(三)




 まだ平日の午前中だと言うのに、帰り道。まったく今日は数奇な一日だと、既に決めてかかっている赤司は先程から気になっていた後ろをちらりと見た。

「やっぱこの尻尾気持ちいいっスー!」
「やーだーっ」
「黄瀬君、コウキ君がすごく嫌がってます。ものすごく嫌がってます」
「二回言ったのだよ」
「大事なことだからねー」
「てか黄瀬、てめぇパーカーの中に手ぇ突っ込んでまさぐってっから、傍から見たらただの変態だぞ」
「変態じゃないっス! 今を時めくモデルっスよ!」
「あ、それを決めるの、僕等なんで」
「なんで黒子っち今日そんな冷たいのー!」
「今日に限定するあたり、黄瀬の頭のお目出度さが覗えるのだよ」
「黄瀬ちんはそこが売りでしょ?」
「や、やだってば! うひゃっ」
「…反論しつつ、お触りは止めないんですね」
「やっぱ変態だこいつ。変態モデル」
「蔑まないで!」

(…まぁ、いいか)

 騒がしいのは元々だし、彼等がいるお陰でコウキと二人きりだった場合に容易に想像できるいたたまれないほどの沈黙はない。コウキもさっきまでの物悲しい表情かおを捨て、尻尾を触られていることに対する怒りや気恥ずかしさを全面に出し、抗議するのに一生懸命になっている。
 これが計算してのことなら大したものだが、コウキを抱く黄瀬の緩んだ顔を見ればそうでないことは瞭然で、本当にただ尻尾に触れたかっただけだろう。だがそれでもいい。泣かれるのはどうも…困る。

『おれのこと、嫌いになったの――…?』

 あの一場面。あれは視覚と聴覚の暴力だ。悲痛な表情に声に、赤司はひくりと身を凍らせた。コウキの頬を伝う涙を拭ってやることもできなかった。

(…傷付けたかったわけじゃない。悲しませたいわけではないのと同様に)

 ただ自分に祖父は近すぎて、セイという名に心を揺さぶられずにはいられない。今までの経験と経緯から、それだけはどうしても駄目だった。
 でもどうしてだろう。出会ったばかりで、話に聞くばかりで、あの子狐のことをよく知りもしないのに、何故。

(あんなに胸が、痛んだんだろう)





 家に着き、おじゃまします、と玄関先で礼儀正しく言う者もいる中、脱いだ靴を揃えもしない頭が青と黄色の無作法者を無言で睨みつけて並べさせると、取り敢えず全員をリビングへと通した。
 季節柄汗をかいているだろうと気遣ってエアコンをつけ、茶でも出そうかとキッチンに立つ。カウンターで仕切られているからキッチンにいてもリビングは見通せる。逆もまた然り。リビングでソファに座り待つ黒子達が部屋を見渡して言葉を交わす。

「いつ来ても立派な部屋ですね」
「まぁ、部屋っつぅか家自体がもうでけぇしな」
「このソファ、俺が座っても大丈夫ー」
「外国製だからだろう。規格が違うのだよ」
「でも俺、未だに慣れないっス、この家…」

 緊張する、と苦笑する黄瀬を意外な思いで全員が見ていると。

「あれ、コウキは黄瀬から緑間に居場所すみかを移したのか」

 トレイに色とりどりの涼し気なグラスを乗せた赤司がリビングに移動してきて、危なげなくソファに囲まれたガラステーブルに置きながらそう零す。
 その視線はコウキへと注がれ、気まずげにもそりとコウキが身動いだ。そこは確かに緑間の膝の上。途端さっきの殊勝な笑みはどこへやら、黄瀬が形相を変えてけんけんと息巻いた。

「そうなんスよ! コウキっち、ここに着いた瞬間、俺の手からするりと抜けだして緑間っちのとこに行っちゃったんス! 緑間っちも満更でもない顔で受け止めるし!」
「お前の先ほどまでの所業が災いしたのだろう。俺に当たるな」

 と、唐突に始まった黄瀬と緑間の激しい視線の応酬の中、青峰達は我関せずと赤司に礼を言いながらグラスを手に取っていく。冷えた茶を一口二口飲んで喉を潤してもまだ睨み合う二人に何か言わねばと思ったのか、青峰が一言。

