エピソードⅧ 雪に徒花

[ An Abortive Flower In The Snow ]


 彼は言った。赤く紅い髪を靡かせ、朱く緋い瞳を細めて、一言。
〈お前が欲しい〉
 …求められることは、嬉しかった。彼がどう在れ、何者たれで在れ。
(その彼を、恨んではいない。憎んでも、いないのだ)
 喩え知らぬ内に吸血鬼なるものにされていたとして、異国に連れ出されていたとして、そして眠る内に百代の時が過ぎていたとして、既に、己を知る誰もが死に絶えていたとして。
(それが、彼の策であったとしても)
 恨んではいない。憎んでもいなかった。
(言うなれば、ただ、哀しかったのだと思う)
 元々、家に馴染まぬ身だった。家業が特に好まなかった。父と母、兄弟皆好きだったけれど、仕事を強要されることは、生まれた時から将来を定められているのは嫌だった。
 好きに生きたかった。好きに日々を過ごし、時に恋をし、全てで愛し、そして、安らかに死にたかった。家業を継いだのでは、それらを望めなかった。
 家から逃げ出したかったのはそのためだ。その欲求は、兄が一人死に、妹が二人死んだ頃から更に強くなっていった。だから。
(恨んではいないのだ。憎んでもいない。それを悔いる心を持たない己は、別として)
 彼が差し伸べた手を取って逃げた。夜を駆けて、時を翔けて、二度と誰の手にも届かない未来ところへ逃げ出した。この身があやかしの類となろうとも、死から遠離ろうとも、二度と国に帰らない約束も、特に問題ではなかった。心を痛めるものでは、なかった。
 彼を愛し、愛され、子も儲けた。中々彼の親族と打ち解けることはなかったが、幸運にも自身の子が生まれて数年の内に生まれた二人の一族の子等は、人懐っこく、己にも無垢な好意を寄せてくれた。嬉しかった。幸せだった。…あぁ、けれど。
(哀しみを覚えたのも、その頃だった)
 吸血鬼と人間との戦いが激化していた。既に当主であった彼も参戦を余儀なくされた。戦に出る彼は暫く戻れないだろうと言い、ならば連れて行ってほしいと縋った己に。
〈たかが百年ほどだろう〉
 だから故国ここで待てと、そう冷静に言い放ち、一人戦いへと赴いた。
 …愛していた。愛されていた。疑いようもない。だが、時間ときに対する捉え方の隔絶は、埋めようもなかった。百年はどうしても百年なのだ。寝ている時と起きている時では感じ方はどれほども異なる。まして、故国ヴァルハラにおける己の味方は、彼と子等だけだったのに…。
 孤独は耐え難かった。異国の空気は冷たかった。祖国の花が、無性に懐かしかった。


 彼は言った。赤く紅い髪を靡かせ、朱く緋い瞳を細めて、一言。
〈易くおわるとは、努々思うな〉
 どういうことです、と視線で問う。返された目は自分のそれよりなお赤い。何故かと言えば偏にそれまで啜った血量の違いで、いつか自分もあぁなるのだろうかと頭の隅で思う。
 それにしても、その言葉は易く課してくれた人間の言う台詞ではない。そもそも。
(彼女が一体、なんだと言う)
 彼が彼女を選んだ理由が、美貌や知識量と言ったものだけでないことは承知だった。
(幸か不幸か、彼女は徒人ただびとでありながら、最高の母体だったのだ)
 一族は基本的に純血同士の、つまり一族間の婚姻を奨励している。血を守るためであり、また、純血と混血、特に純血と人間との間に生まれた子どもが、純粋な吸血鬼の血に耐え切れず、生後間もなく死ぬ事例が多いためだった。
 しかし稀に、それに耐え得る躰を持ち、優秀な吸血鬼となれる子どもを産める人間がいる。一度血を吸い、彼女をそれと確信した彼は、彼女に求婚し、一族の反対を押し切って夫婦めおととなった。…だがそれだけのことだ。今回の任務に、障りがあるとは思えない。
〈彼女の生まれは知ってるな〉
〈日本です〉
〈そう。日本には驚くべきことに八百万もの神がいるらしい。そして神崩れ、つまり神に成り損ねた妖と言う化け物が、夜な夜な闇を跋扈しているそうだ〉
 そこで言葉を区切った彼を、怪訝に見る。何故そんな話を、と思い差した頃。
〈彼女の家は、代々その化け物退治を専門にしていた〉
〈――…え…?〉
 珍しく声を上げて驚いた自分に、彼は一瞬、満足そうに口元を緩めて話を続けた。
〈彼女はそれを嘆いていた。嫌だとな。ただ穏やかに生きて死にたいと。だが、彼女を取り巻く環境が、何より彼女の才が、それを許さなかった〉
 少しの間逸らされた彼の目が弱くなった気がして、けれど、また自分に向いたそれは、強い光を宿して射抜く。
〈彼女を侮るなよ、セリオン。そこらの女と一緒にするな。彼女は強い。人の身で人ならざる者達と戦う術を知っている。。剣を抜けば牙を向き、盾で防ごうとも爪で破り、追いかければ風より疾く逃げるだろう〉
 お前が相手にするのはそんな女だと、そう言い聞かせた彼は不意に笑い。
〈…ただの女なわけがないだろう。この俺が愛した女だぞ〉
 と、誇るように零す。それは相変わらずの、無垢な子どもの笑顔で。
(……なのに、どうしてか)
 それはどこか、溶け消える前の雪に似ていた。


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