第十六話 浮雲遊子の意

[ You Are Mine, ]


「―――何ぞ未練でもあるん?」
 不意にそれまでの会話をぶった切ってそう聞いてきたのは、狐目の男だった。
「……」
 今更何をと窺うように視線を遣っても、問うた割に興味のない素振りで他所を向いていて、そんな奴に馬鹿正直に返すこともないと、口を噤んで言わずじまい。
 けれど、そいつの言うことは決して間違いではなかった。未練ならある。腐るほどある。でも多分、自分を突き動かす理由はそういうものではなくて。
「ただ単純に、会いたいんだろう」
 にこにこと笑う男の言うそれが、きっと正解なのだ。…断定口調なのが癪だから、頷いてやらないけれど。
 …そう、会いたかった。どんな手を使っても。誰を傷付けても。
(それが…――)
 あいつ自身を傷付けても。


 ある時から、村の外れの森で異国の少年を見たと言う噂話を聞くようになった。
「髪が茶の色なんだと」
「目も普通と違うんだよ…、黒じゃなくて、月の色みたいな…」
「嫌だねぇ、余所者が住むなんて」
「いや、人ではないかも知れん…」
 道を歩けば、そんな話を一つ二つは必ず聞いた。化生だの鬼だのと、村人はひそひそと言葉を交わしては、その人でないものに聞かれているかも知れぬと恐れるように、周りを見渡し、首を竦ませて三々五々散っていく。
「……アホらし」
 首をコキリと鳴らして、言い捨てる。人間じゃねぇって、じゃあ何だ。鬼なんか見たことあんのかよ。つーか。
(外見だけで嫌ってんじゃねぇっつーの、バァカ)
 そう思ったのは、斯く言う自分も、目付きが怖いだの蛇みたいだの、幽霊みたいだのとよく言われるからかもしれない。そんなの、どうしろってんだ。
 だから少し同情的だった。見知らぬ子どもはこれまでもそう指差された所為で、こんなど田舎の森に身を隠したのではとも考えた。
(でも、それは甚だ間違いだったわけだ)
 竈の火に使う薪を拾いに森に来て、疲れを覚えたからとそのまま樹の根元に座り込み、夜まで眠りこけてしまった昼間の自分が恨めしい。とっとと帰って家で眠ればよかったんだ。そうすりゃあ。
(こんなもん、見ずに済んだのに)
 大人一人分の距離を置き、星の瞬きで暗がりにもなりきれない闇の中、はいた。
(ふはっ…、ツイてねぇ)
 笑ってしまう。思って喉奥を震わせた笑声は、けれど世界に生まれないまま、恐怖にこごって朽ち果てた。
(あぁ、こりゃあ確かに、人じゃあねぇ)
 ―――鬼だ。
 獣を食み、口元に血を滴らせたその姿を、他にどう表現すればいいのか。
 躰は硬直して、ぴくりとも動かなかった。震えるほどの余裕もなかった。だから物音などしなかっただろうに、それでも見付かったのは、鬼が鬼であったからなのだろう。
 灰青と黄金こがねの双眸がぶつかり合う。そのまま凝と見詰め合うこと、少し。
「……内緒にしてくれると、助かるんだけど」
 獣を口から離した鬼は、夜風に似たその声で、確かにそう呟いた。理解して、思いがけず酷く平和的な申し出に、食べられるのか、殺されるのかと身構えていた緊張がぷつりと切れる。
「…は、あ…?」
 その安堵から気の抜けた返事をすれば、鬼は何を思ってか、ずいっと手に持っていた獣を差し出して、「これあげるから」と言ってきた。…口止め料の心算らしい。
「いや…、……まぁ、貰っていいんなら、貰うけど…」
 干物にでもしようかと考えながらおずおずと受け取れば、こしこしと手の甲で口周りの血を拭っていた鬼が、小さく、本当に小さく、しかし確かに柔らかく片笑んだのを見た。
 その笑みは人のそれにそっくりで、噂通り茶の髪に、月光に似た光が瞳を彩る奇怪な容貌も、けれど落ち着いてみればさほど怖いものではなかった。髪や目の色を気にしなければ、そいつはまるきりただの人の子のようで、綺麗だとさえ、思った。…擬態だろうか。錯覚だろうか。紛い物、なのだろうか。
 疑った、身構えた。でも、もう不思議と怖さはどこかへ消えていて。
「……なぁ、アンタ、名前、なんて言うの?」
 だから、だろうか。ふと、思ったんだ。
「俺は…、―――俺は、花宮真ってんだ」
 こいつのことを、知りたいと。


