第十七話 落日故人の情

[ And I am Yours. ]


 ――…雨が嫌いだった。
 太陽を隠して滴るそれは鬱陶しくて、体温を奪っていくのが腹立たしくて、歩けば否が応でも跳ねる泥水も、苦々しく思っていた。
 生まれは農業しか取り柄のない、時代に取り残されたような山裾の集落。当然家が裕福なはずはなく、親子仲も決してよいとは言えなかった。家にいたくなくて、何かにつけて外に出ていた。しかし雨が降っていたのでは、それも適わなかった。
 躰が弱かったのだ。生まれながらにして、うんざりするほどの脆弱さ。雨天に外に出られないのはその所為で、薬代が余分に掛かるからと、その時ばかり関心を持つ親に引き止められるのも不愉快だった。雨に降られるより、家にいることの方が苦痛でならなかった。
 ――…雨が嫌いだった。
 それに拍車が掛かったのは光樹に出会ってからだ。光樹に会いに行けないというのもあったが、ある日、二人で遊んでいて俄雨に降られた時の出来事が、雨嫌いを助長した。
 光樹が、雨音が嫌いなのだと耳を塞いで泣いたのだ。閉ざされた暗闇セカイで延々聞いていた漣を思い出すからと、父のことを想わずにはいられないからと、細い躰を震わせて。
 ――…雨が、大嫌いだった。
 その俺を嘲笑うように、最後の日、あの時も、雨は降り続いていた。


 少しの距離を置き、少しの差で見下ろす真を、光樹は呆然と見ていた。真の言ったことを心の中で反芻する。言葉を飲み込む度、理解する度に、胸が震えて手が戦慄き、視界が振れた。もう何度流したか分からない涙が、また、妙に白い頬を滑り落ちて光樹を濡らす。
「…なんで、…そんな、こと…」
 縋る先を見付けられない指先の不安は、掌に爪を立てることで抛られた。
「だって…、だって、それで、血が、汚れたから、あの人達、すっごく痛い思いして…。その所為で、征だって辛い想い、したのに…!」
「…あぁ、知ってる。。…分かってて、やったんだ」
 全てを覚悟した藍墨の双眸が、穏やかに光樹の非難を受け止める真が、余計に光樹を哀しくさせた。何故だ、何故…!
「お前、そんなことする奴じゃ…――っ」
 ――…なかっただろうと、最後まで、言い切ることはできなかった。
『分かってただろ、光樹。お前とは違って、俺は変わっちまった』
 そうだ、…――そうだ。真の言う通り、全てを思い出した光樹は、最早何もなかったことにはできなかった。静謐な湖面を思わせる真の瞳も、厳しくそれを許さない。
(……ちくしょう…)
 涙が下向くと同時に伝って、嗚咽も自虐も閉じ込めた唇の横を過ぎる。記憶が詳らかになる度に、自分の行いの何もかもが悪い方へ転がっている気がしてならなかった。
(涼太達を哀しませたのも、征を縛り付けたのも、真を、こんなにしてしまったのも…)
 でも、違うのだ。真が変わったんじゃない。それは、それだけは、どうあっても違うと言える。
(俺が、お前を、変えたんだ)
 変わるはずはなかった、今日いつもを繰り返すはずだった。でも、そうならなかったあの日。
(あれは、真の学校帰りの道…)
 ――…時刻は既に、落陽の頃だった。


