ルノアールの涙

[ 最悪×最悪×最悪の結末 ]



 喧騒は、なにも東京じゃ珍しくもない。夜ともなればその程度は弥が上にも顕著になる。京都の静けさに親しんだ身としては音もネオンも些か煩わしく感じるが、もともとこちらに住んでいた赤司がその煩雑さを許容するまで然程時間は掛からなかった。
 連休を利用して久しぶりに家に帰る途中だった。昼頃まで部活をこなし、その足で東京へと赴いた。迎えを寄越すと言ってきた親に断りのメールを入れ、赤司は久々の東京をゆったりと歩いていた。
 途中、帰路からわざと外れ、繁華街へと足を向けた。別に目的地はない。ただ懐かしさに身を任せた遊行だ。だからと言って楽しめるかどうかはまた別の問題。思うほど感慨を得られなかった赤司は五分ほどでその逍遥を切り上げ、家へ帰ろうとした。

「………」

 方向転換をしたところで、ふと目の端に何かが引っ掛かった。赤司がいるそこは半ば路地裏に入りかけた場所で、東京の闇を体現するように薄暗く、街灯など惨めなほど用を成していない。目を凝らす。ちらちらと多数の影が蠢いていた。耳も澄ませば、近くを走る車の排気音に混じって粗暴な声が聞こえた。内容は聞こえないし聞きたくもないが、様子からしてリンチか恐喝か、そのどちらかだろう。赤司は僅かに目を眇め、適当に見当をつけた。
 ここで赤司が真っ当な正義の味方であれば何も問題はない。いや、加害者に多大な被害を、そして被害者にも少し精神的な傷を与えるかもしれない。だが物事は解決するだろう。しかし旧友からは正義とは正に反対の立場にいる者として見られる赤司は、実際そうと気づいた上で立ち去ることを躊躇する人間ではなかった。そうでなくてもスポーツの強豪校に身を置く者であれば少しでも暴力や問題とは無縁に過ごしたいと思うのは当然のことだ。それは自分一人の責任どうこうの話ではないのだから。
 けれどその時赤司は、家の方角でなく暴力と問題がある方へと足を踏み出していた。散歩の続きのような気軽さで続行された歩み。あちらも早々に気づいたらしい。凶暴だと自分が思っているらしい目付きで睨まれた。
 だがそれに、どれだけの威力があるというのか。
 赤司は微塵も気に留めなかった。逆に向かう先にいる目算で十人強の無法者達が迷いなく歩を進める赤司に気圧されたようにジリと後退る。その様子さえ赤司には当然のことで、勝気な笑みを浮かべる程のことでもない。だが彼等に囲まれた人影を捉えた瞬間、赤司の口元が綻んだ。あぁやはり、どこかで見た顔だと思った。あの日、あの時、間近で見た顔だ。
 よくよく蛇に睨まれた蛙の図が似合いだな、と内心思いながら。

「助太刀しようか」

 立ち止まって、赤司は澄んだ声で一声呼びかけた。

「降旗君」

 思いもしなかった人物の登場に目を見開く、彼に。





 ―――まったく今日はツイてない。朝から晩まで最悪だ。
 降旗は一日を思い返してそう毒突く。とは言いつつ、ではいつならばツイているのか、ともし問われたら閉口してしまうだろう。最近憂鬱でなかった日なんてないのだから。
 それでも今日は極めつけだ。朝から身に降り掛かった不幸は省くとしても、まさかこの晩この場所でこの男にこの瞬間出会うなんて。

(最悪としか、言えない)

 夜目にも目立つ赤。光の加減か嫌に輝いて見えるオッドアイ。数mの距離を置いてさえ感じる威圧感プレッシャーは紛れもなく王者のそれだった。
 たった一度の邂逅で降旗の脳裏に鮮烈に記憶された彼。焼印で押されたようなそれは、忘れようにも忘れられない。なかったことにもできやしない。降旗は目が眩むような錯覚を覚えながら、チェシャ猫のように笑む赤司が徐々に近づいてくるのを見ていた。

(あぁ、なんでここにいるんだ。なんでこっちに来るんだ)

 普通この状況を見たら関わりあいになるのを避けて道を戻るのが正解だ。事実、何人かの通りすがりは見て見ぬふりで足早に駆けていった。それでいいと思う。降旗も自分が当事者でなければそうしただろう。彼にしたところで正義や人の道にもとるとか、そういった考えなんか持っていないだろうに。

(…まぁ、でも)

「助太刀しようか」

(今は)

「降旗君」

 このチャンスを精々有効的に使わせてもらおうか。





「逃げるぞ!」

 赤司の登場に周りの男達が怯んだ瞬間、降旗は部活で培った瞬発力を発揮して一気に赤司に近づくと、その手を取って走りだした。赤司は一瞬それに面食らったものの、動き出した後ろの気配にその方がよさそうだと判断し、引かれるがままに駈けた。
 降旗はここら一帯の地理を知り尽くしているらしい。無鉄砲に路地裏を走り回っているのかと思いきや、一度も袋小路にあたらない。徐々に男たちの気配が遠ざかっていく。
 慣れたものだな、とそこらの若者と代わり映えしない茶髪の後頭部を見つめていると、不意に降旗は赤司の手を離し、歩調を緩めて立ち止まる。隣に立てば、いつの間にか大通りに出ていた。ここまでくればああいった奴等も無茶はできまい。見渡すと、少し離れた所に交番があった。

