒音さえなければな」
「今日が祭りでよかったよ。花火の音や集まった人達が出す音で、あの二人の声も紛れるからね。お前達も何かストレスが溜まってて叫びたいなら、今のうちだよ」
「あの二人と一緒にしないでください」
「屈辱なのだよ」

 無表情の中にムスッとした雰囲気を漂わせる黒子と、くいっと眼鏡のブリッジを上げた緑間。確かに嫌かもなと、まだ言い合う二人を肩越しに見て、視線を前に戻した時、後少しで夜店も提灯も途切れることに気がついた。

「ここらで屋台は回り尽くした、ということかな」
「…会えませんでしたね」
「ん?」
「降旗君にです。どこかで擦れ違うかもと探してはいたんですけど」

 あぁ、と気のない風に返したが、赤司も赤司で降旗がいないかと祭りの雰囲気と青峰達の衝突を楽しみつつも探しながら歩いていた。

「まぁ、祭りの近くにいるとは聞いたけど、詳しいことは聞いてないし、もしかしたら場所を変えたのかもしれない。どちらにせよ途中で合流する気ならメールの一つでも寄越してくるさ」

 と軽く返して、そうだ、と手を打つ。

「あの火神の食料の量は立ちながらでは不安定だし、どこかに腰を落ち着けて食べさせよう」
「そうですね…今から神社まで戻るのは遠過ぎますし、それにあの量を持って人の流れに逆らうのは危険です。いっそこのまま進んでみますか」
「それがいいだろうな。取り敢えず人混みから遠ざかる意味でも」

 じゃあそうしようと、いつまでも飽きずに口喧嘩していた二人を赤司が窘め、先へとゆったりと進む。
 だが進めば進むほど人は姿を消し、街灯も少なくなっていく。腰を下ろす場所も見た限りないな、と、数分歩いて赤司は結論を出した。

「何かあればと思ったんだが、驚くほど何もないな」
「期待外れでしたね」
「こうも暗くてはかえって危ないのだよ。さっきの屋台の区切りで立って食べた方が…」

 いいのでは、と緑間が言おうとした、その時。

「…なんか、聞こえねぇ?」

 火神が突然そう言い出した。みんなが怪訝な顔をして押し黙る中、青峰が反応する。

「なんだぁ? 幽霊か?」
「幽霊? さぁ、分かんねぇけど、なんか呻き声みてぇのが聞こえた気が…」
「…夏だからってそんなこと言うのやめてください」
「まぁ動物の方が人間よりそういった音を拾いやすいらしいから、しょうがないのだよ」
「俺は動物じゃねー」

 火神の気のせいではと訝しむ三人に、火神もそれならそれでいいんだけどと引き下がろうとしたが。

「でも、確かに聞こえたね」

 と赤司が割り込めば、話が違う。耳を澄ます様に他の四人は息を潜めた。
 そのままで、少し。赤司が突然歩き出した。向かう先は祭りの明るさから遠ざかる闇の闇。既に夜になった道を行くのに、赤司の足は躊躇いもなく進んでいく。四人もそれに従った。
 しばらく行くと、広場のようなところに出た。いの一番に到着した赤司が足を止め、鋭く目を細めた。遅れて到着した四人にもその光景は見えたようで。

「これは…」

 近くの街灯の明かりで、薄っすらとだが辺りが見える。至る所に幾つもの人影が見え、全てが地に伏せていた。呻く声も聞こえて、火神と赤司が聞いた声の出処は間違いなくここだと分かる。だが、そんなことよりも。

「赤司君、まさか…」

 黒子がどこか呆然とした声で赤司を呼ぶ。火神達も言葉にはしないが思うことはあるのだろう、赤司を見た。赤司は何も応えず携帯を取り出すと電話を掛け始めた。救急車や警察を呼んだのでないことは、確かだった。