 夕暮れの太陽が燦々と照り付けて、田圃と言わず畑と言わず、地表を平等に朱色に染めていた。光樹は細めた目でその拓けた一帯を見渡し、真の声を背にしながら、土手を歩く。
 例の如く隠れんぼをしていた。さてどこに隠れようかと思案した矢先に蒲の穂の群生を見付けて、光樹はそこに隠れることにした。昨夜雨が降ったためにまだ足元は泥濘んで草にも水滴なごりが疎らにあったが、我慢できないほどではないと、躰を縮こまらせて身を潜めた。
 案外上手くいくと思った。いつか叱られた橙の着物を纏っていたが、この夕陽の色で分かるまいと、逆に紛れてよいのではないかとも考えていた。
 隠れながら耳を澄ませば、真の声が土手の上を行き来する。鴉の啼き声も遠くに聞こえて、傍らの川からは水音が絶えず聞こえてくる。さわさわと、風の戦ぐ音も同様に。
 それらの音に埋没するように暫し目を閉じていた光樹は、ふと不安を覚えて目を開けた。鴉も川も風もさざめくのに、真の声だけがふつりと切り取られたみたいに聞こえなくなっているのに気が付いたのだ。意識すればするほど、不安の程度は弥増した。
「真…?」
 恐恐と呼びながら、とうとう蒲の穂先から顔を出す。相変わらずの橙一色の世界の眩しさに目を細めつつ、立って辺りを見渡した。人っ子一人、鳥の影さえ見当たらない。
 それを認めた途端、淋しさが肌に心に押し寄せた。鳥肌が立つ。叫び出したいほどの寂寥感。広い世界に一人きりになってしまった気がして、真に置いて行かれた気がして、温かいはずの陽光が冷え、その色も、目に映る全てが、さぁっと急速に色褪せていくようなそんな気がした。
 その感覚を、光樹はよくよく知っていた。父を喪ってから真に出会うまでの孤独な二百五十余年の歳月が、そうだったのだ。
(嫌だ…、いやだ、もう、あんなのは…!)
 あれは寂しいものだった。独りで生きる毎日は辛かった。吹雪の止まぬ雪原のような、右も左も東西南北ほうがくも塗り潰された光樹の世界。それが、真と出会い、接することで、漸く個々の色を、春の暖かさを思い出した。やっと、取り戻したところだった。
 けれど、そうなんだよと光樹が何度言ったって、真は笑って取り合わなかった。恥ずかしがっているのとも違う、端からその可能性を否定した笑いだった。真は、自分を黒に染められた夜だと思っているらしかった。
(…違うのに。そうじゃない。俺にとって、真は…――)
 その思考の先は。
「―――みぃつけた」
 耳に届いた明るい声に攫われる。辿れば、土手の上に真の姿が見えて。
「今回は手こずらされたぜ。いつもそれだったらなぁ、…って、な、なに泣いてんだよッ」
 ぐったりと、疲労を覚えるほどの安堵に、涙腺が緩んでほろほろと涙が溢れて止まらない。しゃくり上げれば、真が周章あわてた様子で土手を駆け足気味に下って寄ってくるのが滲む視界に見えて、光樹はぽかんとした。その姿がいつもの澄ました真の印象とあまりにかけ離れていたからで、故に、自然と胸に込み上げる笑気を堪えることなんかできなかった。
 光樹は涙を眦に残しながら、くすくすと笑った。嘲りではなく、揶揄ったのものでもなかった。ただ、可笑しくて、嬉しくて、胸が痛いほどに、倖せで。
(あぁ、好きだなぁ、と、思った)
 真が、この日常セカイが、そう思える自分が、とても、とても。――…だから。
「ぅわ…ッ!」
 真のいない日々など嘘なのだ。
「……真?」
 そんな世界は、要らなかった。