「も、大丈夫、かな…」

 腰を折って手を膝にあてた格好で、ぜぇぜぇと息も絶え絶えの様子で呟いた降旗を見下ろし、赤司は溜息をつく。

「この程度の疾走で息を上げているようじゃ、レギュラーの座は遠いな」

 同じ距離を走ったはずなのに息一つ乱れていない赤司の言葉に、煩いよ、と降旗は返して上半身を起こすと、少し伸びをした。薄っすらと汗をかいた降旗は少しの間夜風に身を委ね、深く息を吐く。眉間に寄せた皺や表情の固さからまだ何か思うところがあるらしい。そう感じ取りながら。

「だが、さっきの瞬発力は中々だった」

 元主将の性か、思わず部員を褒めるような言葉をかけていた。赤司の中で無意識的に降旗は黄瀬と同じく褒めて伸ばすタイプにカテゴリされていたのだろう、そしてそれはどうやら間違ってはなかったらしい。

「え、ほんと?」

 無邪気にぱぁっと顔を綻ばせた降旗は、しかしその一瞬後、そうじゃなくて!、と繕うように怒った顔をした。羞恥を隠すための作ったものかと勘繰ったが、思いの外その顔は真剣だった。

「助けてもらって、っていうか、手助けしようとしてくれたのは有難いけど、あぁ言う時は見捨てていいんだからな」

 そしてその言葉も、表情に負けず劣らず真摯。だがそれ故に赤司は微かな不快と苛立ちを感じ、眉を顰めようとして。

「あんたは、バスケの選手なんだぞ」

 できずに、目を見開いた。

「…君は違うのか?」

 まるで自分を対象の外に置いているような言い様に、思わず反論するようにそう口にしていた。降旗はそう返されるとは思っていなかったのか、一瞬意表を突かれた顔をして、気まずげに目線を赤司から逸らした。

「俺は……俺も、そうだよ」

 自分で言って、言いながら、降旗は痛みを堪えるような顔をする。何故と問うべきだろうか。赤司は逡巡して、その隙に降旗がまた喋り出す。

「兎に角、なんでここにいるのか知らないけど、しばらく東京にいるならその間、特に夜はここら辺彷徨うろつかない方がいい。あと…」
「…あと?」
「……黒子には、言わないで。その、色々と、まずいし…」

 言葉を矯めてまで何を言うのかと思いきや、と赤司は半ば拍子抜けした。どうやら降旗は赤司達がおいそれとメールのやり取りができるほど、関係の修復ができていないのを知らないようだ。
 そもそも決別したことさえ知っているかも怪しいな、と赤司は考察する。火神あたりには言ってあるかもしれないが、降旗はその圏外にいるらしい。降旗が直接キセキの世代とやりあうことはほぼないだろうから仕方ないとは言え、今は好都合だった。

「じゃあ交換条件だ」
「…はぁ? 交換条件? なんで…」
「何故って僕には君の言うことを聞かなくちゃいけない理由も義務もない」
「ッ、俺はあんたのことも考えて…!」
「気に入らないならテツヤに言うだけだ」

 睨む―――睨まれる。へぇ、と赤司は心中で笑った。これは蛇同士の睨み合いだ。身を竦ませるだけの蛙かと思えば、なかなかどうして、鋭い目をする。
 だがそれも、しばらくすれば力を失くして閉ざされた。

「……分かったよ」

 諦めの良さも及第点だ。赤司はにこりと笑ってその降伏を受け入れた。




「おい、降旗、次の土曜日にさ」
「ご、ごめん、その日予定あってさ」

 練習後の部室で雑多な音に紛れて河原と降旗のそんなやり取りを小耳に挟む。しかし黒子ははてと首を傾げた。最近、降旗は誰に誘われてもそんな返しをする。一時彼女が出来たかとも囁かれたが、どうやら違うらしい。と言うのは部内で唯一彼女のいる土田の言で、曰く、彼女ができた奴の顔をしていない、とのこと。確かにその話題になるといつも腰が引けているし、若干蒼褪めている風にも見えた。
 何故だろう、とぼんやりと着替えながら考えていると。

「なぁ…」
「はい」

 火神がそっと黒子に耳打ちする。

「俺さ、この前街で見ちまったんだけど…」
「何をです?」
「降旗、赤司とデートしてたぜ?」
「………………はい?」
「デート? や、なんか一緒に歩いてた。てかあいつ京都だったよな? 学校」

 連休ごとに親に顔見せに帰ってきてんのか?、と問う火神に、黒子は即座にそんなわけがないと内心で否定する。親を親とも思わない、という表現があるが、赤司はまさしくそれに当てはまる。礼儀は尽くすが、愛情というのはないに等しい。
 そんな彼が頻繁に東京に帰ってきている? しかも。

