第十五話 賽は投げられた

[ Alea Jacta Est ! ]


 窓辺に歩み寄り、外を見る。暮れゆく夕陽が遠くの山間にあり、その橙が誰もいない菜園を薄く照らしているのを見下ろして、きつく目を閉じた。眉間に寄る皺の深さは、征の苦艱くかんを物語っていた。
 …探す手はない。その術を、征は持たなかった。
(吸血鬼にとっては、血の繋がりこそが、全て…)
 手を握り締める。爪が肌に食い込んで、僅かに赤く、傷付けた。
(だが光樹と血を通わせていない僕では…―――)
 テツヤ達なら、その願い通り、直ぐ様探し出すことは容易かった。純血種サラブレッドには生まれつき、自分の血を分けた混血ダンピールの居場所やその時の体調をどこにいても知ることのできる力が備わっている。その力によって、全ての混血ダンピール純血種サラブレッドの管理下に置かれていた。それは当然混血ダンピールには秘匿され、テツヤ達でさえ知らない。つまり五人を吸血鬼にした征にしてみれば、彼等がどれだけ秘密裏に近付こうとも、まるで児戯に等しい鬼事に過ぎなかった。
 そのはずで、だから征は、彼等が自分を諦めるまで逃げ続ける心算だった。
『ッ…―――、馬鹿な…!』
 その思惑は、一年前、突然五人の血に紛い物が混ざり始めたことで崩された。テツヤ達の血が穢されたのだと気付いた時、征は驚くよりも恐怖し、その痩躯を震わせた。
 血は吸血鬼にとって生命の源であり、膂力の増幅回路ブースターであり、行動原理。まして混血ダンピールのそれは、血を分けた存在の意思に直結していた。あの再会の日、征が血を介して命じ、テツヤ達が逃げることも適わず地に伏したように。
 それは何も、その在り方はどうあれ、混血ダンピールを奴隷扱いすべく生み出された力ではなかった。始祖は生まれながらにしてその血に一族の誇りと義務、そして責務を負う。一族のことを第一に考えなくてはならない。吸血鬼としての生き方以外に途はない。それは教えと共に血が識っている。だが混血ダンピールは違った。誓約を交わした後、手にした力に溺れて一族を裏切る者もいた。私欲に駆られて力を振るう者もいた。必要以上の殺戮を愉しむ者もいた。それを阻止し、誅伐するために、得た機能ちからだった。
 だから隠されてきたのだ。なのにまさかそれを知り、血の繋がりを裂こうとする者がいるとは、それが我が身に降りかかる日が来ようとは、予想だにしなかった。
(最悪の手法だ…。血の主導権は、そのまま命の手綱を握るのと同じだと言うのに!)
 それらを知った上でテツヤ達が血を混じらせたのか、その入れ知恵が誰からなされたのかは、最早どうでもいいことだった。徐々に彼等の躰を巡る血は濁り、それと同時に征が彼等の存在を知覚することが困難になっていった事実だけが全てだった。
(…救わねば。光樹が大事だとして、彼等を迎え入れることが面倒の引鉄でも)
 テツヤを、大輝を、涼太を、真太郎を、敦を―――失うわけには、いかない。
 征は逃げることを止めて、故国ヴァルハラの城に似たこの館を買い、故意に情報を流して彼等を館に誘き寄せた。扉の仕掛けは足止めと、辛うじて体内に残留する征の血を目覚めさせる、浄化の前準備。敷地内を満遍なく血で汚したのも、血の共鳴を促して浄化をやりやすくするためだった。
 そうして、一旦心肺機能が停止するほどの強引さではあったが、彼等の血は元のように清められ、もう誰かに彼等の命が弄ばれる心配はなくなった。
(……それはそれでよかったはずで、それで、事は終わったはずだった)
 けれど、今になって思うことがある。
(漠然とただ、ぽかりと空いた穴を覗き込むように)
 光樹がいなくなってしまった今、ふと、湧いた考えがあった。
(もし…、もし、これが全て、―――謀られたことだったら)
 征が彼等を救うかを考慮していたかは別として、五人の血に紛い物を混じらせて血の繋がりを断ち、彼等を知覚できず立ち往生する征を捕捉しようという策だったのなら。
(しかもそれは、僕と彼等ヴァンパイアを一網打尽にしようと思ってのことではなく…――)
 ―――光樹ただ一人を、狙ったのであれば。
 その考えを、征は馬鹿馬鹿しいと一笑に付すことができなかった。事実、狙い澄ましたように二人が傍を離れた僅かな時間で病室から消えた光樹。あの時間に目覚めるはずのないことを思えば、光樹自身の意思ではなく、連れ去られたと結論付けることは簡単だった。
(…しかし)
 過去もなく、記憶もない。そんな光樹が、何故狙われた。ましてこの一年、囲うように過ごしてきた。その彼の存在を知る者など…。
「……馬鹿か」
 思わず口に出して、征は己の考えを嘲った。過去はある。記憶もある。眠っていただけだ、彼の中で。知らないだけだ、知ろうともしなかった、征は。
『―――俺は、誰なんだよ…!』
『なん、でッ、なんで…! あんなの、望んでなんかなかったのに…ッ!』
『ごめんなぁ』
『おれだけ、しあわせになるわけにはいかないんだ――…』
 そう言って泣いた彼がうちに抱える疵など、これっぽっちも。
(ただ可哀想だと憐れんで、踏み込まないことが賢明だと、深切と臆病を愚かにも履き違えた僕が目を逸らし続けたその過去を)
 その、疵を。
光樹ほんにん以外に、知る者がいたとしたら…――)
 思考の最中、それを邪魔するように突如電話が喚き出した。征は目を眇めてそれを見た。逡巡ためらいは、僅か。手を伸ばして受話器を取る。そして。
「僕に何か? ―――誘拐犯」
 電話越しにもそれと分かる氷の声で、征はそう、呼びかけた。