 歯で傷付けた唇を薄く開け、涙を湛えた目を見開く光樹に手を伸ばす。瞬間、ひくりと喉を鳴らして身動いだのは、自分が怖かったからだろうか。
 …あんなことをしたんだ、無理もない。そう諦めた振りをして、理解した気になって、あと少しの距離にあった指を引き戻そうとした。最早自分に触れる権利は、ないのだと。
 ―――なのに。
「まこと」
 その躊躇いは何だったのかと、殊勝な心をどうすればいいと詰りたいほど、光樹は微塵の迷いなく自分の指を追いかけ、絡めて、引いて。
「まこと、まこと―――真…!」
 抱き付いて、きた。強く回された細い腕。段々と潤んでいく声。頬を擽る、榛の髪。…あぁ、懐かしいな、…懐かしい。
「ごめん、ごめん…っ、俺が…――!」
 泣き虫なところも。全部、自分で背負ってしまうところも。
(それは、俺が言うべき言葉だろうに)
 光樹の肩に顔を埋め、抱き寄せてくつりと笑う。…まったく、どうして、お前は。
「……変わんねぇな、…光樹」
 …でも、そうだな。そういうところが、俺は…――。


 それから夜に森を訪れると、気紛れに鬼が姿を現すようになった。案外素直な性格らしい鬼は、問えばぽつぽつと答えてくれた。名を降旗光樹と言うのも、各地を転々としていて、少し前から森に住んでいることも、昔は海のある町で生活していたことも、八時に起きて十一時に寝る習慣は、男手一つで育ててくれた父親がちゃんとした生活習慣を身につけさせようとした賜物だということも。そしてその、日本人離れした容姿についても。
「髪は元々、目は、…父さんの色だよ」
 鬼は―――光樹はそう言って、真からそろりと目を逸らして俯き。
「父さんを殺して、手に入れた虹彩いろだ」
 ポツリと、言った。小さく、葉擦れの音にも掻き消えてしまいそうなほどに、細く。
「……どう、言う…」
 言葉はみっともなく途中で途切れて、最後まで続かない。光樹は真を見ないまま、そのままで一つ息を吐き出した後、滔々と語りだした。
「…ある日、近所の子と遊んでた。女の子で、俺よりも小さかった。その少し前に村で婚礼があって、それがよほど印象的だったらしい。…結婚してくれとせがまれた」
 私と一緒になってと、辿々しく、幼いながらも、懸命に。
「俺は、いいよと言った」
 遊びの範疇だと思ったし、無下に断って泣かせたくもなかったと。
「それは、なんてことない、子どもの言葉だ。飯事程度の、いつかは笑い話になるはずの、ただ、それだけのことで…。でも少し、…そうだな、母が失踪して過敏になっていた父の心を刺激してしまったんだろう」
 夕時、そんなことがあったと父に喋った。浅慮にも、笑って、楽しそうに。
「その晩に、どこにも行くなと、借りてた海の近くの納屋に閉じ込められた」
「――…!」
「幼いなりに抵抗はした、嫌だとも言った。けど、聞き入れてはもらえなくて、気付けば縄で繋がれて、足を折られた。腱も切られた。…逃げようもなかった」
 しかしそのことで父を恨んだことはないのだと言う。仕方のないことだったと、諦めた顔で言う光樹の横顔は、夜のように、静かだった。
「窓は板で塞がれて、明かりは僅かしか入らなかった。聞こえるのは荒れた海の音ばかり。暗がりでそれを聞くしかない日々は辛かった。いつしか時折入る陽の光さえ、恨むくらいに…。でもそれは、後から考えたら都合がよかった。自分の躰が傷んでいく様子も、腐っていく様も、見なくて済んだから…」
「腐っ、て…?」
 思わず口を挟んでしまった真を暫くぶりに見た光樹は、にこ、と口端を持ち上げた。それが心からの微笑でないことは瞭然で、言葉と共に、真の心を軋ませた。
「今じゃ綺麗なもんだろ? 怪我なんか、一度もしたことないみたいに」
 言って傷一つない腕に指を這わせた光樹は、遠くを見る要領で淡い黄昏の目を細ませた。
「でも、違うんだ、そうじゃない…。父さんに殴られて、蹴られて、手当を受けなかった躰は、確かに腐ってた。死ななかったのが奇妙に思うほど、傷付いて…」
「じゃ、あ…、なんで…」
「……父さんが、自分の血を俺にくれた」
 とろりと、ふたつの月が揺れる。声も震えて、それは凪いだ水面に初めて波紋ができたかのよう。じわりと滲んで、ゆるりと潤む。
「ごめんねって言って、俺を抱き締めて、自分の首筋に、俺の歯を突き立てた。…俺は、それで何をしたらいいのか、不思議と知ってたよ。そうするのが当然のように」
 ―――父さんの血を、啜ってた。
 そう言って、その時を思い出したんだろうか。光樹は自分の両腕で、自分自身を抱き締めた。拙く、でもどこか、縋るように。
「我に返って父さんから離れた頃には、父さんの血は殆どなくなってた。なのに父さん、笑うんだ。笑って、俺の頭を撫でて、そして…」
 海に、身を投げた。
『ごめんね…――光樹…』
 …どうしてだろう。どうして、どうして、そうなってしまったんだろう。ただ、ずっと、一緒に生きたかっただけなのに。それができないならせめて。
(一緒に、死にたかったのに)
 それを、それさえ、分かっていたのかもしれない。
『でも、生きてね』
 父のその最期の言葉が、後を追いかけようとする度、躰をこの世に縛り付けた。
「…父さんは、知ってたんだ。俺のこと、全部。俺の心の弱さも、俺が、ただの人間じゃなくて、血を飲めば大抵の傷が治るような、そんな、化け物だったってことも…」
 ぎゅっと腕に爪を立てるその姿は、化け物と言ってしまうには幼くて、切ない。とうとう堪え切れずに零れた涙が、まだ丸みを残した頬を滑っていく様子さえ、哀しかった。
「それまで、辛うじて人間だった俺は、その時完全に人間ひとじゃなくなった。眼の色も、変わって…。…そう、元は黒色だったんだよ。真のように、ね」
 懐かしむ顔を寂しさに歪め、ほろほろと、ぽろぽろと、泣く光樹は。
「俺のこと、怖くなった?」
 また感情こころの篭もらない笑顔を真に向けて、白々とそう聞いてくる。それがやたらとムカついた。頭にきて、胸の辺りが苦しくて、…だから。
「…怖くねぇよ」
 ぶっきら棒に、言ってやった。
「お前のことなんか、ちぃっとも、これっぽっちも! 怖くねぇっつーの。大体なぁ、餓鬼みてぇに泣く奴のどこが怖いってんだ!」
「な…っ、お、俺、お前よりずっとずっと年上なんだぞ!」
「知らねぇよ! つかだからなんなんだ。それで今泣いてる状況が覆んのかよ」
「泣いてない!!
「お前涙でぐっちゃぐちゃの顔でよく言えるな! 覆水盆に返らずって知ってっか!?
「な、何それ…」
「馬鹿か!」
 …そこからはただの子どもの言い合いだった。笑えるほどどうでもいい意地の張り合いで、どっちもが妥協しなくて。そんな馬鹿馬鹿しい応酬は、息が切れるまで続いて…――。