「降旗君とデート、ですか」

 ふむ、と黒子は考え込んだ。火神ははてなマークを飛ばしながらも、動かない黒子の代わりにカッターシャツのボタンを全部止めてやった。





 土曜日の正午過ぎ。もしかしたら河原と一緒に遊んでたかもしれない時間帯に。

「なんで俺はあんたと一緒にいるんだろう…」

 降旗は赤司と共にいた。繁華街にある広場の、丁度木陰になっているベンチで二人並んで座って。

「文句でも?」
「あるよ? なんでないと思えんの?」

 ちゅー、と自販機で買った紙パック飲料を口に含みながら、降旗は苛立たしげに赤司を睨めつけた。どうやらよほど気が立っているらしい。普段はそこそこ感情を隠す努力をしている降旗が、今日はやけに突っかかってくる。

「ほぼ毎週だぞ。お陰で友達とは遊べないし心は休まらないし。別れるに別れられない彼氏彼女のデートか」

 飲み終えた紙パックを腹立ち紛れにゴミ箱に投げ捨てる。そこはバスケ部、外しはしなかったが行儀が悪い。赤司は見咎めるように顔を顰め、降旗を見た。

「だったら呼び出しを無視すればいいじゃないか」

(できたらしてるっつーの!)

 という叫び声は、さすがに心の中で殺された。





『じゃあ交換条件だ』
『……分かったよ』

 あの日、降旗が折れる形で了承した赤司との約定。赤司が提示した条件は「アドレスの交換」だった。交換条件と言うくらいだからもっと仰々しいことを考えていた降旗は、そんなことかと若干安堵しながら条件に応じたのだが。

(まさかそれが条件の終着点じゃなくて手段だなんて、誰が思うかよ…)

 しかしよく考えれば分かることだった。アドレスを交換して赤司になんの益があるか。何も、というのが降旗の正直な結論だった。自分がバスケのプレイヤーとして未熟であることは重々承知だし、人脈やコネクションもない。その上赤司と趣味が合いそうにも、ましてメールで話が続くような関係を築けそうにもなかった。
 そんな自分に、何故赤司が。答えはその日が終わる数分前の着信で理解した。

『来週、また東京に行くから』

 …だから? 何?、と返せるほど、降旗の頭はおめでたくできてはいなかった。翌週赤司が駅に着いた時、そこには降旗がいた。陰鬱な顔をした降旗と、満足気に笑う赤司。再会の挨拶もそこそこに、降旗は取って付けたような説明を受けた。

『僕はあまり徒歩で界隈を彷徨うろつくことがない。君はよく知っているようだから、案内を頼みたいんだ。今まで知らなかった東京を見て回ることも、気分転換になるかなと思ってね』

(水先案内人? いやいや体の良い荷物持ちだろ)

 そうと分かっていても、条件に則って交換したアドレスで送られてくるメールは一種の脅迫状であり命令書だ。無視をすればどうなるか、敢えて実行する気にもなれない。
 お陰で降旗は前まで以上に地理に詳しくなり、更にどのジャンルの店がどこにあるのかさえ網羅してしまった。これも赤司の思いつきと言う名の無茶ぶりに応えるためだ。

(彼氏か!)

 内心でそう突っ込みながら降旗は隣に座る赤司を見た。ぱちり。視線が合う。どうやら考え事をしている間中、ずっと顔を見られていたらしい。気恥ずかしさから降旗はぷいと顔を背けた。その行動に、赤司は何を思ったのか。

「君は僕が嫌いか」

 静かな問いに、途端、都会の喧騒が掻き消える。さぁっと血の気が引くように消えていく音。なのに陽光を受けたビルの窓硝子が目障りなほどキラキラと輝いていた。不快だ。一方が少なすぎて一方が多すぎるその空間とも風景とも言うべき視覚と聴覚の暴力は、ひどく降旗の神経を逆撫でた。

「……好きじゃない」
「言葉を飾るな」

 即座に返された言葉は静かで厳しい。冬の風に似た声は、降旗の首筋を撫でてぞくりとさせた。それでも。

「…嫌いだよ」

 目を閉じて降旗は言う。嫌悪ではなく、また痛みを堪えるような顔をして。

「簡単に人を傷つける奴も、何考えてるか分かんねぇ奴も…」

 対し、赤司は一拍置いて「そう」とだけ言った。他は、何も。
 無音がよぎる。それまでも決して楽しいとはい言えない雰囲気だった。でもなんとか繕ってきて、条件を守って、店を巡って。
 これじゃあ水風船の中の水だ。ふと思う。決して零れたわけじゃないのに、何故か萎む頃にはなくなっている。その光景を頭の中で思い描いて、降旗はそっと瞼を押し開いた。―――立ち上がる。

「…赤司」
「何?」
「京都に帰れ。送ってはやれない。もう会わない。帰り道は分かるな」
「は? 突然…」
「ばいばい」

 言って、降旗は走りだした。振り返りもせず、ただ。

「……何があった?」

 靡いた風が見せた彼の横顔。驚愕と、焦燥と。まるで。

(何か見たくないものを、見たかのように)





