(七)




 空が橙に近づいた頃、どたどたとお世辞にも行儀が良いとは言えない足音が廊下から聞こえて、ソファに座ってテレビを興味津々に凝視していたコウキがふと顔を上げた。その時「あれ?」と首を傾げたのは、他にこの家にいるとすれば赤司で、その赤司は自分の隣に座って一緒にテレビを見ているからだ。
 しかし明らかに誰かが入ってきた音がしたのに赤司が頓着する様子はない。ならば家族のうちの誰かが帰ってきたのだろうか、と深く考えず、またテレビに視線を戻そうとした時。

  バタンッ

 これまた勢いよく、悪く言えば乱暴に扉が開いて、コウキは肩を跳ねさせて反射的にまたそちらを見ると。

「おっ邪魔っしまーす! お言葉に甘えて泊まりに来たっスよ!」

 そこには黄瀬や青峰など、コウキが初めてこの家に来た時に一緒についてきた面々が揃っていた。

「えっ?」

 目を見開いて驚くコウキを他所に、先頭を歩いていた黄瀬がコウキを見つけた瞬間、ぱぁっと顔を輝かせて半ばコウキに詰める寄るように近づき、まじまじとコウキの顔を覗き込む。その後ろからは紫原も一緒に好奇心に背中を押されて屈みこんできた。

「おー! ほんとだ! コウキっちでっかくなってる! すごーい!」
「ちっちゃくない…でも赤ちんとか黒ちんみたいでかわいー」

 嬉々として「どうやったの?」や、「耳は? 尻尾は?」と質問を浴びせかける黄瀬の勢いと紫原の静かな視線にコウキは圧されて後退るも、ソファに座っていることもあって実際離れた距離は望むほどもなかった。
 たじたじと怯えるコウキを見かねて青峰が「どうどう」と黄瀬を御しにかかる。黒子もそっと紫原の手を引いた。その隙を見てコウキは横に座る赤司の腕に縋り付き、

「な、なに? なんでいるの? なんで呼んだの? 来るのって、明日の朝なんじゃ…」

 涙目で見上げ、そう問えば。

「なんでって、さっきメール入れたら大きくなったコウキが見たいって煩かったから、じゃあ泊まりに来れば?、って」

 別に減るものじゃなし、と素気なく言われて、その言い様はなんだか気に食わないとコウキはぷくりと頬を膨らませる。不満を表情から見て取って、赤司はコウキからつと視線を逸らして言った。

「いいじゃないか。最後なんだし」

 と、静かに。





 一頻ひとしきりセイを懐かしんだ後、コウキと赤司は家路をとぼとぼと歩いていた。既に握った手は離されて、少しだけ寂しい気がしたけれど、気のせいだと赤司は思うことにした。
 交わされる会話はなく、時折電線に止まった烏が鳴く声をBGM代わりにして進む。そうして家まで後少しという所で、コウキがぽつりと言ったのだ。

『おれ、山に帰るよ』

 それはいつ言われるかと赤司が身構えていた言葉で、だから聞いた瞬間、安堵のようなものが赤司の心を駆け抜けた。穏やかに零されたそれに、救われてさえいた。

『…そうか』

 引き止めようとは思わなかった。コウキが求めるものはここにない。コウキはそれを分かっているし、また、赤司も自分が与えてやれるとは到底思えなかった。だからこれでいい。自分が彼の孫であることも、言わないまま送り出すつもりだった。

『黄瀬達が寂しがるな』

 あと紫原も、と微かに笑って言えば、コウキも仄かに笑う。

『尻尾触るのは止めて欲しいけどね』

 穏やかな会話だった。細やかで、下校途中のくだらない話みたいに。それでも最後を意識してみれば、あまりにも日常的すぎて切なくなる。
 まったくいつの間にそんな風に思うほど入れ込んだんだか、と赤司は心の中でまたほろ苦く笑い、話の続きに紛れ込ませるように聞いた。

『…いつ?』

 コウキはそうだなぁと空を見上げ、昔より狭くなったそこに何かを見つけようとするように目を細めた。

『できるだけ、早くがいいな。天気が良ければ、明日にでも』

 そうか。赤司は頷く。

『じゃあ最後に、あいつ等に会ってやってくれないか』
『…あの人達に?』
『急にいなくなれば哀しむだろうし、何も言わなかったと俺が恨まれかねないからな。…別れの言葉くらい、言ってやってほしい』

 コウキは笑って承諾した。

『征十郎が恨まれるのは、可哀想だからね』

 なんて、生意気に言って。それを最後にまた会話が途絶え、二人は並んでゆっくりと家路を進んだ。一歩一歩、踏み締めるように。





 一気に騒がしくなった部屋は、コウキが最初に来た時のことを思い起こさせた。とても懐かしい気がして、けれどそれがつい昨日のことなのだと気づいて驚いた。コウキが来てから結構な時間が経ったように思えるのに、実質二日と経っていないなんて。

「どうしました、赤司君?」

 隣りに立つ黒子の問う声に我に返る。あぁそういえば自分は今、みんなの夕食を作っているのだったと思い出し、いや、と短く返して調理を再開させた。けれど赤司の視線を追ってキッチンから見えるリビングの様子に気づいたのだろう、黒子はのほほんと笑って、黄瀬と紫原に囲まれてあたふたするコウキを眺め見た。