「…今、どこにいる?」

 そうして聞こえたのは、静かな声。闇に溶けそうで、夜を体現したような。怒りも、焦りも、そこにはない。心配の色も見えなかった。ふと出したような声で、日常に落ちていそうな穏やかさ。
 けれどそれは決して本当ではないのだろうと黒子は思う。自分達がいる手前の虚勢なのか、相手に余計な疑念と考えを押し付けたくないのか、分からないけれど。

「分かった。そこで待ってて」

 数度相槌を打ち、そう言って通話を切った赤司は、携帯を鞄に落とし四人に向かって。

「これから迎えに行ってくる。お前達は適当に帰ってていい」

 とだけ言って急ぐように踵を返す。え、と残される四人の声に、あぁ、と肩口に振り返り。

「勿論、そいつらには今後変な気を起こさないように、脅しでもかけておいて」

 ついでのようにそんなことを容易く言って元来た道を引き返していった。唖然とする四人。どうする?、と言いたげにしばしの間互いを見て、そうして結論を出したのは黒子だった。

「まぁ、彼に手を出したんですから、しょうがないですよね」
「……降旗、だよな?」
「多分、ですけど」

 火神が躊躇いがちに零した名を、黒子はあっさりと頷いた。とは言え、彼がしたのだと言い切れる証拠や保証などどこにもない。だが彼と結びつける要素は複数ある。例えば一緒に来るはずの彼が来られなくなった理由とか、例えば彼が祭りの代わりに行くことになった場所とか、例えば―――彼ならこの人数を一人で倒せる事実とか。

「マジでこんだけの奴ら一人でやれんのかよ」
「人は見かけによらないのだよ」
「な。って、何すんだよ、テツ」

 歩き出した黒子に問う青峰。それを背に受けて、振り返る。

「身軽ですけど、多分財布くらい持ってるでしょう。身分が分かるものを全部これみよがしに集めて一箇所に置いておくんです。そうしたら後は彼等が勝手に勘違いしてくれますよ」
「なるほど。相手は自分達の名前や住所がバレたと思い込んで怯えてくれるというわけか」
「えぇ。こういう人達ですから、警察に電話、なんてことはしないでしょうし、僕等にとっても最も手間がかからない方法だと思いますけど。傷害事件にもなりませんしね」

 黒子と緑間の会話に、あー、と頷いた青峰と火神は、そうするか、と倒れている奴等全ての財布や定期入れから学生証や運転免許証を出していく。
 その途中、でもさ、と誰に聞くでもなく口を開いたの火神だった。

「この脅しが全然きかなくて、またあいつんとこ行ったらどうすんだよ?」
「…現状を見れば分かると思いますが、勝者と敗者は考えるまでもなく明らかです。返り討ちにされるだけですよ、いくらやってもね」

 それでも今回赤司があぁ言ったのは、降旗の精神的負担を考えてのことだ。彼が勝つことは前提だ。だが、その前、その最中、その後に負う精神の痛みは、いくら降旗とは言え勝つことは難しい。だからこの脅しは元々絶対を求められてのものじゃない。絶対はその次に待っている。

「繰り返すようなら赤司君が黙ってやしません。ですからこれは恩情ですよ、火神君。今赤司君が自ら手を出さないのは、ある意味で慈悲です。今回はこいつらへの怒りより降旗君への心配が勝ったのでしょうけど」

 次は、ありません。

 黒子の静かな言葉に、表情に、火神は空恐ろしいものを感じて背筋を凍らせた。それは黒子に対してと言うよりも、明らかに。

「…赤司って、怖ぇなぁ」

 呟く火神に、青峰が笑う。

「今更かよ」

 緑間が呆れたように目を伏せる。

「つくづく馬鹿なのだよ…」

 黒子が首を傾げて。

「でも、優しいじゃないですか。許した人には、誰でも」

 分かってる。火神はその言葉に首を振ることはできない。たった今覚えた震えるほどの恐怖を全力で肯定しつつ、それでも赤司は優しいのだろうと思う。その優渥ゆうあくを向ける対象はあまりに限定的だけど、その内に自分が少しでもいることを許されてる優越感を、なんとなく理解してしまったから。
 キセキの世代が赤司を中心にしていた理由を今もってしみじみと感じながら、火神は毒されたかと苦笑しながら夏の夜空を見上げる。