「まぁ、緑間もショタコンだからなぁ」

 としみじみ言えば、やめておけばいいのに、乗らないわけにはいかぬと次々といつもの具合に会話が進む。

「え、そうだったんですか」
「やだー」
「ショタコン!」
「嘘を言うな青峰! 黄瀬は黙れ」
「何をー!」

 喧嘩するほど仲がいい。仲良き事は美しき哉。使い古されたフレーズが赤司の頭をよぎる。だがここは広いとはいえ四角く区切られた室内で、開けた往来とはわけが違う。音が篭るし反響せずとも壁に阻まれ外に逃げない分、耳に痛い。
 それに気づかぬまま、頓着せず激化していく黄瀬と緑間の遣り取りと、やんややんやと煽る周り。騒がしいその渦中で、コウキははわわと身を竦ませていた。
 どうしようと顔を歪ませ自分が退けばいいのかと場所を移ろうとするも、黄瀬に対抗して無意識に力の入った緑間の腕からは抜け出せず、微妙にずれたパーカーのフードから見える耳が力なくへたり込む。
 際限なく続く喧騒に、とうとうぎゅっと瞑った目から涙が食はみ出しかけた時。

「どうでもいいけど、煩い」

 呟かれた、静かな声。例えるなら蝉が鳴く中で小鳥が囀ったような、その程度の音量だった。なのに瞬間音が止む。蝉が鳴くのを止めて樹から転げ落ちて死んだように、一斉に口が閉ざされた。
 コウキはそろりと目を開けて、恐る恐る周りを見る。全員が少し青褪めた顔で石のように動くことも止めてしまった中で、赤司だけが平然として茶を一口含んだ。
 コウキはきょとんとしてそれを見て、目があった瞬間、パッと下に逸らす。見えた色は、赤と黄。夕焼けの緋と、蜂蜜を溶かしたような黄色の瞳。
 同じだった。懐かしいほど同じで、哀しいほど同じで、泣きたいほど同じなのに、―――違う。
 コウキはもう、分かってしまった。あの言葉を聞いたからじゃない。何よりも瞳が違うのだと。
 瞳に、声に、視線に、手に、全てに春を宿していたセイ。それに対し、彼が持つのはことごとく冬だった。極寒の、山への人の侵入を阻み、セイやコウキの体温を奪い、綺麗で、でも残酷な、雪のような瞳。コウキが嘗て嫌いで嫌いで仕方なかった冬のそれ。
 きゅっと震える手を握る。首筋をエアコンの風が舐めてふるりと戦慄く。寒い――…怖い。
 そんな子狐の様子をなんとも言えない表情で見た赤司は、けれどそれを一つ瞬きの間で綺麗に消すと、止まったままでいる青峰達を見渡してにこりと笑んだ。

「別に普通に喋る分には文句は言わない。あぁどうせ口を動かすなら今朝の練習のおさらいでもしてもらおうかな。それとも手を動かして今日の授業の範囲でもやるか?」

 そこには、『色々あったけれど当然身を入れて練習しただろうな?』という裏の意味と、『その薄っぺらい鞄にも教科書が入ってるんだよね?』という言葉が隠れていた。
 誰もそれに応えない。恐れを引きずっているのもあるし、何より何人かはどちらにも頷けないという理由があった。
 鋭くそれを見て取って、はぁと赤司が吐息を零す。形ばかりで、本当に心底呆れたわけでないというのは重々承知だったが、どうにも赤司のいちいちが今はマイナスに働くらしい。尚更強張った五人と一匹の躰に、赤司は今度こそ大きく溜息を吐いた。





 仲間はいなかった。友達もいなかった。一人で立っていた。世界を統べる、王のように。

『…それはとても寂しいよ』

 言ったのは誰からか自分の現状を聞いた祖父だった。それはまだ冬に入りきらない秋の午後で、辛うじて立つことができた頃。

『寂しい、ですか』

 縁側に座布団を敷き、庭を見ながら日光浴をする祖父はずっと自分に背中を向けていたような気がする。拒まれていると感じたのを覚えているから、きっとそうなのだろう。
 祖父は常に自分と対面するのを避けていたように思う。それに傷ついた時もあった。今なら分かる。祖父は自分に色違いの目を見せたくなかったのだ。