 ぐでん、と机に突っ伏す黒子の頭の脇に頼まれたバニラシェイクを置いてやった火神は、疲れましたと呻く黒子に呆れたように言う。

「だから最初に言ったろ、今日も見つかるか分からねぇぜって」
「でもがむしゃらに探すより、ポイントを絞った方が希望は持てるじゃないですか…」

 今日一日、黒子は赤司の目撃者である火神を連れて繁華街を歩きまわっていた。確かに見つかれば僥倖程度の確率ではあったが、黒子は俄然見つける気でいた。
 だが結果は空回り。ならば赤司に直接メールやら電話でもすればいいのに、と思ったが、やはりまだ確執があるのだろうかと気を回した火神はそれを言わず。

「つーかなんでそんなに必死なんだ?」

 そう聞いた。丸一日を割いてまで何故彼等を見つけようとするのかと。
 黒子はのそりと起き上がり、シェイクで喉を潤した。一息ついて、ひそりと零す。内緒話をするように。いっそ火神にさえ聞こえなければいいのにと、さながら願うかのよう。

「…傷がね、増えてるんです」
「傷?」
「えぇ。でも彼は着替えるのが早いし、受け身も相当上手く取っているのか跡にならない傷が多いんで、最近まで全然気づきませんでしたけど」

 それでも確実に増えてるんです。

 そう繰り返す黒子に、火神は首を傾げた。

「誰の話だ?」
「…やっぱり気づいてなかったんですね」

 それもそうか、と黒子は浅く息を吐いた。彼の隠し方は実に巧妙だったし、痛がる素振りもまるでなかった。また相手も見えるところには付けないという悪質な手を使っていた。黒子も偶然、振り返った時に彼の脇腹を見なければ今も知らないままだっただろう。

「降旗君、誰かに暴力を受けてます」

 それが赤司によるものだと思ったわけじゃない。赤司はそんな手には訴えない。それを黒子は知っている。
 だがもし、降旗の怪我が黒子のように偶然誰かに知られることになった時、火神の目撃証言は些か赤司に分が悪い。赤司が及んだ凶行については部内でそこそこ話題になった。
 だから黒子は早い内に真実が知りたかった。元チームメイトの自分の言葉だけでは、赤司は守れないだろうから。

「…赤司は、そんなことしねぇだろ」
「えぇ、しません。ですから、そのことを証明しないといけないんです」

 黒子の考えを悟った火神の半信半疑の言葉に、黒子は強く言い切った。それに火神は少し驚いた顔をして、次いで柔らかく苦笑した。思わず手が伸びる。黒子の髪をくしゃりと乱した。

「ったく、なんだかんだ言っても、お前等仲良しだな」
「痛い、火神君、力が強いです」
「っと、わりぃ」
「いえ。…でも当然、赤司君の潔白を明らかにするだけじゃだめです。それだけじゃあ足りない」

 乱れた髪を指で梳きながら黒子は言う。降旗の怪我の原因を突き止めなければ、意味がないのだと。

「分かってっけど、すげぇ複雑な事情があったらどうすんだよ」
「それでも、降旗君が怪我をし続けていい理由にはなりません」
「そりゃそうだ……って、黒子!」

 火神が不意に立ち上がって叫ぶ。黒子はその迫力に背筋を伸ばして火神の顔を見上げた。火神は既に暗くなり始めている窓の外を見て。

「降旗見つけた! 大通りの北に向かって走ってったぞ!」
「行きましょう」

 黒子はバニラシェイクを、火神はハンバーガーを引っ掴んで店を出る。そうして見た外の景色に、思わず黒子は顔を顰めた。

(嫌だな…)

 向かう方角の空は、不安を煽るような赤紫。





 赤司は考えていた。素直に手を出してしまうか、自制して殴られるか。結論は即座に出た。―――後者はないな。

「兄ちゃん余裕だなぁ、あの軟弱野郎のお仲間とは思えねぇぜ」

 煽る声と嘲笑がさっきから自分にぶつけられていることを知りながら、赤司は毅然と前を向いて立っていた。
 降旗が姿を消した後、どこからともなく現れた男達に赤司は廃ビルに連れてこられていた。暗い中でも足取りが確かなことや、タバコや空き缶がそこらに溜まっていることから、どうやらここが男達の拠点らしい。
 見たところ顔ぶれは以前と同じで、気になることがあるとすれば、それは人数があからさまに少ないことだ。集まりが悪かったか。いや寧ろ。

「…向こうにあと過半数、と言ったところか」

 舐められたものだ、と思うが、それが彼等の評価と認識なのかもしれない。自分はよく威圧感があるなどと言われるし、事実、あの夜にこの男達も感じていたようだ。それでもなお自分よりも向こうの方に人数を割いたとするならば。