 自我とか自意識とかいうものを自身の内に認めて以降、真が己の躰の羸弱るいじゃくさを恨まない日はなかった。
 小さい頃から既に外で遊ぶことはなく、学校に行くようになってからも、真は独りだった。いくら試験の点数がよくたって、誰も褒めてくれやしない。家ではそれが飯の種にでもなるのかと邪険にされ、学校ではひ弱な癖にと僻まれる。教師にも、体育にも参加できないその躰では仕方ないと見捨てられた。
 そこらの幼児にさえ劣るこの躰が疎ましくて、胸にはいつもくらい感情が鬩いで苦しかった。泣くには自尊心が高すぎて、いつしか他人ひとを見下すことで平静を保つことを覚えてしまった。それこそ惨めなことと知りながら、でもそれを認めてしまえば、もう立っていられないと思った。だから知らない振りをし続けた。そうして生きていこうと。
「―――じゃあ、隠れんぼしようよ」
 あっけらかんとそう言い、それだったら走らなくても遊べるね、となんでもないことのように言って真の手を引いたのは、決して短いとは言えない人生の中で光樹が初めてだった。強引に、と言うより、それは促すように。立つのを手助けする程度の力加減で、光樹は暗闇にどっぷりと浸かっていた真を掬い上げ、救い出してくれた。
 それをそうと知らないまま、気付かないまま、光樹は「真は俺を照らす太陽だね」と呑気な顔で言う。聞いて、「何言ってんだ」と瞬時に笑い飛ばしてやった。違う、違う。それを言うなら光樹こそおれを照らす太陽つきなのだと、言わないまま、思っていた。
 そんな光樹とする隠れんぼは、飽きるほどしたと思うのに、何度やっても楽しかった。時に体調が思わしくなく、代わりとして読書に時間を費やすのも悪くはなかったが、やっぱり光樹となら隠れんぼが一番だった。例え光樹が。
「みぃつけた」
「……真、ズルしてる?」
「してねぇよ! だからなんでお前は橙の着物で草叢に隠れるんだ! 頭使って隠れろって何回言わせんだよ!」
 探す方は兎も角、隠れるのが壊滅的に下手だって。
(でもそんなやりとりも、嫌いじゃあなかったんだ)
 出会ってから一年経ち、二年が経っても、ずっとそうだった。その二年で真は拳二つ分身長が伸び、見上げていた光樹と身長が並んで目線がになった。…それはつまり、光樹が二年で少しも成長しなかったということに、他ならなかった。
 あぁ、のだな、と真が本当に実感したのは、多分その時だ。人のようでいて、結局人では在り得ない。光樹と自分の生きる世界は別なのだと、突き付けられた気がした。
(そう気付いた時、その時、俺、は…――)
 …あれ、何を思ったのだっけ…、と過去を手繰る真の耳に、光樹の呼び声が遠く聞こえた。それに促されて、沈殿していた意識がふわりと浮上する。
 なんだ、自分は眠っていたのかとその感覚に知り、そしてそのまま微温湯の眠りに揺蕩っていたいという抗い難い欲求に駆られながらも、光樹が呼ぶのであればそれを押し殺すのに吝かでないと重い瞼を押し上げる。
 寝醒めれば、映ったのは夜の黒。感じたのは想像以上の寒さだった。ふるりと身を震わせて幾度か瞬きを繰り返す。眦の引き攣る感覚に、余程眠っていたのだろうかと考えたが、さて何をしていたかの記憶が定かでない。
「……真」
 また目を閉じて空白の時間を思い出そうとするも、光樹の声に呼び止められる。よって一旦それを諦めて声を辿り、首を僅かに回したところで、どうやら自分は光樹に膝枕されているらしいとやっとこさ気付いた。…どうも、頭の巡りが悪い。躰も重く、動かすのが億劫だ。まったく何をしていたのやら、と考えつつ光樹を見上げたが、夜の所為か、それとも、月光を遮るほど密集した樹々の葉の所為だろうか、顔が翳ってよく見えない。
 なのに、どうして、だろう。
「こうき…?」
 声を出せば、何故か喉がひりひりして、掠れて、それは気になったけど、それより。
「なに、泣いてんだよ…」
 光樹が声もなく寂しく泣いているのに気付いてしまえば、意識は全てそちらに向いた。
 動かし辛い躰を捻り、腕を伸ばして、光樹の頬に寄せる。熱い涙が指に触れ、腕を伝って袖を濡らす。何も言わず、されるがままだった光樹は、暫くしてそろりと手を動かし、真の手にそっと重ねた。壊れ物に触れるかのような、恐恐としたその動作。似た体温が交じり合うのを感じながら、真は只管、光樹の返答こえを待つ。
 不思議と心は凪いでいた。何を言われても怖くない。そう思った。その頃には思い出しかけていたからかもしれない。意識が途切れる前、何が、あったのか。
 だから真っ直ぐ光樹を見上げていた。指先で溢れる涙を拭う。その意味を、光樹はちゃんと分かってくれたようだった。少しの後、ごめんねと、震えを押し殺した声で囁いて。
「俺、ね、真を…――」
 その瞬間、さぁさぁと吹いた風が樹々を揺らし、葉を靡かせて、月光がその合間を縫って翳る光樹の顔へと差した。光樹は真を見下ろして、静かに微笑んでいた。泣き笑いのそれが少しして啜り泣きに変わり、夜を揺らす慟哭に至るまで、然程時間は掛からなかった。 