『…分かりません。僕に、その感情は理解できない』

 真実、誰かを欲しいと思ったことはない。誰も欲しくないと、願ったことはあっても。

『だって必要ないんです。仲間とか友達とか、そんなの、』
『必要不必要で語れるものじゃあ、ないんだよ』

 …驚いた。祖父が人の話を遮るなんて。だが怒った風ではなかった。咎める響きもない。ただ言い聞かせるように、言い含めるような調子だけがあって。

『老いるのは哀しい。花が枯れてしまうのと同じくらい、寂しい。自然なことと知りつつ、割り切れない思いが確かにある…』

 唐突に話題が変わってしまったことに驚きつつ、当然続くとばかり思っていた話がそこで途切れたことに訝しんで眉を寄せる。と、祖父が立ち上がる素振りを見せた。あぁ疲れたのだろうかと、だから布団に横たわろうとしているのだろうと、そう、思った時。

『ッ…』

 がくり、と膝が崩れる。祖父が前に倒れ込む。老いた躰。細い身。枯れ木が風に吹かれて折れてしまうような容易さで、祖父の躰が傾ぐ。―――お祖父様。

『――…!』

 抱きとめる。幼い躰でそれができたのは、祖父が最後の最後で踏ん張ったからだ。自分の躰を押し潰してしまわないようにと、頑張ってくれたから。自分の力だけでなかったことに少しだけ自尊心を傷つけられた気がした。だがそれでも祖父を助けられたことには違いない。
 ほっと息を吐く。そして祖父がちゃんと立つ手助けをしようとすると、祖父はその場で膝をつき、自分の手を握った。節が目立つ細い手。半ばまで伏せられた瞼からほんの少し覗く紅葉色の目。皺の刻まれた口元が、ほんのりと持ち上がった。

『……ほら、ね』
『え…』
『今、必要不必要を、考えたかい…?』
『…あ…』

 何かに気づいた風な自分を、祖父は眼差しでそれでいいと語った。今は曖昧なまま気づきの状態で放っておいてもいい。きっといつかそれが理解の域にまで昇華いたるだろうから、と。

『征十郎』

 祖父は呼ぶ。優しい。枯れ木に花が咲くような、そんな柔らかさが酷く耳に心地よく。

『お前の手は、温かいね』

 祖父の言うことはいつだって抽象的で、核心をつく話し方をしてくれない。幼いながらにそれだけは少し不満だった。でも、ただ。その時の祖父は寂しくなかったのだろうということは、なんとなくだけど分かっていた。





 徐々に元の賑わいを取り戻した部屋も、夕陽が差す頃にはみんな帰ってしまって静かになった。
 だが帰り際、その静寂を裏切るほどの騒がしさで一悶着あった。黄瀬と、意外なことに紫原も、自分の家にコウキを連れて帰りたいと駄々をこねたのだ。

「俺が連れて帰るー!」
「捨て猫やぬいぐるみじゃねぇんだから」
「ゲーセンのUFOキャッチャーで狐のぬいぐるみを捕まえて帰るのだよ」
「え、じゃあ俺もコウちんお持ち帰りしたいー」
「…狐鍋? 狐うどん?」
「食べ物じゃないぞ、紫原」

 二人は子狐をすっかり気に入ったらしい。黄瀬はその尻尾とか毛に覆われた部分の触り心地の良さにノックアウトされ、紫原はどうも子どもの肌の柔らかさにときめいたようだが、如何せん、予想外の事態に赤司は目を覆いたくなった。まったく、と呆れたような赤司に、黄瀬は止めを刺すように叫ぶ。

「だって赤司っちの傍にいたら、コウキっち、怯えてちゃんと寝られないでしょ!」

 それはきっと本当だろう。帰り支度をし始めた五人の様子と会話から、自分はどうやらここに残らなくてはいけないようだと悟った子狐は、目に見えて青褪めた。視線は向けられずとも意識が自分の方に向いていると気づかないほど、鈍くもない。
 だが赤司としては祖父の言を最低限守ろうという気持ちと覚悟がある。それを知らぬのだから黄瀬の落ち度とばかりは言えないが、しかし、そうはっきりと言われれば赤司にもカチンとくるものがある。