「あーあ。いつのまにか花火止んでやんの」

 後にはもう、遥か彼方の星々の瞬きだけがある。





「―――光樹」

 川に渡された橋の上に、一つの影。祭りからは既に遠く、提灯の赤い光が辛うじて見えるくらい。賑わいが風に乗って聞こえ、水流のさらさらとした音が微かに耳朶に響く。
 近づけば、両肘を橋に乗せて頬杖をついてた降旗が、くるりと振り返って橋に凭れ掛かった。その様子は至って自然で、近くの電灯のおかげで見えた顔には仄かな笑み。だが、それ故に不自然極まりなかった。

「何、どうしたの、赤司。明日会えるのに、急に呼び出して」
「何があった」
「……」

 白を切らせるつもりはない。その思いで赤司は降旗の言葉を遮った。語調は強くなく、寧ろ言葉を促すように穏やかだった。しかしそれで視線の鋭さを覆い隠せるわけもない。降旗は敏く、赤司があの場に行ったことに気がついたようだった。

「友達と会うんじゃなかったのか」
「………」
「…光樹」

 押し黙り、眉間に皺を寄せて目を逸らす降旗に赤司は小さくしょうがないなと息を吐き、いきなり無防備に垂れ下がっていた降旗の手を掴む。強くはない。ただいつも手を繋ぐのと同じように握っただけだ。だがそれで。

「いッ…!」

 降旗は声を上げた。気にせず赤司は強張る手の感触を確かめるように触れる。やけに熱い。…そして。

「この手の甲の傷は、なんだ」

 腫れ上がり裂傷を負った手を、降旗自身に突きつける。降旗はしばし思考を巡らせたのか、それとも痛みを飼い殺していたのか、とにかく目を閉じていたかと思うと、そっと開いてそれを見た。その手を見ることでまつわる記憶をも見るよう。しばらくして、観念するように一つ息を零した。

「……友達と会うって約束も、会ったのも、本当」

 ぽつり、と言う。抑揚のない声は感情を窺わせない。闇も深まり電灯の明かりだけでは降旗の顔も具には分からなかった。握る手だけが赤司が降旗の状態を知れる全て。もどかしさを覚えながら、赤司は降旗の声を聞いた。

「ただ、話はしなかったけどな」

 言って、降旗は笑ったようだった。小さく、自嘲気味に。そうすることで救われるものなど何もないと知りながら、それでも微笑を零さずにはいられなかったのだろう。降旗の手から力が抜けて、赤司にかかる重みが増えた。
 そうして降旗は降り始めたばかりの雨のように喋り出す。声は、からりと乾いていた。

「…相手は見たことない奴だった。多分、俺の噂を聞いて力試しだっつって俺をやろうとして、そんで、誘き出すためにあいつらの中の誰かが俺のダチを脅したんだと思う。あそこに呼び出せって。祭りの近くだったら何やっても声は届かない。悲鳴も、助けも、誰かを殴ってる音だって。…だから、今日、だったんだろう」

 今日が祭りでよかったよ―――赤司はそう言った自分の言葉を思い出す。花火の音や集まった人達が出す音で、あの二人の声も紛れるからね――…。

「…その、友達は」
「あいつは…争うの、好きじゃないんだ。中学の時だっていっつも俺に喧嘩は駄目だって。…優しい奴なんだよ」

 でも―――だったら、と、赤司は言いたい。言いたくて、吐き出したくて、けれど言ったって降旗は笑うだけだろうと思うから何も言えなかった。赤司の問いを正しく理解しながら、はぐらかすようにただ友達を弁護する降旗だから。
 そんな赤司の怒りとも哀しみとも言えない感情に、降旗はちゃんと気がついて。