 天と地を繋ぐ細い雨が、あの夜の風を真似てさぁさぁと涼やかな音を奏でる。耳にしながら、真は俯いてしまった光樹の頬に指を這わせた。滴る涙が、指先を焦がす。
「…間抜けな話だよな。滑って転んで、川に落ちる、なんてさ」
 自嘲を含ませて言う真を、光樹はつと顔を上げて見た。何かを言いかけて、できずに、光樹は震える唇を引き結ぶ。伏せた睫毛が新たな涙を押し出して、真の指をまた濡らした。
『―――真!!
 …あの時、焦って土手を下っていた真は、光樹に近付こうとしてそこらに蔓延る滑った水草に足を取られたのだ。川縁でひっくり返った真が川に落ちたのは、自明の理だった。
 二人とも、立っていた所が、転けた位置が、悪かった。人気のない場所を選んで遊んでいたのも悪かった。その上、前日に雨が降っていたのは、運が悪かったとしか言い様がなかった。水嵩を増し、勢いを増していた川の流れは、細く軽い真を易易と連れ去った。光樹が必死で追いかけ、助けだした頃には、…――。
「…まこと」
 ……助かるはずは、なかった。
「真」
 その彼が生きている。
「ごめんね」
 それは。
『俺、ね、真を…――
 自分が、どこまでも、弱かったから。


 誰に教えられたわけでもなく、光樹はその方法を知っていた。父の血を飲んだ時のようにそれは息をするほどに身に沁みた動作で、そして現実を受け止められなかった光樹には、甘すぎる果実だった。
(だって、まだ、子どもだった…。恋も知らない、丁年せいじんにも至らない。躰が弱いとは言え、あんな死に方はあんまりだ…!)
 だから――…、なんて理屈が罷り通らないことくらい、光樹にも分かっていた。
 そもそも生物として過ぎるほど存える躰を、それを許す血を、光樹自身、疎んでいた。光樹は人間ひとでいたかった。人として生きて、人として死にたかった。父の願いを知ってなお、何度言い聞かせても、痛切に思う。
 その自分が、真を同じ荊の道に引き摺り込んだ。痛みを知るからこそ踏み留まるべきだったのに。…そう悔いたところで、自己嫌悪しても、最早何もかもが手遅れだった。
『覆水盆に返らず。起きちまったことは、なかったことにはできないんだぜ』
 真に教わった、その言葉通りに。


 もうここにはいられない――…。流浪することとなった二人の日々は、平穏の仮面を被って過ぎていた。暫く、それは五十年と言う、光樹の生きた年数を鑑みれば僅かな期間。
 その間に、光樹は真に自分の知る全てのことを教えた。獣の狩り方、喉の乾く間隔、血の飲み方に、共有する血の優劣と血が内包する繋がりちからの構造について。
 それらが真実、真が知るべきでない知識と理解した上で与えたのは、底のない罪悪感がそうさせたとしか言い様がない。それが償いにならずとも、何かせずにはいられなかった。
 だが四十しじゅうを過ぎれば負い目も段々薄れていった。変わらず慕ってくれる真の態度に許された気がして、光樹は徐々に哀しく笑うのを止めかけていた。
 長くも、まして短くもない五十年という歳月。長閑だった、平和だった。それが凍った水面みなもに映り込んだ桃源郷だと、気付けないくらいに。


 春夢を真似た日常セカイの崩壊は、銀盤が水中に落ちるように、緩やかで、穏やかだった。
「真っ」
 あと一滴、雫が垂れたら溢れてしまう水杯さかずきに、それは似て。
「まこ、と…――?」
 その一滴の衝撃を与えたのは、光樹だった。
「お前…、……なに、して…」
 五十の節目の日を何日か過ぎた頃。一人で血を吸いに行くことが多くなった真を心配して光樹は後を追った。真の血の気配を辿って、山を駆け下りた。
 夜だった。月はなく、灯りと言えば星くらいなもので、故に樹々や道、家屋が、黒の濃淡のみで浮かび上がる中、紛れるようにひっそりと佇む真の後ろ姿を見付けて声を掛けた光樹の声は、途中から失速し、終には弱く朽ち果てた。
 見たからだ。見えたからだ。闇を物ともせぬ吸血鬼の目で、その、を。
「こうき…」
 振り向いた真の、疲れ切った顔、虚ろな目、黒く濡れる両腕に、その足元には、つい先程まで、生きていたはずの――…それら全てが、哀しいほど、具に。
(……
 光樹は瞬時に悟った。悟らざるを得なかった。それ以外に、ないと思った。
 ―――あの日の過ち、己の罪を、贖う日が遂に来た、と。