「遊ばれてますね。青峰君達も見てないで止めてあげればいいのに」
「…明日、晴れればコウキが帰るんだ。構うのも仕方ないよ」
「……寂しいですね」

 それに、赤司は何も返さない。黒子は気にせず続けて言った。

「コウキ君に言わないんですか?」

 何を、とは言わない。言わなくても通じることは承知だった。当然気づいた赤司は、お前こそ分かっているだろうにと言いたげに微笑んで。

「言わないよ。何も、言わない」

 コウキはセイを求めてここに来た。それで得たものは何もない。強いて言えばセイが既にこの世にいないという哀しい事実だけ。気づいていたと言いつつ、零した涙が僅かでも、突きつけられた現実はコウキにとって相当厳しいものだったはずだ。だから赤司は口を噤むことにした。ここで、彼との縁は断つべきだと。

「…過去に縛られ続けるのは、哀しいからな」

 含みを持ったそれに黒子は赤司を見て、言葉を紡ぐために小さく開かれた口は、けれど結局何も吐き出せずに閉じられた。再度リビングの様子を垣間見る。
 黄瀬に構われ、紫原に後ろから抱きつかれ、青峰に笑われ、緑間に呆れられているコウキは、慌ただしく表情を変えながらも、仕舞いにはしょうがないなという風に笑う。この光景も今日限りなのだと思えばじわりと心に来るものがあって、黒子はその輪の中に入りたいなとも思うのだけど。

「次、何作りましょうか」

 この人の傍にいてあげないとと、黒子はそこに踏み止まった。自分よりも誰よりも、心の中で複雑な思いを抱える彼の傍に。





 セイの夢を見た。とコウキは言った。それは二人向い合って昼食を食べていた時だった。明け方、それで一度目を覚ましてしまったのだと。

『…どんな?』

 一瞬、聞くことを躊躇った。それでも結局聞いたのは、思えば彼等がどのような交流をしたのか知らないという、子どもじみた好奇心からだったのだろう。コウキは疑問も持たず喋り出す。幼く、えっとね、と炒飯を掬っていたスプーンを唇に当てて。

『いつもの、セイの家に行く下りの夢だったよ』

 そう言って、当時のことを思い出したのか、コウキは柔らかく微笑んだ。目を閉じて、瞼の裏に思い出を見るようにして。

『セイの家にはいつも縁側から入ってたんだ。おれが真正面の入り口から行けるわけないし、最初にセイと会ったのも、その縁側からだったから。で、普通冬で寒いから閉めておくのに、セイはいつ来てもいいようにって少し隙間を開けててくれた。おれが恐る恐る障子を引くと、中にはセイがいるの。今から行くよ、なんて文を出せるわけもないからいつも突然現れる感じだったんだけど、セイはあまり外に出ない人だったんだね、大抵待っててくれて、「お帰り」って言ってくれた。とても優しく微笑んで、「待ってたよ」…って』

 ぱちり、と瞼が半ばまで開く。覗くヘーゼルが、やんわりと懐かしさに滲んだ。

『嬉しかったなぁ…』

 コウキは言う。セイの優しさに触れるのが好きだった。冬の寒さに侵された手を包んでくれるあったかい手が好きだった。狐の自分を彼と同じ人として扱ってくれたセイが、大好きだったんだと。

『そんな夢ばかり、見る。なんでもない、日常の…ただ傍にいて、セイの温かさを分け与えてもらった。優しさを貰った。コウキっていう名をつけてくれた、セイの夢、ばかり』

 嬉しいのに、涙が出る。そう言って、コウキはほろほろと泣いた。笑いながら、眉をハの字にして困ったように。

『…最後の日もね、普通に、別れたんだ。またおいでって言ってくれて、うんって頷いて…絶対また来るって、約束まで、したのに』

 ―――帰れなかった。雪の綺麗な日の約束は、雪みたいに溶けていった。世界中が寝入ってしまったかのような静かな朝で、耳に響く音なんてセイの声と自分の声だけだった。だからあの日に交わされた約束は、とてもとても、特別だったのに。

『おれが、約束を破ったんだよ…――』

 コウキは哀しく呟いて、涙を零し続けた。なのにまだ笑うから、見ている方が苦しくなる。泣くなと言いたいのか、笑うなと言いたいのか、乱された心では分からない。
 それでもやっぱり何も言えなかったのは、自分がどこまでも部外者だからだ。過去に泣き、そして笑う者に、現在いまを生きる自分が何か言えるはずもない。
 その思いで口を引き結んだ。さっきよりも遠い距離感が、手を握るどころか近づくことも躊躇わせた。それが仇になったのだろうか。

『…だけど、もういいよね…』

 しばらくして涙を拭い、コウキがふとそう言った。やっと自分を見て、笑みだけになった顔。それに心のどこかで安堵した自分を追い落とすよう。

『もう約束なんて、いらないもの』

 今にも壊れそうな笑顔で言われたその言葉に、呆然とするほどの衝撃を覚えたのは、一体何故だったのだろう。





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