「僕の考えは正しかったか」

 ニ、と笑う。だがその余裕の微笑は宵の影に蝕まれて相手には見えなかったようだ。それでも呟きは聞こえたのだろう、冷やかしの声と笑いが一層大きく聞こえた。…あぁ、不愉快だ。
 赤司の表情から笑みが消える。さっさとやってしまおうと一歩前に出た。どうせここは東京だ。何があってもおかしくはない。露見しなければ、問題にもならないだろうから。
 また一歩前に出る。距離を詰める感覚でもなく、ただ無遠慮に、無作為に。罠に気づかず、自ら罠に近付く子鹿のように。
 そうして飛びかかってきた男を殴ろうとして。

「やめろ、赤司」

 コンクリートに響いた声に、咄嗟に身を引いた。勢い良くこちらに向かっていた男は目標を失って無様に倒れる。それを最後まで見届けることなく、素早く声の発信源に目を遣ると。

「こいつらは俺の相手だ」

 降旗が立っていた。服の所々が汚れているようだが、怪我をしている風ではない。
 だが殺気立っていた。
 口端の笑みなど関係ない。普段のどこか人のよさそうな顔も今は鳴りを潜め、双眸が剣呑な輝きに煌めいていた。
 いつもの彼ではない。赤司と同時にそれに気づいた男達が鋭く息を呑む音が響く。それに降旗が頓着した様子は微塵もなかった。嘲るように笑う、笑う、ただ。

「ったく、俺を殴るだけで我慢してりゃあよかったのに…俺のツレまで手ェ出そうとしやがって…」
「ふ、降旗…」
「…あぁ、お前、俺に本気見せてみろって散々煽ってくれたっけ。なぁ?」
「ッ、な、ちが…!」
「喜べ。今から見せてやるよ」

 冥土の土産だ。

 冷たく言って、降旗は拳を振り上げた。





 不思議に思っていたんだと、全てが終わった後、赤司はそう呟いた。あぁいった手合いは群れるのは好きだが、共に行動するとなると片手で足りる程度の人数を好むのだと。それがあの晩、その倍以上の数がいたことに疑問を感じていたのだと。
 あの数はどこからやってきたか。ならず者同士が偶然居合わせたのでなければ、与するグループの団体がわざわざあそこにいたことになる。降旗を囲むためだけに。

「だとしたら、君はそれ相応の実力者なのだろうと」

 だから赤司はあの時「助太刀しようか」と聞いた。加勢とは元ある一に一を足すこと、つまり一から一に変わるだけの身代わりとは明らかに異なる表現。それを意図したものだったと言う赤司はどこか虚ろな表情で、反して降旗は穏やかな笑みを浮かべていた。

「なんだ、最初からバレてたのか」
「最初から、という言葉は適切ではないよ。それに初めて会った時に君がこれほど喧嘩が強いとは微塵も思わなかった。まぁ、だからこそあの夜の一場面は君への好奇心に火をつけたわけだけれど。…思った通り、君は強かった」

 すっと瞼を閉じて、赤司は先ほどの光景を思い出した。自分より上背も力もありそうな男達を、降旗は己の拳のみで地面に叩きつけた。本性を剥き出しにした降旗。自分はそれを見たかったはずだ。あの晩に感じたことが正しいと証明したかった。正しかった。証明された。だが今の赤司に、それを喜ぶことはできなかった。
 その光景は鮮烈でありながら、だがひどく物悲しいものであった。戦う間降旗はずっと笑っていた。楽しげであったなら赤司はこうも胸を詰まらせる想いをせずに済んだのに。降旗の笑顔は闇に溶けそうなほど、空虚だった。

「喧嘩なら、きっと火神にだって負けないさ」

 感慨もなく言い切って、すっかり元の調子を取り戻した降旗は少し開いていた距離を詰めて赤司の隣に立つ。彼等の背後では物音ひとつしない。静かなものだ。

「…何故、バスケを始めたんだ?」

 静寂を嫌って赤司は空白を埋めるように問う。降旗は少し口篭った後、なんでもない、本当に瑣細な理由だけどと言い置いて語りだす。

「好きな子がさ、何かで一番になったら付き合ってくれるって言ったんだ」

 その時の俺には何もなかった。確かに喧嘩は強かったさ。ちょっとばかり有名で、目を付けられるくらいには。今日襲ってきた奴等も以前喧嘩したことある連中だ。もちろん、今日見たく叩きのめしたんだけど。

「でもそんなの、胸張って言えないだろ? 暴力はどんな形であれ誇れない」

 殴れば痛い。殴られれば傷つく。どちらもいいことなんてない。それでも降旗が拳を振るうしかなかったのは、いつも誰かのためだった。

「家から少し遠目の誠凛に入ったのは、中学の校区から離れるためだ。そこで体育会系の部活に入ろうと思った。ほら、スポーツ系って問題起こすとペナルティ厳しいだろ? …赤司にこう言うの悪いけど、スポーツだったらなんでもよかったんだ」

 あぁだからあの時自分もバスケの選手であると言い切ることを躊躇ったのか、と赤司はようやく合点がいった。引け目があったのだろう。キセキの世代という伝説の一人である赤司と不純な動機でバスケを始めた自分を同格に語ることを、降旗は無意識に忌避したのだ。