 太陽が沈みきっても、眠らない街が夜に染まり切ることはない。華美というよりは単純に悪趣味な色合いの電飾ライトが点滅し、雑多な音楽や酒に酔った男女の声が混ざって、目にも耳にも煩わしい。そんな繁華街からやっと抜け出し、廃ビルの影に潜んで、テツヤはほっと息を吐いた。朝からこっち、ずっと歩き回っていた躰を休めながら、コンクリートに凭れかかり、星の見えない空を見る。
「どういう、意味だったんでしょう…」
 そう囁いて回顧するのは、光樹がいなくなったと大輝から連絡が入り、直後、病院から戻った征に事の顛末を話した時のこと。途端蒼褪め、絶望を露呈させた征は、それでも身を翻し、また外に出ていこうとした。それを阻んだのは、テツヤだった。
『…その手を離せ、テツヤ』
『嫌です』
『テツヤ!!
 激昂は耳を劈いて、怒気が痛烈に肌を打つ。ピリピリと鼓膜が揺れ、ヒリヒリと脳髄が振れて辛い。視線だけで殺されそうだ。冷や汗が吹き出す。怖い、…恐ろしい。
『…赤司君。そろそろ、僕等に教えてください』
 だがそれでも、そこで引くわけにはいかなかった。
『彼は、光樹君は…、一体、何者なんですか』
 ずっと胸に燻っている異物感。彼が嫌いなのではない。彼をたすけたくないわけじゃない。彼を、妬んでのことじゃない。ただ判らないのだ。征が度を越して彼に拘る、その理由が。
(恐らくそれがいつか言っていた「一族の秘事」だからだとして、そうだとしても)
 征の執着は、異常だ。そもそも、彼の立場を思えば長らく日本に留まっているべきではないのだ。彼は、未だその地位を譲り受けていないとは言え。
(一族を率いる始祖の末裔、いずれ当主を継ぐ、大いなるセリオンの名を冠する者なのに)
 にも関わらず、百年だ。己の立ち位置を自覚し、自戒する聡明な彼らしくもない、暴挙とも言える無鉄砲さ。
(何が彼をそうさせる)
 彼の、光樹の、何が――…。
 テツヤは征に静かな視線を投げかけ、対し、征はテツヤを射殺しそうな目付きで睨む。視線が行き交うばかりで、会話はまるで生まれない。そんな膠着した状況に焦れてか。
『…ただの吸血鬼ではないのだろう?』
 真太郎が、沈黙にそろりと言葉を挟む。
『何か特別な事情でもなければ、お前があいつを匿うように生活していることも、国へ帰らないことも、俺達を拒む必要も、なかったはずなのだよ』
 それに、「そう言えば」と話を接いだのは、敦だった。
『前に赤ちん言ってたね。まだ日本ここにいるのはあの人に「生きててほしい」からだって。もし故国ヴァルハラに連れ帰ったら殺されちゃうかもしれないくらい、あの人の存在は禁忌タブーだってこと?』
 各々の問いに、征はやっと視線をテツヤから引き離し、順繰りに見る。そしてまた、テツヤを見て、少し。
『……光樹は何者かと、聞いたな』
 やっとそう、口にした。しかしその表情も声も酷く虚ろで、そしてぞっとするほど、静か。肌が粟立つ感覚に、身を固くしたテツヤや真太郎達を顧みないまま。
『光樹を定義する言葉は存在しない』
 征はひそりと、そんなことを言う。
『当然純血種サラブレッドではないし、人間ひとでもない。だがお前達と同じ、混血ダンピールにも当て嵌まらない』
『…え、えっ? じゃあ光樹っち、吸血鬼じゃないんスか!?
 それまで黙っていた涼太の驚愕した言葉に、征は一瞬、だが明らかに狼狽えた。
『…そうだな、厳密には、光樹を吸血鬼とは言えないのだろう』
 なら彼は、と、テツヤが当然の疑問を挟もうと息を吸った、その刹那。
『―――それ以上は聞くな』
 鋭く、容赦もなく無情にも、零下の声と視線に、テツヤの声は制された。
『その権利は、お前達にない』
 視線に孕み、声に宿る冷烈さは、耳にも心にも突き刺さって、痛い。それを耐えるためにか咄嗟に唇を噛み締めた行為など、その心など、今度こそテツヤの手を振り払い、扉の向こう側に消えていった征には分かるまい。…ちっとも、僅かも。
 夜空を見上げる。権利があれば征は教えてくれただろうか。考えてみたところで、とてもそうは思えなかった。征が誰から、何から光樹を守っているのかは知らない。ただそこに自分が関われないことだけは理解した。征と光樹の間に割って入れない、確かさで。
「…ねぇ、赤司君。彼は、一体…」
 君にとって、何なんですか…――。
 無意識に、心に零れた言葉。数瞬置いて、テツヤは躰を預けていた壁にズルズルと背を擦って座り込み、膝に額を付けて項垂れる。胸の中で膨れ上がる自己嫌悪に、目眩がした。
「………参ったなぁ…」
 光樹かれを妬んでのことじゃない? …よくもまぁ、言えたものだ。
(胸のつかえもその言葉も、…あぁ、何より)
 噛んだ唇の一瞬の痛みは、嫉妬以外の何者でもないと言うのに。


戻る




PAGE TOP

inserted by FC2 system