(――…そして、そうして、…どうしたのだったか)
 長い回想の果て、その先に思いを巡らせようとした時、ふわりと襟足を触れられた感触を得て、閉じていた瞼をゆっくりと開く。抗議の声を上げずにいると、我が意を得たりとばかりに、さわりさわりと遠慮のない指が絡められる。擽ったく感じて、首を竦めれば。
「…真も、変わらない」
 涙ぐむ声が、仄かに笑う。
「優しいまま…、綺麗な、まま…」
 昔のままだよと、細く零されたそれに、あぁそうか、と雨でできた地面の潴溜みずたまりのように濁っていた記憶が、唐突に華やいだ。
(何故俺に話したのかと、聞いたんだった…)
 あの後、とうとう二人して疲れて地面に座り込み、息を整える間に自然とできてしまった沈黙がどうも居心地悪く、繕うように聞いた。あんなことを話して、よかったのかと。問われた光樹は、涙に濡れた睫毛をぱちぱちと瞬かせて、少し、考える様子を見せた後。
『…俺、母さんの記憶はないけど、父さんが言ってたんだ。母さんの髪は、絹のようにさらさらで、墨のように真っ黒で、とても綺麗だったって』
 だからかな、と笑った。泣き腫らした顔をふわりと柔らかくして、朗らかに。
『俺が想像してた母さんの髪と、真のが、ぴったりだったからかな』
 やっとやっと、心からの笑顔を浮かべて、そんな、ことを。
 …懐かしい。愛おしい。胸が痛いほど、軋むほどに。――…あぁ、何故なら。
「……変わったよ」
 抱き竦めていた自分の腕を緩め、光樹の指を解き、遠離る温もりにさえ痛む胸を知りながら、真は月色の目が微かに大きくなったのを、腕の分だけ離れた先に見る。
「お前達のところに、五人、吸血鬼が行ったろ」
 その僅かな距離すら厭わしい。
「…あいつらの血に細工するよう仕組んだのは俺だ」
 離れたくはなかった。一緒にいたかった。この腕で、抱き締めていたかった。
「木吉と今吉がお前をここに連れてきたのも、忘れた記憶を思い出させるために強引な手を使ったのも、…全部、俺が頼んだからだ」
 ずっとずっと、…ずっと。
「分かってただろ、光樹。お前とは違って、俺は変わっちまった。…もう、戻れねぇ」
 それは今も。そして。 
「だからお前を手放したんだ」
 ―――あの時だって。


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