「でも今はバスケが楽しいよ。先輩達は優しいし、同級生もいい奴等ばかりだ。キセキの世代に挑む!、って意気込む黒子と火神を見るのは、楽しかったし」

 楽しい―――楽しかった。自分の中で言葉が過去形に変わり、記憶が思い出になっていく。降旗はゆっくりと瞬きをして、それを甘受する。…あぁそうだ。自分は、もう。

「でも、今日でそれも終わりだ…」

 不意に降旗の両目から涙が零れた。それまで耐えている風でもなかった突然の涙に、赤司は言葉もなく瞠目して狼狽えた。それに降旗は気づかないまま、ふわりと瞼を閉じて。

「…我慢、してたのになぁ…」

 涙の合間、零されたその言葉に赤司は唇を噛む。ペナルティ。降旗が自分の力を抑えようと自らに課した枷。いくら自分が傷つけられても、誠凛バスケ部に迷惑をかける訳にはいかない。そう思って降旗はずっと痛みに耐えてきた。耐えていくはずだった。―――できなかった。

「……あの晩のちょっと前に、偶然奴等に街で見つかってさ、でも今はもう喧嘩しねぇって言ったら、このザマだよ」

 ちらりと服の裾を託し上げ、見えた降旗の薄い脇腹は至る所に痣ができていた。

「それから何回か鉢合わせしちゃって…でも、大丈夫だったんだ。我慢できると思った。…なのに今日ずっと、ヤな予感がしてて、だから気ぃ立ってて、さ…で、赤司と一緒にいた時に、あいつらの内の一人を見て、一緒にいたら、お前もヤバイ、って、思って…で、敢えて見つかったら、お前んとこまで、行かないって、おも、ったのに…」

 誘われるまま付いて行けば、そこにいたのはいつもの人数の約半数。真相に気付くのに、然程時間はかからなかった。

「お前、まで、巻き込んだんだ、て気づいた、ら、もぅ、抑え、らんなく、て、…ボコボコに、して、…居場所、吐かせて…」
「降旗…」

 嗚咽とともに溢れ、拭われることのない涙はぽたぽたとコンクリートの色を暗く染めていく。自分はこれからどうなるだろう。その不安を写しとったかのような涙の海。けれど視線を上げた先に赤司がいる。怪我もなく、殴られた様子もない。…だからこれでいい。降旗は笑った。自分は、赤司を守れたのだから。

「…ほんと……無事で、よかっ…――」

 その先の言葉を赤司は奪った。安穏と聞いてはいられなかった。
 今夜の狼藉の原因は間違いなく赤司だ。気分転換に東京の方々を散策したい―――そんなものは当然ただの言い訳だ。ほぼ毎週降旗と時間を共にすることで、赤司は敢えて男達に目をつけられるように仕向けたかった。男達は赤司を降旗をいたぶるための格好の餌食だと思うだろう。自分を囮にすることで赤司はひ弱に見える降旗の本性を暴きたかった。初対面とは違い、気負いなく自分に突っかかってくる彼が面白くて、もっと見てみたいと思った。
 ただそれだけの、一時の暇潰しにしか思っていなかった自分に、全てを投げ打った降旗の安堵を喜ぶ言葉を聞く資格はない。
 その思いで赤司は降旗の言葉を遮って抱き寄せていた。自分より少しだけ小さな降旗を抱き締めていた。そんな自分の状態に降旗は赤司の腕の中で藻掻いた。恥ずかしさか混乱か、それはどうにも分からないけれど。

「……ごめん」

 謝罪は呼吸のように自然と零れて、その分声量は小さかったが降旗はちゃんと聞き取ってくれたようだった。動きが不自然にぴたりと途絶えた。気づいて少しだけ躰を離せば、潤んだ瞳と涙が伝った頬がてらてらと月に光る。恐る恐る見上げてくる両目も、きゅっと赤司の服を掴む手も、なんだか全て小さな子どものよう。稚く、あどけない。
 ―――そんな彼が、己の拳と心を痛めて自分のことを守ったのか。
 思えば思うほど胸が痛かった。自分の身勝手な行動に今更ながら腹が立つ。それ相応に贖わなければならない。…ならば。

「今日のことは僕に非がある。君は何も悪くない。心配しなくていい」
「…あか、し…」
「それに僕は君のツレなんだろ? …君だけに重荷を背負わせたりはしないさ」

 赤司は降旗の額にこつんと自分のそれを当て、そっと静かに誓う。今度は自分が彼を守ろう。傷つけた分、いやそれ以上に。

(彼を、守っていこう)





「…まさか、降旗君に目をつけるとは思いませんでした」

 ちゅー、と既に液状と化したバニラシェイクを飲む黒子は、赤司に昼の降旗を思い起こさせた。その時の降旗も機嫌がいいとは言えない表情だったが、程度で言えば黒子の方が尚悪い。
 それは降旗を危険な目に合わせた赤司への怒りか、愛するバニラシェイクがすっかり溶けてしまったことへの憤慨か。どちらかと言うより、寧ろその二つが拮抗している自分の心情に対する嫌悪なのかもしれない。
 廃ビルを出た所で降旗を探しまわっていた黒子と火神に鉢合わせした赤司と降旗は簡単な状況説明の後、その足で公園に来ていた。降旗は火神に連れられて公園に備え付けられている水道で泣きはらした顔を洗っている。赤司と黒子は少し離れたベンチに座り、それを眺めていた。