「しょうがないんだよ。喧嘩は全部俺のものだった。あいつは宥める役だった。…お前だって喧嘩慣れした奴等十数人に黒子が囲まれてて、黒子に抵抗しろって言えるか?」
「それは…」
「それと同じことだよ。お前が黒子にそう言えないなら、あいつにだって言っちゃいけない。だから俺は、あいつの判断が正しいと思う。対応できる奴が、頑張ればいいんだ」

 それで、君が傷ついてもか―――その判断は、赤司には到底承服できなかった。黒と白が明確に分かれているように、赤司は人を躊躇なく二分化する。好きと嫌いがとてもはっきりしていて、好きな人間には甘く、嫌いな人間は歯牙にもかけない。だからこそ降旗の今日の行いは納得できないし、その言葉にも頷けない。君が傷つかなければそれでいいと言ってしまいたくなる。
 だがそれは降旗の望む言葉ではないのだろう。それに、と赤司は思う。もし黒子がそんな状況に陥ったら、自分はきっと黒子を助けるために拳を振り上げる。逡巡もなく、いくら手が傷ついたって。…降旗と、同じだ。

「…まったく、君と付き合ってると心臓が幾つあっても足りないよ」

 そう言ったのは、だから根負けというやつなのだろう。降旗の中にある自分が背負えばいいという考えは、恐らくこれまでの経験から導き出された答えで、それは他人がどう言おうと変えられない。降旗自身、他人の言葉で考えを変えるような人間ではなかった。
 だが決して納得したわけじゃないと、赤司は続けて言葉を繋ぐ。

「でも、光樹。これだけは約束してくれ」
「…なに?」
「今後こういったことがあった時、僕がこっちにいる時は絶対に僕を呼ぶこと」
「な…」
「いなかったら、しょうがない、火神でも青峰でも呼びつければいいから」
「ちょ、赤司!」

 そんなことできるわけないだろ、と言いたげな降旗に。

「―――否定は聞かないよ、光樹」

 赤司は冷たく、そう吐いた。あの時以来久しぶりに、降旗に対してそんな声を出した。静かで厳しい、あの冬の風に似た声。

「あか、し…? …――…ッ」

 ずっと握っていた手に、突然力が込められた。動かすだけで痛みを訴えていた降旗は、握られたことで襲ってきた激痛に一瞬言葉をなくして身悶える。だが赤司は容赦なく、更に傷を抉るように爪を立てた。

「痛い、赤司っ、いた、い…ッ!」
「…一人で十数人も殴ればこうもなる。そんなこと、喧嘩に慣れた君なら分かっていただろうに」

 力を緩めない。痛いと赤司の腕に縋る降旗を見ながら、それでも赤司は力を入れ続けて。

「―――赤司…っ!」

 その引き攣れた懇願に、やっと手の力を抜く。荒く肩で息をする降旗は痛みに涙を溢れさせていた。赤司は目を眇めてそれを見て、腕を引っ張って降旗を抱き寄せる。
 今度は何をされるのだろうと息を詰めて身を固くした降旗は、しかし赤司が髪を撫でると戸惑いながらもほんの少し躰の強ばりを解いた。その状態で、少し。次いで出された声に、もう冷たさはなかった。

「…光樹。僕はあの時言ったはずだ。君を守ると」

 あの時―――あの、出会ってしばらく経った日。降旗は思い出す。今日みたいに大勢を相手にした後。あぁ、そうだ。確かに言われた。さらりと、なんでもないことのように。

「君の力を知らないわけじゃない。あの時も、今回だって君は一人で戦い、勝ったんだ。強いことは重々承知している。それでも僕はそう誓ったし、君はそれを受け入れた」

 忘れたとは言わせないよ、と言う赤司に、そんなわけないだろと抗議するように服を引っ張る。忘れられるはずがない。だって嬉しかった。泣きたいくらい、嬉しかったんだから。その内心を読んだかのように、だったら、と赤司は言う。

「君が僕に否と言うことは許さないよ。こんなに手を傷めることも許さない。僕は僕が打てる全てのことをする。…僕はどうしたって、ずっと東京こっちにいることはできないんだ」
「赤司…」