 頬を触れる真の手に、光樹はいつかの夜のように、そろそろと自分の手を重ねた。征とは違う大きな手と、少し神経質そうな細い指をなぞる。…覚えている。忘れられない。自分はずっと、この手を握っていたかった。いくら血に塗れていようと、果てのない夜に生きようとも。疵と痛みに裏打ちされた仮初めの幸福だって構わなかった。全てを思い出した今でもそう思う。…だから。
「今からでも戻れるよ、戻ろうよ…」
 また一緒に、いようよ…。
 今度こそ離さない。今度は間違えない。だからだからと、どこまでも身勝手な願いを言い募る光樹にも、真は夏の夜に似た双眸を柔らかく細め、優しく笑ってくれる。
 叶えられるだろうか。聞き入れてくれるのだろうか…? そう浮かれていられたのは、ほんの、ほんの僅かな間だけだった。
「ぐ、ぅ…ッ」
 一瞬、それは、呼吸の仕方を間違えたかのような音に聞こえた。次いで小さく呻く真。咽る様子に、光樹が背中を擦ろうと膝頭を進めてにじり寄れば、何故か真は拒むような仕草をした。手を払い、体重を背に預けて離れる。見る間に眉間に皺が寄り、苦しげに咳き込む。喉の辺りで藻掻く指先、荒れた爪が、肌を容赦なく傷付けた。
 そんなことしたら、血が…――言おうとして、しかしその言葉が世に生み出されることはなかった。
「―――…っ、ゲホ…!」
 べチャリ。滑った音が吐き出される。見慣れたそれよりなお黒い、血。どこから。真の、口から、吐き出されて…――。
「え…?」
 呼んで、するりと落ちかけた手を握って縋り付くしかない光樹を、真は脂汗を流しながら、血を垂らしながらも笑いかける。強がりであるのは、目に見えて明らかだった。
「…は、は、…わりぃ…、かかっちまった…」
「喋るな、血が…!」
「喋らせろよ」
 思いがけず鋭く遮られて、息を、呑む。言葉を奪うその声が、あまりに真摯で。
「……もう、最期、なんだからさ」
 そう言う声が、あまりにも、優しかったから。
「や、だ、いやだ…っ、そんなこと、言わないで…」
 枯れたはずの涙が、またぽろぽろと、ぽろぽろと、幼さを捨てた輪郭を伝う。その癖可笑しいほど昔と変わらない泣き顔に、真はふっと微笑んで涙を拭ってやりたいと思った。けれどもう、躰が言うことをきかない。本当は視界もぼやけて、光樹の表情も漠然としか分からなくなっていた。自分が言った以上に、予想より早く、終わりが近いのだ。
 ――…あぁ、だから。
「…悪かった。お前をいっぱい、傷付けた。心も、躰も…。…痛かったろ」
 だから、早く。
「そ、んなの…っ」
 伝えねば。
「―――…好きだった」
 それが恋なのか、兄弟愛のようなものなのか、親友に対するものなのか、もしくは全てを引っ括めた愛だったのか。真にも本当のところは分からない。言ってしまえば、全部が不均等にごちゃ混ぜになって煮崩れた感情とでも言った方がいいのかもしれなかった。…それでも、いい。何であろうと、抱き続けていた想いが、今更変わることもない。
「お前が…、光樹が、…好きだった」
 だから、ありがとう、ありがとう、…ごめんな…――その全てを込めて。
「まこ――…」
 時間のなさを言い訳に、前触れもなく口付ける。最後に、最期に。息も、意識も、奪うように。
 光樹の涙と真の血が混じったそれは、酷く塩辛く、なまぐさい。…それが、哀しい。
(俺はどこまでも、半端者ってことか…)
 最初からそうだった。最後までそうだった。結局、光樹を傷付けただけの人生だった。
(はは…ッ、…畜生が)
 そんな心算じゃなかったのにと、小さく吐き捨て、嘲笑わらいながら、―――真はずるりと、地に伏した。


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