「気に入らないか?」
「意外だったと言うだけです。もし君が選ぶとしたら、火神君かと思ってました」
「何故?」
「彼は、僕等と同じです。君が手を伸ばそうと思わないはずがない」
「…手を伸ばす、ね。まるで僕がお前達を救おうとしていたとでも言いたげだな」

 違わないでしょう、と言う言葉はバニラシェイクと共に黒子の腹に収められる。赤司にその意図がなかったことは重々承知だったからだ。彼はただ選んだだけで、そのことで自分達が救われたと勝手に思い込んでいるだけなのだと。
 力あるものは力に溺れる、力なきものは欲に溺れる。青峰も緑間も、紫原も黄瀬も黒子も、程度の差はあれ何かに溺れかけていた。火神は嘗てのそんな自分達だ。今はまだでも、いつか溺れる時が来る。その時火神に檄を飛ばすのは赤司の役割だと思っていた。

「まぁ、火神にはもうお前がいるしな」
「…なんですか、それ」

 ぐむ、とバニラシェイクを喉に詰まらせた黒子に赤司はふと笑って、けれどそれ以上そのことに言及するつもりはなさそうだった。

「それに、今の僕に必要なのは〈特殊な能力を持ったプレイヤー〉ではなく、〈僕に普通を教えてくれる人間〉だよ」

 意外な答えに目を見開く黒子を置いて。

「そうじゃないと、僕は直ぐ〈普通〉を忘れてしまうから」

 赤司はそう、呟いた。

「赤司君…」

 …戻れない。立ち返ることさえも。赤司にとって普通や一般という単語に思いを馳せることは、疾うに失った故郷を振り返る行為に等しい。
 その結果に至るまでの過程に自分達が大きく関わっていることを知る黒子は、少し寂しげに睫毛を伏せた。彼に普通を選ばせなかったのは、自分達との出会いがあったからだ。

「だから彼を選んだ、と言うわけでもないけどね」

 繕うような言葉に、だが確かにそれだけではないのだろう、と黒子は考える。例えば普通の、バスケや同年代という幾つかの共通点があるだけの少年であれば、きっと赤司は降旗に見向きもしなかったはずだ。
 それだけでは足りないのだ。赤司に対抗できるという、普通でありながら普通の少年と比べて最大の相違点を持たなければ。そう推察しながら、でも、とも、黒子は思った。

「…そんなの、ずるいです」

 拗ねるように、零す。降旗のように共通点と相違点を持つ者が選ばれると言うのなら、それは。

(僕も、同じなのに――…)

 そんな黒子の様子に、赤司はふと自分が思い違いしていることに気がついた。どうやら黒子の機嫌が悪いのは自分に怒っているのでも、溶けてしまったバニラシェイクに憤慨してのことでもなく。

「なんだ、妬いているのか。テツヤ」

 …そうですよ、悪いですか。心の中で黒子は泣きたい思いでぶすくれて、今更のようにそんなことを言う赤司にはもう何も言ってやるものかとバニラシェイクを飲むことに専念する。
 赤司は全てを悟ったように微かに笑うと、黒子から視線を外して火神と戯れる降旗を見た。ちらりと見たその横顔も視線も、黒子には身に覚えがないほど、優しい。

(……君は、僕達の主将だったんですよ…)

 悔し紛れに呟いて、黒子はそっと俯いて目を閉じる。寂しい。もう違うのだと、過去形で思ってしまったことが、何よりも。





 どうしてかむくれた黒子とそれを宥める火神と公園の前で別れた後、降旗は赤司に振り返る。

「…よかったのか?」

 陰る表情に、赤司はそっと笑って。

「言っただろう? 今日のことは僕に非があると」
「でも…!」
「君も気づいていたはずだ。僕が何か思惑があって君に近づいたことくらい」
「…っ」

 口篭る降旗。沈黙は肯定。赤司はそんな降旗を馬鹿だなと、詰るでもなく思う。勘付いていたくせに呼び出しに応じて、その違和感が現実のものとなったのに赤司を責めもしない。それどころか元凶の無事を喜ぶときた。殴っても許されると言わなければ、このお人好しには分からないのだろうか。

「だからいいんだ。あの暴漢達は無差別に目をつけた君を襲って、僕はそれを退治した。それが今日の真相だよ」

 それが出会い頭に赤司が黒子に説明した、事の顛末だった。黒子は暫し目を眇めて考える素振りを見せたものの、一応納得したと頷いた。恐らく不審に思っているだろうが、それを言わないだけの分別はある。
 いずれにせよあんな目にあった男達が降旗にやられたと言いふらすことはないはずで、ならば勝者がどう事を隠蔽しようが敗者に為す術はない。降旗がバスケ部を辞める事態に陥ることはないだろう。