 ぎゅ、と抱く腕の力が増す。降旗の肩口に顔を埋めるようにして。

「…君を心配する身にもなってくれ」

 赤司は小さく、そう呟いた。





 手を繋いで夜を歩く。普段はあまり歩かない、人通りの少ない場所をわざわざ歩いてゆっくりと家に向かっていた。見上げれば広がる青鈍の夜空に大きな月。言葉のない逍遥をその美しさで埋めていると、ねぇ、と隣りを歩く赤司が呼びかけてきた。

「ずっと考えてたんだけど」
「うん」

 あぁ、なんか考えごとしてると思ったんだよなぁ、と降旗は思いながら頷く、と。

「光樹、京都においでよ」
「へー、京都か、京都ねぇ……はい?」

 ぽん、と言われた言葉に歩みが止まる。赤司が一歩先で止まって、振り返る。ちょうど向き合う形になって、真剣な顔の赤司と驚いた表情の降旗が顔を見合わせた。

「きょ、京都? 俺が?」
「そう」

 こくりと頷いた赤司を呆然と見ながら、確かに、と降旗は思う。今までは常に赤司の方から東京に来てもらっていた。それは実家に帰る必要もあるからと赤司が言ってくれていたからで、ずっとそれに甘えている状態だった。しかも降旗が京都に行くとなると、赤司が寮にいることもあり、泊まるのならどこか宿をとらねばならなかった。
 交通費と宿泊代を考えれば降旗には日帰りしか選択肢はなく、また普通の男子高校生である降旗にとっては交通費だけでも馬鹿にならない。また、京都に行けば行ったで家族や知人にお土産を買わねばならないだろうし、赤司とのデートで使う金も勘定にいれなければならなかった。
 膨れ上がる旅費に、だから降旗は今までおいそれと「行く」と簡単に言うことはできなかったのだが。

(赤司から言ってくるの、初めてだよなぁ)

 そう思うと、これは何が何でも行かなくてはという気がする。時期も夏休みの中盤だし、行くならそろそろ予定を立てなければならない。ここ数ヶ月は部活三昧と赤司とのデートがなかったおかげで小遣いはそこそこ貯まってたはず…と頭の中で考える降旗に、赤司が。

「こっちに来たら君を守ってあげられるし、何よりずっと一緒にいられるしね」

 と言う。ん?、と降旗はその言葉に首を傾げた。ずっと、と言うのは、夏休み中は、ということだろうか。

「…いや、夏休み中もずっとそっちにはいてられないぞ。部活あるし、そんな泊まる金もないし」

 特に後半を強調しながら言えば、赤司は何を言ってるんだと言いたげに眉を顰めた。

「君が洛山に転校してきたらいい」

 お前が何を言ってるんだ。降旗は咄嗟にそう叫びそうになって、堪えた。自分が洛山に? なんの理由があってだ!

「あ、あの、赤司…?」

 どうも、おかしい。普段なら赤司がこんな突拍子もないことを言うはずがない。いや、そもそもいつもの行動も過激だったりするから見過ごしていたが、今日の行動は思い返せばそれ以上に過激だった。
 それに酷く感情的だったし…――まさか、と降旗はハッとする。今日の自分の行動がそんなにも赤司を追い詰めていたのだろうか。だが、例えそうだとしても、だ。

「寧ろ、結婚しようか」

 真正面からにこりと笑って零された、その言葉にはどうやっても頷けない。

「な、ちょ、赤司!?」

 動揺が顔にも声にも出て困る。自分の大声に自分で驚いて、降旗は挙動不審に辺りを見渡した。誰も居ないことを確認してほっと胸を撫で下ろし、目の前の赤司へと視線を戻す。
 あぁ、赤司の笑顔は変わらず優しくて幼くて、こんな状況じゃなければ笑い返してあげたいけど。

(その瞬間、京都行のチケットを二人分買いかねない…)

 それも片道―――恐ろしくて、できっこない。
 引き攣った顔で月を見上げると、まったく今日はなんて日だ!、と降旗は心の中で叫んでいた。





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 20120801





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