「黄瀬…なんならお前もここで寝るか?」

 その時の形相を青峰は。

『永眠を約束します、みたいな顔だった』

 と後に語る。そんな顔を向けられた黄瀬だけでなく、騒いでいた紫原も、果ては他の三人と一匹も恐怖が伝染したように凍った。

「ご、ごめんなさ…」

 涙目で震えながらの黄瀬の謝罪に赤司は冗談だよとにこやかに笑ったが、まだ不機嫌の残滓は赤司の笑顔にも雰囲気にも漂って、一層恐怖を煽る。
 これ以上中てられてはたまらないと、挨拶もそこそこに五人は帰っていった。残されたのは、赤司とコウキの二人だけ。

「さて」
「っ…」

 五人が帰ってからソファの上でぴくりともしなかったコウキが、赤司の声にピキンと背を震わせた。もう隠す必要もないと、黄瀬にフードを下ろされて露出した獣耳が合わさってピンと立つ。何をしても恐怖が先立つコウキの様子に、赤司は苛立ちより呆れを感じて目を眇めた。

「別に取って食いやしないよ。別の国じゃあ食べることもあるようだけど、この国では狐を模した料理はあっても狐を食べる習慣はない。あまり美味しくないようだしね」

 当然赤司はコウキが自分を食べようとしていると思って躰を強張らせたと、本気で思っていたわけではない。言ってしまえば危害は加えないから安心しろという意味での言葉だったのだが、コウキは緊張か恐怖か、兎に角よく分からなかったようですっかり目を回してしまった。
 頭の出来は見た目そのままらしいな、と結論を下した赤司が。

「なんにせよ朝と昼にちょっと食べただけだろ。今から夕食を作るから、こっちにおいで」

 と呼べば、その言葉は未だぐるぐる考えこむ頭でも理解できたのだろう、よた、とソファの上で立ち上がり、降りようとした所で。

「ひ…ッ」

 ずるり、とソファのカバーに足を取られてコウキが倒れる。そのまま行けばガラステーブルへの衝突は免れない。迫る未来の凶器に、コウキはぎゅっと目を瞑った、が。

「よくよく足を踏み外す奴だな」

 すんでの所で赤司がコウキが着るパーカーの背中を掴んでいた。ぶらさがるコウキ。力いっぱい閉じていた目を、そろっと開く。その間に赤司はコウキを床に下ろし、膝をついて乱暴に掴んだせいで乱れたパーカーを整えていた。

「俺がいなきゃ、お前は今日で二回ほど死んでたぞ」

 脅すように言いながら、赤司はちらりと楽しげに笑う。そして最後の仕上げ、と言うように髪を梳いてコウキの頭を撫でた。エアコンで冷えてしまった髪に、人肌の温もりがじわりと染みる。…温かい。冬のような人なのに…、とコウキは驚いた面持ちで赤司を見た。
 同じで、違う人。そう思って、絶望して、怖かった。だと言うのに、今見上げる先の瞳に、笑みに、手に、冬の凍てつく寒さはない。違うのに、同じだ。まるで春の、―――セイの、ような。

「今度からは気をつけろ」

 と促された注意にこくりと無意識に頷けば、じゃあついて来いと言って背を向けた赤司。見上げたまま、動かないコウキは。

「―――お、おれっ、コウキって言うの!」

 遠ざかる背に、そう叫ぶ。赤司はそれを背に受けて立ち止まり、訝しみながら振り返る。

「…知ってるけど」

 真っ直ぐ向けられた視線にほんの少し怯みながら、けれどコウキはもう目を逸らそうとはしなかった。震える唇を噛み締める。耳と尻尾が天を向く。紅葉のような小さな手をぎゅうっと握って。

「名前、なんて、言うの…っ?」

 コウキはそう、赤司に問うた。セイではないと、子狐は心底了解して、そしてその上で赤司の存在を認めようとしている。赤司は瞬間的にそれを悟って、微かに目を剥いた。
 驚きにコウキをまじまじと見れば、出会い頭に泣いた目はもう涙を溜めてはおらず、火照る頬は気分の高揚と、いい意味での緊張を表しているように見えた。
 本当かは分からない。都合のいいように解釈しているだけなのかもしれない。だがいつまでも逸らされない視線に、赤司はコウキの覚悟にも似たその問いに答えてやらねばと口を開く。

「…征十郎だ」

 その口元は小さく、けれど確かに和らいでいた。





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