「これで暫くはテツヤや火神が君を一人にはさせないだろうし、これまでと変わらず週末には僕がこっちに来て君を守るしね」

 何も問題ない、と笑う赤司を、降旗は呆然と見た。その様子に、不満だろうか、と赤司は首を傾けた。

「言っておくけど、僕も君と負けず劣らず強いよ」

 生来の負けず嫌いが高じて赤司は武術も嗜んでいた。我流であそこまで強くなった降旗に通じるかは別の問題として、そこらの男達に負ける要素は一つもない。
 だから大丈夫だと言いかけて、あぁもしかして自分とはもう会いたくないのだろうかという可能性に思い至る。そう言えば嫌いだとはっきり言われた身だったと、赤司が遅まきながら思い出していると。

「…それは、ハサミとかなしで?」

 え? ―――唐突な問いに赤司は降旗を凝視する。その視線の先で。

「俺、人に武器向ける奴、嫌いなんだ。だから、そうじゃないなら…」

 斜め下に逸らしていた視線を上げてちらりと赤司を見上げた降旗は。

「…また一緒に、東京を散策してあげてもいいよ」

 そう言った後、ふにゃりと照れたように笑った。それは赤司が初めて見る、降旗の心からの笑顔だった。




 昼休みも終わりに近づいた頃、降旗、と廊下で呼び止められて振り返る。見れば火神が手を振っていた。何だろう、と近づくと。

「最近なんもないか?」

 耳打ちされた内容に、そのことかと苦笑する。

「大丈夫だって。みんな心配しすぎだよ」

 どうやらあの後、黒子はバスケ部全員に降旗がガラの悪い若者のグループに目をつけられて暴行を受けていたとを説明し、今後帰る時には必ず降旗を一人にしないように厳命したようだ。と伝聞調なのは、近頃のみんなの様子に疑問を持った降旗が火神に相談し、不憫に思った火神から又聞きしたからだった。

『じゃないと赤司君が皆さんの帰り道に立つことになりますから』

 さらりと最後に付け加えられたそれはとてつもない効力を発揮して、降旗は本来女子である相田が担うべき役割を掠め取り、部員に守られながら下校するという日々を送っていた。

「しかしお前も災難だよな」
「あぁ、うん…でも目をつけられるような俺も悪いし…」
「や、そいつらもだけどよ、ついでに赤司にも目ぇつけられてんじゃねぇか」

 火神は降旗が毎週のように赤司に会っていることを知っている。恐らく黒子からの情報なのだろうが、あまりそれを良しとはしていないらしい。赤司にハサミを向けられた過去をまだ少し引きずっているようだ。けれど、降旗は。

「…災難、ではないかな」
「ん?」
「あんなことがあっても、また会ってくれるって言われたのは、嬉しかったし」

 もう危険なことに関わりたくないと言われるだろうと思ってた。その予想を裏切って、更に自分を守るとまで言ってくれた赤司。とても本人に面と向かっては言えなかったけれど、降旗はあの時、泣きそうなくらい嬉しかったのだ。

「…まぁお前がいいってんなら、それでいいけどな」

 火神はそう言って笑うと、なんかあったら言えよ、とだけ言って自身の教室に帰っていった。その頃合いを見計らったようにポケットに入れていた携帯に着信が一件。ぱかりと開いて見てみれば、赤司からだった。

『来週、また東京に行くから』

 予想通りの、最初とまるで変わらない文面に、携帯の予想変換を重用しすぎと笑いながら、降旗は素早く文字を打って返信ボタンを押す。

「降旗、チャイム鳴るぞー」
「おー」

 クラスメイトが通りしな、親切にそう教えてくれて慌ただしく教室へ入っていく。見送りながら、降旗は送信完了の文字を見下ろして画面を指先で撫でた。
 直ぐに返信画面に戻ったそこに打たれた文字。それこそ、予想変換で一発で出てくるようになった字面を、降旗は毎回一字一字きちんと打っていた。言えなかった嬉しいとか感謝とか、色んな気持ちを込めて。

「女々しいと言うか、健気だねぇ」

 そんな自分に苦笑した途端。

「っと、チャイム!」

 校内に響いた音に背中を押されて、降旗は携帯を閉じてポケットに突っ込むと教室に駆けていった。

(もう俺のメール、見てるかな)

 そんなことを、思いながら。





 ―――無意味かもしれないその行為を、けれど止めようとは思わない。気づいて欲しいとも、思わない。

「ん、光樹からだ」

 教師がまだ来ていないことを確認して、赤司はそっと携帯を開いた。そして柔らかく笑む。

「また簡素な文面だね」

 自分のことは棚に上げて、と降旗がいれば抗議していただろうことを呟いて、赤司は携帯を閉じて頬杖をつく。

「まぁでも、及第点だ」

 気づかないふりをする。知らないふりをする。造作もない。それが望まれていることだと知ることも、赤司にとっては。
 だから今は何も言わない。

『待ってる』

 ―――この言葉が伝わるだけでいい。

 今は、まだ。





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 20120601





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